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2012.11.19 (Mon)

【SPECIAL】BOJラインvol.13~狩野祐介選手~

リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.13~東海大学・狩野祐介選手~


121119KARINO4.jpg 選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第12回の日本体育大・熊谷尚也選手からバトンを渡されたのは、東海大・狩野祐介選手です。

 チャンスを見極め、ここ1本が欲しいという場面で決めてくれる安定感抜群の3Pシューター。手を抜かないディフェンスや人一倍声を出して仲間を鼓舞する姿も頼もしく、今季は下級生の多いチームをキャプテンとしてまとめています。福岡第一高校時代からエースシューターとして何度も全国の決勝の舞台に立ってきた狩野選手ですが、その裏側には常識を超えた努力の積み重ねがありました。小さな頃から続けてきた、努力を努力と思わないバスケットへの取り組みが、狩野選手をここまでの選手にさせたようです。また、学生最後の年、優勝にこだわる強い思いも詳しくお伺いしています。BOJライン、第13回もどうぞお楽しみください。


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走り込んだ小学校・中学校時代

121119KARINO3.jpgB:BOJライン、第13回は東海大学・狩野祐介選手です。同じ福岡出身ということで熊谷選手からの紹介ですが、熊谷選手と初めて出会ったのは大学に入ってからですよね?
「高校の時には、自分は全くクマのことは知らなかったですね。でも大学であいつが2部にいた時にすごいダンクをするやつがいるという噂を聞いて、それで九州産業大学高校だったということを知りました」

B:熊谷選手は狩野選手から見てどんな印象ですか?
「初めて話したのは、たぶん李相伯の時とかだったと思います。第一印象からいい人だなって感じて、それは変わってないです。見ての通り、優しいやつですね」

B:では本題に入りますが、バスケを始めたのはいつからですか?
「小学校4年生です。兄が2人ともバスケをしていたこともあったので。小学校で、クラブを見学する期間というのが1週間くらいあったんです。それで仲の良い友達と色んな部活を見に行って、兄もやっているしバスケにしようと思って友達と入りました」

B:男三兄弟なんですね。
「そうです。真ん中の兄が5つ上で、一番上の兄が8こ上です。結構歳は離れていますね」

B:お兄さんたちもバスケは上手かったんですか?
「3人の中では、たぶん真ん中の兄が一番センスもあったみたいです。ちゃんとやっていればすごい選手になっていたんじゃないかとミニバスの先生も言っていました。でも辞めて違う道に進んだのでバスケは続けませんでしたね」

B:小学校はどんなチームだったんですか?
「チームの中で自分が一番身長が大きくて、センターをやっていたんですよ。自分、中学2年生まではずっとセンターだったんです。それで小学校は小っちゃいチームだったので、とりあえず走って戦うしかなくて。走ったイメージしかないですね」

B:センターだったとはあまり想像がつきませんね。青学大の#56比江島選手が、小学生の時は狩野選手のいるチームにはあまり勝てなかったと言っていましたが(BOJラインvol.3)。
「いや?そんなことはないですよ?(笑)確か比江島のいるチームにうちが勝ったことあるのは1回だけです。しかも3点差くらいでなんとか勝てた感じで。多分それ以外で2~3回戦いましたけど、全部負けたはずですね。比江島のところと、志免東というところが強かったので、自分たちはその次くらいでした」

121119KARINO10.jpgB:そこから春吉中学校に進みましたが、中学はどんな感じでしたか?
「中学の時は監督2人が鬼のように怖い方だったので、とにかくきつかったなぁというイメージしかないですね…。でもそのおかげで気持ちが強くなったので、今につながっていると思います。それに普通は走るメニューが嫌いな人って多いと思うんですけど、自分は中学で毎日のように走っていたのでそんなに走ることが苦じゃないんです。むしろみんなが疲れている時ほど走りたくなっちゃうというか(笑)。それにバスケット以外の勉強とか私生活の部分もしっかり見てくれる先生だったので、その先生方のおかげで今の自分があるんだと思いますね」

B:小学校・中学校の時に対戦して印象に残っている選手はいますか?
「多分、小・中の時に戦って上手いなぁと思った選手は、だいたい今大学でも活躍しています。(比江島)慎もそうですけど、浜松大の力也(#33和田力也)とか、玉井(早稲田大#8)とか、占部(鹿屋体育大#0)とか…。とにかく今思うと九州のレベルが高いですよね。大貴(東海大#24田中)や永吉(青学#25)も九州ですし、岸本(大東大#14)も沖縄で。すごかったので、みんな印象深いです」

B:どうして福岡や九州全体としてそんなにレベルが高いんでしょうね。
「小・中からレベルが高いですよね。うーん…なんでだろう。たぶんみんなで切磋琢磨していたのと、それプラス、基礎の練習をどこのチームもやっていたんだと思います。他のチームのことはよく知りませんけど、僕が教わってきた先生たちは全員、基礎的なことを徹底的にやる先生でした。良い指導者がたくさんいるんだと思います」


転機となったポジションアップ

121119KARINO1.jpgB:全中は、のちに準優勝を果たした百道中に予選で負けて出場できなかったんですよね。その試合は印象に残っていますか?
「最後は比江島のいる百道に負けましたが、その試合よりもその前の日の木屋瀬中との試合の方が自分は一番印象に残っていますね」

B:木屋瀬中も強豪校ですよね。一つ下の玉井選手たちの代は全国制覇を成し遂げましたし。どんな試合だったんですか?
「木屋瀬は、それまで毎回20~30点差でボロ負けするような普通に勝てない相手だったんです。で、全中予選のその日は確か真夏の暑い日で、しかも1日に3試合あってその3試合目が木屋瀬戦でした。1試合目、2試合目と勝って、でももうヘトヘトの状態だったんですよね。それでその日もたぶん前半は普通に負けていたんです。でもそこから後半、追い上げて追い上げて、確か最後に自分が逆転シュートを決めて勝ったんです。その試合はスリーがほとんど入って、40点以上取ったと思います。ずっと勝てなかった相手に勝てて、その試合は結構印象に残っていますね」

B:そうだったんですか。その頃にはもう3Pを打っていたんですね。中学2年までずっとセンターだったと先ほど仰っていましたが。
「センターでも、外のシューティングは小学校の頃から好きでずっとやっていたんです。それで中2の途中までは自分が5番ポジションをやってて、その時は3年生の先輩がガードをやっていました。でも色々試しても誰もガードができなくて、自分が5番から1番になったんですよね(笑)。多分自分は身長もこの先伸びないだろうし、このままセンターをやっていても先がなくなっちゃうからということもあったんだと思います」

B:センターからポイントガードとは、随分と思い切ったコンバートですね。
「それも、試合中に(苦笑)。確か(和田)力也たちのいた南小倉中と練習試合をしている時に、いきなり5番から1番をやることになったんです。結果的に40~50点差でボコボコにされて、先生にもめちゃくちゃ怒られて…。いきなり試合中に1番をやらせるなんて、正直意味が分からないじゃないですか(苦笑)。でもそれがすごく悔しかったので、次の日からポイントガードをやれるようにハンドリングの練習をし始めて。センターでも外のシュートは好きで得意でしたが、ドリブルやハンドリングは全くできなかったので毎朝練習しましたね。それで中学校は1番ポジションになった感じです」

121119KARINO2.jpgB:それは大きな転機でしたね。中学生の時はジュニアオールスターで全国優勝していますが、その時の思い出はありますか?
「その頃、前評判で福岡は優勝候補に入ってなかったらしいんですよ。聞くところによると埼玉や千葉が強いと言われていて。でも実際やってみたら、すごく緊張していた1試合目以外は全部の試合、10点や20点以上離して圧勝だったので、とにかく楽しかったという印象しかないですね」

B:優勝候補ではなかったんですか。今思うと福岡はそうそうたるメンバーですが。
「化け物ばっかりですよね(笑)。慎、(上野)翼、玉井、園、力也…。力也が自分の控えで毎回1分くらいしか出てないくらいですからね。実際今考えるとあの時のメンツはやばいです」

B:決勝は千葉とでしたよね。
「そうです。星野(筑波大#76)や大下内(順天堂大#0)がいて。あの試合は慎と翼が20何点かずつとって暴れてくれたので、自分は楽々と優勝した感じですね。楽しかったです」


悔し涙に暮れた全国大会の決勝の舞台

121119KARINO5.jpgB:そこから福岡第一高校に進んだ経緯を教えてください。
「春吉中学校って、ほんと福岡第一の目の前にあるんですよ。だから中学生の時は大会の1週間くらい前になるとずっと毎日、第一高校に行って相手をしてもらっていたんです。それに、春吉中で自分たちのタメに井手口先生の息子がいたこともあったし、春吉中の監督と井手口先生が同い年ですごく仲良かったこともあって。そういうのが全て重なって、何の違和感もなく第一に進むことになりましたね。それに親に迷惑をかけたくなかったのでお金のかからないところに行きたくて、第一高校が特待で取ってくれるということで迷いなく行くと言いましたね」

B:福岡第一高校は、すごく生徒数が多い学校だと聞きましたが。
「あー、多いですね。色んな科があるんです。スポーツ科、普通科、音楽科、芸能科、保育科、工業科、特進理数科…あと外国人の人がいっぱいいる国際科もあります。全校生徒で何人いるのかは知らないですけど、体育館に生徒全員は入れないので集会とか式も別々にやるんですよ。とりあえず人はいっぱいいました。3年間で見たことない人も普通にいっぱいいますね」

B:セネガルからの留学生以外にも、留学生がたくさんいるんですね。
「いますいます。陸上にもケニアから来ていたし、普通にいつも学校内で色んな国の人を見かけますね。国際クラスで日本人と留学生が一緒に住んで一緒に勉強したりすることもあって。そういう教育に力を入れている学校だったみたいです」

B:バスケ部の部員は何人くらいいるんですか?
「多分、50人はいるかな…? それでAチームとBチームに分かれて練習します。Bで練習を頑張った人とか活躍した人が、いきなり『お前、今日はこっちな』ってAチームに混ざることもあって、Bから上がってくる人もいましたね」

B:入学して最初の年はどうでしたか?
「入ってすぐスタートにしてもらったんですけど、全く活躍できなくて…。1年生の頃は苦労しましたね。中学と高校じゃ当たりも全然違いますし、自分は中学で全国大会も行ったことがなかったので。第一は全国の常連校で、まわりのレベルも高いじゃないですか。みんな上手かったですね。でも自分は練習するしかないと思って練習を続けて、ちょっとずつシュートを決められるようになった感じですね」

B:2年生の頃には主力として活躍していましたよね。
「ナリトさん(並里 成・現bj沖縄)やまわりの人たちのおかげですね。自分はシュートを打つことが好きだったので、スクリーンを掛けてもらってたくさん打たせてもらえたのはすごく楽しかったです。走ればナリトさんのパスが絶対に飛んできますし」

B:全国大会では、福岡第一は準優勝で涙を飲むことも多かったですが…。
「そうなんですよね…うーん、決勝は全部行ってるんですよね。悔しかったな…。でもだからこそ今年、どうにか1位で、2位じゃなく1位で終わりたいんですよね」

B:2年生の時も3年生の時も、ウィンターカップは決勝で洛南高校に優勝を阻まれました。洛南は強かったですか。
「うーん…いや、別にそこまで洛南が強いというイメージがある訳ではないんです。でも、終わってみると負けちゃってるんですよね…。決勝だからって緊張していた訳でもなかったんですが。まぁ受け入れるしかないなと思いましたね」

121119KARINO6.jpgB:高3のインターハイでは、延岡学園との決勝で3点差、残り0.2秒で3ショットのフリースローを得るという場面もありましたね。あの時はどんな心境だったんですか?
「あの時も、全然緊張はしていなかったんですよ。残り0秒のフリースローみたいな、ああいうプレッシャーのかかる場面を想定した練習もしてきたんです。だから練習の通りのシチュエーションになって、よし来たと思って普通に打ったんです。でも、外れて…。2本目も普通にいつも通り打てたんですけど、それもまた外れて。で、もう仕方ないやと思って3本目は適当に投げて、結果的に3本外して負けてしまいましたね。でもその練習もして臨んだので、振り返っても悔いはないです。いつも通りに打って入らなかったので、結果は結果として受け止めないと、と思って。まぁ、すごく悔しかったですけどね」

B:本当に決勝戦はすべて数点差で、全国制覇まであと1歩でしたね。
「そうなんですよね、毎回毎回…。3年生の時は、全部最後のシュートを自分が放ってるんですよね。インターハイ決勝も、国体の九州ブロックで宮崎と戦った時も、ウィンターカップ決勝も。悔しくて悔しくて、何度もバスケットを辞めようと思いました。実際、高3の国体が終わってから本当に辞めようと思ったんです。でも井手口先生が自分に、ウィンターカップではシュートを決めて、最後にみんなで笑おうと言ってくれて。それでなんとかもう少し頑張ろうという気持ちになりました。あの時の言葉がなければバスケットも続けていないと思いますし、みんなが文句も言わずにキャプテンの僕に最後までやらせてくれたから、今があるんだと思います。みんなには本当に感謝ですね」


辛い時期を乗り越える力となったまわりの存在

121119KARINO12.jpgB:辞めようとまで思い詰めていたんですね。
「そうですね。中学でも高校でも大学でも、何回も辞めようと思いました(苦笑)」

B:大学に入ってからも思ったんですか。
「はい、1年生の時や2年生の時に。1年生の頃は古川さん(09年度卒・現JBLアイシン)を始め4年生や3年生が多くて、ほとんどベンチが上級生だったんですよね。だから自分なんてほとんど見向きもされず、リーグ戦も毎回上からビデオ撮りで…。高校生の時に一緒に戦っていた他の大学のやつらは、もうスタートで出たり活躍したりしてるじゃないですか。それなのに自分はビデオを撮りに毎回遠いところまで来て、何やってんだろうとか考えてしまって…」

B:辛い思いがあったんですね。
「そうですね。でもそういう時に限って、親から連絡が来たりするんですよね。ほんと不思議ですけど。そういう時を乗り越えられたのは、本当に母親のおかげです。……思い出すと今でも泣きそうになりますね(苦笑)」

B:お母さんからはどんな連絡が?
「自分は親に全然何も言ってなかったんですよ、辛いとか辞めたいとか。でもなぜか、そういう時に限って『元気?』とか『大丈夫?』とかメールが来て。なんでですかね、分からないですけど(笑)」

B:親御さんには不思議と分かるものなんでしょうね。1年生の頃は苦労した年だったと。
「はい。出られなくて悔しかった1年生の頃を乗り越えて、2年生の時からちょっとずつ試合に出させてもらって。でもあの年は、ホームゲームの時以外はそんなに活躍できなかったんですよね。2年連続でそういう感じだったので、結構下級生の時は悩んで…。そうしたら2年生の時に、じん麻疹が出始めたんです。病院に行って看てもらったら、ストレス性の病気だと言われて。それは未だにちょっと残っているんですけどね。でもそういうのも耐えて…。それにまた、そんな時に限って友達からメールが来るんですよ。『試合見たよ』とか『頑張ってるらしいやん』とか。2年生で結果は出せませんでしたけど、そういう励ましの連絡が来て、ここで辞めるわけにはいかないと思って。それで我慢して我慢して、ようやく3年生になれた感じですね」

121119KARINO11.jpgB:そうでしたか。でも以前から東海大のスタッフに『あいつはすごくシュートが入るんだ』という話をよく伺っていたので、いつか出てくる選手だろうなとは思っていました。3年生になって試合で活躍できるようになりましたね。
「でも春のトーナメントは、準備して臨んだんですけど熱が出てしまったんですよね。1試合目の日体戦の時から熱でフラフラでほとんど駄目で、そのまま3回戦で青学に負けてしまって。それも辛かったですね。でも、やっとその後くらいから大学バスケが楽しいと思えるようになりました。そこからさらに練習をするようになりましたね」

B:それでも昨年は青学大が3冠を達成して圧倒的に強い年でもありましたね。その分、今年こそ優勝を成し遂げたい想いは強いと思いますが。
「そうですね。今まで悔しい思いをしてきたからこそ、今年はどうにか1位で…2位じゃなく1位で終わりたいです。勝って、最後に笑いたくて。最後に笑うために、高校の時や大学1・2年生の辛い時期があったんだと思いますし。自分は上手くはないですけど、気持ちの面でやっていくだけだと思います。上手くて能力のある選手がいっぱいいますが、自分は上手さじゃなく、タフな気持ちとか、小・中・高と培ってきた粘りで、最後勝ちたいです」

B:強い気持ちで常に戦っているんですね。声も、1年生の頃からよく出していましたよね。
「声掛けは、自然と無意識に出していますね。自分的に声を出さない方が緊張しちゃうと思うし、『ディフェンスディフェンス!』ってよく言うのも、自分自身に対しても言っていることで。それに、声を出されたら相手も嫌だと思うんです。自分もコールした時に相手から『あそこ来るぞ!』とか言われたら嫌ですし、今は自分がされて嫌だと思うことを意識して心掛けてますね。声を出して相手にプレッシャーが掛かっているのであれば、自分は間違っていることはしてないと思いますし、相手から何を言われてもやり続けるだけだと思ってます」

121119KARINO8.jpgB:それに狩野選手はキャプテンシーがありますよね。前回のBOJラインで、日体大の熊谷選手からキャプテンを務める上でアドバイスが欲しいと質問を預かりました。
「いや、自分は特にまとめようとしてまとめてはないんですよね。声出しもそんな意識しているわけではないですし…。それに、キャプテンだからって何を言うとかではなくて、きつい時に走ったり手を抜かなかったり、そういう背中を見せればまわりも自然とついて来てくれると思います。キャプテンが頑張っているから俺も、という気持ちになってくれれば。キャプテンだから何をしてる、ということはなくて、自分は去年と同じことを今年もやっているだけですね。まず率先して自分が頑張る背中を後輩たちに見せることが大事かなと思います」

B:今年の東海大は後輩たちの頑張りが勝負の鍵になりますよね。
「そうですね。やっぱり下級生の方が上手い人がいっぱいいると思うし、能力を見たら明らかに自分は全然ありません。シュートも、練習してやっと入る感じで。でもそれは自分でもう分かっていることだし、自分の場合は練習あるのみだと思っています。そういう姿勢で引っ張っていきたいです」

B:自分自身、こういう選手になりたいという目標はありますか?
「こんな選手になりたいというより、もう目標は最後に勝って笑うことだけですね。こんなに2位になったのは多分自分くらいだと思うし、小学校からやってきて、学生としてのバスケットはもうここまでじゃないですか。辛い思いした分、最後にチームが勝って笑って終われれば、もう何でもいいですね」

写真上:大学1年の新人戦。この時は陸川監督と2年生エースだった満原選手(11年度卒・現JBL日立)が代表活動で不在となり、白鴎大に敗れてベスト16。
写真中:大学2年の新人戦。ベスト4がけで青学大と対戦となり、組み合わせにも恵まれなかったが、結果は5位。


努力の賜物、3Pシュート

121119KARINO9.jpgB:ではここから少し話は変わって、シュートの話についてお伺いします。シューターとして自覚するようになったのはいつ頃ですか?
「高3のインターハイが終わってからかな…?自分、インターハイまでは1番ポジションをやっていたんです。その時は直樹(東海大#18和田)が2番で、玉井(早稲田大#8)が3番だったんですよね」

B:それも今と違って面白いですね。
「そうですね。(和田)直樹はもともと、中学校(鳥屋野中)の時から点取り屋だったんです。中学の頃は、青学の小林(#3小林遥太)が1番ポジションであいつは2番で、結構ドライブで点を稼ぐ感じだったみたいで。だから今もああいう感覚が残っているみたいで、ドライブから最後のフィニッシュの仕方とかも上手いですし、よく見えてるなぁと思いますね。それで高3の時は、自分がU-18で2番ポジションをやっていて、チームに戻ってすぐ1週間後に大濠高校とのウィンターカップ予選があったんです。それで井手口先生から『2番をやってきたならそのまま2番でやろうか』と言われて、直樹が1番になった感じですね。もともと1番ポジションの自分がどんどんシュートを打って直樹や玉井が打たない時があったので、それなら自分が2番でもいいかなという感じで。シューターとして意識し始めたのはそこからかも知れません」

B:意識し始めたのは遅めなんですね。それでも外のシューティングは昔から好きだったと先ほど仰られてましたが。
「小学校の時から、外のシューティングばっかりしてましたね。結構打っていたと思います。中学校の時も学校が家から1時間半くらいかかるんですけど、朝一番に行って打ってましたね」

B:どのくらいの本数打っていたか覚えていますか?
「多分一番打っていたのが小学生の時で…毎日1500本インは打ってました」

B:1500本ですか!それはすごいですね!漫画『スラムダンク』に出てくる神宗一郎でさえ1日500本ですよ(笑)。
「そうなんですか?自分、スラムダンク読んだことないんですよね。バスケットの漫画は『DEAR BOYS』しか読んだことないです(笑)」

B:そうなんですか(笑)。1500本入れるとなると、相当時間もかかりますよね。
「練習が夕方の5時からだったので、昼過ぎから体育館に行って後輩たち3~4人に手伝ってもらって打ってましたね。ボールを3~4個使って、ずーっとひたすら打ち続ける感じです」

B:じっくり打つ練習ではなく次々素早く打つシューティングをしてきたんですね。確かにシュートがクラッチ気味ですよね。
「そうですね。自分はジャンピングシュートですし。ボールを何個か回して次々打つ感じでした。シューティングのし過ぎで、練習の時に腕が上がらなくなって怒られたりしました(苦笑)」

B:シューティングといっても、数を重視する選手もいればシチュエーションや形を重視する人もいますが。
「自分は数ですね。自分のシュートは感覚なので、数打つしかないと思っています。小学校の時がたぶん一番打ってましたが、家が遠かった中学校の時も毎朝5時半に家を出て練習してたし、高校の時も毎朝6時からシューティングしていました。今は時間も無くてなかなかそうはいかないんですけどね」

B:小中高と積み上げてきたものが今に活きているんですね。以前、シューター特有の“ゾーンの状態に入る”という話を伺ったことがありましたね。打つことしか頭になくなる一方で、逆にまわりがよく見えるようになるという選手の話も聞きますが。
「確かにそれはありますね。ディフェンスがよく見えるから、フェイクでかわすとか、そのジャッジが上手くできるようになるんです。集中して、冷静になれているんだと思います。無心になった時は、迷いがなくなるんですよね」

B:ところでシューターの中には爪にこだわる人もいますが、狩野選手は気にしますか?
「あんまり短くすると先が剥げちゃうのでちょっと長めですね。でも短い時もありますし、そんな気にしないです」


「見るバスケ」よりも「するバスケ」

121119KARINO7.jpgB:また話は変わりますが、自分はどんな性格だと思いますか?
「うーん…バスケから離れると、基本ぼーっとしてますね。何も考えてないです(笑)。マイペースなんだと思います」

B:あまりイライラしたり、キリキリしたりしている印象は無いですね。
「そうですね、あまり怒ったことはないです。うーん…なんというか、人に興味を持たないんですかね?(笑)こういうリーグ戦も、あまり他人の試合を見ようという気にならないんです。一緒に帰る人が『見て帰ろう』と言えば見ますけど、基本ぼーっと見てるだけで(笑)。多少マークマンをチェックするくらいですね。中学生の時も高校バスケに興味なくてどこが強いとか知らなかったし、高校生の時も大学バスケのことは全く興味なかったですね」

B:それなら田中大貴選手や比江島選手が活躍していたアジアカップも…。
「観に行ってないです(苦笑)。まわりはみんなオフの日に行っていたんですけどね。もちろん応援はしてましたけど。自分は体育館にシューティングしに行ってました。試合とかが無ければ行っていたかも知れませんが、自分はリーグのためにシューティングしようかなと思って」

B:“見る”バスケットより“する”バスケットに集中しているんですね。では最後に、インタビューを回す人を指名して頂けますか?
「あ、なんか野本(青学大#7)が、『次自分に回して下さい!』と言ってきたんですけど(笑)」

B:そうなんですか(笑)。野本選手とは仲が良いんですか?
「いや、それとはまた違います(笑)。あいつ、選抜とかでジーっとこっちを見てくるんですよ。何か視線感じるなぁと思ったらいつも野本で、何見てんのって聞いたら『かっこいいですね~』みたいなこと言ってきて(笑)。リーグ戦に入って自分がちょっとモヒカン系の髪型にした時も、『かっこいいです』とかツイッターで言ってきたので、『お前それふざけてるやろ』みたいなこと返したんですけどね。ちょっと変わってるやつなんです(笑)」

B:きっと憧れの存在なんでしょうね(笑)。
「あと、自分が李相伯の時にポーチみたいなのを持っていたんですよ。そしたら『自分もそれ買っていいですか?』と言ってきて(笑)。野本と北陸の同期である藤永いわく『すぐ人のこと真似したがるやつなんで』とは聞いていたので、おお、買えばいいんじゃない?と言ったら、日本に帰ってから『買いました』とメールが来ました。そっか、おそろいやね~って(笑)。ちゃんと報告してくるあたり、可愛いやつですよね(笑)」

B:純粋さを感じますね(笑)。では次回は青山学院大学・野本健吾選手にお話を伺います。狩野選手、ありがとうございました。

写真:最後は満面の笑みで。Tシャツに書いた言葉はいかにも彼らしく「信は力なり」。

◆#33狩野祐介(かりの ゆうすけ)
春吉中→福岡第一高→東海大
4年・主将・SG

・2005ジュニアオールスター福岡代表(優勝)
・2008インターハイ準優勝(高3)
・2008ウィンターカップ準優勝(高3)
・2012トーナメントベスト5
・2012李相伯杯代表
・2012関東学生選抜代表


(2012.9.23インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。

 
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