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2016.03.29 (Tue)
【SPECIAL】BOJラインvol.33〜田代直希選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.33〜専修大学・田代直希選手〜
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第32回の国士館大・原修太選手からバトンを渡されたのは、専修大・田代直希選手です。
勝負強いシュートと駆け引きに長けたディフェンス力で、専修大を攻守ともに引っ張ってきた田代選手。小・中・高と全国大会に一度も出場したことがなかった無名の選手でしたが、大学界でみるみる頭角を現し、上級生になってからは勝負強さの光るエースとして活躍してきました。今まで何度も「本気でバスケを辞めようとしていた」というところから、現在に至るまでにどんな歩みがあったのか。知られざる数々のエピソードをたっぷりと紹介します。
また、地元の千葉自慢や、幼なじみである原選手との意外な共通点など、バスケットボール以外の話も興味深いお話が聞けました。33回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第33回は専修大学の田代選手です。よろしくお願いします。原選手からの紹介ですが、原選手とは小学生の頃からの付き合いだそうですね。第一印象は覚えていますか?
「今と変わってないですよ。『なんだ、このゴリラみたいなやつ』って感じで(笑)。あいつのいたミニバスは強かったので、強いイメージはありましたね」
B:(笑)。仲良くなったのはいつ頃ですか?
「ずっと知り合いで、会えば話はしていたんですけど、一緒に遊んだりするようになったのは高校の終わりとか大学に入ってからですね」
B:田代選手から見て、原選手はどんな人ですか?
「面白い……のかな?まぁ……面白いと思います」
B:言い切れない(笑)。原選手によると、田代選手にすぐ「オチがない」と言われてしまうとか。
「いや、違うんですよ。原の話を聞いていると、突然いきなり話が終わっちゃう。『え、終わり!?』ってなるんです。だから僕は、純粋な疑問として『今の話のオチは?』と聞いているだけ。それなのに、僕がそう言うとふてくされるんです(笑)」
B:なるほど(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校4年生です。2つ上の兄がやっていたので、そのままサクッと。高学年からしか入れないチームだったので、4年生になって入りました」
B:低学年のときはやっていなかったんですか。
「やっていないです。幼稚園ぐらいから水泳をやっていました。あとは遊びでサッカーをやったり野球をやったり、いろんなことをやっていました」
B:ミニバスはどんなチームだったんですか?
「自分が4年生や5年生の頃までは、ただ体育館に来て遊ぶだけ、というチームでした。監督の仕事は体育館を開けて、練習の最後に体育館のカギを閉めることくらい。めちゃくちゃ自由なチームでしたね。でも小学校6年生のときに、隣の小学校のチームと合併したんです。そこの監督が超厳しくて、いきなり6年生から真面目にバスケを練習するようになりました。あのときは、今までのバスケ人生で一番きつかったかもしれない1年間でしたね」
B:突然環境が変わったのは大変でしたね。
「毎日、辞めたいなと思っていました。合併したことで練習は隣の小学校に行くようになったんですけど、そこに行くまでの道で『行きたくないな〜』と。ちなみに1つ下ですけど、東海大の伊藤達哉(#35)は同じ小学校で、東洋大の山本大貴(#88)は隣の小学校で合併してから同じチームになりました」
B:そうだったんですか。当時、最高成績はどれくらいでしたか?
「原のいる『高根台』というチームに負けて、千葉県で2位です。そのときは『村上イーグレッツ』ってチームが強かったんですけど、千葉県って2つのブロックに分けるので、村上とは違うブロックだったんです。それで決勝まで行けたんですが、原と対戦して負けました」
B:村上イーグレッツと言えば、当時筑波大の小松選手たちがいて、全国ミニバス大会でも優勝したんですよね。対戦したことはありますか?
「あります。そのときは負けてベスト8くらいだったと思います。でも村上とは相性が良くて、負けてもだいたい1桁とか10点差くらいなんです。それで、原のいた高根台と村上が対戦すると、30点差くらい開いて村上が勝つ。だからパッと見、自分たちは高根台なら勝てるかなと思ったんですけど、対戦すると勝てないんですよね。相性が悪かったです」
B:ほかに当時対戦して印象に残っている選手はいますか?
「栃木の佐野ミニバスは強かったですね。法政の佐藤翔耶(#67)とかいて。あと、田渡凌(現ドミニカン大)がいる弥生第二も覚えています。やばかったです」
B:田代選手は、ミニバス時代はどんなプレースタイルだったんですか?
「小学校4年生や5年生のときは、周りに比べて身長が高かったのでゴール下でプレーするセンターみたいな感じだったんですが、6年生になってチームが合併してからは『ドリブルを練習しなさい』と言われて、ガードもフォワードも、全部やらされていました。もしかするとそのときに、自分の今のプレースタイルも土台ができたのかもしれないです。(伊藤)達哉はずっとガードで固定されていたんですけど、自分はなぜか何でもやるように言われていました」
B:そうだったんですね。ちなみに、その伊藤達哉選手は小学生の頃どんな選手だったんですか?
「5年生のときまではめちゃくちゃ自由なバスケだったので、その中では普通にうまいなって感じだったんですけど、チームが合併してから、『あれ、達哉ってめちゃくちゃうまいじゃん!』って気付いて(笑)。神様みたいでした。達哉のおかげでチームも強かった感じですね」
「体育のバスケ」で進路変更を決意
B:そこから地元の中学校に進んだんですよね。
「はい。中学ではあまりバスケはやる気なくて…。6年生でお腹いっぱいでしたから。部活の体験入部みたいなやつでも、陸上部やテニス部に行っていたんです。でも最終的には、友達から『バスケやろうよ』ってかなり誘われて、まぁいいかと思ってバスケ部に入りました」
B:あまり続ける気はなかったんですね。中学はどんなチームだったんですか?
「ザ・弱小チームですね。普通の、弱いチームでした」
B:原選手から聞きましたが、原選手も田代選手も、市選抜には選ばれなかったそうですね。
「選ばれていないですね。一応セレクションみたいなのは呼ばれて行ったんですけど、普通に落ちました(笑)」
B:それで、ジュニアオールスターにも選ばれず。
「そうですね。ジュニアオールスターに関しては、セレクションすら呼ばれてないですから(笑)。自分、県大会も出たことがないので当然ですけど。いつもみんなで『県大会目指して頑張ろう!』と言っていて、だいたい市のベスト8くらいで負けるチームでした。スタメンのうち2人は中学からバスケを始めた人たちでしたし、強豪とかでは全くなく、普通の弱い中学校でしたね」
B:そこから、どうして東海大浦安高校に進んだのですか?
「夏になる前に引退して、自分では『もう別にバスケはいいや』という感じだったので、高校は一番近くの普通の高校を受験しようと思ったんです。それで塾に通い出して、夏休みはほぼ毎日、塾に缶詰状態で勉強していました。それで、そこの高校にもそこそこ受かるんじゃないかって成績になってきた11月頃に、『やっぱりバスケやりたいな』と思ったんです」
B:そうだったんですか。受験間近の11月になぜですか?
「引退してから全くバスケをやっていなかったんですけど、その頃体育でバスケをやったら、めっちゃ楽しくて…。『あ、これだ』と思って、やっぱり高校でもバスケ続けようかなと思ったんです」
B:体育のバスケが人生を変えたんですね!
「はい。それで、バスケが結構強いところでどこがいいかなと思ったときに、大学の附属校ならもうこんな受験勉強しなくてすむぞと(笑)。もともと東海大浦安は、受験校を決めるときにバスケ関係なく一度学校見学に行ったことがあったんです。それで『母さんごめん。私立に行かせて!』と頼んで、東海大浦安に決めました。でも、高校の監督に連絡したら、『もう遅いよ』と言われて…」
B:そりゃそうですよね(笑)。
「スポーツ推薦ももう全員決まっていますからね。でも『来たいなら、一度練習に来なさい』と言ってもらえて、練習に行くことになったんです。でもそこで僕、練習に遅刻しちゃったんですよ(苦笑)。そのときはもう『終わったな…』と思いましたね。とりあえず練習は参加したんですけど、帰ってきて中学の顧問には『ダメでした。受験勉強します』と報告しました。でも、そのあとでまた高校から『もう一回練習に来てください』と連絡が来たんです」
B:今度は遅刻することなく…。
「はい。ちゃんと最初から練習に参加できました。そうしたら、同い年のスポーツ推薦組の選手たちがみんな来ていて。夏くらいに推薦が決まった人たちで、すでにみんな友達同士みたいだったんですけど、自分もその中にしれっと混ざっていました。しゃべる相手もいないし、みんなからしたら『誰コイツ?』って感じだったと思いますけど(笑)。でも、そのときなぜか『これが4月から入る1年生たちだ!』って紹介されて。自分は『え!? おれ、決まったの!?』って感じでしたが、気付いたらスポーツ推薦で入学できることになっていました」
B:すごい経緯ですね。それで高校でもバスケを続けることになったと。
「はい。冗談ではなく、中学生のときは本気でバスケ辞めるつもりでした。中学では県大会にも出てないし、上のレベルを全然知らないじゃないですか。僕、地元の隣の駅に市立船橋があって、逆側の隣の駅に幕張総合高校があるんですけど、そういう高校にどれだけすごい選手たちがいるのか、恐ろしくて…。全然そういう強豪校に行きたいという気持ちはありませんでした。それが結局、今でもバスケ続けているので、不思議ですよね。まぁ自分、なんだかんだバスケが好きなのかもしれないです」
千葉では徹底マークに苦しむ
B:東海大浦安は、入学してみてどうでしたか?
「1年生のときは辛かったですね。雑用も多かったし、正直、1年目は本当に後悔しかなかったです。受験しとけば良かったなと。でも、自分的には練習も何もかもキツかったんですけど、大学に入ってから周りの話を聞くと、ほかの高校の方がキツそうだなと思いました(笑)。浦安は、結構良い雰囲気で練習できていると思います。浦安の石井先生はあまり細かいことを言わない先生だったので、自分たちで声を出して、楽しく盛り上げてワイワイやっていました」
B:試合に絡むようになったのはいつ頃ですか?
「1年生の6月くらいですね。インターハイ予選で3年生が引退して、新チームになってからです。1個上の学年が人数少なかったというのもあるし、フォワードもいなかったので、運が回ってきました」
B:プレースタイルはどんな感じでしたか?
「シュートしか狙っていなかったです。とりあえず点を取れ、と言われていて、でもドライブはそんなにできなかったので、コーナーで待っていてパスもらってシュート、みたいな。自分で打開して突破するとか、なかったです」
B:関東大会には出場していますよね。
「まぁ、Bブロックですけどね(※)。でも高校3年生のときは、土浦日大もBブロックにいて、初戦で当たって勝ったんです。で、そのまま決勝まで行けるかと思ったんですけど、準決勝で秦野に負けて3位でした。前日に捻挫して、捻挫したまま出たんですけど全然ダメでした」
(※千葉県は県予選上位2チームがAブロック、3〜5位がBブロック)
B:当時のBOXを調べると、その土浦日大戦は34点、準々決勝で45点、準決勝で36点と、かなり点を取っていたようですね。
「いやでも僕、千葉県のチーム以外と対戦するときは結構点も取れたんですけど、千葉では全然ダメだったんです。千葉のチームと対戦すると、もうバレているので絶対フェイスガードされて、ボールすら触れない。しかもドライブとか無理なので、完全に抑えられちゃうんです。でも県外のチームなら、自分のこととか誰も知らないじゃないですか。だから関東大会も、『あれ?いつもより攻めやすい!』って感じで攻めることができました。千葉だといつも20得点いかないくらいでしたね」
ミニ国体での未知の経験
B:高校時代に対戦して覚えている選手はいますか?
「千葉だと、日大の古牧(#7)とか。他県では、練習試合で藤枝明誠とやって大垣さん(14年度拓殖大卒・現富士通)とか、あと明成ともやって立教の藤井(#4)とかも対戦しましたね。昔、浦安ってインターハイ準優勝しているので、そのつながりでたぶん監督もいろんな学校に顔が利いたんだと思います。あ、あと前橋育英とも対戦して、船生(現NBLアイシン)や日大の栗原がいました。前橋育英は強すぎて全く止められなかったです」
B:船生選手や栗原選手がいた群馬には、ミニ国体(国体関東予選)でも決勝で負けていますね。
「そうですね。まぁ、そもそも自分がなんで国体のメンバーに選ばれたのかよく分からないんですけど(笑)。千葉って、市船とか幕張総合、市立柏、八千代で、強化合宿とかを一緒にやるんですよ。だから国体もだいたいそこからメンバーが選ばれるんですけど、なぜか自分も選ばれて。周りはほぼ市船と幕張しかいない中、どうして僕が選ばれたのかよく分からなかったです。楽しかったですけどね。チームとしてはインターハイ予選で6月に引退していたので、その後にあったミニ国体が自分にとって高校最後の大会でした」
B:結果は準優勝でしたね。惜しくも国体本戦には出られず。
「はい。だから自分、大学1年生のインカレまでは全く全国大会とは無縁でした。それにミニ国体で自分たちが決勝まで行けたのも、トーナメントの山が結構ラッキーだったんです。自分たちは埼玉、茨城を倒してスーッと決勝まで行けちゃった感じで、神奈川や東京、東海大の橋本(#21)がいた栃木は逆の山。まぁ、そもそも自分はあまり試合には絡まなかったですけどね。よく覚えているのは、市船の近藤先生に『お前の仕事はなんだ?』と聞かれて、『点を取ることです!』と答えたら、『違う!リバウンドだ!』と怒られて。普段のチームとはまた違って、国体チームではリバウンド係を意識していました」
B:国体前の、最後のインターハイ予選はどうだったんですか?
「千葉でベスト4に入って、4チームで総当たりの決勝リーグ戦になるんです。そこで全敗しました(笑)」
B:それは残念でしたね。
「決勝リーグは2日間で3試合やるんですけど、1試合目で市船と対戦してボコボコにされて、『まだ望みはある!』って感じで次に幕張総合と対戦したんですけど、またボコボコにされて(苦笑)。その時点で、インターハイへの道がなくなりました。最後に柏日体と対戦したんですけど、3点差(91−94)で負けました。あと本当は、ベスト4を懸けて原のいる習志野高校と対戦する予定だったんですけど、向こうがその前に(拓大紅陵に)負けちゃって対戦できなかったんですよね。原とはたぶん、高校時代は1回練習試合をやったくらいです。一度も公式戦で対戦しませんでした」
B:東海大浦安の石井コーチには、どんなことを学びましたか?
「石井先生からは、ずっと『継続は力なり』と言われていました。そこはめちゃくちゃ厳しく言われていたし、継続をやめてちょっとダメになるときに怒られる。そこは勉強になりました」
B:高校時代、バスケ以外で思い出に残っていることはありますか?
「浦安はスポーツクラスがなくて、一般生の中にスポーツ推薦も混じって同じクラスになるんです。それでその一般生が、頭良いはずなのに、かなりノリが良くて一緒にバカ騒ぎできる友達でした。バスケ部というくくりより、一般生もみんな仲が良かったのが良い思い出ですね。付属高校なので高3の5月くらいにみんな大学も決まって、受験のピリピリ感もなく、すごくのびのびしていました」
B:バスケ部以外も部活動は盛んなのですか?
「武道は強いですね。柔道では、僕らの1つ下や2つ下は全国優勝していたと思います。世界でタイトルを獲った人も2人いました。あと陸上も、僕と仲の良い友達が走り幅跳びでインターハイ優勝していました。全体的にスポーツは盛んでしたね」
技術を磨けた先輩とのマッチアップ
B:では、そこからどうして専修大学に?
「2つ上に、同じ千葉出身で藤岡さん(13年度卒・パスラボ山形)という人がいました。その人からいきなり、僕が高校2年生のときに『大学決まった?』って連絡が来たんですよ。でも高校2年で決まってるわけないじゃないですか。で、『決めてないです』って返事したら、『お前、そろそろ決めないとヤバくない?』って連絡が来て。だから僕、『バスケのトップクラスの人たちって、高2のこのくらいの時期でもう決まってるのか…』ってビックリしたんですよ。そのときに藤岡さんから『決まってないなら専修来いよ』と言われたので、『考えておきます』とは言ってて。そうしたら後日、藤岡さんから『お前、高3じゃねーの!?』って(笑)。僕を高3だと勘違いして、誘っていたんですよね。まぁそれで、高校3年生になったらちゃんと専修から声が掛かって、行くことになりました」
B:藤岡選手の勘違いからつながったんですね(笑)。
「そうですね。それに高校3年生のとき、中原さん(専修大監督)が高校の部活にいきなり現れて、『一緒にバスケしようよ』と言ってくれて。僕は『全国も出たことないし、1部はちょっと無理だと思うんですよね』と言ったんですけど、『大丈夫、大丈夫!』って(笑)。それで口説かれて、専修に決めました。中原さんは、県大会で僕のことを見て知ったらしいです。でも中原さん、大学で原を知って、『千葉のインターハイ予選に原君、いた? 見てたら絶対誘ってたのに!』って悔しがってたんですよ。中原さんはベスト8のチームを見たらしいんですけど、原はベスト8にも入らなかったので、見つけられなかったみたいです。だから『千葉はベスト16まで見なきゃダメなのか』って言ってましたね(笑)。原って、国士舘も普通に自分で決めて指定校で入ってるじゃないですか。だからもし専修から声が掛かっていたら、同じチームでやっていたかもしれないですね。中原さんは『原くんと田代をウイングに置いたら面白かったのになぁ〜』と言っていました」
B:それは面白そうな布陣でしたね。入学して、1年目はいかがでしたか?
「1年目は試合に絡めなかったですね。フォワードに館山さん(12年度卒・現bj秋田)、宇都さん(13年度卒・現NBLトヨタ東京)がいて、これは試合出られないなと。でも、そういうすごい選手たちと練習中にマッチアップすることで、かなり揉まれたと思います。たまに試合に出してもらってほかの大学の選手と対戦すると、そっちの方が楽に感じるんです。本当に先輩たちに恵まれて、フォワードとしてトップクラスの環境にいたと思いますね。1年生のときは、館山さんと宇都さんにいつもオフェンスでもディフェンスでもボコボコにされて、『大学バスケ、終わったわ…』と思っていました(笑)。ずっと『調子に乗って1部に来るんじゃなかった…』と後悔していました」
B:でも田代選手もワンポイントで試合には出ていましたよね。あの年の専修は、ベンチメンバーも積極的に起用していた印象がありますが。
「そうなんですよ。セカンドチームを作って、スタメンを下げてセカンドチームを出す時間帯も結構ありました。でもスタメンとの力の差がありすぎて、いつもスタメンがリードしていた点差を、僕らセカンドチームが出て追い付かれてスタメンが怒る(笑)。僕たち、自分たちでセカンドチームのことを『噛ませ犬隊』と名付けていましたから(笑)。練習中も、スタメンと噛ませ犬隊で試合をすると絶対ボコボコにされましたね。でもたまに、試合でかませ犬隊が流れ良くつなげられることがあって、そのときはスタメンもかなり上機嫌なんです。僕は結構、噛ませ犬隊が面白くて好きでした」
B:“噛ませ犬隊”とはすごいネーミングですね(笑)。メンバーには誰がいましたか?
「僕、大澤さん、小野寺さん、藤岡さん、湊さん、藤田さん、廣島さん、松井さんとかで、ぐるぐる回す感じでした。その頃、自分は初めてのリーグ戦で背負うものもなかったし、スタメンが強かったのでなんとなく『どうせ勝つでしょ』みたいな気持ちだったんですよね。リーグ戦も結果的に3位でしたが、全然何も考えていなかった1年目のリーグでした。3位になっても全然うれしくなかったです。リーグの重みがよく分からなかったし、主力じゃなかったので、『あ、3位か』みたいな(笑)。先輩たちはめっちゃ喜んでいましたけど」
B:その前の年、下との入れ替え戦で苦労していましたからね。あの年は、練習の雰囲気がかなり良かったとみんな言っていましたね。ケンカ腰のような感じで。
「そうです、そうです。あの年、専修の練習はすごかったですね。ファウルしてでも、ユニフォーム引っ張ってでも止めてやる、みたいな。みんな練習中のユニフォームは結構ビリビリでした。口喧嘩もしょっちゅうありましたし。でもそういう闘争心があったから良かったのかなと思います。中原さんも、ケンカが始まっても見ているだけで、練習後に『よし、今日は素晴らしい練習ができた!』と言っていました」
B:高校の練習とのギャップがありそうですね。
「それはかなり。すぐケンカするので、『この人たち、練習中に何してんの?』って引くくらいすごかったです(笑)。でもそれくらい、みんな本気でやってたってことですよね。高校までならどっちかが先に折れていたと思うんですけど、専修では絶対どっちも折れない。みんなガンガン行くから、すさまじかったです。今はちょっと落ち着いてきちゃいましたけど、特に僕が1年生のときは怖いくらいケンカ腰の練習でしたね」
B:宇都選手も、そういう負けん気が人一倍強い選手だと思いますが、第一印象はどんな感じでしたか?
「宇都さんは最初っからいきなりああいう感じで、口も良いとは言えないし、正直最初はイメージは良くなかったです。でも宇都さんって長男なので、みんなの兄貴分というか、後輩に対して面倒見が良いんですよ。それで打ち解けてからは、大好きになりましたね。しょっちゅうご飯もおごってもらったし、一緒に遊んだし。プライベートでは本当の兄みたいでした」
B:宇都選手は一度打ち解けると、とても接するのが楽しい選手ですよね。話を戻しますが、大学1年生のときのインカレが生まれて初めての全国大会でしたね。
「そうです。でも関東のレベルが高かったので、あまり全国大会だからといって『すげー』とはならなかったです。それに、あまり試合は出てないですし。初戦の相手は確か地方のチームだったんですよね。広島大だったかな。それで、1Q目でポンと点差が開いたので、そこから噛ませ犬隊の登場でした(笑)。下の回戦の方は結構試合に出ることができましたね。勝ち上がるにつれ出られなくなりましたけど。最後の順位決定戦はすごい試合でしたね。筑波大との延長戦。僕は出場時間1分くらいでしたが…(笑)」
B:あれはすごい試合で、順位決定戦が代々木ではなく、國學院大で行われたのは本当にもったいなかったです。2年生になり、館山選手ら上級生がごっそり抜けてから、本格的にチームの主力になりました。
「2年生のときは、今思い返すと、宇都さんのレベルについていけなかったなと…。かなり足を引っ張っていました。宇都さんのお陰で勝てた試合ばかりです。自分は宇都さんにオフェンスを任せて、とにかくディフェンスを頑張ることと、オフェンスではコーナーで待ってシュート、みたいな感じでしたね。ディフェンスではなぜか自分が相手のエースにつくことが多かったので、それは結構大変でした。それで下との入れ替え戦に行きそうでしたけど、最後の試合で勝てば回避、負ければ入れ替え戦という展開で勝てたので、本当にホッとしました」
B:なんとなく『勝てるだろう』と思っていた1年生の頃と、負けが続いた2年生とでは、リーグ戦の捉え方も変わったのでは?
「うーん…でもあの年は、『宇都さんもケガしてるし、負けても仕方ない』みたいな言い訳を勝手に作っていました。先輩たちに恵まれて、自分はただ何も考えずにやっていただけでしたね」
B:ただリーグ戦では、宇都選手がケガでしばらく欠場し、その間に田代選手が引っ張っていた印象がありますが。
「宇都さんがケガして、中原さんにも『お前がやれ』と言われていて。でもまだ2年生で背負うものがなかったからか、結構好き勝手にやれていた印象ですね。ミスってもいいから、という感じでしたし、宇都さんも『どんどんやれ』と言ってくれていたので、とにかくがむしゃらに攻めるだけでした。それに自分だけでなく、宇都さんが抜けたことで全員『頑張らなきゃ』という感じで、チームがまとまれた部分もあったんです。(渡辺)竜之佑(#6)とかも1年生ながら頑張ってくれて、助かりましたね」
B:渡辺竜之佑選手のリバウンド力は、本当にすごいですよね。反応も早いし、人より多く飛べるというか。
「はい。それに竜之佑は、リバウンドだけじゃなくて、横の動きとかもすごいんですよ。ルーズボールへの反応が、絶対マネできない。誰も反応してないときにバッと飛び込めるんです。たまに練習中マッチアップして感じるのは、あいつってボールに対しての反応が全部100%なんです。リバウンドもルーズボールもだし、僕に飛んで来たパスにも、後ろからガッと100%の力で飛び込んでくる。普通の人なら無意識に『無理だ、取れない』と思うような感覚が、あいつにはなくて…だから取れるんだと思います。あと、何も考えていないと思うんですけど、リバウンドが落ちてくる場所も分かっているんですよね。説明できないですけど。野生の勘ですね(笑)」
B:渡辺選手に話を聞いたら、「シュートを打った人の後ろについていけば取れる」と言っていましたよ(笑)。それだけじゃないとは思うんですが。そういえば2年生のとき、田代選手はオールジャパンで活躍していましたよね。
「日立との試合ですね。たぶん高校時代と一緒で、自分のことを誰も知らないチームと対戦すると活躍できるんです(笑)。日立は宇都さんをマークして、自分のことはノーマークだったと思うので。誰も知らないところに行けば、そこそこ点も取れるかもと思いました」
「極限状態だった」入れ替え戦の劇的勝利
B:翌年、3年生のときを振り返っていかがでしたか?宇都選手が卒業して、本格的にエースを任されることになりましたが。
「宇都さんという柱がいなくなったのは大きかったですね。次の柱は藤田さんかなと思ったんですけど(笑)、まわりが『田代だ、田代だ』って言うので、そうか頑張らなきゃって…。それが、完全に空回りしたのが3年でした。宇都さんがいなくなって点を取れる人がいなくなったので、『自分が点とらなきゃ』って思ったんですけど、それがまず間違いで…。空回ってばかりでした。ただ途中からディフェンスを意識するようになって少し良くなって、リーグ戦の最後の方で少し勝てて、それで入れ替え戦につながりました」
B:入れ替え戦は、どちらが勝つか分からない試合でした。
「そうですね。やる前は、たぶんみんな大東が勝つと思っていたと思うんですけど、なんとか勝てて良かったです。自分たちは1年生のときに『3部に落ちる代』だと言われた代です。正直、普通に戦ったら実力差はあると思っていました。1戦目は大東がガチガチだったので勝てましたが、2戦目で40点差くらい付いたじゃないですか。『あ、これはリアルな実力差だな』と思いましたから。そのときは、『やばいな、これ終わったかもな』と思いました。でもセンターを下げて小さい布陣にするとか、いろいろな作戦がうまくいって、勝つことができました」
B:何より第3戦は、最後残り9秒で田代選手が3Pシュートを決めて、1点差の劇的な勝利でした。
「実は最後、全く覚えていないんですよ。あとから映像で見て、『え、こんな感じで打ったの?』って。確か反対側で相手がフリースローを打って、2本目が入ってエンドスローインになって自分がボールを運んでいるんですけど、そのボール運びを全然覚えていない。あの20秒くらいの間だけ、極限状態だったと思うんです。何も覚えていないです」
B:それはすごいですね。それくらい集中していたんでしょう。
「これ以上ないくらい集中していました。だから、『あのシュートは…』とか、かっこつけたこと言えないんです(笑)。本気で記憶にない。試合後、気付いたらロッカールームでみんなが泣いてて、監督も泣いてて、『あれ、みんなどうした?』って感じでしたから。自分一人だけケロッとしていました」
B:でもあのときの田代選手は、気遣いが見えました。インタビューしようとしたら、近くに大東文化大の選手たちがいたので、『ちょっと離れたところでやりましょう』と言っていましたね。
「そうでしたっけ。そういうところは冷静ですね(笑)」
B:それから4年生になって、最上級生としての1年間はいかがでしたか?
「3年生のときに入れ替え戦を経験して、本当につらすぎたので、絶対にもうあんな思いはしたくないなと。最初は、入れ替え戦が嫌だという気持ちだけでリーグ戦に入りました。でも終わってみれば、リーグ戦はすごく楽しかったです。4年間で一番楽しかったかもしれません。今までいっぱい負けてきて、でも今年は『戦える』って手応えがありましたから」
B:リーグ戦では1巡目で筑波大や拓殖大にも勝ちました。大物食いの専修、という感じでしたね。
「そうですね。でも拓大の試合は僕、ちょびっとしか出てないので、『あれ、俺が出ない方が強い…』と思いながら見ていましたけど(笑)。ああいう試合ができて、どことでも戦える自信はついたと思います。ただ、欲を言えば本当はもっと上位に食い込みたかったです。1巡目で結構勝てて『入れ替え戦に行くかも』という緊張感がなくなった途端、こんなにも弱くなるものかと…(笑)。本当は2巡目になってチームもまとまって、さらに良くなる予定だったんですけど、見事に全員気が抜けて、チームが固まらないままインカレに入ってしまいました。それに比べて筑波とかはリーグ戦よりインカレの方がしっかり固まっていたので、そこが専修とは違うなと思いましたね」
「シューティングをしたことがなかった」
B:でも田代選手もだいぶ4年生らしくチームをまとめていましたね。下級生に自由にやらせて、大事なところは自分で行く、という姿勢が見えました。
「それはちょっと意識していました。4年生になって、自分も少しだけ変わったと思います。今まで1年生から3年生のときは結構適当な部分もあって、いろんな人に怒られてきたんですけど、4年目はちゃんとしようと思って、気付いたらその“ちゃんと”が習慣になっていました。練習や試合で前より声を出すようになりましたし。今年、まじめにやるようになったら5キロくらい痩せましたよ(笑)。3年生までは練習の5分前に来て、練習が終わったら即帰るやつでしたから。正直、3年生まで自分、まともにシューティングしたことなかったんです」
B:それであんなに入るんですか(笑)。
「いや、シューティングだと自分、びっくりするくらい入らないんですよ! で、『入らねー』ってイライラしてきちゃうので、やらなかったんです。でも4年生になってから、練習後に20本くらい打ってから帰るようになりました」
B:それでも20本なんですね(笑)。
「まぁそうですね(笑)。でも自分の中で満足いかなかったら、50本くらい打ちますけど…。集中して20本打って、満足したら良し、と。あと、4年目はケガしないように、当たり前かもしれないですけどちゃんとアイシングやストレッチをしてから帰るようになりました。3年生のときにやった足首の捻挫も、かなり長引いていたので。まぁそういう風にケアをちゃんとするようになったら、膝をケガするという全然“持ってない”感じなんですけどね…(苦笑)」
B:4年生は、楽しさを味わいつつケガにも苦しんだ1年でしたね。
「そうですね。膝の前十字靭帯を完全断裂して、最初に行った病院では『学生のうちはもうプレーできない』と言われたんですけど、別の病院に行って、『なんとかプレーすることはできるよ』と言われて。そこからずっと病院に通ってリハビリでした」
B:膝はかなり痛そうで、そこまでして出なければいけないのか、という印象でした。
「前十字と一緒に膝の骨挫傷もやって、骨と骨がぶつかってひびが入っていたので、痛いのはそっちなんだと思います。でも、思いのほか早く治りました。最初はかなり腫れ上がって足が曲がらなくて、『リーグ戦は無理かな、インカレに向けて頑張ろう』と思っていたんですけど、予想以上に早く痛みが引いたので、やれるなと」
B:普通の人はあんなに早く復帰しないと思います。
「自分ではやれると思ったし、早く復帰したかったので、病院の先生にお願いしたら、ジャンプとランニングは許可してもらいました。スタッフには驚かれたんですけど、行けるなと思って復帰しました。本当はめちゃくちゃ痛かったですけど、顔には絶対出さないようにしていました」
B:確かに、激しい動きはあまりせずコートの行き来と、シュートを打つだけという感じでした。しかし、痛みに強いですね…。
「そうですね。痛みに関しては、めちゃくちゃ強いと思います(笑)。まぁ試合で100%は出せなかったですけどね。でもインカレも、すごく楽しかったです」
B:インカレの最後は、小学生の頃からのライバル、原選手との対戦でした。
「なんなんですかね、この縁。その前の試合、どっちもオーバータイムで負けて対戦することになるという(笑)。でもインカレ前に原とご飯を食べて、『お互い楽しもうぜ』と話していたんですけど、実際試合中もすごく楽しかったです。最後の相手が、国士舘で良かったと思いました」
B:国士舘は千葉出身の選手も割と多いですしね。
「はい。それに国士舘の応援団にも自分は友達が多くて、だから自分だけ全然ヤジられない(笑)。みんな『田代さーん!』って感じなんです。まぁ、自分はどこからもあまりヤジられたことがないですね。大東文化大の応援団長みたいな濱田ってやつが千葉出身の後輩なので、大東からもヤジられないですし(笑)」
B:なるほど(笑)。田代選手は、大学卒業後もバスケを続けるそうですね。
「はい。とりあえず今は膝を手術して、しっかり治さなきゃいけないですけど。スタートで出遅れる分、今までの3倍くらい頑張らなきゃダメだと思っています」
B:3倍だと、シューティングは60本ですね(笑)。
「確かに。シューティング、全然入らないんですけどね…。よく、シューターの人が100本インとかやっていますけど、自分がやろうとしても絶対終わらないですから(苦笑)。それくらい入らないです」
B:試合では入るのに、本当に不思議です。
「自分でもよく分からないですけどね。全然入らないから、リバウンドもあっちこっち行くじゃないですか。それが結構大変。でもこれからは、シューティングももっと頑張らなきゃいけないですね」
仲の良い人にほどツンデレ!?
B:さらに上のレベルになりますからね。頑張ってください。では、ここからはバスケ以外の話を伺います。自分の性格は?
「よく言われるのは、ツンデレです(笑)」
B:そうなんですか(笑)。
「仲の良い友達ほど、冷たいらしいです。でもなぜか、メンズからモテるんですよ。原とか俺のこと大好きですから」
B:それは取材していてもすごく感じます(笑)。ツンデレで、馴れ馴れしくないほど良い距離感なのかもしれないですね。では、地元・千葉の自慢はありますか?
「自慢…。あ、僕の高校が舞浜にあるので、帰り道に毎日ディズニーランドの花火が見られます。友達も結構年間パスポートを持っていましたね。確か、5回行くと元取れるらしいんです」
B:それは良いですね。
「あと、千葉の自慢…船橋市とか、ほど良く都会なのが良いですね」
B:原選手と全く同じ回答です(笑)。
「うわ(笑)。でもほんと、船橋って電車のアクセスも東京に出やすいし、かといって都会すぎないし、田舎ではないし。ちょうど良くて住みやすいと思います。あと船橋市の自慢は、結構バスケが盛んですね。ミニバスとかめっちゃ強いですし」
B:なるほど。では千葉関係なく、好きな食べ物と嫌いな食べ物は何ですか?
「トマトは大っ嫌いです。好きな食べ物は…チーズケーキ?」
B:すごい。原選手もチーズケーキでした(笑)。
「マジですか!? こわっ(笑)。チーズケーキの差し入れを前にもらったことがあって、すごく美味しかったので。小さいスフレ的な…。いや、それにしても原と一緒か…ショックですね…」
B:以心伝心ですね(笑)。これからは差し入れにチーズケーキが増えるといいですね。では、次にリレーインタビューを回す人を指名してください。
「白鴎大の梶原くんでお願いします」
B:主将の梶原選手ですか。彼はどんな人ですか?
「とにかくすごいですよ。おもしろすぎる。関東大学バスケ界の逸材です。天才。ポテンシャルが違います」
B:だいぶハードルを上げますね(笑)
「ほんとすごいんですよ。引き出しがすごい。『面白いことやって』って振ると、『えーっと』とか悩まずに一瞬で反応して何かやる。その反射神経がすごいです。話術もあって、ザ・営業マンという感じですね。就活でも、3万人受けて25人しか受からないような倍率のところに受かったらしいですし。声も良いし、背も高いし、顔もかっこいいし、面白いし、めちゃくちゃオシャレだし、絵を描かせてもうまいし。多彩です。だからうらやましいですよ。全部持ってるから。ただ、バスケだけは…(笑)。あいつ、ベンドラメと同じ中学校なんですけど、よく『なんで同じ環境で育ってこんな差がついたんだ?』って言っています。あいつの口癖は『ベンドラメにはバスケしか負けてない』ですから(笑)」
B:なるほど(笑)。おもしろいお話が聞けそうです。では次回は白鴎大学・梶原選手にお願いします。田代選手、ありがとうございました。
◆#24田代直希(たしろ なおき)
東海大浦安高→専修大
・2015 トーナメント11位
・2015 リーグ戦6位
・2015 インカレ7位
(2015.12.5インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています
vol.33〜専修大学・田代直希選手〜

勝負強いシュートと駆け引きに長けたディフェンス力で、専修大を攻守ともに引っ張ってきた田代選手。小・中・高と全国大会に一度も出場したことがなかった無名の選手でしたが、大学界でみるみる頭角を現し、上級生になってからは勝負強さの光るエースとして活躍してきました。今まで何度も「本気でバスケを辞めようとしていた」というところから、現在に至るまでにどんな歩みがあったのか。知られざる数々のエピソードをたっぷりと紹介します。
また、地元の千葉自慢や、幼なじみである原選手との意外な共通点など、バスケットボール以外の話も興味深いお話が聞けました。33回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
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自由なチームから強豪ミニへ
「今と変わってないですよ。『なんだ、このゴリラみたいなやつ』って感じで(笑)。あいつのいたミニバスは強かったので、強いイメージはありましたね」
B:(笑)。仲良くなったのはいつ頃ですか?
「ずっと知り合いで、会えば話はしていたんですけど、一緒に遊んだりするようになったのは高校の終わりとか大学に入ってからですね」
B:田代選手から見て、原選手はどんな人ですか?
「面白い……のかな?まぁ……面白いと思います」
B:言い切れない(笑)。原選手によると、田代選手にすぐ「オチがない」と言われてしまうとか。
「いや、違うんですよ。原の話を聞いていると、突然いきなり話が終わっちゃう。『え、終わり!?』ってなるんです。だから僕は、純粋な疑問として『今の話のオチは?』と聞いているだけ。それなのに、僕がそう言うとふてくされるんです(笑)」
B:なるほど(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校4年生です。2つ上の兄がやっていたので、そのままサクッと。高学年からしか入れないチームだったので、4年生になって入りました」
B:低学年のときはやっていなかったんですか。
「やっていないです。幼稚園ぐらいから水泳をやっていました。あとは遊びでサッカーをやったり野球をやったり、いろんなことをやっていました」
B:ミニバスはどんなチームだったんですか?
「自分が4年生や5年生の頃までは、ただ体育館に来て遊ぶだけ、というチームでした。監督の仕事は体育館を開けて、練習の最後に体育館のカギを閉めることくらい。めちゃくちゃ自由なチームでしたね。でも小学校6年生のときに、隣の小学校のチームと合併したんです。そこの監督が超厳しくて、いきなり6年生から真面目にバスケを練習するようになりました。あのときは、今までのバスケ人生で一番きつかったかもしれない1年間でしたね」
B:突然環境が変わったのは大変でしたね。
「毎日、辞めたいなと思っていました。合併したことで練習は隣の小学校に行くようになったんですけど、そこに行くまでの道で『行きたくないな〜』と。ちなみに1つ下ですけど、東海大の伊藤達哉(#35)は同じ小学校で、東洋大の山本大貴(#88)は隣の小学校で合併してから同じチームになりました」
B:そうだったんですか。当時、最高成績はどれくらいでしたか?
「原のいる『高根台』というチームに負けて、千葉県で2位です。そのときは『村上イーグレッツ』ってチームが強かったんですけど、千葉県って2つのブロックに分けるので、村上とは違うブロックだったんです。それで決勝まで行けたんですが、原と対戦して負けました」

「あります。そのときは負けてベスト8くらいだったと思います。でも村上とは相性が良くて、負けてもだいたい1桁とか10点差くらいなんです。それで、原のいた高根台と村上が対戦すると、30点差くらい開いて村上が勝つ。だからパッと見、自分たちは高根台なら勝てるかなと思ったんですけど、対戦すると勝てないんですよね。相性が悪かったです」
B:ほかに当時対戦して印象に残っている選手はいますか?
「栃木の佐野ミニバスは強かったですね。法政の佐藤翔耶(#67)とかいて。あと、田渡凌(現ドミニカン大)がいる弥生第二も覚えています。やばかったです」
B:田代選手は、ミニバス時代はどんなプレースタイルだったんですか?
「小学校4年生や5年生のときは、周りに比べて身長が高かったのでゴール下でプレーするセンターみたいな感じだったんですが、6年生になってチームが合併してからは『ドリブルを練習しなさい』と言われて、ガードもフォワードも、全部やらされていました。もしかするとそのときに、自分の今のプレースタイルも土台ができたのかもしれないです。(伊藤)達哉はずっとガードで固定されていたんですけど、自分はなぜか何でもやるように言われていました」
B:そうだったんですね。ちなみに、その伊藤達哉選手は小学生の頃どんな選手だったんですか?
「5年生のときまではめちゃくちゃ自由なバスケだったので、その中では普通にうまいなって感じだったんですけど、チームが合併してから、『あれ、達哉ってめちゃくちゃうまいじゃん!』って気付いて(笑)。神様みたいでした。達哉のおかげでチームも強かった感じですね」
「体育のバスケ」で進路変更を決意

「はい。中学ではあまりバスケはやる気なくて…。6年生でお腹いっぱいでしたから。部活の体験入部みたいなやつでも、陸上部やテニス部に行っていたんです。でも最終的には、友達から『バスケやろうよ』ってかなり誘われて、まぁいいかと思ってバスケ部に入りました」
B:あまり続ける気はなかったんですね。中学はどんなチームだったんですか?
「ザ・弱小チームですね。普通の、弱いチームでした」
B:原選手から聞きましたが、原選手も田代選手も、市選抜には選ばれなかったそうですね。
「選ばれていないですね。一応セレクションみたいなのは呼ばれて行ったんですけど、普通に落ちました(笑)」
B:それで、ジュニアオールスターにも選ばれず。
「そうですね。ジュニアオールスターに関しては、セレクションすら呼ばれてないですから(笑)。自分、県大会も出たことがないので当然ですけど。いつもみんなで『県大会目指して頑張ろう!』と言っていて、だいたい市のベスト8くらいで負けるチームでした。スタメンのうち2人は中学からバスケを始めた人たちでしたし、強豪とかでは全くなく、普通の弱い中学校でしたね」
B:そこから、どうして東海大浦安高校に進んだのですか?
「夏になる前に引退して、自分では『もう別にバスケはいいや』という感じだったので、高校は一番近くの普通の高校を受験しようと思ったんです。それで塾に通い出して、夏休みはほぼ毎日、塾に缶詰状態で勉強していました。それで、そこの高校にもそこそこ受かるんじゃないかって成績になってきた11月頃に、『やっぱりバスケやりたいな』と思ったんです」
B:そうだったんですか。受験間近の11月になぜですか?
「引退してから全くバスケをやっていなかったんですけど、その頃体育でバスケをやったら、めっちゃ楽しくて…。『あ、これだ』と思って、やっぱり高校でもバスケ続けようかなと思ったんです」

「はい。それで、バスケが結構強いところでどこがいいかなと思ったときに、大学の附属校ならもうこんな受験勉強しなくてすむぞと(笑)。もともと東海大浦安は、受験校を決めるときにバスケ関係なく一度学校見学に行ったことがあったんです。それで『母さんごめん。私立に行かせて!』と頼んで、東海大浦安に決めました。でも、高校の監督に連絡したら、『もう遅いよ』と言われて…」
B:そりゃそうですよね(笑)。
「スポーツ推薦ももう全員決まっていますからね。でも『来たいなら、一度練習に来なさい』と言ってもらえて、練習に行くことになったんです。でもそこで僕、練習に遅刻しちゃったんですよ(苦笑)。そのときはもう『終わったな…』と思いましたね。とりあえず練習は参加したんですけど、帰ってきて中学の顧問には『ダメでした。受験勉強します』と報告しました。でも、そのあとでまた高校から『もう一回練習に来てください』と連絡が来たんです」
B:今度は遅刻することなく…。
「はい。ちゃんと最初から練習に参加できました。そうしたら、同い年のスポーツ推薦組の選手たちがみんな来ていて。夏くらいに推薦が決まった人たちで、すでにみんな友達同士みたいだったんですけど、自分もその中にしれっと混ざっていました。しゃべる相手もいないし、みんなからしたら『誰コイツ?』って感じだったと思いますけど(笑)。でも、そのときなぜか『これが4月から入る1年生たちだ!』って紹介されて。自分は『え!? おれ、決まったの!?』って感じでしたが、気付いたらスポーツ推薦で入学できることになっていました」
B:すごい経緯ですね。それで高校でもバスケを続けることになったと。
「はい。冗談ではなく、中学生のときは本気でバスケ辞めるつもりでした。中学では県大会にも出てないし、上のレベルを全然知らないじゃないですか。僕、地元の隣の駅に市立船橋があって、逆側の隣の駅に幕張総合高校があるんですけど、そういう高校にどれだけすごい選手たちがいるのか、恐ろしくて…。全然そういう強豪校に行きたいという気持ちはありませんでした。それが結局、今でもバスケ続けているので、不思議ですよね。まぁ自分、なんだかんだバスケが好きなのかもしれないです」
千葉では徹底マークに苦しむ

「1年生のときは辛かったですね。雑用も多かったし、正直、1年目は本当に後悔しかなかったです。受験しとけば良かったなと。でも、自分的には練習も何もかもキツかったんですけど、大学に入ってから周りの話を聞くと、ほかの高校の方がキツそうだなと思いました(笑)。浦安は、結構良い雰囲気で練習できていると思います。浦安の石井先生はあまり細かいことを言わない先生だったので、自分たちで声を出して、楽しく盛り上げてワイワイやっていました」
B:試合に絡むようになったのはいつ頃ですか?
「1年生の6月くらいですね。インターハイ予選で3年生が引退して、新チームになってからです。1個上の学年が人数少なかったというのもあるし、フォワードもいなかったので、運が回ってきました」
B:プレースタイルはどんな感じでしたか?
「シュートしか狙っていなかったです。とりあえず点を取れ、と言われていて、でもドライブはそんなにできなかったので、コーナーで待っていてパスもらってシュート、みたいな。自分で打開して突破するとか、なかったです」
B:関東大会には出場していますよね。
「まぁ、Bブロックですけどね(※)。でも高校3年生のときは、土浦日大もBブロックにいて、初戦で当たって勝ったんです。で、そのまま決勝まで行けるかと思ったんですけど、準決勝で秦野に負けて3位でした。前日に捻挫して、捻挫したまま出たんですけど全然ダメでした」
(※千葉県は県予選上位2チームがAブロック、3〜5位がBブロック)
B:当時のBOXを調べると、その土浦日大戦は34点、準々決勝で45点、準決勝で36点と、かなり点を取っていたようですね。
「いやでも僕、千葉県のチーム以外と対戦するときは結構点も取れたんですけど、千葉では全然ダメだったんです。千葉のチームと対戦すると、もうバレているので絶対フェイスガードされて、ボールすら触れない。しかもドライブとか無理なので、完全に抑えられちゃうんです。でも県外のチームなら、自分のこととか誰も知らないじゃないですか。だから関東大会も、『あれ?いつもより攻めやすい!』って感じで攻めることができました。千葉だといつも20得点いかないくらいでしたね」
ミニ国体での未知の経験

「千葉だと、日大の古牧(#7)とか。他県では、練習試合で藤枝明誠とやって大垣さん(14年度拓殖大卒・現富士通)とか、あと明成ともやって立教の藤井(#4)とかも対戦しましたね。昔、浦安ってインターハイ準優勝しているので、そのつながりでたぶん監督もいろんな学校に顔が利いたんだと思います。あ、あと前橋育英とも対戦して、船生(現NBLアイシン)や日大の栗原がいました。前橋育英は強すぎて全く止められなかったです」
B:船生選手や栗原選手がいた群馬には、ミニ国体(国体関東予選)でも決勝で負けていますね。
「そうですね。まぁ、そもそも自分がなんで国体のメンバーに選ばれたのかよく分からないんですけど(笑)。千葉って、市船とか幕張総合、市立柏、八千代で、強化合宿とかを一緒にやるんですよ。だから国体もだいたいそこからメンバーが選ばれるんですけど、なぜか自分も選ばれて。周りはほぼ市船と幕張しかいない中、どうして僕が選ばれたのかよく分からなかったです。楽しかったですけどね。チームとしてはインターハイ予選で6月に引退していたので、その後にあったミニ国体が自分にとって高校最後の大会でした」
B:結果は準優勝でしたね。惜しくも国体本戦には出られず。
「はい。だから自分、大学1年生のインカレまでは全く全国大会とは無縁でした。それにミニ国体で自分たちが決勝まで行けたのも、トーナメントの山が結構ラッキーだったんです。自分たちは埼玉、茨城を倒してスーッと決勝まで行けちゃった感じで、神奈川や東京、東海大の橋本(#21)がいた栃木は逆の山。まぁ、そもそも自分はあまり試合には絡まなかったですけどね。よく覚えているのは、市船の近藤先生に『お前の仕事はなんだ?』と聞かれて、『点を取ることです!』と答えたら、『違う!リバウンドだ!』と怒られて。普段のチームとはまた違って、国体チームではリバウンド係を意識していました」
B:国体前の、最後のインターハイ予選はどうだったんですか?
「千葉でベスト4に入って、4チームで総当たりの決勝リーグ戦になるんです。そこで全敗しました(笑)」

「決勝リーグは2日間で3試合やるんですけど、1試合目で市船と対戦してボコボコにされて、『まだ望みはある!』って感じで次に幕張総合と対戦したんですけど、またボコボコにされて(苦笑)。その時点で、インターハイへの道がなくなりました。最後に柏日体と対戦したんですけど、3点差(91−94)で負けました。あと本当は、ベスト4を懸けて原のいる習志野高校と対戦する予定だったんですけど、向こうがその前に(拓大紅陵に)負けちゃって対戦できなかったんですよね。原とはたぶん、高校時代は1回練習試合をやったくらいです。一度も公式戦で対戦しませんでした」
B:東海大浦安の石井コーチには、どんなことを学びましたか?
「石井先生からは、ずっと『継続は力なり』と言われていました。そこはめちゃくちゃ厳しく言われていたし、継続をやめてちょっとダメになるときに怒られる。そこは勉強になりました」
B:高校時代、バスケ以外で思い出に残っていることはありますか?
「浦安はスポーツクラスがなくて、一般生の中にスポーツ推薦も混じって同じクラスになるんです。それでその一般生が、頭良いはずなのに、かなりノリが良くて一緒にバカ騒ぎできる友達でした。バスケ部というくくりより、一般生もみんな仲が良かったのが良い思い出ですね。付属高校なので高3の5月くらいにみんな大学も決まって、受験のピリピリ感もなく、すごくのびのびしていました」
B:バスケ部以外も部活動は盛んなのですか?
「武道は強いですね。柔道では、僕らの1つ下や2つ下は全国優勝していたと思います。世界でタイトルを獲った人も2人いました。あと陸上も、僕と仲の良い友達が走り幅跳びでインターハイ優勝していました。全体的にスポーツは盛んでしたね」
技術を磨けた先輩とのマッチアップ

「2つ上に、同じ千葉出身で藤岡さん(13年度卒・パスラボ山形)という人がいました。その人からいきなり、僕が高校2年生のときに『大学決まった?』って連絡が来たんですよ。でも高校2年で決まってるわけないじゃないですか。で、『決めてないです』って返事したら、『お前、そろそろ決めないとヤバくない?』って連絡が来て。だから僕、『バスケのトップクラスの人たちって、高2のこのくらいの時期でもう決まってるのか…』ってビックリしたんですよ。そのときに藤岡さんから『決まってないなら専修来いよ』と言われたので、『考えておきます』とは言ってて。そうしたら後日、藤岡さんから『お前、高3じゃねーの!?』って(笑)。僕を高3だと勘違いして、誘っていたんですよね。まぁそれで、高校3年生になったらちゃんと専修から声が掛かって、行くことになりました」
B:藤岡選手の勘違いからつながったんですね(笑)。
「そうですね。それに高校3年生のとき、中原さん(専修大監督)が高校の部活にいきなり現れて、『一緒にバスケしようよ』と言ってくれて。僕は『全国も出たことないし、1部はちょっと無理だと思うんですよね』と言ったんですけど、『大丈夫、大丈夫!』って(笑)。それで口説かれて、専修に決めました。中原さんは、県大会で僕のことを見て知ったらしいです。でも中原さん、大学で原を知って、『千葉のインターハイ予選に原君、いた? 見てたら絶対誘ってたのに!』って悔しがってたんですよ。中原さんはベスト8のチームを見たらしいんですけど、原はベスト8にも入らなかったので、見つけられなかったみたいです。だから『千葉はベスト16まで見なきゃダメなのか』って言ってましたね(笑)。原って、国士舘も普通に自分で決めて指定校で入ってるじゃないですか。だからもし専修から声が掛かっていたら、同じチームでやっていたかもしれないですね。中原さんは『原くんと田代をウイングに置いたら面白かったのになぁ〜』と言っていました」
B:それは面白そうな布陣でしたね。入学して、1年目はいかがでしたか?
「1年目は試合に絡めなかったですね。フォワードに館山さん(12年度卒・現bj秋田)、宇都さん(13年度卒・現NBLトヨタ東京)がいて、これは試合出られないなと。でも、そういうすごい選手たちと練習中にマッチアップすることで、かなり揉まれたと思います。たまに試合に出してもらってほかの大学の選手と対戦すると、そっちの方が楽に感じるんです。本当に先輩たちに恵まれて、フォワードとしてトップクラスの環境にいたと思いますね。1年生のときは、館山さんと宇都さんにいつもオフェンスでもディフェンスでもボコボコにされて、『大学バスケ、終わったわ…』と思っていました(笑)。ずっと『調子に乗って1部に来るんじゃなかった…』と後悔していました」

「そうなんですよ。セカンドチームを作って、スタメンを下げてセカンドチームを出す時間帯も結構ありました。でもスタメンとの力の差がありすぎて、いつもスタメンがリードしていた点差を、僕らセカンドチームが出て追い付かれてスタメンが怒る(笑)。僕たち、自分たちでセカンドチームのことを『噛ませ犬隊』と名付けていましたから(笑)。練習中も、スタメンと噛ませ犬隊で試合をすると絶対ボコボコにされましたね。でもたまに、試合でかませ犬隊が流れ良くつなげられることがあって、そのときはスタメンもかなり上機嫌なんです。僕は結構、噛ませ犬隊が面白くて好きでした」
B:“噛ませ犬隊”とはすごいネーミングですね(笑)。メンバーには誰がいましたか?
「僕、大澤さん、小野寺さん、藤岡さん、湊さん、藤田さん、廣島さん、松井さんとかで、ぐるぐる回す感じでした。その頃、自分は初めてのリーグ戦で背負うものもなかったし、スタメンが強かったのでなんとなく『どうせ勝つでしょ』みたいな気持ちだったんですよね。リーグ戦も結果的に3位でしたが、全然何も考えていなかった1年目のリーグでした。3位になっても全然うれしくなかったです。リーグの重みがよく分からなかったし、主力じゃなかったので、『あ、3位か』みたいな(笑)。先輩たちはめっちゃ喜んでいましたけど」
B:その前の年、下との入れ替え戦で苦労していましたからね。あの年は、練習の雰囲気がかなり良かったとみんな言っていましたね。ケンカ腰のような感じで。
「そうです、そうです。あの年、専修の練習はすごかったですね。ファウルしてでも、ユニフォーム引っ張ってでも止めてやる、みたいな。みんな練習中のユニフォームは結構ビリビリでした。口喧嘩もしょっちゅうありましたし。でもそういう闘争心があったから良かったのかなと思います。中原さんも、ケンカが始まっても見ているだけで、練習後に『よし、今日は素晴らしい練習ができた!』と言っていました」
B:高校の練習とのギャップがありそうですね。
「それはかなり。すぐケンカするので、『この人たち、練習中に何してんの?』って引くくらいすごかったです(笑)。でもそれくらい、みんな本気でやってたってことですよね。高校までならどっちかが先に折れていたと思うんですけど、専修では絶対どっちも折れない。みんなガンガン行くから、すさまじかったです。今はちょっと落ち着いてきちゃいましたけど、特に僕が1年生のときは怖いくらいケンカ腰の練習でしたね」

「宇都さんは最初っからいきなりああいう感じで、口も良いとは言えないし、正直最初はイメージは良くなかったです。でも宇都さんって長男なので、みんなの兄貴分というか、後輩に対して面倒見が良いんですよ。それで打ち解けてからは、大好きになりましたね。しょっちゅうご飯もおごってもらったし、一緒に遊んだし。プライベートでは本当の兄みたいでした」
B:宇都選手は一度打ち解けると、とても接するのが楽しい選手ですよね。話を戻しますが、大学1年生のときのインカレが生まれて初めての全国大会でしたね。
「そうです。でも関東のレベルが高かったので、あまり全国大会だからといって『すげー』とはならなかったです。それに、あまり試合は出てないですし。初戦の相手は確か地方のチームだったんですよね。広島大だったかな。それで、1Q目でポンと点差が開いたので、そこから噛ませ犬隊の登場でした(笑)。下の回戦の方は結構試合に出ることができましたね。勝ち上がるにつれ出られなくなりましたけど。最後の順位決定戦はすごい試合でしたね。筑波大との延長戦。僕は出場時間1分くらいでしたが…(笑)」
B:あれはすごい試合で、順位決定戦が代々木ではなく、國學院大で行われたのは本当にもったいなかったです。2年生になり、館山選手ら上級生がごっそり抜けてから、本格的にチームの主力になりました。
「2年生のときは、今思い返すと、宇都さんのレベルについていけなかったなと…。かなり足を引っ張っていました。宇都さんのお陰で勝てた試合ばかりです。自分は宇都さんにオフェンスを任せて、とにかくディフェンスを頑張ることと、オフェンスではコーナーで待ってシュート、みたいな感じでしたね。ディフェンスではなぜか自分が相手のエースにつくことが多かったので、それは結構大変でした。それで下との入れ替え戦に行きそうでしたけど、最後の試合で勝てば回避、負ければ入れ替え戦という展開で勝てたので、本当にホッとしました」
B:なんとなく『勝てるだろう』と思っていた1年生の頃と、負けが続いた2年生とでは、リーグ戦の捉え方も変わったのでは?
「うーん…でもあの年は、『宇都さんもケガしてるし、負けても仕方ない』みたいな言い訳を勝手に作っていました。先輩たちに恵まれて、自分はただ何も考えずにやっていただけでしたね」

「宇都さんがケガして、中原さんにも『お前がやれ』と言われていて。でもまだ2年生で背負うものがなかったからか、結構好き勝手にやれていた印象ですね。ミスってもいいから、という感じでしたし、宇都さんも『どんどんやれ』と言ってくれていたので、とにかくがむしゃらに攻めるだけでした。それに自分だけでなく、宇都さんが抜けたことで全員『頑張らなきゃ』という感じで、チームがまとまれた部分もあったんです。(渡辺)竜之佑(#6)とかも1年生ながら頑張ってくれて、助かりましたね」
B:渡辺竜之佑選手のリバウンド力は、本当にすごいですよね。反応も早いし、人より多く飛べるというか。
「はい。それに竜之佑は、リバウンドだけじゃなくて、横の動きとかもすごいんですよ。ルーズボールへの反応が、絶対マネできない。誰も反応してないときにバッと飛び込めるんです。たまに練習中マッチアップして感じるのは、あいつってボールに対しての反応が全部100%なんです。リバウンドもルーズボールもだし、僕に飛んで来たパスにも、後ろからガッと100%の力で飛び込んでくる。普通の人なら無意識に『無理だ、取れない』と思うような感覚が、あいつにはなくて…だから取れるんだと思います。あと、何も考えていないと思うんですけど、リバウンドが落ちてくる場所も分かっているんですよね。説明できないですけど。野生の勘ですね(笑)」
B:渡辺選手に話を聞いたら、「シュートを打った人の後ろについていけば取れる」と言っていましたよ(笑)。それだけじゃないとは思うんですが。そういえば2年生のとき、田代選手はオールジャパンで活躍していましたよね。
「日立との試合ですね。たぶん高校時代と一緒で、自分のことを誰も知らないチームと対戦すると活躍できるんです(笑)。日立は宇都さんをマークして、自分のことはノーマークだったと思うので。誰も知らないところに行けば、そこそこ点も取れるかもと思いました」
「極限状態だった」入れ替え戦の劇的勝利

「宇都さんという柱がいなくなったのは大きかったですね。次の柱は藤田さんかなと思ったんですけど(笑)、まわりが『田代だ、田代だ』って言うので、そうか頑張らなきゃって…。それが、完全に空回りしたのが3年でした。宇都さんがいなくなって点を取れる人がいなくなったので、『自分が点とらなきゃ』って思ったんですけど、それがまず間違いで…。空回ってばかりでした。ただ途中からディフェンスを意識するようになって少し良くなって、リーグ戦の最後の方で少し勝てて、それで入れ替え戦につながりました」
B:入れ替え戦は、どちらが勝つか分からない試合でした。
「そうですね。やる前は、たぶんみんな大東が勝つと思っていたと思うんですけど、なんとか勝てて良かったです。自分たちは1年生のときに『3部に落ちる代』だと言われた代です。正直、普通に戦ったら実力差はあると思っていました。1戦目は大東がガチガチだったので勝てましたが、2戦目で40点差くらい付いたじゃないですか。『あ、これはリアルな実力差だな』と思いましたから。そのときは、『やばいな、これ終わったかもな』と思いました。でもセンターを下げて小さい布陣にするとか、いろいろな作戦がうまくいって、勝つことができました」
B:何より第3戦は、最後残り9秒で田代選手が3Pシュートを決めて、1点差の劇的な勝利でした。
「実は最後、全く覚えていないんですよ。あとから映像で見て、『え、こんな感じで打ったの?』って。確か反対側で相手がフリースローを打って、2本目が入ってエンドスローインになって自分がボールを運んでいるんですけど、そのボール運びを全然覚えていない。あの20秒くらいの間だけ、極限状態だったと思うんです。何も覚えていないです」
B:それはすごいですね。それくらい集中していたんでしょう。
「これ以上ないくらい集中していました。だから、『あのシュートは…』とか、かっこつけたこと言えないんです(笑)。本気で記憶にない。試合後、気付いたらロッカールームでみんなが泣いてて、監督も泣いてて、『あれ、みんなどうした?』って感じでしたから。自分一人だけケロッとしていました」

「そうでしたっけ。そういうところは冷静ですね(笑)」
B:それから4年生になって、最上級生としての1年間はいかがでしたか?
「3年生のときに入れ替え戦を経験して、本当につらすぎたので、絶対にもうあんな思いはしたくないなと。最初は、入れ替え戦が嫌だという気持ちだけでリーグ戦に入りました。でも終わってみれば、リーグ戦はすごく楽しかったです。4年間で一番楽しかったかもしれません。今までいっぱい負けてきて、でも今年は『戦える』って手応えがありましたから」
B:リーグ戦では1巡目で筑波大や拓殖大にも勝ちました。大物食いの専修、という感じでしたね。
「そうですね。でも拓大の試合は僕、ちょびっとしか出てないので、『あれ、俺が出ない方が強い…』と思いながら見ていましたけど(笑)。ああいう試合ができて、どことでも戦える自信はついたと思います。ただ、欲を言えば本当はもっと上位に食い込みたかったです。1巡目で結構勝てて『入れ替え戦に行くかも』という緊張感がなくなった途端、こんなにも弱くなるものかと…(笑)。本当は2巡目になってチームもまとまって、さらに良くなる予定だったんですけど、見事に全員気が抜けて、チームが固まらないままインカレに入ってしまいました。それに比べて筑波とかはリーグ戦よりインカレの方がしっかり固まっていたので、そこが専修とは違うなと思いましたね」
「シューティングをしたことがなかった」

「それはちょっと意識していました。4年生になって、自分も少しだけ変わったと思います。今まで1年生から3年生のときは結構適当な部分もあって、いろんな人に怒られてきたんですけど、4年目はちゃんとしようと思って、気付いたらその“ちゃんと”が習慣になっていました。練習や試合で前より声を出すようになりましたし。今年、まじめにやるようになったら5キロくらい痩せましたよ(笑)。3年生までは練習の5分前に来て、練習が終わったら即帰るやつでしたから。正直、3年生まで自分、まともにシューティングしたことなかったんです」
B:それであんなに入るんですか(笑)。
「いや、シューティングだと自分、びっくりするくらい入らないんですよ! で、『入らねー』ってイライラしてきちゃうので、やらなかったんです。でも4年生になってから、練習後に20本くらい打ってから帰るようになりました」
B:それでも20本なんですね(笑)。
「まぁそうですね(笑)。でも自分の中で満足いかなかったら、50本くらい打ちますけど…。集中して20本打って、満足したら良し、と。あと、4年目はケガしないように、当たり前かもしれないですけどちゃんとアイシングやストレッチをしてから帰るようになりました。3年生のときにやった足首の捻挫も、かなり長引いていたので。まぁそういう風にケアをちゃんとするようになったら、膝をケガするという全然“持ってない”感じなんですけどね…(苦笑)」
B:4年生は、楽しさを味わいつつケガにも苦しんだ1年でしたね。
「そうですね。膝の前十字靭帯を完全断裂して、最初に行った病院では『学生のうちはもうプレーできない』と言われたんですけど、別の病院に行って、『なんとかプレーすることはできるよ』と言われて。そこからずっと病院に通ってリハビリでした」

「前十字と一緒に膝の骨挫傷もやって、骨と骨がぶつかってひびが入っていたので、痛いのはそっちなんだと思います。でも、思いのほか早く治りました。最初はかなり腫れ上がって足が曲がらなくて、『リーグ戦は無理かな、インカレに向けて頑張ろう』と思っていたんですけど、予想以上に早く痛みが引いたので、やれるなと」
B:普通の人はあんなに早く復帰しないと思います。
「自分ではやれると思ったし、早く復帰したかったので、病院の先生にお願いしたら、ジャンプとランニングは許可してもらいました。スタッフには驚かれたんですけど、行けるなと思って復帰しました。本当はめちゃくちゃ痛かったですけど、顔には絶対出さないようにしていました」
B:確かに、激しい動きはあまりせずコートの行き来と、シュートを打つだけという感じでした。しかし、痛みに強いですね…。
「そうですね。痛みに関しては、めちゃくちゃ強いと思います(笑)。まぁ試合で100%は出せなかったですけどね。でもインカレも、すごく楽しかったです」
B:インカレの最後は、小学生の頃からのライバル、原選手との対戦でした。
「なんなんですかね、この縁。その前の試合、どっちもオーバータイムで負けて対戦することになるという(笑)。でもインカレ前に原とご飯を食べて、『お互い楽しもうぜ』と話していたんですけど、実際試合中もすごく楽しかったです。最後の相手が、国士舘で良かったと思いました」

「はい。それに国士舘の応援団にも自分は友達が多くて、だから自分だけ全然ヤジられない(笑)。みんな『田代さーん!』って感じなんです。まぁ、自分はどこからもあまりヤジられたことがないですね。大東文化大の応援団長みたいな濱田ってやつが千葉出身の後輩なので、大東からもヤジられないですし(笑)」
B:なるほど(笑)。田代選手は、大学卒業後もバスケを続けるそうですね。
「はい。とりあえず今は膝を手術して、しっかり治さなきゃいけないですけど。スタートで出遅れる分、今までの3倍くらい頑張らなきゃダメだと思っています」
B:3倍だと、シューティングは60本ですね(笑)。
「確かに。シューティング、全然入らないんですけどね…。よく、シューターの人が100本インとかやっていますけど、自分がやろうとしても絶対終わらないですから(苦笑)。それくらい入らないです」
B:試合では入るのに、本当に不思議です。
「自分でもよく分からないですけどね。全然入らないから、リバウンドもあっちこっち行くじゃないですか。それが結構大変。でもこれからは、シューティングももっと頑張らなきゃいけないですね」
仲の良い人にほどツンデレ!?

「よく言われるのは、ツンデレです(笑)」
B:そうなんですか(笑)。
「仲の良い友達ほど、冷たいらしいです。でもなぜか、メンズからモテるんですよ。原とか俺のこと大好きですから」
B:それは取材していてもすごく感じます(笑)。ツンデレで、馴れ馴れしくないほど良い距離感なのかもしれないですね。では、地元・千葉の自慢はありますか?
「自慢…。あ、僕の高校が舞浜にあるので、帰り道に毎日ディズニーランドの花火が見られます。友達も結構年間パスポートを持っていましたね。確か、5回行くと元取れるらしいんです」
B:それは良いですね。
「あと、千葉の自慢…船橋市とか、ほど良く都会なのが良いですね」
B:原選手と全く同じ回答です(笑)。
「うわ(笑)。でもほんと、船橋って電車のアクセスも東京に出やすいし、かといって都会すぎないし、田舎ではないし。ちょうど良くて住みやすいと思います。あと船橋市の自慢は、結構バスケが盛んですね。ミニバスとかめっちゃ強いですし」

「トマトは大っ嫌いです。好きな食べ物は…チーズケーキ?」
B:すごい。原選手もチーズケーキでした(笑)。
「マジですか!? こわっ(笑)。チーズケーキの差し入れを前にもらったことがあって、すごく美味しかったので。小さいスフレ的な…。いや、それにしても原と一緒か…ショックですね…」
B:以心伝心ですね(笑)。これからは差し入れにチーズケーキが増えるといいですね。では、次にリレーインタビューを回す人を指名してください。
「白鴎大の梶原くんでお願いします」
B:主将の梶原選手ですか。彼はどんな人ですか?
「とにかくすごいですよ。おもしろすぎる。関東大学バスケ界の逸材です。天才。ポテンシャルが違います」
B:だいぶハードルを上げますね(笑)
「ほんとすごいんですよ。引き出しがすごい。『面白いことやって』って振ると、『えーっと』とか悩まずに一瞬で反応して何かやる。その反射神経がすごいです。話術もあって、ザ・営業マンという感じですね。就活でも、3万人受けて25人しか受からないような倍率のところに受かったらしいですし。声も良いし、背も高いし、顔もかっこいいし、面白いし、めちゃくちゃオシャレだし、絵を描かせてもうまいし。多彩です。だからうらやましいですよ。全部持ってるから。ただ、バスケだけは…(笑)。あいつ、ベンドラメと同じ中学校なんですけど、よく『なんで同じ環境で育ってこんな差がついたんだ?』って言っています。あいつの口癖は『ベンドラメにはバスケしか負けてない』ですから(笑)」
B:なるほど(笑)。おもしろいお話が聞けそうです。では次回は白鴎大学・梶原選手にお願いします。田代選手、ありがとうございました。
◆#24田代直希(たしろ なおき)
東海大浦安高→専修大
・2015 トーナメント11位
・2015 リーグ戦6位
・2015 インカレ7位
(2015.12.5インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています
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