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第86回全日本大学バスケットボール選手権
筑波大学が3連覇を達成 3連覇以上の達成は1999年の日本体育大以来

2009.01.11 (Sun)

【2008シーズンコラム】しなやかな再生力・慶應義塾大

苦難のたびにそれを跳ね返す
伝統で培われた慶應大の克服力と再生力

09081207_1.jpg2009年1月3日、慶應義塾大のシーズンが終わった。インカレ覇者として挑んだオールジャパン。善戦したのは前半だけ、後半はJBLチームの層の厚い高さ・強さの前に破れた。けれど取材で訪れていたある早稲田OBが言う。
「慶應というのは、久しぶりに見たけれど本当に昔から変わらず学生らしく一生懸命で、こういうところは変わらないんだね。いいチームだな」
かつて2部時代に自身がプライドをかけて競り合った相手が、今も同じように続いていることを感慨深そうに見つめていた。

慶應大は2004年から5年間で3回インカレの決勝に進出し、2度優勝を果たした。その間には1部7位、8位となって入れ替え戦、2部降格も経験している。しかしどんな状況であっても最後まであきらめない姿はどの年も変わることはない。筋肉の組織が破壊されることによってより強く、大きく超回復していくように、慶應大は困難に直面するごとに不屈の精神でそれを跳ね返し成長してきた。4年間という限られた選手育成の中で、学生チームが必ず直面する世代交代による躍進と後退。それをいかに乗り切っていくかが常勝チームになるか否かのカギではあるが、結果にかかわらず常に懸命であろうとする姿が、慶應大という存在を際だたせている。

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45年ぶりの快挙だったインカレ優勝に至るまで~2004~
20041205_1.jpg常に強いチームであり続けることはたやすいことではない。スポーツ推薦のない慶應大にとって、上位進出は昔から1人か2人の良い選手が取れるかどうかにもかかっている。長く2部で苦労したが2001年のヤングメン(U-21)、2002年の日本A代表だった佐藤健介が現れ、「一番うまい選手が一番練習している」とチームに感銘を抱かせ、2001年と2002年には2部ながらトーナメントで2年連続5位に入った。今でこそ2部チームがベスト8に入ることは珍しくないが、格差の大きかった当時にしてみれば少ない例だった。また、2002年より就任した佐々木HCはそれまでのセットプレー中心からトランジションへの改革に着手する。身長のないチームが勝機を見いだすにはそれしかなく、2年後に志村雄彦・石田剛規・辻内伸也ら“トリオ”が入学してトランジションの原型ができると、ようやく2部を脱出する機会が近づいた。ウインターカップ2連覇、国体優勝の実績を持って入学してきた志村は「このチームを優勝させる」と言ったが、負け癖のついたチームを押し上げるのは試行錯誤の連続。190 cmを超える選手はほとんどおらず、有力選手やビッグマンを多く抱える1部校との対戦では常に「惜しい」というところで留まっていた。大学生で日本代表に選ばれるという先駆けであり、高いバスケIQに加え5つのポジションがこなせると言われた稀代のオールラウンダー・佐藤健介は189cm。その彼がセンターを努めなければならないほどチームの層は薄かった。

グッドではあるがベストではない慶應大は2002年、惜しくも2部3位で入れ替え戦を逃す。佐藤健介を擁し「勝負の年」と言われたが、後一歩及ばなかった。しかし翌年すぐチャンスが訪れた。日本の将来を担うビッグマンの一人であった竹内公輔が入学したのだ。203cm(当時)の“高さ”を得たチームは主将・園を中心にトリオの成熟で飛躍的に力を伸ばし、酒井泰滋というシックスマンも得て1部昇格。この年は東海大も青学大も2部におり、リーグ戦はまさに熾烈の一言だったが、慶應大のみが昇格を果たした。そして翌年の1部リーグではトランジションバスケで1部をあっと言わせる。何より、観客の心を捕らえたのがこのチームのひたむきな姿だった。象徴的なのはルーズボールを全員が最後まで追う懸命な姿勢だ。横っ飛びでボールに食らいつき、コートに戻せば速攻につなげる。壁にぶつかるほどの勢いで飛び込み、たとえ取れなくても選手たちが心底悔しい表情をしてみせると、それだけで観客は満たされた気分になるのだった。「高さで取れないんだから当たり前」(志村)と選手たちには当然のことだったが「すごいね」「こういうのが見たかった」と、観客は1部リーグに失われていた「ひたむきさ」を目の当たりにし、共感した。

20041205_2.jpg2004年、こうしてリーグ優勝を達成し、インカレ決勝ではこの年人気を二分していた専修大との戦いが実現。人気・実力ともに頂上決戦であり、ひたむきな慶應大とショーバスケット要素の強い専修大という全く両極の戦いは、12時には入場規制を出す異常な熱気の中での決勝となり、慶應大は逆点で日本一の称号を手にした。竹内は国際大会から帰国して中1日という過酷なスケジュール。気丈な志村が最後は顔を覆って泣き出すほど、この“優勝”は重かった。決して恵まれてはいなかった自分たちが信じて続けてきた「我慢」と「信念」が結実した瞬間だった。

「大学バスケが変わった」と当時は言われた。これまでの1部の常識を覆し、ビッグマンがいても早いトランジションで足を使う戦い方での優勝。160cmの主将と205cmの2年生というトピックは一般紙でも取り上げられる注目度を得る。さらに選手の必死なプレーは観客をも飲み込む影響力を見せ、停滞していた大学バスケに新しい風が吹くのではないかと期待された。しかし志村はこう言い残す。「変わったかどうかが分かるのは、来年でしょう」。自分たちはあくまできっかけであり、後に続いて波及しなければ意味はない、と言い残して彼は大学界を後にした。

写真上:インカレ優勝の瞬間、ともに洛南出身の竹内公輔と辻内伸也が抱き合って喜んだ。
写真下:4年生全員で得た優勝。志村も、スタッフも泣いていた。



主力が抜けた苦労と再びの栄光~2005・2006~
20051029_1.jpg2005年は下級生にシフトし苦労の1年となった。しかし志村にしてみればそれはある意味必要でもあると後に言っている。「いい選手は1年おきに出るくらいでいい。選手がいない年に苦労した方がチームが伸びる」。自身の代も佐藤健介とは2年の開きがあり、1年間は彼に頼らずやったことが大きいと認めた上での発言だ。この年3年生でゲームキャプテンとなった酒井泰滋がその苦労に直面する。チームが経験不足の下級生中心となり、代表活動で竹内公輔をシーズンの半分欠いたことで連敗を重ね、結局入れ替え戦まで進んだ。しかし一皮むけてたくましくなったのはこの苦労あってこそだ。「1部と2部はもちろん、昇格と降格の入れ替え戦も全部経験した。だからそこは自分の強みでもある」と酒井は言い、翌年には再び優勝を狙うチームの主将として大きく飛躍した。

20061126_2.jpg翌2006年は再び慶應大が頂点を目指す時だった。この年は“ゴールデン世代”を抱える東海大、青学大、日本大、そして慶應大の4つが飛び抜けたレベルとなり、中でも東海大と慶應大の2校がさらに頭一つ抜けた。小林に「あれだけのすごい人が集まってすごく多くの観客が見てくれて、これ以上ない高いレベルの戦い」と言わせた東海大とのインカレ決勝戦、慶應大はあと一歩及ばず準優勝に終わる。けれどコートで号泣する選手たちには多くの拍手が送られた。観客は東海大の学生レベルを超えた力に感嘆しつつも、最後までひたむきさを見せた慶應大にも賛辞を惜しまなかった。

インカレ優勝の結果は得られなかったが、注目させられたのは竹内公輔の活躍だった。世界選手権のため4ヶ月ほどチームを離れていたが、復帰してからの活躍は目を見張るものがあった。世界のトップ選手に比べれば日本の大学プレイヤーなど彼にとってはたやすい相手だ。しかしその竹内はこれまで通りほぼ40分のフル出場を続け、手を抜かないプレーを見せ続けた。
20061126_1.jpg「代表に行ってどんな場でもこういうプレーをすることが大事だと実感した」。
常に100%を出すこと。慶應大がずっと持ち続けていた魂を代表活動でさらに感じることになり、竹内はプレーで見せていく。能力以上に大切なものがあると、日本代表であるとともに“学生プレーヤー”としてあるべき姿を示した。そして迎えたオールジャパン。2戦目で日立と対戦した慶應大は日本人選手のみの日立に勝利してベスト8に進出。竹内という選手はいたが、たとえ学生であっても努力して力をつけ、戦う姿勢があればトップリーグの日本人選手に勝ると証明。この年唯一スーパーリーグ(現在はJBL)のチームを倒した大学チームとなった。

写真上:2005年の入れ替え戦で拓殖大を下し、笑顔を見せる酒井泰滋、竹内公輔、竹内尚紀。
写真中:2006年のインカレ決勝、破れて涙する後輩を竹内公輔や4年がねぎらった。
写真下:同じく決勝、竹内公輔が当時1年の小林を抱きしめる。



2部降格の悪夢~2007~
09071029_1.jpg慶應大にこうして1部でのいい経験が積み上げられ、2007年もまた勝負の年だった。二ノ宮康平、酒井祐典、岩下達郎といった将来チームを担う人材が入学。主将の加藤は慶應義塾高校出身で生え抜きの内部生。高校時代は県大会どまりながら、もともとのセンスに加え高いレベルの先輩との切磋琢磨の結果、チームを代表するプレイヤーに成長していた。チームは再び下級生を育てる年となり、秋以降にその力をつけていく段階に入った。しかし加藤がリーグ2週目に不可抗力とはいえ、負傷離脱したことで慶應大の歯車は狂う。佐々木HCが「2年半ゲームコントロールの全てを託してきただけに厳しい」と嘆息したが、層の薄い慶應大にとってケガは諸刃の剣であったことも事実だ。失ったものの大きさは計り知れなかった。

コートに立つ1年生たちは突然降ってきた大きなモノがなんなのか、把握しきれないような状態だった。初めてのリーグ戦で突きつけられた1部残留の重圧、慶應大の伝統と責任。負けたら2部へ落ちるかもしれないという切迫した状態を下級生が担う状況下でのリーグは、敗戦を重ねた。加藤以外にも怪我人が相次いだ。また、2年生エースであった小林の苦悩は傍目にも明らかで、一試合47得点でも負けるというように一人で空回りしている状態が続く。それでも残された試合数で下級生たちがなんとか前に進んでいるかすかな希望だけがあった。佐々木HCは「最終戦までに一番成長できるのはウチだ」と選手に言い聞かせる。それは確かに事実で、特に最終週では1敗で即入れ替え戦行きという状況の中、3位の東海大から2勝をもぎ取った。

09071031_2.jpgこの年、平均的な回避ラインである5勝でも入れ替え戦を免れられなかった1部リーグ。結局最終週まで4チームが並び5勝ながら得失点差で8位、入れ替え戦に進んだ慶應大は大東文化大と対戦する。コーチ交代など、こちらも紆余曲折を経てきた大東大だったが主力5人が4年生であり、経験値では明らかに上。慶應大は1戦目を大差で取ったが、残り2戦を落とし2部へ。「兄は1年で1部へ上がって2年で日本一になったのに、自分は逆」と兄・泰滋と入れ替わりに入学した酒井祐典が悔しそうに言った。

写真上:リーグ後半戦はコートに立つのが1、2年のみという場面も少なくなかった。
写真下:降格が決まった瞬間、1年生だった酒井がうなだれるように下を向いた。



結果を求める1年~2008~
09080530_1.jpgそして、2008年。
慶應大は再びまっさらなスタート地点に立った。チームはABに分けられ、新しい取り組みが始まった。現役には2部を経験した者も、ABチームを経験した者もいない。何もかもが手探り、道しるべは「勝利至上」というこの年のチームスローガンだけ。ただ勝たなければ何も残らないことだけがはっきりしていた。

春先は少し覇気がなかった。スタッフや4年生は週末になればA・B両方の練習に関わり、1日の大半を体育館で過ごす。精神的に疲れていないと言えば嘘だった。むしろBチームの方が練習では声を出して元気な様子を見せていた。4月の練習試合では筑波大に大敗し、いささかの不安がよぎる。ただ、プレシーズンの京王電鉄杯では青学大に接戦の末引き分けと、できる部分があることも見せる。それでもこの戦いはリードしながら追いつかれての結果、まだチームに未熟さが見える内容だった。岩下、小林はその後李相佰杯の代表候補に入るが、小林は競争相手の多いポジションで選にもれた。しかしこの落選が彼にとって一つのモチベーションとなった。なぜ自分が落ちたのか、その現実を克服するために代表メンバーのいるチームに勝ちたい意志が芽生える。そしてトーナメントでは西村と同じ3年の嶋田、古川が代表となっていた東海大との対戦が実現する。28年ぶりのベスト4がかかった場面で、慶應大は3Qに離されるが終盤追い上げ見事逆点勝利。小林は31点のチームハイで勝利に貢献し、優秀選手賞を受賞して結果を出した。「慶應大の150年目に自分がいるという奇跡に、恩返しがしたい」それを実現することとなった。しかし良い流れを持続させようとして臨んだ準決勝では法政大に完敗する。チームの“若さ”が透けた瞬間だった。それでもトーナメントは3位、新人戦は5位。早慶戦も延長を制して勝利し、ここしばらく経験したこともないような好成績で春シーズンを終える。

09080607_1.jpgこの成績はチーム全員に成長が見えている兆しだった。主将・鈴木は元々持っていたメンタルタフネスに加え、プレーヤーとしても主将たらんとする意識が見えた。小林にも精神的落ち着きが見え始める。そして田上の才能がようやく花開きつつあり、2年トリオの成長も顕著だった。しかし課題もある。試合の出だしは悪く、最初のシュートが決まるまでに何分も要することがあった。また、ゲームの波を捕まえる力がついてきたが、それまでのリズムにはかなり変動があり良い時間帯とそうでないときの差が激しかった。それを象徴するのは8月の延世大との試合だ。出だしに引き離されたものの、追い上げて最後は3点届かなかった。追い上げる力がついたのは確かだったが、追い上げなければならないゲーム展開になっていることが課題だった。そして9月となり、運命のリーグ初戦がやって来る。

写真上:東海大に勝利し、笑顔のメンバー。小林が感極まって顔を覆った。
写真下:早慶戦は追う展開から延長戦に持ち込んでの勝利。鈴木が試合後に感情の高ぶりをみせた。



インカレ優勝で締めくくった国士舘大との因縁
09080907_12007年の4年生が卒業するとき、「後輩は力があるからきっと1部に戻れますよね」と聞いてきたことがある。しかし「初戦の国士舘が山だと思う」と答えると香川だけが深く頷いた。2005年、トーナメント初戦で国士舘大と対戦した慶應大は竹内公輔が合宿で不在だったとはいえ、1回戦負けの大敗。それが頭にあったのだろう。その試合では走られ、アウトサイドも簡単に打たれた。国士舘大は2006年に3部降格となったが、白鴎大との入れ替え戦は終盤に吉満が恐ろしいほどの執念と勝負強さで3Pを立て続けに決めてみせ、集中したときは予想もつかない爆発力を有していることがうかがえた。その、国士舘大とのリーグ第1戦が慶應大の運命を決める一戦となるとは、誰も想像していなかっただろう。

しばらくやったことのない相手との試合は落とし穴が多い。しかも国士舘大は3部からの返り咲きのチャレンジ。背負うものが少ない分、プレーに雑念はなかった。慶應大は1Qでこの勢いに呑まれたが、取り返しがつかないような点差をつけられもしなかった。それはチーム全員に得点力がついてきたことが大きかった。前半は国士舘大が11点のリードとなる。慶應大は3Qに巻き返して力のついた証拠を見せるが、同様に甘さも残っており、4Qには再び逆転されてしまう。そして運命の瞬間がやってくる。7点を追う慶應大。残り25.3秒で二ノ宮が3Pを決めた時点では応援団もこれが最後の得点では、と依然として重苦しい空気をまとっていた。しかし国士舘大がフリースローに失敗し、小林の得点で2点差にすると残りは10秒。タイムアウトのあと、鈴木が要求通りのスティールで同点にし、突入した延長戦を制した慶應大は、リーグ戦中最もタフで最も重要な試合をものにする。しかし、思い起こせばそれは久しぶりの延長戦で勝利を飾った早慶戦と同じ展開でもあった。

09081028_1.jpg一方、1部を狙うライバルたちは国士舘大の力を第1週に目の当たりにしたにもかかわらず、次々と餌食となっていった。その後連勝街道を歩く慶應大は、一番警戒していた明治大戦ではぐらつきを見せたが、それでも結果的に2部リーグ優勝、入れ替え戦を勝利して見事1年で1部に返り咲いた。「これが自分が今年やらなければならなかった仕事。後輩に昇格という仕事を残してはいけない」。鈴木は入れ替え戦のあと、自分が慶應に入った意味、為すべき仕事を果たしたことに心底ホッとしながら、同時に自分たちの力に自信を抱いている様子も見えた。残すタイトルは「インカレ優勝」。彼らは再び頂点を見据える位置にたどり着いた。

インカレでの活躍、結果は周知の通りだ。確固としたリーダーの下に安定感が増した3年生と、覚醒した2年生。それだけで負ける要素はなかった。しかもチームは今が伸び盛り、大会中は一試合ごとに成長していくのが目に見えて分かった。決勝で青学大と戦うことを熱望していたが相手はまたも国士舘大。「青学大とやりたかった。でも国士舘である意味良かったとも思う」と鈴木が言ったのは納得できる。あの戦いがなければ今の慶應大はなかったかもしれない。その国士舘大は劇的な試合を連発して勝ち上がったが、最後はその息の根を慶應大が止めた。慶應大の強さはもう、国士舘大の“勢い”にも“能力”にも惑わされないものとなっていた。こうして慶應大は5年ぶりの頂点に立った。たった1年間という間に彼らが見せた軌跡と成長は、これまでOBたちが見せてきたものと本質は変わることがなかった。2008年のチームもまた、慶應大がどんなチームなのかをはっきりと周囲に知らしめた。

志村の言葉から5年、大学バスケが変わったかといえば確かに変わったが、その方向もまた多様化している。選手の個人能力はここ数年でも飛躍的に高くなり、勢力図も変貌した。しかしあと5年も経てばまた今からは想像もできない構図ができあがっているかもしれない。それが毎年選手が入れ替わっていく学生バスケの宿命でもある。しかしチームの魂はどうだろうか。長年かけて培ってきた精神がこれからも次の世代に伝えられていく限り、困難に直面することがあっても慶應大はしなやかに再生を繰り返すだろう。

写真上:国士舘大戦では田上の得点力が欠かせなかった。
写真下:1部復帰を決め、「若き血」を歌う鈴木の目には涙があった。

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テーマ : バスケットボール(日本) - ジャンル : スポーツ

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