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2016.03.30 (Wed)
【SPECIAL】BOJラインvol.34〜梶原翔太選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.34〜白鴎大学・梶原翔太選手〜
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第33回の専修大・田代直希選手からバトンを渡されたのは、白鴎大・梶原翔太選手です。
福岡県出身で、東海大のベンドラメ選手とは小学校からの幼なじみ。岡山学芸館を経て入学した白鴎大では最後の年にキャプテンを務めました。これまでのバスケットボール人生を振り返れば、厳しい練習の日々やケガの手術など、多くの苦労を味わってきた梶原選手ですが、インタビューではそうした過去を軽快な話術で笑い話に変え、『一度もバスケットを辞めたいと思ったことはない』とキッパリと言い切ります。そうした前向きさが、梶原選手の魅力のひとつと言えるでしょう。
また、誰とでも仲良くなれる明るさとユーモアを持ち、大学バスケ界では学年関係なく一目置かれる人気者。今回はバスケットボールの話だけでなく、そうした人との付き合い方のコツにいたるまで、興味深いお話をたっぷりと伺いました。卒業して梶原選手はバスケットボールの一線からは離れますが、4年間、関東大学バスケを盛り上げた選手の一人です。34回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第34回は白鴎大学の梶原選手です。よろしくお願いします。
「こんな“ポッと出”の自分に、どうもありがとうございます!(田代)直希も『ここで俺に回す!?』って感じですね」
B:田代選手とは、いつから仲良くなったのですか?
「もともとお互いの存在は知っていたんですけど、仲良くなったのは3年生のリーグ戦くらいです」
B:梶原選手から見て田代選手はどんな人ですか?
「バスケットの面では、ただただカッコいいなと。すごい勝負どころで決めるじゃないですか。『直希に渡せばなんとかしてくれる』みたいなイメージはありますね。プライベートでは……冷静に面白い。自分がバカなことすると、すごく冷静に突っ込んでくれます。あとは、テキトーみたいな顔して意外にちゃんとしています。『バスケ嫌いだし』とかいつも言っていますけど、全然そんなことないですからね」
B:確かにポーカーフェイスな部分はありますね(笑)。では本題に入りますが、梶原選手は福岡出身だそうですね。東海大のベンドラメ選手とは幼なじみだそうですが。
「はい。出身は福岡の筑紫野というところで、(ベンドラメ)礼生とは小学校、中学校と一緒です」
B:そうなんですか。それなのに、このリレーインタビューでベンドラメ選手に話を聞いたときには梶原選手の名前は出なかったような。
「そうなんですよ! 自分のおかげで今のアイツがいるようなものなのに…。たぶん僕、あいつの過去から抹消されてます」
B:(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校4年生です。身長がちょっとだけ周りに比べて高かったので、友達に誘われて練習に参加したのがきっかけです。小学生のときは、『おれ、センスあるんじゃね?』って、ずっと信じていました(笑)。初めてバスケをしたとき、試しにドリブルをしてみたら、めっちゃうまくできたんです。『えっ、うますぎ…!?』って、自分に衝撃を受けましたね」
B:(笑)。ベンドラメ選手とはもともと知り合いだったのですか?
「いや、小学校は一学年が7クラスくらいあって人数が多かったので、礼生のことは全然知りませんでした。礼生の方が半年くらい先に始めていたので、ミニバスに行って初めて知り合いましたね」
B:ミニバスはどんなチームでしたか?
「全員めちゃくちゃ身長が小さな人の集まりでした。本当に無名のチームです。でも練習は結構厳しかったですね。とにかく走る練習が多くて。練習時間も長かったです。小学校が終わってから4時間くらい練習して、さらにそのあと社会人バスケの練習にも参加していましたから」
B:それはすごいですね。梶原選手は当時どんな選手だったんですか?
「小学校の頃は、結構攻めるタイプでした。外からのシュートもバンバン打っていましたし」
B:ミニバスでは、ぎりぎり九州大会に出られなかったとベンドラメ選手に伺いましたが。
「はい。あと1回勝てば九州大会、という試合に負けて県3位でした。福岡のミニバスは死ぬほどレベル高いですからね。負けて泣いたんですけど、内心は『まぁ福岡で県大会3位って結構いいっしょ!』と思っていました。その隣で礼生はめっちゃ号泣していましたけど」
B:ポジティブですね(笑)。
「子どもの頃から死ぬほどポジティブです。それだけが取り柄ですね。自分、今までミニバスから大学までバスケを続けてきて、一度も『辞めたい』と思ったことがないんですよ。かなりポジティブです」
B:それはすごいですね。その後中学校は、ベンドラメ選手と同じ筑紫野中ですよね?
「はい。ミニバスの外部コーチがもともと筑紫野中の外部コーチだったので、そのまま教わりたいと思ってミニバスの人たちと一緒に筑紫野中に行きました。中学校は、結構“イケイケドンドン”な感じのチームでしたね。1対1重視で、練習も1対1やハンドリングの練習が多かったと思います。僕もミニバスの頃よりドライブができるようになって、よりカッコつけるようになりました(笑)」
B:ベンドラメと梶原選手が同じチームにいて、誰が一番点を取るんですか?
「いや、結構みんな点が取れました。自分と礼生ともう一人、久松ってやつと合わせて3人が得点源だったので、それぞれ15点ずつくらい取って、たまにその3人のうち誰かが爆発するという感じでした」
B:その頃に対戦して覚えている選手はいますか?
「鵤選手(現NBL広島ドラゴンフライズ)ですかね。小学校の頃にも対戦したんですが、当時はめっちゃ下手くそだったんですよ。でも中学校で身長が伸びて、体もゴツくなって…。すごくうまくなりました。あと、北陸高校から富山大に行った田中英太も上手でしたね」
B:以前、慶應義塾大の福元選手に聞いたら、『梶原に気をつけろ』と言われていたくらい、すごい選手だったと言っていました。
「ホントですか(笑)。それはうれしい。僕の全盛期です。まぁ自分でも、小学校や中学校の頃は自分天才と思っていました(笑)。ふくもっちゃん(福元)のことは、小学生の頃から知っているんですよ。向こうは大分の小学校ですけど、確か練習試合をしたことがあって、66−33くらいで勝ったんです。それなのに、全国大会ではふくもっちゃんのチームが優勝したんですよね。だから向こうも覚えていてくれたのかもしれません。まぁ、過去の栄光です(笑)」
B:梶原選手はどんな中学生だったんですか?
「中学生の頃は、やんちゃなところがあって、試合で使ってもらえない時期もあったんです(笑)。3年生の最後の引退試合は4Qに入って負けていたんです。それで残り6分くらいで20点くらい離されたところで、ようやく『お前、行って来い』と言われて出されました。そうしたら、そのとき僕、捻挫していたんですけど、自分が出て逆転して勝ったんですよ。『やっぱりな!』と思ったのが印象的でしたね(笑)」
B:どこまでもポジティブですね(笑)。
高校でも発揮したコミュニケーション能力
B:そこから、どうして岡山学芸館高校に進学したのですか?
「福岡県の学校からもいくつか声は掛かっていたのですが、面白そうなところに行きたいなぁと。それで男子校は嫌だし…とか考えていったら、岡山に行くのも楽しいかなと思って決めました。当時、学芸館は全国ベスト8くらいだったので、強かったことも理由にありました」
B:岡山学芸館はどんなところにあるんですか?
「岡山市の西大寺ってところなんですけど、まぁ田舎ですね。(白鴎大のある)栃木みたいなところです」
B:入学してみていかがでしたか?
「いやぁもう、強烈でしたね、めちゃくちゃ厳しくて。3メンを2時間、3時間とか普通にやりますから。本当に練習はすさまじかったです」
B:セネガルからの留学生もいますよね。
「はい。1個上が、ダリ(モリス・ダリ・ンドゥール)というNBAに行った選手です(※)。ダリはすごく真面目で頭も良かったですね。要領が良いというか、監督が言うことも聞き流すところは流して、自分に必要な大事なところだけ聞く。例えばシュートフォームに関しては、監督が言うことをすごくよく聞いて、日本人らしいキレイなシュートを身に付けていました。でも、『お前は絶対アメリカじゃ通用しない』という言葉は聞き流して、卒業後すぐにアメリカに行ったんです。彼も超ポジティブですね。だからか、すごく仲が良かったです」
(※ニックスやマーベリックスを経て現在はスペインのレアル・マドリードでプレイ)
B:地元を離れて県外に出て、寮生活などはいかがでしたか?
「寮は、野球部もサッカー部もテニス部もいて、すごく体育会の厳しい寮だったんです。上下関係とか。でもなぜか自分だけ、違うポジションにいて…。先輩たちから可愛がられて、好きにしている感じでした。洗い物とか洗濯とか、よく『お前はやらなくていいよ』と言われましたし」
B:なぜですか(笑)。
「いや、分からないです。1年生は1階の洗濯機を使わなきゃいけないんですけど、なぜか自分だけ1年生の頃から3年生と一緒に2階の洗濯機を使っていました」
B:1年生でそのポジションとは、相当なコミュニケーション能力ですね(笑)
「たぶん、キャラが確立されていたんだと思います。3年生のことをイジることもありましたが、怒られずに可愛がってもらいました」
B:相手の懐に入るのが上手なんですね。でも同学年から疎まれませんでしたか?
「いや、同期もめっちゃ仲良かったですよ。だから上下関係とかでいじめられたり苦労したりはなかったです。今まで人間関係で苦労したことはないかもしれません。社会人になって潰されると思いますけど(笑)」
ケガもポジティブに受け止める
B:1年生のインターハイは県予選で負けて不出場、ウインターカップが全国デビューですよね。
「はい。ウインターカップは、1回戦は出られなくて、2回戦で北陸と対戦して、最後に点差を離されて自分もちょっとだけ出られました。20秒くらいですが。素直にレベルが違うと思いましたね。占部さん(13年度鹿屋体育大卒・現曙ブレーキ)とマッチアップして、パスをもらってすぐドライブに行ったんですけど、刘孟涛(15年度日本大)にブロックされて逆速攻でレイアップ決められました(苦笑)。もっと頑張ろうと思ったウインターカップでしたね」
B:ほろ苦いデビューだったんですね。2年生のときはいかがでしたか?
「1年生から2年生に上がるときに膝をケガして、半月板を両方手術して取ったんです。そのときから自分のプレーがおかしくなり始めて、『あれれ?』とは思いましたね」
B:両方ですか…。練習中のケガですか?
「いや、ガツンと何かやったわけではなくて、じわじわと…。『あれ、おかしいな。足が曲がらないな』と思いながら練習していたんですけど、病院に行ったら『あ、終わってるね。これは手術だ』という感じでした(苦笑)」
B:半月板は両方とも摘出して大丈夫なものなんですか?
「大丈夫みたいですよ。今も普段は痛くないですし。たまに長時間立っていたり練習がハードになったりすると痛くなりますけど。ただ、長期的にはリスクもあると言われました。年取ったら歩けなくなる可能性もあると。そう言われた高校生のときに、『ま、いいでしょう!』と言ったのは覚えています(笑)。超ポジティブなので。それで両方とも、内視鏡で手術しました」
B:リハビリも大変だったのでは?
「大変でしたね。ちょうど学芸館のトレーナーの方が、その病院のリハビリの先生だったので、逃れられないんです(笑)。死ぬほど腕立て伏せとか懸垂とかさせられました。それでインターハイのときから徐々に練習し始めて、ウインターカップには間に合って少し試合も出させてもらいました」
B:ウインターカップの思い出は?
「あのときは結構接戦で勝ち上がって、ベスト8まで行けたんですよね。本当にもう、ダリのお陰です。ベスト4を懸けたメインコートの試合も、少しコートに立たせてもらったんですけど、そこでまた北陸と対戦したんです。その頃は自分、好きにやってこいという感じだったので1対1に行ったんですけど、またもや刘孟涛にだいぶブロックされたのは覚えています。長くリードしていたのに、最後に逆転されて負けました」
B:岡山学芸館の1つ上の代は、どんな先輩たちでしたか?
「みんな能力も高かったですし、すごく真面目でしたね。自分にはないものを持っている先輩たちでした(笑)。その中でもダリは、先生から怒られても縮こまるんじゃなく、はね除け方を知っていたので、いつもリーダーシップを取ってくれました」
B:素晴らしい選手ですね。高校3年生のときは、全国には出ていないですよね。
「はい。インターハイもウインターカップも予選で負けました。あの年はいろいろあって、スタメンがケガしたり部活を辞めた選手がいたりで全然メンバーがいなくなっちゃったんですよ。それで自分は2番ポジションだったのに、いきなり4番ポジションをやることになり…。インターハイ予選は決勝で米村(白鷗大#7)のいた玉野光南に負けて、ウインターカップはそこにも行けずにベスト4で負けました。国体は選ばれましたけど、ミニ国体で負けちゃったので、最後の年は全国に出ていないですね」
B:梶原選手はキャプテンだったそうですが。
「はい。あまりやりたくなかったんですけどね。高2でケガしていたときに、いろいろ外から見て学生コーチのようなポジションだったので、その頃から『来年のキャプテンは梶原だな』と言われていたんです。乗り気ではなかったので渋って他のやつをキャプテンにさせようと画策したんですけど、やっぱり監督から指名されて自分になりました」
B:練習が厳しかったと言いますが、どのようにリフレッシュしていたのでしょうか?
「リフレッシュというか、練習がキツくても監督に怒られても、自分はあまり気にしていなかったです。怒られても、ふてくされるとかは絶対なかったですね。笑顔で『ハイ!ハイ!』って元気よく答えるんです(笑)。あとは、チームメイトと練習後とかにくだらないことで爆笑して、それが良いリフレッシュになっていたんだと思います。練習前も、ストレッチしながらよく『なぁ、もし今から10分後に体育館が吹っ飛んで練習なくなったらどうする!?』とか、『もし、100円払って練習オフって言われたらどうする!?』とか、周りのやつにどうでも良い質問をして絡んでいました。そうしたら関西のやつが多かったので最初は相手をしてくれたんですけど、だんだん僕が『もし…』って言うと『“もし”はもうええって!』ってシャットダウンされるようになりました(笑)。そういう感じで毎日を乗り切っていましたね」
B:ノリをわきまえていそうな関西の人たちにも呆れられるとは(笑)。梶原選手は、友達もすぐにできそうですね。
「すぐ友達になりますね。人見知りは全然しないです。たまに調子に乗りすぎますけど。1年生のとき、いろんな学校が集まる交歓大会みたいなものがあったんですけど、そこでマンタス(13年度白鴎大卒)がいたので、いきなり初対面で『お、メントス!』って言ったら普通に切れられました(笑)。入学したら3年生にマンタスがいて、『お前のこと覚えてるからな』って言われましたね。今や、めちゃくちゃ仲良い先輩ですけど(笑)」
1部に昇格して友達と再会
B:高校卒業後、どうして白鴎大に進学したのですか?
「自分、高校生のときは結構輝いていて、練習試合で40点とか50点取ったときもあったんですよ。そうしたら遠征先で白鴎大の監督がそれを見ていたらしくて。足も調子が良くて大暴れしていた試合をたまたま見て、声をかけてくれた感じです。あとは一応、僕の3つ上に岡山学芸館のアビブ(12年度白鴎大卒・現トヨタ合成)がいたので、チェックはしてくれていたみたいです」
B:アビブ選手とは、岡山学芸館では入れ違いですよね。
「はい。でも中学3年生のときに寮を見に行ったら、アビブがいて、部屋で映画『アイス・エイジ』を見ていたんです。それも当時、絡んだ覚えがありますね」
B:中学3年生で(笑)。
「はい。怖いもの知らずでしたね。そうしたら、大学に入ってアビブに再会しました」
B:梶原選手に怖いものはないんですか?(笑)
「うーん…あ、父親ですかね(笑)。怒ると怖いので」
B:大学に入って、最初は2部でしたね。入学していかがでしたか?
「いや〜高校が終わったと思ったら、またもや、ものすごく厳しい練習で(笑)。休みの日は朝6時くらいから4部練のときもあったし、リーグ戦中の平日でも、終わらなくてずっと練習していました。練習量じゃ、どこの大学にも負けなかったんじゃないかなと。ちょっとでもボールをファンブルすると止められて、コート10往復ダッシュとか。とにかく厳しく鍛えられましたね」
B:先輩などにもよく練習の大変さは聞きました。時間が決まっているというよりは、目指すところまでやれないと終わらないという…。ただ、やはり2部のチームが1部を目指そうとするにはまだまだ足りないんだ、という話もコーチから聞いたことがあります。なかなか大変ですね。
「はい。それによく怒られました。1年生の途中でBチームに落とされたんですが、自分も最初はあまりやる気がなくて、Bチームでも真面目にやっていなかったんです。でも2か月くらいしてAチームにまた上げてもらって、先輩たちもすごく頑張っていたので、自分も頑張ろうとなりました」
B:白鴎大学は女子も1部の強豪チームですが、同じ体育館で練習しているんですか?
「はい。女子は隣のコートで18時半くらいから練習が始まるんですけど、みんな真面目なので17時くらいから体育館に来てシューティングしたりストレッチしたり、体を作って、それで18時半から2時間くらいきちっと集中した練習をして終わるんです。でも女子の練習が終わる頃、男子は17時から練習スタートしたにも関わらず、まだボールを触っていない日も(笑)。ひたすらディフェンス練習が多かったですね。その甲斐あって1部に上がれたのは本当に良かったです」
B:下級生の頃は廣瀬コーチ(現青山学院大)がアシスタントで入っていましたよね。
「はい。廣瀬さんの存在は大きかったと思います。ゾーンディフェンスとかは結構廣瀬さん主導で取り入れたものでしたし。当時の監督だった齋藤さんとの間に立って、いろいろ廣瀬さんがやってくれました」
B:そうした厳しい練習の甲斐あって、1部に昇格しました。特に昇格したときのゾーンは強烈でしたし、練習しただけありましたね。それで、2年生の頃はいかがでしたか?
「1部になって、友達はますます増えました。もともと高校時代から知っていた人たちとも再会しましたし。自分、1年生の頃は1部の試合を見たことがなかったんですよ。なかなか見る機会もないし。実際1部に上がってみたら、『お前、ここにいたの!?』って選手がすごいたくさんいて(笑)。なつかしかったです。誰かに『お前、バスケやってたんだ!』って言ったら、『お前が一番そうだろ』と言われて、確かになと思いましたね(笑)」
B:2部と1部とでレベルの違いは感じましたか?
「やっぱり1部は違うなと思いましたね。個々の能力が別次元だなって。礼生とか、ホント『誰?』って感じでうまくなっているので驚きました。その頃は、自分がこのコートに立つというイメージが湧かなくて、普通に『ずっと応援席でヤジを飛ばすキャラだろうなぁ』と思っていました」
B:今思えば、あの元気な応援団の中に梶原選手がいたのですね。
「そうですね。ヤジっているのはほぼ自分だと思います(笑)。白鴎って、練習中からすごく声を出して盛り上げてやっていたんですよ。そうしないと練習が終わらなかったので。だから練習中は、ノーマークのレイアップシュートにも『フォー!!』とか言って、頭おかしいんじゃないかくらいみんな大騒ぎでした。そういう明るさが、応援にも出ていたのかもしれません」
B:あの年は、インカレでもベスト8に入ってオールジャパンにも出られたんですよね。白濱選手(13年度卒・現アイシン三河)が以前にこのインタビューで、みんなで年越ししたのが良い思い出だと言っていました。
「あー、ありましたね! 良い思い出です。12時回る前に、みんなでごはん食べて。自分はその頃いろいろあって、プレーできていませんでした。それでオールジャパンのメンバーには入れないだろうと思っていたら、なぜか入ってて…。謎でしたね。たぶん、監督はなんだかんだ俺のこと好きなんだろうなぁ〜と思っていました(笑)」
1部残留と就職活動スタート
B:チームが好調だった裏で、そんな状態だったんですね。3年生のときは、主力の選手がごっそり抜けて、あの年も苦労しましたよね。
「3年生のときは、誰よりも声を出して頑張るようになりました。泥臭いところをやっていたら、ようやく試合にも少しずつ絡めるようになって。それでトーナメントも7番手、8番手くらいで出られるかなってときに、大会3日前に捻挫したんです(苦笑)」
B:そうだったんですか。確かに春は見た記憶がありません。いよいよ、という時期につらいですね。
「はい。それで『こんな大事な時期にケガするなんて』と怒られて、また練習に参加できない日々が続き…。それでリーグ戦からやっと、少しずつ試合に出られるようになりました。まぁ、試合にはなかなか勝てなかったですけどね。『やっぱり無力だわ、俺ら』と思っていました。なんでこんなに練習してるのに結果が出ないのかなって。でもまぁ、1部2年目だし仕方ないかなとも思いましたね」
B:リーグ戦はなかなか勝てませんでしたが、入替え戦で残れたのは大きかったですね。
「あれは本当に奇跡ですよね…。自分たちでもびっくりしました。延長戦もありましたし。最後の最後で、今までキツい練習してきた意地が出たんじゃないですかね。最後にようやく苦労が実った感じがしました。それに、最後は4年生の力が大きかったですよね。リーグ戦で4勝しかできなくてだいぶ負け越していたので、あのときの喜びは本当に大きかったです。でも自分は、入替え戦が終わったそこからすぐ消えて就職活動スタートでした。喜びに浸る間もなく(笑)」
B:そうだったんですね。4年生になって、キャプテンになりましたね。
「はい。それも高校時代と一緒です。最初は『(米村)誠志郎、お前しかいない!』とか言ってアイツにやらせようとしたんですけど(笑)、監督から指名されて、やりますと。まぁ薄々は感じていましたけど」
B:就職活動との両立は大変だったのでは?そのせいで夏はあまり練習できていないと聞きました。
「そうですね。でも最初から大手しか受けないと決めていて(笑)、20社くらいに絞って受けたので。そもそも白鴎大学なんて無名の大学で、受けられないところも結構あったんです。それでエントリーシートを出した20社くらいのうち、12社からは内定とか、最後まで行くことができました」
B:すごいですね。入社する会社も、3万分の25という倍率だとか。
「たまたまですけどね(笑)。白鴎大から入社する人材は初めてだと言われました」
B:梶原選手の名前を検索すると、就職活動の動画が出てきました。
「あ、あれは偶然、そういう会社の方に声をかけていただいて。僕、企業説明会とかに行ったときに、自分の顔写真や経歴、自己PRが書かれた名刺を渡していたんですよ。それをたまたま見た人が勧めてくれて、参加することになったんです。実際に行ってみたら、周りはみんな早稲田とか慶應とかで、自分だけ『白鴎大、ドコ?』って感じでした(笑)。でも思いのほか好評でしたね」
B:動画のコメント欄に、梶原選手を絶賛するコメントがたくさんありました。
「そうなんですよ、ありがたいことに…。あの企画、普通は『こんなやつが社会を担っていくのか』みたいにバッシングされるのが普通で、自分も最初は『こんな学歴で絶対無理』とか『社会のクズだ』みたいなコメントが多かったんですけど、なぜかだんだん『こいつは営業できるぞ』みたいな好評価が増えていって。それはありがたかったです。たまたまですけど」
B:就職活動が終わったのはいつですか?
「リーグ戦前の8月くらいですね。決めたのは」
B:リーグ戦中には、大雨被害を受けて、練習もまともにできない時期がありましたね。
「あれもすごく大変でしたが、今思えばチームが変わるキッカケにはなりましたね。あれを経験して、みんな“カラ元気”じゃないですけど、少しずつ無理にでも盛り上げて戦っていこうという開き直りが出てきたので。そうしたら徐々にチームも一つになってきて。まぁ、それでも勝てないんですけどね。あの時期に東海と戦ったとき、最初少しだけ競ることができて、試合中に誠志郎と『あれ、俺らもしかして強いんじゃね!?』って言っていたんですよ(笑)。でもそう言った途端、向こうも本気出してきたのか一気に離されて。『やっぱ無理だったかー』『練習してないんだから仕方ないな!』みたいな感じでしたね」
B:あの日の東海大もなかなかもどかしくて、前半を見る限りではもしや?という試合でしたね。確か、ベンドラメ選手とのマッチアップでしたね。
「そうですね。1回目の対戦ではマッチアップしたんですけど、たぶん、あいつもよく知る相手でやりにくいんだと思います。最初の方はめっちゃ調子悪かったので。2回目のときは、自分は3年生の13番(中山)にマッチアップしてボッコボコにやられました(苦笑)」
B:あとリーグ戦の試合と言えば、慶應義塾大のホームゲームで、慶應に1点差で勝ったときも好調でしたよね。試合開始早々、いきなり3Pシュートを2本決めて。
「そうそう、ありましたね。完全アウェイの状況だったので、テンション上がっちゃって(笑)。しかも慶應の学生がたくさん応援に来ていて、『うわ、絶対就活のときに会ったやついるな!』と思っていました。チアもいるし、なんか調子が良かったです」
B:逆にモチベーションになるパターンですね(笑)。チームとしても、尻上がりに調子を上げていきましたよね。インカレはあんまりでしたが…(東海大九州に初戦敗退)。
「そうですね、インカレは良くなかったですね。でもまぁ、1部に残ることが最大の仕事だと思っていたので。1部で3年目って、一番踏ん張りどころじゃないですか。ここで持ちこたえられれば、きっと4年、5年と保ってくれるはずだと思って。キャプテンとしても1部残留が使命だと思っていたので、インカレはダメでしたけど、まぁ良いシーズンでした」
B:梶原選手は本格的にバスケットをやるのは大学までとなりますね。振り返れば、壮絶なバスケ人生でしたね。
「そうですね(笑)。でも、自分ではうまくいった方かなと思います。実力もない中、よくここまでバスケットやらせてもらえたなぁって。大舞台にも立てたし、本当に良かったです」
コミュニケーションの基本は「挨拶」
B:ではここからバスケット以外のお話を伺います。自身の性格は…言うまでもなくポジティブですね(笑)。
「はい。何事もポジティブです。そのとき辛くても、次の日にはリセットされて忘れています。落ち込むことはないですね。唯一落ち込むのは、他人を傷つけちゃったときくらいかな。自分で言うのもアレですけど、義理と人情には篤いタイプだと思っているので(笑)。調子に乗って誰かを傷つけたときは、『あーやっちゃったなー』って落ち込みます。それ以外はめちゃくちゃプラス思考です」
B:コミュニケーションスキルの高い梶原選手ですが、人と仲良くなるコツなどありますか?
「まず、初対面の人とのつながり方があるんです。例えば試合会場で礼生に会って、立ち話をするとする。そのとき礼生の横に、僕の知らない初対面の人がいれば、なんとなく“いるなー”っていうのは分かるじゃないですか。向こうも僕と礼生の会話を聞いていたりして。で、そのときは無理に直接話し掛けないんですけど、2回目に会ったときにその人に挨拶するんです。この2回目で挨拶するかどうかが大事。ここでスルーしちゃうと、たとえ3回目に目が合ったとしても、“まぁ、いっか”と流されてしまいます。そのまま4回目、5回目と全く目も合わなくなって、仲良くなるタイミングを逃してしまう。だから2回目に声をかけて、3回目も声をかける。挨拶はすごく大事で、ファーストコンタクトで手を上げて『ウィッス』って声をかけるだけでも、全然違いますね」
B:なるほど。実戦してみるといいかも。恐い先輩からも可愛がられるコツは?
「でもそれも、やっぱり挨拶が大事だと思いますよ。元気良く『あ、おはようございます!』って。何回もそれを繰り返せば、風のウワサで先輩が『梶原って礼儀正しいよな』って言っているのを聞くんです。そうしたらもうこっちのモノで(笑)、絡みに行きますね。礼儀正しいって印象を持ってもらえば、多少ハメを外してもあまり怒られません(笑)」
B:“挨拶”ひとつにしても、考えられていますね。
「挨拶は基本ですし、キッカケになりますよね。自分から挨拶に行けば、必ず会話は自然と生まれてくるので。で、自分が次に意識しているのが、“会話を続けること”です。なんでもいいから、例えば共通の友達をいじったり、会話を続ける。そうしていけば、友達はどんどん増えます」
B:そういう誰とでも仲良くなれる性格は、どこで身に付けられたのでしょうか?
「うーん…でも思えば、幼稚園の頃から鍛えられていましたね。幼稚園の頃から父に『ムービー撮るから一発芸しろ』とか言われるのはしょっちゅうでした。『行け!変顔100連発!』って急に振られたり。そういうことのおかげで反射神経は鍛えられましたね。父のことは、一番の恩師と思っています(笑)。2つ上に姉が一人いるんですけど、姉も強烈ですね。勝手に母の携帯からLINEですごい物騒なメッセージを送ってきたり…。家族はみんなキャラが濃いです」
B:バスケット以外の趣味はありますか?
「社会人になるにあたっていろいろ勉強しなきゃいけないし、本は読まなきゃと思っていて。大学3年や4年のときは、カフェでマーケティングとか自己啓発の本とかを読んでいました。頭は良くないんですけど、本を読んでインプットして、えらそうに人に話すのは得意です(笑)」
B:得意そうです(笑)。福岡の自慢はありますか?
「福岡の自慢…なんですかね。ガチなところだと、スポーツは強いと思います。バスケットでも結構福岡出身の選手が多いし。あとは、ごはんが美味しいです。ラーメンは当たり前にうまいし、あとは焼肉の『びっくり亭』というのがオススメです。にんにくとキャベツを焼いたやつで、にんにく臭はすごいですけどめちゃくちゃうまいです。地元に帰ったら必ず食べますね」
B:では、次にインタビューを回す人を指名してください。
「じゃあ…福元ですかね。会話に出てきたので(笑)。小松(筑波大#16)か福元かで迷うんですけど…でもこまっちゃんはインカレで優勝したから回すのは癪だなぁ(笑)。でも、福元もアシスト王取ったからなぁ…。まぁ、ふくもっちゃんにしましょう!」
B:このリレーインタビュー「BOJライン」も5年ほど続いてきましたが、慶應義塾大の選手は初めてです。
「あ、本当ですか。ということは自分、ナイスアシストですね。真のアシスト王は僕だな(笑)」
B:(笑)。では次は、慶應義塾大の福元直人選手にお話を伺います。梶原選手、どうもありがとうございました。
◆#4梶原翔太(かじわら しょうた)
185cm/
筑紫野中→岡山学芸館高→白鴎大
・2010 ウインターカップベスト8(高2)
・2013 インカレベスト8
・2015 トーナメント9位
・2015 リーグ戦7位
(2015.12.13インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています
vol.34〜白鴎大学・梶原翔太選手〜

福岡県出身で、東海大のベンドラメ選手とは小学校からの幼なじみ。岡山学芸館を経て入学した白鴎大では最後の年にキャプテンを務めました。これまでのバスケットボール人生を振り返れば、厳しい練習の日々やケガの手術など、多くの苦労を味わってきた梶原選手ですが、インタビューではそうした過去を軽快な話術で笑い話に変え、『一度もバスケットを辞めたいと思ったことはない』とキッパリと言い切ります。そうした前向きさが、梶原選手の魅力のひとつと言えるでしょう。
また、誰とでも仲良くなれる明るさとユーモアを持ち、大学バスケ界では学年関係なく一目置かれる人気者。今回はバスケットボールの話だけでなく、そうした人との付き合い方のコツにいたるまで、興味深いお話をたっぷりと伺いました。卒業して梶原選手はバスケットボールの一線からは離れますが、4年間、関東大学バスケを盛り上げた選手の一人です。34回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
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バスケットを始めて才能を感じる
「こんな“ポッと出”の自分に、どうもありがとうございます!(田代)直希も『ここで俺に回す!?』って感じですね」
B:田代選手とは、いつから仲良くなったのですか?
「もともとお互いの存在は知っていたんですけど、仲良くなったのは3年生のリーグ戦くらいです」
B:梶原選手から見て田代選手はどんな人ですか?
「バスケットの面では、ただただカッコいいなと。すごい勝負どころで決めるじゃないですか。『直希に渡せばなんとかしてくれる』みたいなイメージはありますね。プライベートでは……冷静に面白い。自分がバカなことすると、すごく冷静に突っ込んでくれます。あとは、テキトーみたいな顔して意外にちゃんとしています。『バスケ嫌いだし』とかいつも言っていますけど、全然そんなことないですからね」
B:確かにポーカーフェイスな部分はありますね(笑)。では本題に入りますが、梶原選手は福岡出身だそうですね。東海大のベンドラメ選手とは幼なじみだそうですが。
「はい。出身は福岡の筑紫野というところで、(ベンドラメ)礼生とは小学校、中学校と一緒です」
B:そうなんですか。それなのに、このリレーインタビューでベンドラメ選手に話を聞いたときには梶原選手の名前は出なかったような。
「そうなんですよ! 自分のおかげで今のアイツがいるようなものなのに…。たぶん僕、あいつの過去から抹消されてます」
B:(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校4年生です。身長がちょっとだけ周りに比べて高かったので、友達に誘われて練習に参加したのがきっかけです。小学生のときは、『おれ、センスあるんじゃね?』って、ずっと信じていました(笑)。初めてバスケをしたとき、試しにドリブルをしてみたら、めっちゃうまくできたんです。『えっ、うますぎ…!?』って、自分に衝撃を受けましたね」
B:(笑)。ベンドラメ選手とはもともと知り合いだったのですか?
「いや、小学校は一学年が7クラスくらいあって人数が多かったので、礼生のことは全然知りませんでした。礼生の方が半年くらい先に始めていたので、ミニバスに行って初めて知り合いましたね」
B:ミニバスはどんなチームでしたか?
「全員めちゃくちゃ身長が小さな人の集まりでした。本当に無名のチームです。でも練習は結構厳しかったですね。とにかく走る練習が多くて。練習時間も長かったです。小学校が終わってから4時間くらい練習して、さらにそのあと社会人バスケの練習にも参加していましたから」
B:それはすごいですね。梶原選手は当時どんな選手だったんですか?
「小学校の頃は、結構攻めるタイプでした。外からのシュートもバンバン打っていましたし」
B:ミニバスでは、ぎりぎり九州大会に出られなかったとベンドラメ選手に伺いましたが。
「はい。あと1回勝てば九州大会、という試合に負けて県3位でした。福岡のミニバスは死ぬほどレベル高いですからね。負けて泣いたんですけど、内心は『まぁ福岡で県大会3位って結構いいっしょ!』と思っていました。その隣で礼生はめっちゃ号泣していましたけど」
B:ポジティブですね(笑)。
「子どもの頃から死ぬほどポジティブです。それだけが取り柄ですね。自分、今までミニバスから大学までバスケを続けてきて、一度も『辞めたい』と思ったことがないんですよ。かなりポジティブです」
B:それはすごいですね。その後中学校は、ベンドラメ選手と同じ筑紫野中ですよね?
「はい。ミニバスの外部コーチがもともと筑紫野中の外部コーチだったので、そのまま教わりたいと思ってミニバスの人たちと一緒に筑紫野中に行きました。中学校は、結構“イケイケドンドン”な感じのチームでしたね。1対1重視で、練習も1対1やハンドリングの練習が多かったと思います。僕もミニバスの頃よりドライブができるようになって、よりカッコつけるようになりました(笑)」

「いや、結構みんな点が取れました。自分と礼生ともう一人、久松ってやつと合わせて3人が得点源だったので、それぞれ15点ずつくらい取って、たまにその3人のうち誰かが爆発するという感じでした」
B:その頃に対戦して覚えている選手はいますか?
「鵤選手(現NBL広島ドラゴンフライズ)ですかね。小学校の頃にも対戦したんですが、当時はめっちゃ下手くそだったんですよ。でも中学校で身長が伸びて、体もゴツくなって…。すごくうまくなりました。あと、北陸高校から富山大に行った田中英太も上手でしたね」
B:以前、慶應義塾大の福元選手に聞いたら、『梶原に気をつけろ』と言われていたくらい、すごい選手だったと言っていました。
「ホントですか(笑)。それはうれしい。僕の全盛期です。まぁ自分でも、小学校や中学校の頃は自分天才と思っていました(笑)。ふくもっちゃん(福元)のことは、小学生の頃から知っているんですよ。向こうは大分の小学校ですけど、確か練習試合をしたことがあって、66−33くらいで勝ったんです。それなのに、全国大会ではふくもっちゃんのチームが優勝したんですよね。だから向こうも覚えていてくれたのかもしれません。まぁ、過去の栄光です(笑)」
B:梶原選手はどんな中学生だったんですか?
「中学生の頃は、やんちゃなところがあって、試合で使ってもらえない時期もあったんです(笑)。3年生の最後の引退試合は4Qに入って負けていたんです。それで残り6分くらいで20点くらい離されたところで、ようやく『お前、行って来い』と言われて出されました。そうしたら、そのとき僕、捻挫していたんですけど、自分が出て逆転して勝ったんですよ。『やっぱりな!』と思ったのが印象的でしたね(笑)」
B:どこまでもポジティブですね(笑)。
高校でも発揮したコミュニケーション能力

「福岡県の学校からもいくつか声は掛かっていたのですが、面白そうなところに行きたいなぁと。それで男子校は嫌だし…とか考えていったら、岡山に行くのも楽しいかなと思って決めました。当時、学芸館は全国ベスト8くらいだったので、強かったことも理由にありました」
B:岡山学芸館はどんなところにあるんですか?
「岡山市の西大寺ってところなんですけど、まぁ田舎ですね。(白鴎大のある)栃木みたいなところです」
B:入学してみていかがでしたか?
「いやぁもう、強烈でしたね、めちゃくちゃ厳しくて。3メンを2時間、3時間とか普通にやりますから。本当に練習はすさまじかったです」
B:セネガルからの留学生もいますよね。
「はい。1個上が、ダリ(モリス・ダリ・ンドゥール)というNBAに行った選手です(※)。ダリはすごく真面目で頭も良かったですね。要領が良いというか、監督が言うことも聞き流すところは流して、自分に必要な大事なところだけ聞く。例えばシュートフォームに関しては、監督が言うことをすごくよく聞いて、日本人らしいキレイなシュートを身に付けていました。でも、『お前は絶対アメリカじゃ通用しない』という言葉は聞き流して、卒業後すぐにアメリカに行ったんです。彼も超ポジティブですね。だからか、すごく仲が良かったです」
(※ニックスやマーベリックスを経て現在はスペインのレアル・マドリードでプレイ)
B:地元を離れて県外に出て、寮生活などはいかがでしたか?
「寮は、野球部もサッカー部もテニス部もいて、すごく体育会の厳しい寮だったんです。上下関係とか。でもなぜか自分だけ、違うポジションにいて…。先輩たちから可愛がられて、好きにしている感じでした。洗い物とか洗濯とか、よく『お前はやらなくていいよ』と言われましたし」
B:なぜですか(笑)。
「いや、分からないです。1年生は1階の洗濯機を使わなきゃいけないんですけど、なぜか自分だけ1年生の頃から3年生と一緒に2階の洗濯機を使っていました」
B:1年生でそのポジションとは、相当なコミュニケーション能力ですね(笑)
「たぶん、キャラが確立されていたんだと思います。3年生のことをイジることもありましたが、怒られずに可愛がってもらいました」
B:相手の懐に入るのが上手なんですね。でも同学年から疎まれませんでしたか?
「いや、同期もめっちゃ仲良かったですよ。だから上下関係とかでいじめられたり苦労したりはなかったです。今まで人間関係で苦労したことはないかもしれません。社会人になって潰されると思いますけど(笑)」
ケガもポジティブに受け止める

「はい。ウインターカップは、1回戦は出られなくて、2回戦で北陸と対戦して、最後に点差を離されて自分もちょっとだけ出られました。20秒くらいですが。素直にレベルが違うと思いましたね。占部さん(13年度鹿屋体育大卒・現曙ブレーキ)とマッチアップして、パスをもらってすぐドライブに行ったんですけど、刘孟涛(15年度日本大)にブロックされて逆速攻でレイアップ決められました(苦笑)。もっと頑張ろうと思ったウインターカップでしたね」
B:ほろ苦いデビューだったんですね。2年生のときはいかがでしたか?
「1年生から2年生に上がるときに膝をケガして、半月板を両方手術して取ったんです。そのときから自分のプレーがおかしくなり始めて、『あれれ?』とは思いましたね」
B:両方ですか…。練習中のケガですか?
「いや、ガツンと何かやったわけではなくて、じわじわと…。『あれ、おかしいな。足が曲がらないな』と思いながら練習していたんですけど、病院に行ったら『あ、終わってるね。これは手術だ』という感じでした(苦笑)」
B:半月板は両方とも摘出して大丈夫なものなんですか?
「大丈夫みたいですよ。今も普段は痛くないですし。たまに長時間立っていたり練習がハードになったりすると痛くなりますけど。ただ、長期的にはリスクもあると言われました。年取ったら歩けなくなる可能性もあると。そう言われた高校生のときに、『ま、いいでしょう!』と言ったのは覚えています(笑)。超ポジティブなので。それで両方とも、内視鏡で手術しました」
B:リハビリも大変だったのでは?
「大変でしたね。ちょうど学芸館のトレーナーの方が、その病院のリハビリの先生だったので、逃れられないんです(笑)。死ぬほど腕立て伏せとか懸垂とかさせられました。それでインターハイのときから徐々に練習し始めて、ウインターカップには間に合って少し試合も出させてもらいました」
B:ウインターカップの思い出は?
「あのときは結構接戦で勝ち上がって、ベスト8まで行けたんですよね。本当にもう、ダリのお陰です。ベスト4を懸けたメインコートの試合も、少しコートに立たせてもらったんですけど、そこでまた北陸と対戦したんです。その頃は自分、好きにやってこいという感じだったので1対1に行ったんですけど、またもや刘孟涛にだいぶブロックされたのは覚えています。長くリードしていたのに、最後に逆転されて負けました」
B:岡山学芸館の1つ上の代は、どんな先輩たちでしたか?
「みんな能力も高かったですし、すごく真面目でしたね。自分にはないものを持っている先輩たちでした(笑)。その中でもダリは、先生から怒られても縮こまるんじゃなく、はね除け方を知っていたので、いつもリーダーシップを取ってくれました」

「はい。インターハイもウインターカップも予選で負けました。あの年はいろいろあって、スタメンがケガしたり部活を辞めた選手がいたりで全然メンバーがいなくなっちゃったんですよ。それで自分は2番ポジションだったのに、いきなり4番ポジションをやることになり…。インターハイ予選は決勝で米村(白鷗大#7)のいた玉野光南に負けて、ウインターカップはそこにも行けずにベスト4で負けました。国体は選ばれましたけど、ミニ国体で負けちゃったので、最後の年は全国に出ていないですね」
B:梶原選手はキャプテンだったそうですが。
「はい。あまりやりたくなかったんですけどね。高2でケガしていたときに、いろいろ外から見て学生コーチのようなポジションだったので、その頃から『来年のキャプテンは梶原だな』と言われていたんです。乗り気ではなかったので渋って他のやつをキャプテンにさせようと画策したんですけど、やっぱり監督から指名されて自分になりました」
B:練習が厳しかったと言いますが、どのようにリフレッシュしていたのでしょうか?
「リフレッシュというか、練習がキツくても監督に怒られても、自分はあまり気にしていなかったです。怒られても、ふてくされるとかは絶対なかったですね。笑顔で『ハイ!ハイ!』って元気よく答えるんです(笑)。あとは、チームメイトと練習後とかにくだらないことで爆笑して、それが良いリフレッシュになっていたんだと思います。練習前も、ストレッチしながらよく『なぁ、もし今から10分後に体育館が吹っ飛んで練習なくなったらどうする!?』とか、『もし、100円払って練習オフって言われたらどうする!?』とか、周りのやつにどうでも良い質問をして絡んでいました。そうしたら関西のやつが多かったので最初は相手をしてくれたんですけど、だんだん僕が『もし…』って言うと『“もし”はもうええって!』ってシャットダウンされるようになりました(笑)。そういう感じで毎日を乗り切っていましたね」
B:ノリをわきまえていそうな関西の人たちにも呆れられるとは(笑)。梶原選手は、友達もすぐにできそうですね。
「すぐ友達になりますね。人見知りは全然しないです。たまに調子に乗りすぎますけど。1年生のとき、いろんな学校が集まる交歓大会みたいなものがあったんですけど、そこでマンタス(13年度白鴎大卒)がいたので、いきなり初対面で『お、メントス!』って言ったら普通に切れられました(笑)。入学したら3年生にマンタスがいて、『お前のこと覚えてるからな』って言われましたね。今や、めちゃくちゃ仲良い先輩ですけど(笑)」
1部に昇格して友達と再会

「自分、高校生のときは結構輝いていて、練習試合で40点とか50点取ったときもあったんですよ。そうしたら遠征先で白鴎大の監督がそれを見ていたらしくて。足も調子が良くて大暴れしていた試合をたまたま見て、声をかけてくれた感じです。あとは一応、僕の3つ上に岡山学芸館のアビブ(12年度白鴎大卒・現トヨタ合成)がいたので、チェックはしてくれていたみたいです」
B:アビブ選手とは、岡山学芸館では入れ違いですよね。
「はい。でも中学3年生のときに寮を見に行ったら、アビブがいて、部屋で映画『アイス・エイジ』を見ていたんです。それも当時、絡んだ覚えがありますね」
B:中学3年生で(笑)。
「はい。怖いもの知らずでしたね。そうしたら、大学に入ってアビブに再会しました」
B:梶原選手に怖いものはないんですか?(笑)
「うーん…あ、父親ですかね(笑)。怒ると怖いので」
B:大学に入って、最初は2部でしたね。入学していかがでしたか?
「いや〜高校が終わったと思ったら、またもや、ものすごく厳しい練習で(笑)。休みの日は朝6時くらいから4部練のときもあったし、リーグ戦中の平日でも、終わらなくてずっと練習していました。練習量じゃ、どこの大学にも負けなかったんじゃないかなと。ちょっとでもボールをファンブルすると止められて、コート10往復ダッシュとか。とにかく厳しく鍛えられましたね」
B:先輩などにもよく練習の大変さは聞きました。時間が決まっているというよりは、目指すところまでやれないと終わらないという…。ただ、やはり2部のチームが1部を目指そうとするにはまだまだ足りないんだ、という話もコーチから聞いたことがあります。なかなか大変ですね。
「はい。それによく怒られました。1年生の途中でBチームに落とされたんですが、自分も最初はあまりやる気がなくて、Bチームでも真面目にやっていなかったんです。でも2か月くらいしてAチームにまた上げてもらって、先輩たちもすごく頑張っていたので、自分も頑張ろうとなりました」
B:白鴎大学は女子も1部の強豪チームですが、同じ体育館で練習しているんですか?
「はい。女子は隣のコートで18時半くらいから練習が始まるんですけど、みんな真面目なので17時くらいから体育館に来てシューティングしたりストレッチしたり、体を作って、それで18時半から2時間くらいきちっと集中した練習をして終わるんです。でも女子の練習が終わる頃、男子は17時から練習スタートしたにも関わらず、まだボールを触っていない日も(笑)。ひたすらディフェンス練習が多かったですね。その甲斐あって1部に上がれたのは本当に良かったです」
B:下級生の頃は廣瀬コーチ(現青山学院大)がアシスタントで入っていましたよね。
「はい。廣瀬さんの存在は大きかったと思います。ゾーンディフェンスとかは結構廣瀬さん主導で取り入れたものでしたし。当時の監督だった齋藤さんとの間に立って、いろいろ廣瀬さんがやってくれました」

「1部になって、友達はますます増えました。もともと高校時代から知っていた人たちとも再会しましたし。自分、1年生の頃は1部の試合を見たことがなかったんですよ。なかなか見る機会もないし。実際1部に上がってみたら、『お前、ここにいたの!?』って選手がすごいたくさんいて(笑)。なつかしかったです。誰かに『お前、バスケやってたんだ!』って言ったら、『お前が一番そうだろ』と言われて、確かになと思いましたね(笑)」
B:2部と1部とでレベルの違いは感じましたか?
「やっぱり1部は違うなと思いましたね。個々の能力が別次元だなって。礼生とか、ホント『誰?』って感じでうまくなっているので驚きました。その頃は、自分がこのコートに立つというイメージが湧かなくて、普通に『ずっと応援席でヤジを飛ばすキャラだろうなぁ』と思っていました」
B:今思えば、あの元気な応援団の中に梶原選手がいたのですね。
「そうですね。ヤジっているのはほぼ自分だと思います(笑)。白鴎って、練習中からすごく声を出して盛り上げてやっていたんですよ。そうしないと練習が終わらなかったので。だから練習中は、ノーマークのレイアップシュートにも『フォー!!』とか言って、頭おかしいんじゃないかくらいみんな大騒ぎでした。そういう明るさが、応援にも出ていたのかもしれません」
B:あの年は、インカレでもベスト8に入ってオールジャパンにも出られたんですよね。白濱選手(13年度卒・現アイシン三河)が以前にこのインタビューで、みんなで年越ししたのが良い思い出だと言っていました。
「あー、ありましたね! 良い思い出です。12時回る前に、みんなでごはん食べて。自分はその頃いろいろあって、プレーできていませんでした。それでオールジャパンのメンバーには入れないだろうと思っていたら、なぜか入ってて…。謎でしたね。たぶん、監督はなんだかんだ俺のこと好きなんだろうなぁ〜と思っていました(笑)」
1部残留と就職活動スタート

「3年生のときは、誰よりも声を出して頑張るようになりました。泥臭いところをやっていたら、ようやく試合にも少しずつ絡めるようになって。それでトーナメントも7番手、8番手くらいで出られるかなってときに、大会3日前に捻挫したんです(苦笑)」
B:そうだったんですか。確かに春は見た記憶がありません。いよいよ、という時期につらいですね。
「はい。それで『こんな大事な時期にケガするなんて』と怒られて、また練習に参加できない日々が続き…。それでリーグ戦からやっと、少しずつ試合に出られるようになりました。まぁ、試合にはなかなか勝てなかったですけどね。『やっぱり無力だわ、俺ら』と思っていました。なんでこんなに練習してるのに結果が出ないのかなって。でもまぁ、1部2年目だし仕方ないかなとも思いましたね」
B:リーグ戦はなかなか勝てませんでしたが、入替え戦で残れたのは大きかったですね。
「あれは本当に奇跡ですよね…。自分たちでもびっくりしました。延長戦もありましたし。最後の最後で、今までキツい練習してきた意地が出たんじゃないですかね。最後にようやく苦労が実った感じがしました。それに、最後は4年生の力が大きかったですよね。リーグ戦で4勝しかできなくてだいぶ負け越していたので、あのときの喜びは本当に大きかったです。でも自分は、入替え戦が終わったそこからすぐ消えて就職活動スタートでした。喜びに浸る間もなく(笑)」
B:そうだったんですね。4年生になって、キャプテンになりましたね。
「はい。それも高校時代と一緒です。最初は『(米村)誠志郎、お前しかいない!』とか言ってアイツにやらせようとしたんですけど(笑)、監督から指名されて、やりますと。まぁ薄々は感じていましたけど」
B:就職活動との両立は大変だったのでは?そのせいで夏はあまり練習できていないと聞きました。
「そうですね。でも最初から大手しか受けないと決めていて(笑)、20社くらいに絞って受けたので。そもそも白鴎大学なんて無名の大学で、受けられないところも結構あったんです。それでエントリーシートを出した20社くらいのうち、12社からは内定とか、最後まで行くことができました」
B:すごいですね。入社する会社も、3万分の25という倍率だとか。
「たまたまですけどね(笑)。白鴎大から入社する人材は初めてだと言われました」
B:梶原選手の名前を検索すると、就職活動の動画が出てきました。
「あ、あれは偶然、そういう会社の方に声をかけていただいて。僕、企業説明会とかに行ったときに、自分の顔写真や経歴、自己PRが書かれた名刺を渡していたんですよ。それをたまたま見た人が勧めてくれて、参加することになったんです。実際に行ってみたら、周りはみんな早稲田とか慶應とかで、自分だけ『白鴎大、ドコ?』って感じでした(笑)。でも思いのほか好評でしたね」
B:動画のコメント欄に、梶原選手を絶賛するコメントがたくさんありました。
「そうなんですよ、ありがたいことに…。あの企画、普通は『こんなやつが社会を担っていくのか』みたいにバッシングされるのが普通で、自分も最初は『こんな学歴で絶対無理』とか『社会のクズだ』みたいなコメントが多かったんですけど、なぜかだんだん『こいつは営業できるぞ』みたいな好評価が増えていって。それはありがたかったです。たまたまですけど」
B:就職活動が終わったのはいつですか?
「リーグ戦前の8月くらいですね。決めたのは」
B:リーグ戦中には、大雨被害を受けて、練習もまともにできない時期がありましたね。
「あれもすごく大変でしたが、今思えばチームが変わるキッカケにはなりましたね。あれを経験して、みんな“カラ元気”じゃないですけど、少しずつ無理にでも盛り上げて戦っていこうという開き直りが出てきたので。そうしたら徐々にチームも一つになってきて。まぁ、それでも勝てないんですけどね。あの時期に東海と戦ったとき、最初少しだけ競ることができて、試合中に誠志郎と『あれ、俺らもしかして強いんじゃね!?』って言っていたんですよ(笑)。でもそう言った途端、向こうも本気出してきたのか一気に離されて。『やっぱ無理だったかー』『練習してないんだから仕方ないな!』みたいな感じでしたね」

「そうですね。1回目の対戦ではマッチアップしたんですけど、たぶん、あいつもよく知る相手でやりにくいんだと思います。最初の方はめっちゃ調子悪かったので。2回目のときは、自分は3年生の13番(中山)にマッチアップしてボッコボコにやられました(苦笑)」
B:あとリーグ戦の試合と言えば、慶應義塾大のホームゲームで、慶應に1点差で勝ったときも好調でしたよね。試合開始早々、いきなり3Pシュートを2本決めて。
「そうそう、ありましたね。完全アウェイの状況だったので、テンション上がっちゃって(笑)。しかも慶應の学生がたくさん応援に来ていて、『うわ、絶対就活のときに会ったやついるな!』と思っていました。チアもいるし、なんか調子が良かったです」
B:逆にモチベーションになるパターンですね(笑)。チームとしても、尻上がりに調子を上げていきましたよね。インカレはあんまりでしたが…(東海大九州に初戦敗退)。
「そうですね、インカレは良くなかったですね。でもまぁ、1部に残ることが最大の仕事だと思っていたので。1部で3年目って、一番踏ん張りどころじゃないですか。ここで持ちこたえられれば、きっと4年、5年と保ってくれるはずだと思って。キャプテンとしても1部残留が使命だと思っていたので、インカレはダメでしたけど、まぁ良いシーズンでした」
B:梶原選手は本格的にバスケットをやるのは大学までとなりますね。振り返れば、壮絶なバスケ人生でしたね。
「そうですね(笑)。でも、自分ではうまくいった方かなと思います。実力もない中、よくここまでバスケットやらせてもらえたなぁって。大舞台にも立てたし、本当に良かったです」
コミュニケーションの基本は「挨拶」

「はい。何事もポジティブです。そのとき辛くても、次の日にはリセットされて忘れています。落ち込むことはないですね。唯一落ち込むのは、他人を傷つけちゃったときくらいかな。自分で言うのもアレですけど、義理と人情には篤いタイプだと思っているので(笑)。調子に乗って誰かを傷つけたときは、『あーやっちゃったなー』って落ち込みます。それ以外はめちゃくちゃプラス思考です」
B:コミュニケーションスキルの高い梶原選手ですが、人と仲良くなるコツなどありますか?
「まず、初対面の人とのつながり方があるんです。例えば試合会場で礼生に会って、立ち話をするとする。そのとき礼生の横に、僕の知らない初対面の人がいれば、なんとなく“いるなー”っていうのは分かるじゃないですか。向こうも僕と礼生の会話を聞いていたりして。で、そのときは無理に直接話し掛けないんですけど、2回目に会ったときにその人に挨拶するんです。この2回目で挨拶するかどうかが大事。ここでスルーしちゃうと、たとえ3回目に目が合ったとしても、“まぁ、いっか”と流されてしまいます。そのまま4回目、5回目と全く目も合わなくなって、仲良くなるタイミングを逃してしまう。だから2回目に声をかけて、3回目も声をかける。挨拶はすごく大事で、ファーストコンタクトで手を上げて『ウィッス』って声をかけるだけでも、全然違いますね」
B:なるほど。実戦してみるといいかも。恐い先輩からも可愛がられるコツは?
「でもそれも、やっぱり挨拶が大事だと思いますよ。元気良く『あ、おはようございます!』って。何回もそれを繰り返せば、風のウワサで先輩が『梶原って礼儀正しいよな』って言っているのを聞くんです。そうしたらもうこっちのモノで(笑)、絡みに行きますね。礼儀正しいって印象を持ってもらえば、多少ハメを外してもあまり怒られません(笑)」

「挨拶は基本ですし、キッカケになりますよね。自分から挨拶に行けば、必ず会話は自然と生まれてくるので。で、自分が次に意識しているのが、“会話を続けること”です。なんでもいいから、例えば共通の友達をいじったり、会話を続ける。そうしていけば、友達はどんどん増えます」
B:そういう誰とでも仲良くなれる性格は、どこで身に付けられたのでしょうか?
「うーん…でも思えば、幼稚園の頃から鍛えられていましたね。幼稚園の頃から父に『ムービー撮るから一発芸しろ』とか言われるのはしょっちゅうでした。『行け!変顔100連発!』って急に振られたり。そういうことのおかげで反射神経は鍛えられましたね。父のことは、一番の恩師と思っています(笑)。2つ上に姉が一人いるんですけど、姉も強烈ですね。勝手に母の携帯からLINEですごい物騒なメッセージを送ってきたり…。家族はみんなキャラが濃いです」
B:バスケット以外の趣味はありますか?
「社会人になるにあたっていろいろ勉強しなきゃいけないし、本は読まなきゃと思っていて。大学3年や4年のときは、カフェでマーケティングとか自己啓発の本とかを読んでいました。頭は良くないんですけど、本を読んでインプットして、えらそうに人に話すのは得意です(笑)」
B:得意そうです(笑)。福岡の自慢はありますか?
「福岡の自慢…なんですかね。ガチなところだと、スポーツは強いと思います。バスケットでも結構福岡出身の選手が多いし。あとは、ごはんが美味しいです。ラーメンは当たり前にうまいし、あとは焼肉の『びっくり亭』というのがオススメです。にんにくとキャベツを焼いたやつで、にんにく臭はすごいですけどめちゃくちゃうまいです。地元に帰ったら必ず食べますね」

「じゃあ…福元ですかね。会話に出てきたので(笑)。小松(筑波大#16)か福元かで迷うんですけど…でもこまっちゃんはインカレで優勝したから回すのは癪だなぁ(笑)。でも、福元もアシスト王取ったからなぁ…。まぁ、ふくもっちゃんにしましょう!」
B:このリレーインタビュー「BOJライン」も5年ほど続いてきましたが、慶應義塾大の選手は初めてです。
「あ、本当ですか。ということは自分、ナイスアシストですね。真のアシスト王は僕だな(笑)」
B:(笑)。では次は、慶應義塾大の福元直人選手にお話を伺います。梶原選手、どうもありがとうございました。
◆#4梶原翔太(かじわら しょうた)
185cm/
筑紫野中→岡山学芸館高→白鴎大
・2010 ウインターカップベスト8(高2)
・2013 インカレベスト8
・2015 トーナメント9位
・2015 リーグ戦7位
(2015.12.13インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています
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