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関東大学新人戦 〜6/11(日)東海大がブザービーターで優勝を決める

西日本学生バスケットボール選手権大会 〜6/11(日) 東海大九州が初優勝

2016.03.31 (Thu)

【SPECIAL】BOJラインvol.35〜福元直人選手〜

150326fukumoto21.jpg 選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第34回の白鷗大・梶原翔太選手からバトンを渡されたのは、慶應義塾大・福元直人選手です。

 味方を活かすパスを量産し、2015年度の1部リーグアシスト王に輝いた福元選手。今年度は主将に就任し、試合にはほぼ40分出続ける活躍ぶりで、186cmの大型ガードとしても存在感を示しました。

 今年は学生主体で活動した慶應義塾大は、練習やゲームプラン作りも自分たちで行いました。練習以外にミーティングにも時間を割く、忙しい1年でした。また、それ以外にも合間を縫って鎌倉でバスケットボール教室や体育館解放を行っているNPO団体の活動にも参加。コーチとして子どもたちにバスケットボールを教えていました。これまでのバスケット人生、そしてNPOでの活動も含めてご紹介します。

 それでは35回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。



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厳しい練習に鍛えられたミニバス時代

150326fukumoto22.jpgBOJ(以下B):梶原選手からの指名になります。同じ九州出身ですが絡みは?
「翔太は小学校の頃から試合したかな。吉敷ミニ…確か礼生(東海大・ベンドラメ)とかと一緒ですよね?当時は礼生より印象は強かったですよ。小学校や中学校の頃は彼より上手かったと思います。実は大学ではそんなに関わりがなかったんですよね。でも面白いやつですよね。ユニークというか(笑)。彼が出ている就活の動画は見ましたよ」

B:企画の方に声を掛けられたそうですが、なかなか貴重な動画ですよね。就活ではかなりの成果を出したようです。
「でも確かに受かりそうですよね。見た目も良くて堂々としていて、ザ・営業という感じだし(笑)」

B:では福元選手の話を。バスケットは何がきっかけで始めましたか?
「最初は友達に誘われたんです。小2でした。運動をしたくて武道がいいかなと柔道と空手をやっていたんです。柔道は小学校に入る前ぐらいからやっていたんですけど、練習でも負け続けて、面白くなさすぎて数か月で辞めました(笑)。その次に空手を始めて、こっちは大会にも出てちょいちょい優勝もできました。それと平行するようにバスケットも始めて、小4からバスケ一本に絞りました」

B:空手はもう十分だと思えたんですか?
「結構楽しかったんですが、バスケと空手をやると1週間全く空きがなくて大変で、どちらかにしたいなと。バスケットは友達が多かったからそちらを選んだんだと思います。空手は個人競技だし同級生もいなかったので。校区外での練習が負担だったのも理由のひとつです」

B:福元選手は子どもの頃から大きかったんですか?
「大きかったですね。列ではだいたい一番後ろで、小6の終わりに170ぐらいありました」

B:それは大きいですね。ミニバスはどんなところだったのでしょう?
「代々すごい選手を輩出しているので、全国に出るのを目標にしているチームだし、そういうレベルでの練習をしているところで、とてもハードでした。久保田さん(早稲田大→現・大阪)とか、熊谷駿(京都産業大→九州電力)、織田秀司(青山学院大→九州電力)なんかが僕が1年か2年の頃に6年にいて、当時の全ミニでいい成績を残していました。その人たちに憧れてバスケに残ったというのはあります」

B:練習は厳しいのでしょうか。
「厳しいですね。入る前に同じ小2の同級生の親御さんに『毎日放心状態になるよ』って言われました。当時の僕は放心状態という言葉をよく知らなかったので、『よく分からないけどいいや』と。入って意味が分かりました(笑)。練習は週4で、ミニバスでは多いと思います」

B:そういうハードなところで鍛えられてスキルも上がったんですね。
「確かにそうです。しかも入りたてで上手くいって、ちょっと楽しくなったんです。大会の最初の方の対戦で、試合に出してもらったんですよね。そこでおこぼれみたいなんだけど得点を決められて、バスケに対して火が付いた感じでした」

150326fukumoto17.jpgB:福元選手は186cmの大型ガードですが、これは昔からセンターポジションもまったく経験せず、ということですか?
「そうです。コーチの方針で今後のことを考えて、最初から上のポジションをやらせておくということでした。今考えれば今の自分があるのはそのときのコーチの方針のおかげですね」

B:そのときのチームのセンターのサイズは?
「僕よりぜんぜん小さかったです。162cmぐらいですかね。小学生のときって試合は背の高い順にマッチアップすることが多いですよね。で、試合前に相手のセンターが僕を見てマークにつくぞっていう感じになるんですけど、試合が始まるとガードなので相手が焦るっていう(笑)。ジャンプボールも飛ばないし」

B:面くらいますね(笑)。ミニバスでの最高成績は。
「小6のときの全ミニでの優勝です。サイズ的には170近いメンバーが僕の他に3人ぐらいいて大きなチームでした」

B:小学生の頃から全国区で活躍してきたんですね。
「でも自分のチームは小6のときに合併したんです。秀司さんとか久保田さんがいた僕の学校が、僕らの代に3人になったんです。3人でバスケットはできないので合併するしかない、ということになって、近くのチームと一緒になりました。最初の大会とかは初戦負けでしたが、段々良くなりました。その年の9月に翔太や礼生のいるチームと試合をして60-30ぐらいでボロ負けしていたくらいで、1年を通して強くはなかったですけど」


憧れていた福岡の大濠高校へ入学

150326fukumoto16.jpgB:中学は大分県別府市の北部中学ですね。
「そこで駿くんとか秀司さんが全国で3位だかベスト8とかになって、入れ替わりでした。県ではほぼ勝つというチームだったので、どうやって全国に出るかに懸ける感じでしたね。大分自体はいいところで負けて、全国に出られないんですよ。福岡とか沖縄が強いので」

B:2008年のジュニアオールスターがベスト8ということですね。これが最高位。中学はどんな部活でしたか?
「ここもめっちゃ厳しかったです。ポジション的には2番とかでしたね。チーム全体としてサイズはなかったですけど」

B:ベスト8に入ったのは何が良かったんですか?
「何ですかね…。当時の大分県では最高位タイの結果らしいんですが、自分ではピンとこない感じでした。基本みんな上手いといえば上手いチームだったのは確かです」

B:そこから福岡の名門、大濠高校へと進む訳ですが、これは強豪校で続ける意志があってのことですか?
「中学1年ぐらいから大濠に行きたいという気持ちはありました。その当時は竹野さん(大東文化大→現兵庫)を自分が小6とか中1の頃に見たりしていて、久保田さんも秀司さんも行っている学校だし、憧れはありました。地元に近いのとカッコ良さそうなイメージがあったし、文武両道というのも理想的で。当時の監督の田中先生が別府に来てくれて、話を聞きました」

B:現在の片峯先生になる前の話ですね。
「そこで、後の話にはなりますけど、そのとき『大学はどこに行きたい?』って聞かれたんです。中3でしたし、まだそこまで考えていなくて、『大濠に行けるのでそれで満足している』と返答をしたら『それじゃあダメだ、将来のことを考えろ』と言われました。そこで早慶のどちらかがいいぞと言われて、なんとなく『慶應がいいです』って答えたんです。慶應に入る源流が実は既にそこでありました」

150326fukumoto05.jpgB:そうだったんですね。ミニバスでのガード構想もそうですが、それぞれ先のことまで考えてくれる指導者だったんですね。福元選手は勉強もできそうなイメージです。
「一応一般でも入れるように勉強はしていて、そのラインは越えていました。1年目は田中先生にしごかれ、2年からは片峯先生がいらっしゃって彼がメインになっていきます」

B:ミニバス、中学、高校と厳しい練習をしてきたようですが、そこまでで一番厳しかったのはどこですか?
「中学ですね。時間は短いんですけど、とにかく走るしいろいろと大変でした。実は小6の夏休みにちょっと上手くなりたい気持ちもあって、中学の練習に参加させてもらったことがあるんです。でも小学生にはキツイし、体の当たりも違ったし、ウォーミングアップで既に厳しすぎて泣いちゃったんですよね。しなくても良かった練習なのに、なんでわざわざやってるんだろうって(笑)。それぐらい厳しい内容でした」

B:志願した気持ちも粉々ですね…。でもそこで続けたからこそさらに上手くなったんですね。中学生ぐらいまでで対戦した相手で印象に残っている人はいますか?
「日大の上原(#24)ですね。小学生の頃に小禄で全ミニ優勝していて、当時170ちょっとあって本当にヤバかったです。止められないんですよ。中学生のときに鏡原というチームにいて、そことは九州大会で何度も戦ったんですけど、よくやられました。彼もあの頃大きかったんですけど、当時自分と同じサイズで同じポジションというのが彼しかいなくて、意識せざるを得ない存在でした。高校でも興南とはよくやりましたし」


2年目から新しい指導者の元、厳しい練習に励む

150326fukumoto03.jpgB:いつから試合に出してもらっていたのでしょう?
「中3のときですね。春休みには合流していたので、大東カップとかで既に1番として使ってもらいました。入学前だから優しくしてもらえると思ったら、そうでもなかったです(笑)。でもバリバリ試合には出してもらいました」

B:そこは既に1番としてポジションも確定していたんですね。期待されていた様子が伺えます。
「他にあまり選手がいなかったですしね。でもプレッシャーも大きくてそれで1年目は潰れたというか、ダメでした。中学校までは大分県内でそこまで相手になるところもなくて、自信があったんですけど、やはり大濠はハードルが高かった。そこで試合に出ていいのかな?というところから始まって、ポジションも上がって完全に1番になったこともプレッシャーになりました。福岡第一も強かったですが、最初の試合で和田直樹さんにボコボコにされたんです。なんだ、このディフェンス、と思いましたね。大きいし怖いし、で最初は自信を失っていました。その後も中東さん(明治大→名古屋)のいた光泉や、新潟商業と当たって自分が砕かれて、そこからなかなか出られなくなったんですよ」

B:1年目はうまくいかず、2年目はケガもありましたね。
「2年の3月とかですね。バスケ人生で始めて大けがをして、半月板損傷で手術をしたんです。復帰に時間のかからない方の手術にして、3年の4月末には大会もあったので復帰したんです。膝に水が溜まってパンパンになって、月に1回抜くんですけど、毎回60ccぐらい溜まっていましたね」

B:2年目から片峯先生になる訳ですが、どんな印象でしたか?大学を卒業してすぐ大濠の先生になられましたが。
「優しかったんですけど、最初に会ったときの印象がなんだか怖かったです。そもそも大濠のOBの中でもすごい人だったし、勝手にとっつきにくい印象を持っていたせいだなと思います」

B:田中先生の指導方法と違う面は?
「精神面で理屈の通った指導を受けました。練習はキツイのはキツイんですが、年齢が近かったので僕ら目線の内容を考えてくれました。例えば練習前に少し遊びの練習を入れて、うまくモチベーションのコントロールをしてくれているなというのは感じましたね」

150326fukumoto06.jpgB:田中先生もまだチームにはいらっしゃいましたが、メインの指導者が変わるというのは大変なのではないかなと思ったのですが。
「1年目は全国大会にも出られなかったので、確かにそうかもしれないですね。でも、それがあったからこそ、変わったと思います。練習もさらに厳しくなりました」

B:この頃の試合の数字を見ると、メンバー全員が40分とか出ていますね。人数的に復帰せざるを得ない状況もあったんでしょうか。
「主将でもあったし、佑成(筑波大#17杉浦)やヤス(筑波大#4青木)とか1年が出ていて、同期は村越(筑波大#92)ぐらいで、出続けなければならない状況でしたね。大学4年の今もフル出場なんですけど(笑)」

B:3年時はインターハイがベスト8、ウインターカップで4位ですね。
「夏は延学に負けました。ウインターカップも準決勝で延岡学園に負けましたね」

B:そこが壁だったんですね。あの頃の延学は頭一つ抜けた感じでしたが。やはり延学は強かったと。
「僕らは九州大会も全国も全部延学と戦っていて、負けた試合の相手はすべて延学なんです。だから毎回いろんな策を立てていくんですが、ぜんぜん上手くいかなかったですね。似たようなチームで福岡第一がいて、第一にも勝てていないんですが、こっちはまだ手応えのある試合はできるんです。でも延学だけはちょっと無理だなという感じでした。どこもかしこも点が取れるし、バンバ(拓殖大#23)を押さえようとしたら黒木(慶應大#7)か礼生にやられるんですよね。でもほかを抑えたらバンバが来ますよね。控えに脩斗(東海大#4寺園)や飛竜(拓殖大#0岡本)もいるし。点差がついても寺園と飛竜が出てくるんですよ。もうやめてくれ、って思いました(笑)」

150326fukumoto15.jpgB:一時期、福岡や九州のレベルが上がって大濠も全国に出られないという時期がありましたが、そうやって強豪に揉まれて、就学生相手に戦ったり考えたりすることは、後々生きてきたと思いますか?
「それは思います。目標となるし、常に高いレベルでバスケットをできるので、シュートひとつにしてもいろいろ打ち方を工夫しようとしました。日本の高校生のレベルからしたら、外国人との試合って未知の領域ですよね。そういうところと常に試合ができて、得難い環境でした」

B:3年のウインターカップは4位。3位決定戦は、沼津中央相手で、シェリフ・ソウ選手に41点取られていますね。
「やはり延学戦のあとなのでなかなかもたなかったです。下級生が半分ぐらい出ている状態だったし、試合開始からダメでしたね」


大学ではこれまでと異なる文化に戸惑う

150326fukumoto18.jpgB:そして慶應大に入学する訳ですが、1年目はちょうど2部に落ちた年で苦労しましたね。
「進学前には1部と2部がどれだけ違っていて、上がるのがどれだけ大変か知らなくて、2部と言われても『はあ』って感じでした。入ってこういうことか、と実感しました」

B:大学でのバスケットはいかがでしたか?当時は佐々木HCで練習も厳しかったと思います。
「これまで経験した中でも一番長かったし、走りました。今まで歩んできた道とは異なる道だったというのもあって、戸惑いもありました。佐々木先生はこれをやれ、というフォーマットがあって、まずやってみてそこに何か付け加えられるなら、それはOKという考え方なんですよね。今思い返すと大事なことなんですが、当時の自分はそれまでずっと自由にやっていいスタイルだったので、そこからの切り替えが大変でした。先生に決められた考えも、自分では何が正解か分からなくて、迷いました」

B:しかも3部入替え戦まで進むほど勝てませんでした。4年生は少なく、3年生は怪我が多くて下級生メインでしたね。4ガードのような布陣で。
「高校3年分の負けを半年で経験しましたからね(笑)。リーグ戦はキツくてよく訳が分からなかったですね。出るからには責任を感じるんですけど、でも勝てない。わりとどうしようもないぐらいに実力の壁もあったし。とにかく訳がわからないままやっていました」

B:2年目にチームとして成長して、1部昇格しますが、1年目終了時ではそこまで行く想像はまだなかったですか?
「当時はそこまで考えられなかったですね。残留して大変だったな、来年も2部か、ぐらいの感覚です。ただ、2年目はあまり出てはいなかったです。そういう意味では個人的にきつかったですね。しかも原因が自分ではよく分からなかったので。素直じゃなかったな、というのは今思えばありますが。ただ、蛯名さんや矢嶋さんたち、4年生が結構のびのびとやらせてくれました。出ていない割に自分にもいろいろ言わせてもらえたので、そこで気持ち的にも続きました」

150326fukumoto13.jpgB:そして1部昇格した3年目、春は出場できませんでしたね。
「三半規管をおかしくしてしまって、発熱やめまいが3か月ぐらい続きました。原因はよく分からなくて、疲労じゃないかと言われたんですがはっきりしませんでした。ちょっと動く程度、ランニングしたぐらいでめまいがしてきて、今日もダメだーって感じが続きました。不安でしたけど、トーナメントぐらいになんとか復帰できました」

B:この年、長らく指導された佐々木HCが退任して、阪口HCが新しい指導者になりました。コーチが変わるのは大きな不安では?
「それはありますが、僕は阪口さんのバスケットは好きですね。阪口さんのバスケに対して楽しみみたいなものもありました。部としては戸惑いが大きくて、主将だった良太(伊藤良太・14年度主将→東京海上日動)さんがいろんなことを背負って苦労したとは思います」

B:春は苦戦が続いて、秋にはかなり改善した感じはありました。このときのリーグ戦での福元選手は良かったですね。
「ここから自分としてもいいプレーができました。3年生のときは楽しくやることだけをモットーにしていたんです。おかげでできたのかもしれません」

B:阪口HCのバスケットはどういうものだと言えますか?
「自分が思ったことを表現するということかな。『楽しくないのか、自分のやりたいことだろ』と。そういう考え方だったので、思うようにできたとは思います」

写真上:大学1年時、リーグ戦にて。2部リーグでは福元選手がインサイドポジションをこなすような場面もあった。


学生主体で引っ張った最終学年には難しさも感じる

150326fukumoto14.jpgB:4年目、キャプテンを務めました。OBからは勝てると期待されたメンバ―でした。結果としてはそこまで行きませんでしたが。何が課題でしたか?
「阪口さんのバスケットは良いんですが、佐々木先生が伝承してくれた慶應の伝統みたいなものが薄れたり、1・2年はそもそもそれを知らないので伝えづらくなってしまったのはあります。それはわかってはいたんですけど、難しかったです。それに、前の年のリーグ戦が勝率5割で少しうまくいったのも、ハードルを上げました。それを一回壊して、慶應の伝統を伝えなければならなかったんですが、うまくいきませんでしたね。下級生は言っても佐々木先生の教えを受けていないし知らないので、わからないですよね。一方で、自分が思うように自由にやらせてみた方がうまくいくのかなという気持ちもありました。3年間あればそのうちの1年は試すことができるかもしれないけど、自分に残されたのはあと1年だったので、どっちに舵を切るかが難しかったです」

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B:結局それはどちらの道を取ったんですか?「楽しさは残しましたが、慶應の今後のためにもなると思って、佐々木先生の残してくれたものもなるべく伝える方向を選びました。それに、阪口さんも僕らの代はかなり4年生に任せてくれました。練習メニューも全部僕と大元(#5)と竜馬(#6桑原)、田邉(学生コーチ)で作って、練習日程、練習時間、試合のゲームプランも作りました。本当に学生主体という形でやらせてもらったんです。特に早慶戦で勝ったときは嬉しかったです。あのときはトーナメントが終わってからさっき言った皆で5時間ぐらい話して、どうするかを繰り返し考えました。それで勝ったので本当に嬉しかったです。リーグ戦も、中位ぐらいまでなら選手の顔を見ているだけでも対応できるので、僕ら学生がやっても戦えました。ただ、上位チームはやはりHCがすごくて、敵わない場面が多かったです。学生主体は負けたときは部員にもネガティブな評価を受けましたが、やらせてもらってありがたかったです」

B:4年間を終えてみてどうですか?
「いろいろありました。小学生から高校生までで結構いろいろ経験しましたが、大学が一番濃かったですね。バスケもそうだし、バスケに関連してNPO(※)の活動にも関われた。大学としてもそういう方針だと思うんですが、バスケに限らず知を広めろということを本当に体現できたと思います。バスケだけやっていることがバスケのためではなく、他の要因が絡んでくるし、幅を広げることにもなって充実していました。慶應はバスケを100%、120%やりたいという人に向いているとは思いませんが、いろんなことを経験してもっと豊かな人生を歩みたいという人には、胸を張って勧められる大学だと思います」

150326fukumoto04.jpgB:バスケットは大学で終わりにする訳ですが、それはいつから決めていたんですか?
「慶應に進む時点で、バスケを続けるという意志を固めずに4年間をまず過ごしてみようと思ったんです。それで、2年目あたりに他の道でも充実した人生が歩めるなと感じられました。ビジネスでも頑張ってみたいと思うようになりました」

B:では、ガードというポジションに関しての質問です。ガードはどういう練習、考え方が大事だと思いますか?なぜあんな風に広い視野でパスを捌けるのでしょう?
「パスは元々好きだったんですけど、高2までは得点を取る方が多かったんです。でもいいパスができると気持ちいいなと思うようになりました。パスのレベルを上げるには、例えば自主練でシューティングしている大元とかがいますよね。リバウンドをしている子がどこにパスをしているか、どう移動して、どの位置でパスをもらうと移動が少ないとか、ここの位置でボールをもらうとよくシュートが入っているかというのを見て、試合や練習でそこに投げるというのをやっていました。大元なんて顔の近くだと普通は無理そうなんですけど、ポンポン打つし、入るんですよね。サワ(#22)は少し高めの方が慎重になるとか(笑)、なるべくその選手が気持ちいいように普段の練習での動きを意識していました」

150326fukumoto20.jpgB:最後に地元自慢を教えてください。
「ありきたりだけど温泉自慢になりますね。家はマンションですけど、1階がいつでも入れる共同温泉です。でも帰ったときは目的を定めず、お風呂セットだけ持って適当に歩いて、その辺に湧いてる温泉がたくさんあるので入ります。おじいちゃんやおばあちゃんが来るところは熱くてたまらないですけどね。温泉に入るときってみんな自然に挨拶するんですよね。入るときは『こんにちは』、帰るときは『お先に失礼します』って。それにみんなが『はーい』って答える。東京ではあまりそういう経験がないけど、本当に温泉がコミュニティになっているんです。料金も50円とか100円で安いし」

B:温泉以外の名物は?
「魚が美味しいですね。関アジ、関サバに名物のカボスを絞るのがオススメです。とり天も美味しいです。先輩たちが結構旅行で来てくれたんですけど、観光大使並にいろいろ案内しました(笑)」

B:では、次に誰に回すかですが。
「専修の渡辺ですかね。国体で一緒になりました。自分と同じようなサイズで、ガードができて、リバウンドも取れる。面白いですよね」

B:では、次は専修大の渡辺選手にお願いしようと思います。ありがとうございました。


◆#4福元 直人(ふくもと なおと)
別府北部中→福岡大附大濠高→慶應義塾大
4年・G
186cm/84kg
・2007 ジュニアオールスター大分県代表(中1)
・2008 ジュニアオールスター大分県代表(中2)
・2011 インターハイベスト8(高3)
・2011 ウインターカップ4位(高3)
・2015 1部リーグ戦 アシスト王

(2016.3.26インタビュー)
※インタビューに出てくる選手の所属はBリーグのものに改めました。


ゼミ内容に関係するNPO法人活動に興味
教えることにバスケットへの感謝も込める

151215fukumoto.jpg 鎌倉にこのエリアを中心に活動するNPO法人「鎌倉スポーツアカデミー」があります。その中のバスケットボール事業部は、初心者から経験者のスキルアップまで幅広く対応し、毎週エリア内の体育館にて自由に使える開放や子どもたちへのバスケットボール指導を行っています。地域にはミニバスがなく、NPOの活動によって子どもたちがバスケットボールを行う環境が作られつつあります。このアカデミーで外部コーチとして子どもたちを教えてきたのが慶應義塾大の福元直人選手と、法政大の加藤寿一選手。動けるのがオフ期間に限られるため、回数こそ多くありませんが、部活の合間を縫ってに参加し、子どもたちに接しました。また、福元選手が単独で行ったクリニックの様子も併せてお伝えします。

 非営利組織について学ぶゼミに所属していた福元選手。仲の良い法政大の加藤選手の知り合いがバスケットボール事業部のコーチだったことがきっかけで、このアカデミーに参加するようになりました。「非営利組織について学ぶゼミにいて、なおかつ内容がバスケットという自分にとっての得意分野だからぴったりだなと。プレイヤーとしては、バスケットはもう大学で十分だなと思っていたので、教えることでいろいろ恩返しをする場にもなるかなと思った」と、加藤選手の話を聞いて参加を決めました。定期的に訪れ、子どもたちにも人気抜群だと言います。一方、加藤選手は練習日程がなかなか合わず、数回の参加にとどまりました。先にコーチになっていた加藤選手によると、「最初は人数は10人程度でドリブルもまともにつけないような子が多かった」という状況から、今はかなりの数の子どもたちが参加するようになっています。

151215kato.jpg 加藤選手は指導者志向でしたが、福元選手はそうではなかったそう。ただ、「子どもは単純に好きで、教えたことに対して成長するのを見るのが楽しい。刺激になった」と振り返ります。「ここに来る子たちは学校も住んでいる場所もバラバラ。違う小学校の人たちと集まってバスケットをするという居場所が作られているのが、子どもにとってすごく意義があることになっていると感じます。学校や家でうまくいかない子がいても、ここに来ればまた違った友達がいるという面が見えてきました。そこはゼミで学んでいることとマッチしました」と、子どもたちの成長を楽しみながら、自身にとっても学びの場となっています。忙しい中でも参加したのは、福元選手は「慶應大の雰囲気もあると思います。阪口さんになってバスケット部として以外の活動もたくさんあり、その流れの中で自分が返せるものを返そうと思った」。加藤選手は大学でコーチライセンスも取得できるカリキュラムで学び、「いずれは指導者にもなりたいので、現役引退後もこの経験が生きると思う」と語ってくれました。

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実戦テクニックを盛り込んだクリニックを開催

151215fukumoto02.jpg 部としての活動をほぼ終了した12月の半ば、このアカデミーにて福元選手の個人クリニックが開催されました。

「基本のことをやるというよりも、実際の試合で使えそうなスキルを盛り込んだクリニックを考えた」という内容は、「こういうのを使えたらかっこいい」というスキルを盛り込んだもの。子どもたちがいつもアカデミーで練習している内容は、アカデミーの正コーチ陣が考えたメニューで、それは楽しみつつも、どちらかというと基本を大事にしているもの。しかし、このクリニックからは地道な練習に加えてスキルがあれば、もっとバスケットが面白く感じてプレーも楽しくなるだろうという意図も感じられました。少し技術の必要な内容に、小さな子は苦戦する場面もありましたが、みんな一生懸命に取り組んだ2時間。急な決定にも関わらず、たくさんの子どもたちが参加して、わきあいあいとクリニックは行われました。


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前半は基本的なボールを使うドリル。レッグスルーのやり方を教える。


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鎌倉スポーツアカデミー

取材日:2015年12月




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テーマ : バスケットボール(日本) - ジャンル : スポーツ

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