サイトを移行しました。現サイトはアーカイブとして継続してご覧いただけます。 http://bojweb.com |
2016.01.25 (Mon)
【SPECIAL】BOJラインvol.32〜原 修太選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.32~国士舘大学・原修太選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第31回の拓殖大・岡本飛竜選手からバトンを渡されたのは、国士舘大・原修太選手です。
当たり出したら止まらない爆発的なシュート力を武器に、1年生の頃からチームの得点源として活躍してきた原選手。2年生のときに国士館大の1部昇格に貢献し、大学4年を迎えた今年はユニバーシアード日本代表に選ばれるなど、大学界を代表する選手の一人へと成長を遂げた4年間があり、今後のキャリアでも活躍が期待されます。しかしそんな原選手は、中学・高校時代は全国大会とは全くの無縁。そんな状況からいかにして大学で花開いたのか、知られざる中学・高校時代のエピソードも今回じっくりと伺っています。
また、大学受験の珍エピソードや意外(?)な千葉自慢など、バスケットボール以外のお話もたっぷりと語っていただきました。32回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
きっかけとなったミニバスの合併
BOJ(以下B):BOJライン、第32回は国士舘大学の原修太選手です。よろしくお願いします。岡本選手からの紹介ですが、原選手から見て岡本選手はどんな人ですか?
「見て分かるとおり、やっぱりバスケに対して熱いやつですね。オフシーズンに一緒にバスケしたんですけど、その追い込み方が自主練のレベルじゃない。そこはすごいなと思います」
B:自主練を一緒にやったんですか?
「自分はハンドリングが全然ダメなので、LINEであいつに『どうしたらいい?』って相談したんですよ。そうしたら今年(2015年)の1月くらいに、ハンドリングのコーチみたいな人と一緒にワークアウトするから来る? と誘われて。それで行って一緒にやってみたら、めちゃくちゃ腕がキツくて、無理でした(苦笑)。でもあいつは全然余裕な感じでやっていたので、やっぱり違うなと思いましたね」
B:予想以上に過酷なワークアウトだったんですね。
「なんだかんだ大丈夫だろうって甘い気持ちで参加したんですけど、やられましたね(苦笑)。次の日は筋肉痛がヤバかったです。日々ああいう練習をしているから、あいつのハンドリングはすごいんだなと実感しました」
B:岡本選手は、性格的にはどんな人ですか? 延岡学園ではいじり役だったらしいのですが。
「え、いじり役ですか!? あ、でもまぁ黒木(慶應大#7)や岩田(拓殖大#29)がいますもんね(笑)。岩田とかかなりいじられキャラですし。赤石(拓殖大#99)なんかは絡むくせに、いじりが雑だし(笑)。飛竜の性格は…かわいいですね。コートの外では、普段はかわいいやつです」
B:大学に入ってから知り合ったんですよね?
「そうです。でも高校時代から、一方的に知ってはいました。自分、高校生のときは全国大会も出てないし、あまり全国の強豪校とかに興味なかったんですよ。だから名前を知っている選手も数人しかいなくて、礼生(東海大#0ベンドラメ)と、ハッシー(東海大#21橋本)と、小松(筑波大#16)くらいかな。小松は、同じ千葉で昔から戦っていたので知っていたのと、ハッシーは月バスで見て『うわ、こいつデケー!』って驚いた覚えがあります。それで飛竜のことは、確か高校3年のウインターカップで知りました。決勝を東京体育館に見に行ったんですけど、最後にベンチから飛竜が出てきて、ダブルクラッチか何かを決めたんです。それを見て『あいつヤベーな』と思った記憶はありますね」
B:最初の印象は、ウインターカップの決勝で見た選手だったと。
「はい。それで大学になって国士舘と拓大って1部に上がる前は練習試合をすることも結構多かったので、最初に見たときに『あ、延学のアイツだ!』と思いました。それで、気付いたら結構仲良くなっていましたね」
B:そうだったんですね。では本題に入りますが、バスケットはいつから始めたんですか?
「小学校3年生です。ベタな感じですけど、自分の2個上の姉がバスケをやっていて、その試合をよく見に行っていたんです。そのミニバスチームのコーチから、『入りなよ』と誘われたのがきっかけですね。ただ自分、小学生のときに水泳とかもやってみたんですけど、辞めちゃって…。だから親も、『すぐ辞めるかもしれないから』って考えていたみたいで最初はバッシュを買ってもらえなかったんですよ。それで、ある程度長く続ければバッシュも買ってあげるよと言われて、バスケだけはちゃんと続けました。それでバッシュを買ってもらいました」
B:ご両親はバスケをやっていたんですか?
「昔はやっていたみたいですね。でもあまり詳しくは聞いたことないです」
B:バスケに関して、ご両親からアドバイスされることはありませんでしたか?
「あまりないんですけど、小6の頃はかなり言われました。僕、小5までは小学校の部活みたいな感じのチームだったんですけど、小6のときに近くの小学校とチームが合併したんです。そのチームが結構強豪で、監督もその合併したチームの厳しい監督になったんですが、そこから親のバスケスイッチが入ったのか、急に厳しく言うようになって…。だから自分、6年生なのにホント毎試合で泣いてました(笑)。監督にも怒られ、親にも怒られ…」
B:合併してから環境がガラリと変わったんですね。
「はい。チームが強くなって、周りも上手い選手が多かったので、自分だけがダメで足を引っ張る試合もありました。そしたら試合のあと、帰りの車の中で親にすっごいダメ出しされるんです。そこでまた泣いて(笑)。あの1年間は、怒られて泣いた記憶ばっかりですね。親は、なぜか中学に上がったらピタッと何も言わなくなったんですけど…。今でもなんで6年生のあのときだけめちゃくちゃ怒られたのか、謎です(笑)」
突如拓けた全国ミニバス大会への道
B:ミニバス時代の最高成績はどのくらいでしたか?
「一応、6年生のときは関東大会に初出場して、優勝しました」
B:そんな強豪チームだったんですか。全国ミニバス大会には出場したんですか?
「はい、一応…。でもその全ミニ出場も、たまたま運が良かったんです。確か、香川のチームが5校制(※5校以上で編成するチームは、原則全国大会に出場できない)に引っ掛かったか何かで急に出られなくなって、関東で優勝したうちが繰り上がりで出ることになったんです。千葉県では、小松(筑波大#16)のいた『村上イーグレッツ』っていうめちゃくちゃ強豪のチームが県優勝して全ミニに出ることになっていたので、僕らも一度引退していたんですけど、その後で声がかかって、急きょ千葉県から2チーム出ることになりました」
B:珍しい経緯ですね。
「本当に運が良かったですね。そもそも優勝した関東大会も、当時ブロックが2つあって、村上とは別のブロックだったので…。確か関東大会には、佐藤翔耶(法政大#67)のいた栃木の佐野ミニバスがいて、そこも全ミニに出るような強いチームだったんですけど、別ブロックだったんです。まぁ、運が良くて関東優勝して、さらに運が良くて全国に出られたんです。そう思うと、自分はミニバスが結構全盛期ですね(笑)」
B:全国大会での戦いはどうでしたか?
「予選リーグで新潟の葛塚東ってところと対戦したんですけど、そこが結構サイズのあるチームで負けてしまいました。佐賀のチームには勝ったんですが、予選リーグ2位で決勝トーナメントには行けなかったです。でも確か僕らのブロックは葛塚東が準優勝で、村上イーグレッツが優勝だったんです。村上は自分的に最強のチームだと思っていたので、仕方ないかなという感じでした」
B:初めて味わう全国レベルは、どう感じましたか?
「うーん、でもミニバスは監督が厳しかったので、とにかく何も考えずに必死にやっていただけでした。代々木の体育館がスゲーとは思いましたけど、そんな全国のレベルを味わうほどの余裕がなかったですね(笑)。あとは、東京に来たついでに、いろいろ観光できたのが良い思い出です。千葉ですけど、小学生だし東京なんか滅多に行かないじゃないですか。それは楽しかったです」
B:小学生の頃に対戦して覚えている選手はいますか?
「当時は、田渡凌(現ドミニカン大)がいた弥生第二小と練習試合をよくやっていて、田渡凌があっちから話し掛けてくれたんですよ。それは自分の中でちょっとした自慢でした(笑)。まぁもう今じゃ絶対に忘れられてると思いますけど。彼はミニバスのときからかなりすごかったですね。膝が痛いって言っていたのに、自分、めっちゃやられましたから」
B:原選手は、当時どういうプレースタイルだったんですか?
「小学校は基本、シュートしか打ってなかったですね。ドライブはほとんどしていませんでした。うちのガードがスピードもあってうまかったんです。だから僕は動き回ってそこに合わせてボールをもらって、ひたすらジャンプシュート。特に0度から打つことが多かったですね。なぜか小6のときは膝が痛かったので、あまりドライブして膝に負担をかけたくなかったのもありました」
B:シュートが得意なのは、ミニバス時代からなんですね。
「そうですね。プレースタイルは、今と大きくは変わらないかもしれません。今よりシュートの距離はもっと短かったですけど。ミニバスは3Pラインがないですし、あんまり遠いとシュートが届かなかったんですよ。当時、全部ジャンプシュートで、空中で溜めて打つように言われていたので、距離があると無理でした。エアボールになると怒られるし、極力近い位置で打つようにしていましたね」
B:身長はどれくらいでしたか?
「普通でした。小さくはなかったですけど。小6で156cmくらいだったと思います。小4くらいまではデカかったんですけど、小5、小6で急に止まっちゃったんです。でも小6の最後、中学入るときには160cmくらいになって、中学の3年間で25cmくらい伸びました。卒業するときには183くらいだったと思います」
B:それは一気に伸びましたね。
「不思議なのは、専修の田代(#24)いるじゃないですか。あいつのことは同じ市内だったので小学生の頃から知っていたんですけど、大会のプログラムとかの身長を見ると、僕と田代って小学生の頃からずーっと身長が同じくらいなんですよ。伸び方が同じ。自分が身長止まる時期はあいつも止まるし、自分が一気に伸びればあいつも一気に伸びるんです(笑)。今もあいつが187とか188くらいで、ほぼ同じなんですよね」
意外にも「中学はバスケの記憶が薄い」
B:それは不思議ですね。さて、中学校は高根台中学校に進みましたが。
「チームとしては親の関係で1人は市原の方にいったんですけど、それ以外はミニバスと変わらないメンバーでそのまま地元の中学に進みました。中学時代は……なんか正直、バスケに関する記憶が薄いんですよね(苦笑)。1、2年生のときは全く試合に出られなくて、自分たちの代になってようやくスタメンになれた感じでしたし」
B:中学はどんなチームだったんですか?
「全然強豪という感じではなかったです。平日は基本的にハーフコートしか使えませんでしたし。成績も自分の代は市の5位くらいで、県大会も出られないようなチームでした。それに顧問の先生がすごく私生活を大事にする先生だったんですけど、自分、中学時代はガキだったので、何かやらかしてすぐ見つかって怒られてばかりいたんです」
B:例えば?
「掃除の時間に柔らかいテニスボールみたいなので野球やってて、ボールを時計にぶつけて壊して怒られたり…。あ、体育館の時計にバスケットボールをぶつけて壊して怒られたこともありました(苦笑)」
B:やんちゃな中学生だったんですね(笑)。
「教師に反抗するってことはないんですけど、地味〜に、しょうもないことをやるタイプだったんですよ。体育や音楽の時間別のことをこっそりしてたり。でもこっそりやるのに、なぜかそれが全部バレてるという。中学の先生やバスケ部の監督からしたら、自分は結構ダメなやつだったと思いますね。でも、そういう毎日が楽しくて。バスケ以外のことが楽しかったので、バスケに対して記憶が薄いのかも知れないです」
B:今大学の1部でプレーしているのに、中学時代はバスケにあまり興味がなかったというのも珍しいですね。
「そうですね。なんであんなに興味がなかったのか…。自分の代の県大会が地元の船橋アリーナでやっていたんですけど、それも友だちはみんな見に行ったのに自分は行かなかったし、親が見に行って決勝をビデオで撮って来たんですけど、それもちょっと見て飽きて最後まで見ませんでした。あ、そういえば市の選抜にも落とされたので、それでやる気をなくしてたのかもしれないですね」
B:市の選抜には選ばれなかったんですか。
「はい。選考会があって、監督から『アピールしろよ!』みたいに言われていたんですけど、当時の自分は反抗期というか、そういうアピールがちょっと恥ずかしくて。中学生って、頑張るのが恥ずかしいみたいなところあるじゃないですか。今思えば一生懸命やれば良かったなと思いますし、もちろん一生懸命やったところで受かるか分からなかったわけですけど、結局市の選抜はいきなり1次で落とされました。僕と同じく、田代も市の選抜は選ばれてないです(笑)」
B:今大学の1部で活躍している2人なのに意外です。ちなみに田代選手は、当時どんな選手だったんですか?
「あいつは何でもできる感じでした。抜き方とかもうまいし、外のシュートも入るし。小学校のときから、僕とプレースタイルは違いますけどマッチアップすることが多かったので、ちょっとライバル視というか、意識していました」
B:ほかに中学時代に対戦して覚えている選手はいますか?
「うーん…中学は、県大会すら出られなくてほんと船橋市内で留まっていたので、県でどこが強いのかとか全国では誰が上手いかとか、全く分からなかったんですよね(笑)。あ、小松がいる習志野五中とは練習試合をやったと思います。点差とかは全く覚えてないですけど、たぶんボコボコにやられましたね。あとは田代のいた前原中とも対戦したんですけど、自分たちの代ではやっていないです。練習試合でちょっとやったくらいかな。だから中学で田代と対戦することはあまりなかったですね」
「人生で1、2位を争うくらい焦った」大学受験
B:その後、どうして習志野高校に進むことになったんですか?
「小学生のとき、バスケの強い高校と言ったら市立船橋しか知らなくて、小学校の卒アルか何かに『市船に入ってバスケで有名になる』みたいなことを書いたんですよ。でも中学校のときに、『習志野五中の人たちがいっぱい来るなら俺、試合出られないじゃん。無理だ』って普通に思って。あと僕、小さい頃からおじいちゃん子だったんですけど、その祖父が中3の春に亡くなって、その祖父と習志野の当時の監督が仲良かったんです。それで小さい頃からその監督には可愛がってもらっていたので、そのつながりもあって習志野にしようかなと。県内では習志野もそんなに弱くはなかったし自分は試合に出たかったので、結構あっさりと決めました」
B:それで地元の船橋ではなく、習志野高校に決めたんですね。
「はい。船橋市の僕は習志野に行き、習志野五中の人たちは市船に行くという、ちょうど入れ替わりな感じで(笑)。でも習志野も、受験はいろいろ大変でしたね。千葉県って、今は違うかもしれませんが当時は『特色化選抜』という入試方法があって、公立の高校がそれぞれの学校のやり方で試験をやるんです。一般の入試よりももっと前に。それで習志野の場合は作文と面接の試験で、特色の方がたぶん倍率は高かったんですけど、一応受けるだけ受けてみようと思ったんです」
B:推薦入試・AO入試のようなものですね。
「はい。でも試験当日、まだ時間があると思ってのんびり地元のイオンで友だちとご飯食べてたんですけど、電車に乗って学校に向かったら、思いのほか遠くて(笑)。というか、今はスマホのアプリで電車を調べられますけど、当時は携帯を持ってても電車を調べるってことを知らなかったんです。それで、乗った電車が目的地の手前で終点になっちゃって、完全に遅刻したんです。めちゃくちゃ焦りながら学校までダッシュして、もう門が閉まっていたんですけど『すみませーん!』って泣きついて開けてもらって…。もう、あれは焦りまくりましたね」
B:試験当日に、それはマズいですね。
「もう人生で1、2位を争うくらい焦りました。焦りすぎて、試験カードみたいなやつも別の私立のやつ渡しちゃったりとか(苦笑)。それで作文も汗だくのまま書いて、全然うまく書けなかった気がするんですよ。で、面接も、一応結構練習してきたんですけど、全然自分の予想と違って…」
B:どんな面接だったんですか?
「いや、僕の想定では、コンコンってドアをノックしてから『失礼します』って言って部屋に入る予定だったのに、いきなり最初からドアが開いてたんですよ!(笑) もうそこから焦って『え、どうしよう!』ってパニック。しかも面接が終わったあと、練習では右のドアから入って左のドアから出ていく予定だったんですけど、左のドアから出ようとしたらカギが掛かっていたんです。出ようとしたら、ガチャガチャってなって。なんかもう、ほんと『終わった…』と思いましたね(笑)」
B:ドタバタですね(笑)。
「はい。もう絶対落ちたと思いました。友だちがもう一人一緒に受けていたんですけど、そいつは僕より真面目で優秀なやつだったので、絶対に自分は落ちてそいつは受かるだろうと思っていたんです。だから、一緒に合格発表を見に行くときも、そいつに『俺が落ちても優しい言葉かけなくていいからな! 俺のことバカにしろよ!』とか言ってて。でも掲示板を見たら、奇跡的に2人とも受かっていたんです。それはめちゃくちゃうれしかったですね。掲示板見る前は、近くで喜んでるやつらを見て『ちょっとは周りの落ちたやつのことも考えろよな』って内心思っていたんですけど、いざ自分が受かったら人の目も気にせず、ハイタッチしてめちゃくちゃ喜びました(笑)」
B:習志野高校は、入ってみてどうでしたか?
「習志野って今は部員がすごく多いんですけど、僕がいた頃は普通に1学年10人くらいで、やんちゃなやつらが多かったと思います。当時の監督の指導も、結構自由な感じで。監督は、当時75歳くらいだったんですけど、大昔はオリンピックに出たこともあるすごい選手だったらしく、背が190㎝くらいありました」
B:元オリンピアンですか。それはすごいですね。
「その監督、いろいろと面白い、元気なおじいちゃんだったんですよ。例えば3メンをやっていると、急にパスカットしようとして飛び出してくる。もう、超危ないです。走ってる人がぶつかったら大怪我しそうだし、ボールをカットしたときも『痛〜!』って言ってるし。もうヒヤヒヤでした。そうかと思うと、いきなり練習中に寝ちゃうんです(笑)。ずーっと同じ練習が続くので『いつまで続くんだろう…』と思って監督の方を見ると、イスに座ったまま寝てるんですよ(笑)。怒るときも『こらぁ〜』って、なんとなく柔らかい感じでした。当時、江戸川大にいた臼井さん(12年度江戸川大主将)たちの代のキャプテンの先輩が、たまに練習に見に来てくれていたんですけど、監督よりその人がめっちゃ厳しかったですね」
B:OBがコーチとして来ていたんですね。
「はい。その先輩や臼井さんがいた代は、確か関東大会に出場していて、習志野の中ではすごく強い代でした。その先輩の指導のもと、僕らも結構走る練習とかをやっていましたね」
高校では「自由にのびのび」プレイ
B:そういえば現在の習志野高校は、今クラブチームや3×3で選手としてもプレーしている黒田裕コーチ(05年度明治大卒)が指導しているんですよね。
「はい、僕が卒業するのと入れ替わりで、黒田先生がコーチになったんです。今でもたまに練習に顔を出すんですけど、僕がいた頃の習志野ではないですね(笑)。部員も多いし、すごくピシッとしていて緊張感があります。黒田先生がしっかりみんなをまとめているので、集合がかかればみんなダーってダッシュで集まるじゃないですか。僕がいた頃は、監督から「集合〜」って言われても、タッタッタッて小走りくらいでしたから(笑)。今のように練習着をそろえることもなかったし、僕らの頃は今思うとかなりゆるーい感じでしたね(苦笑)。まぁでも、僕はあの監督の下で3年間自由にやらせてもらえて良かったなと思います。2年生からスタメンで出させてもらえていろいろ経験も積めましたし、自由にのびのびやらせてもらえた分、自分たちで考えてどうにかしようとする部分もあって楽しかったので。まぁそのかわりと言ったらアレですが、強豪校出身の選手たちと比べたら全然基礎ができてないなと、大学に入ってから痛感しましたけどね(苦笑)」
B:原選手たちの代は、最高成績はどれくらいだったんですか?
「僕らの代は県ベスト16です。1個上の代の方が強くて、確か県で6位くらいだったかなと思いますが。僕らは江戸川の王(#10)とかがいた柏日体に負けました。しかも高3のときは、関東大会の県予選で柏日体とやったときに、パスカットして骨折したんですよ(苦笑)。相手が速攻のときに王に向けてすっごい高いパスを飛ばしたんですけど、それを『取れる!』って思って全力でジャンプしたら、バランスを崩して着地失敗。そのときに自分の左手を下敷きにしてしまって、立ち上がった途端に左手が熱くて感覚もありませんでした。病院に行ったら骨折と診断されて、最後のインターハイ予選には無理やり出たんですけど、直前まで全然練習していなかったし、普通に拓大紅陵高校に負けました」
B:それが引退試合となったんですね。バスケは大学でも続けようと思っていたんですか?
「いや、最初は高校までで良いかなと思っていたんです。でも偶然、拓大江陵の監督から試合で負けた後に『大学でもバスケ続けたら?』って言われて。拓大江陵は、練習試合もよくやる高校だったので、その監督とも知り合いでした。ただ、そのとき拓大江陵の監督から、『1部は別格だから、続けるとしたら3部か、良くて2部だな』と冷静に言われたんですよね(笑)。それで自分でも、1部は無理そうだけど、3部や2部でバスケ続けるのも有りかなと思ったんです」
B:最初から1部でプレーしたい、というわけではなかったんですね。それで、どうして国士館大に?
「どうしようかな〜と思っているときに、学校の体育館で大学説明会っていうのがあったんですよ。そのときに入口の一番目の前にあったのが国士舘で、まず名前がカッコいいなと…」
B:名前ですか(笑)。
「最初の印象はそうです(笑)。で、ブースで詳しく話を聞いてみて、あ、結構いいなと。それで調べたら国士舘は2部だったので、ぴったりじゃないかと思いました。高校に指定校推薦があったので、それで進学を決めました」
B:ではバスケ推薦ではなく、普通に一般生としての入学だったんですね。
「はい。国士舘のバスケも全く見ずに決めました(笑)。指定校推薦の試験が秋にあって、それが決まってから初めてリーグ戦を見に行きました。そこで初めて国士舘のバスケを見て、『あ、こんなチームだったんだ』と。しかも見に行ったのが、2011年のリーグ戦の最終日で、西片さん(11年度主将・現大塚商会)とか三村さん(11年度卒・現メディセオ)とかの代だったんですけど、勝てば入れ替え戦、負ければ引退っていう、めっちゃ大事な試合だったんですよ」
B:白鴎大とのすごい試合でしたよね。あの試合を見に来ていたんですか。
「はい。あの試合が、僕が生まれて初めて見た国士舘のバスケでした。会場も国士館の体育館だったんですよね。それでその試合の後、小倉監督に挨拶に行きました」
大学1年からつかんだチャンス
B:原選手は入学して1年生の頃から試合に使われていましたよね。どうやってチャンスをつかんだんですか?
「入学する前は、自分はバスケ推薦じゃないしBチームだと言われていたので、Bチームで数年頑張ってAチームに上がろうと思っていたんです。でもたまたま運が良かったのは、入学前に合宿に参加できたことで…。国士舘って毎年3月に合宿をするんですよ。今は沖縄なんですけど、僕が入学するときは長野合宿でした。で、普通、新1年生はバスケ推薦の人たちだけが合宿に参加するんですけど、1個上で市船橋の中島さん(14年度卒)から『お前、そこに参加したほうがいいぞ』とアドバイスをいただいて。それで習志野の監督経由か何かで、小倉さんに参加させてくださいと頼んだんです。バスケ推薦じゃなくて一般生でその合宿に参加した1年生は、俺と菅(#4)くらいだったと思います」
B:その合宿が転機となったのですね。
「そうですね。合宿は、AチームとBチームに分かれてやっていて、もともと自分は1日目の午前中にAに参加して午後はBに参加する予定だったんです。でもたまたま、その午前中に自分かなり調子良くて。たぶん、先輩たちはオフシーズン明けであまり調子が上がってなかったんですよ。そのとき自分は4番ポジションで使われたんですけど、あまりディフェンスも来なかったので結構シュートが打てたんです。それで午後はBの予定だったのが、『お前午後もAでいいよ』と言われて。ほんとそれは大きかったですね」
B:それから試合に徐々に使われるようになったと。
「はい。練習試合とかでも交代で試合出してもらえて。でも僕、本当に高校まで全国とかでプレーしていなかったので、やっぱり試合に出ると怒られることも多かったし、出されては引っ込められ、出されては引っ込められでしたね(苦笑)。ただ新人戦で、調子がかなり良いというわけではなかったんですけどまぁまぁ得点が取れて、その流れで夏も調子が良かったので、リーグ戦もスタメンで使ってもらえました」
B:リーグ戦の初戦、いきなりの大活躍だったので、『何者だこの1年生は!』と驚きました。
「あー、確か初戦は結構調子が良かったんですよね。まぁ1年生のときは、背負うものもなくて気が楽でしたね。自分が点を取れなくても、平田さん(2012年度卒)が結構取ってくれたので。だから最初、リーグ戦の目標は平均4点くらいだったんです(笑)」
B:それは目標としては低くないですか?(笑)
「そうですかね? まぁ僕、たぶんハードルを下げて気を楽にして臨むタイプなんです。プレッシャーをなくすと、意外とシュートが入って。あ、あとはBOJに載るってのも目標にありました(笑)」
B:ありがとうございます(笑)。確か、試合終了間際にバスケットカウントを決めた試合が初のインタビューでしたね。
「はい。でもあれば、最後のおいしいところを持っていった感じですよね(苦笑)。残り20秒くらいの場面でレイアップをぽろりと落として、『終わったー!』って思ってたら、その後、祐二さん(高橋・13年度卒・現NBDLパスラボ山形)からすごいアシストパスが飛んできて、『うわ!』みたいな(笑)。そしたらたまたまファウルをもらった感じでした。祐二さんのお陰です」
B:でも当時、国士館大の上級生が『原ってやつはマジでシュートが入る』と話していたのを耳にしました。先輩たちからも一目置かれているんだなと思いましたが。
「本当ですか? それ、今聞きたい言葉ですね(苦笑)。まぁ1年生のときは、もらってただシュートを打つだけの役割だったので、それしか考えずにいられました。しかもタケさん(松島・13年度主将・現NBLレバンガ北海道)もいたし、いろいろアドバイスをくれたんです。怖いもの知らずというか、あまりよく分からずに1年目はやっていたのが良かったのかもしれません」
B:1年生のときは、2部3位で1部との入れ替え戦に進出しましたね。3戦にもつれた末に、早稲田大に敗れてしまいましたが…。
「代々木はめちゃくちゃ緊張しましたね。1戦目と、2戦目の前半まではものすごく緊張していて、全然自分のプレーができなくて。2戦目の後半と3戦目でようやく緊張も取れてきたんですけど…。あの入れ替え戦は、早稲田の大塚さん(12年度卒・現豊田通商)がヤバかったです。試合中なのに、ハッとさせられましたから。『あのタケさんが股抜きされんの!?』みたいな。あれは衝撃でした」
尊敬する先輩たちのもとでチームが1つに
B:確かに大塚選手の気迫あふれるプレイは圧巻でしたね。そこから2年生になって、またチームもガラリと変わったように思いましたが。
「そうですね。曹宇辰さんと平田さんが引退して、得点源がいなくなるぞと。あとは、キャプテンになったタケさんが恐すぎて…。今思っても、タケさんはすごかったなと思います」
B:松島選手は4年生になって、練習中や試合中にあの明るいキャラクターを封印していましたよね。
「はい。プライベートでは全然普通に楽しい人なんですけど、練習中は、恐いなんてもんじゃなかったですよ。2年生のときは、小倉監督より、タケさんの方がみんなに怒ってましたから。本当にスゴいですよ」
B:話には聞くんですが、取材のときはニコニコしているので、あまり恐いところが想像できないんですよね。
「いや、なんていうんですかね…無言のプレッシャーとかがすごいんです。練習の前とか何も話さないんですよ。挨拶してもほとんど無視だし、ピリッとした雰囲気をかもし出してる。みんなでちょっかい出しても真顔で無視です。それで練習中も、声出さないとめちゃくちゃ怒るんです。一番タケさんの声が通るので、僕はタケさんとかぶらないタイミングを計って『ファイトー!』とか声出してました(笑)。たぶん皆さんが想像するような国士舘って感じじゃなくて、高校生のような練習でしたね。フットワークとか手を抜くとめっちゃ怒られるので」
B:原選手も怒られていたんですね?
「そうですね。一回僕、都大会のユニフォームを間違えたんですよ。2年生の…6月か7月くらいだったかな。いつも僕、背番号22番なのに、都大会だけ12番をもらって…それで間違えて22番を持ってきちゃったんです。会場で気付いて『やべー!』って家までユニフォームを取りに行って会場に戻ったら、もう試合が始まっていました。そのとき、タケさんがものすごい怒った顔してて…。あれは恐ろしかったですね。試合のあとの集合で、みんなに『今日はすみませんでした』って謝ろうとしたんですけど、『今日は…』って言ったらタケさんが『集合終わろう』って解散させちゃったんですよ。それからリアルに1か月くらい口を聞いてもらえませんでした(苦笑)」
B:それは恐いですね(苦笑)。あの年はトーナメントでチーム状況もあまり良くなかったですよね。よくリーグ戦で立て直せたなと思いましたが。
「そうですね。正直リーグ戦も、前半はあまり調子良くなかったですね。個人的にも2年生のときは宇辰さんと平田さんが抜けたこともあって、2年生のくせに『俺がやらなきゃ』みたいに思っていたんです。それが空回りしていてなかなか思うようなプレーができなくて…。でも後半、個人的にも徐々に調子が上がってきましたし、タケさんや祐二さんがチームをすごく引っ張ってくれました。それでリーグ戦も2巡目は全勝できたんですよね。4年生のお陰でのびのびやらせてもらえていたので、今思うと楽しかったです。特に入れ替え戦はすごく楽しかったですね。4年生と仲が良かったので、その人たちと一緒に1部に上がれたことがものすごくうれしかったです」
B:入れ替え戦はまたもや早稲田大との対戦でしたが、原選手も大活躍でしたよね。あとは、松島選手の放り投げたミラクルなシュートも入りましたし…。
「(笑)。でもあれ、タケさん練習後にあの練習していたんですよ。ハーフラインくらいからのシュート。みんな『あの人何やってんだろ…』みたいな感じで見てたんですけど、あれが入れ替え戦で入ったので、『あの練習が生きた!!』ってみんなびっくりしてました(笑)」
B:あのワンプレーで勢いに乗りましたよね。3戦にもつれた末に、1部昇格となったわけですが、高校生のときには1部でプレーするなんて夢にも思っていなかったんですよね。
「はい。1部に昇格してうれしい気持ちもものすごくあったんですが、正直、やばいかもって不安もありました。入れ替え戦のあと、その年のインカレで自分、明治にすごい抑えられてしまったんですよ。あれで、1部のディフェンスはやばいんだなと痛感しました」
B:3年生のときは振り返っていかがですか? 春はなかなか結果が出ませんでしたが。
「そうですね。タケさんと祐二さんが抜けて、トーナメントは全然うまくいかず…苦しかったです。早稲田にも負けるし、順位決定戦でも中央に競り負けて…。マジ泣きそうでした。ってか、華武伊さん(新田・14年度卒)が無駄に優しくしてくるから、泣きそうになるんですよ!!(笑)特に早稲田戦の後で僕めっちゃ怒られて、華武伊さんに励まされましたね」
B:リーグ戦は昇格初年度ながら好成績を残しましたね。リーグ戦で5位、プレーオフで6位でした。
「トーナメントで結果が出なかったので、リーグも始まる前はかなり危機感がありました。でも1週目で東海大と対戦したときに、前半まで競り合うことができて、それがちょっと自信になったんです。そこからは、もうノリと勢いでやってましたね(笑)。あのときは伊集さん(14年度卒・現九州電力)も永山さん(14年度卒・現大塚商会)もいて、みんなシュートがポンポン入りましたし。よく分からないまま思い切り良くやってたら、結果が付いてきた感じでした」
B:あの年は、拓殖大などにも勝ったんですよね。
「まぁでも、拓大が僕らのことナメてたんだと思います(笑)。1試合目は普通にナメてて、2試合目は伊集さんがいなかったので、それでナメてたんだと思います。絶対そうです(笑)」
それとは逆に最終学年となった今年は苦労した1年でしたね。
「そうですね。でも4年間で何度も苦しいときはあったし、そのおかげでメンタルは鍛えられましたね。今年は春に代表の合宿に行っていて自分もいなかったりしたし、それでもなんとかなるかなという感触はあったんです。リーグの1週目も筑波に負けてはしまいましたが、それでもそんなに悪くなくて。次の東海との試合でも自分たちの出来というよりは相手が強かったなという感じで。でも拓殖大に負けてからチームの雰囲気が悪くなっていきました。安易なミスも増えて、そうすると強気なプレーを自分もチームもできなくなっていったんです。攻め気がないというのは分かっていたんですが、どうすればいいのか本当にわからなくなって、監督に求められることにも応えられなくなっていったのが自分の弱さだったなと思います」
そういう中でどうしていたんですか?
「学生コーチに話したりしていましたが、なかなか解決できる課題でもなくて、ただ聞いてもらうことで助けられていたのはあると思います。一人じゃ乗りきれないことでした。来年は2部からになりますが、今年活躍した下(#15)もいいし、インサイドの馬(#66)にも期待しています。いいチームになると思っています」
写真上:2012年の主将・松島選手(現NBL北海道)。まさにチームの精神的支柱として国士舘大を1部に導いた。
大きな刺激と課題を得た国際試合の経験
B:原選手は上級生になって、ユニバーシアードやヤングジャパンも経験しましたよね。そうした経験はいかがでしたか?
「自分にとってすごく大きい経験でした。でも、世界の相手にちょっとビビってしまったというか…。セットプレーも多かったので、最初はこのタイミングで打っていいのかなって迷ってしまうところもありました。もっと積極的に打てば良かったなというのは反省点ですね。それに、交代で出る難しさも学びました。特に自分はシューターなので、交代で出て最初の1本で決めないといけない。その難しさはすごくありました。でも、他に点が取れる選手がたくさんいたので、自分は他のところで仕事をしようと思って、ユニバのときは、ディフェンスやスクリーンアウトに割と徹していました。それはまた、自分のチームとは違う役割で勉強になったなと思います。それに他のチームメイトと比べて自分は全然ファンダメンタルがダメだと思ったので、そういう部分も刺激になりました」
B:国際試合を経験して、どんなことを感じましたか?
「3Pシュートの大切さはあらためて感じましたね。やっぱり中まで攻め込めない場合も多いので、日本は外からちゃんと決めなきゃだめだなと。それに、なんだか上から目線に聞こえるかも知れないですけど、礼生とか祐眞さん(藤井・13年度拓殖大卒・現東芝神奈川)を見ていて、ガードは全然日本の方が技術で上だなと思いました。他の国は、デカかったりゴツかったり、体で押し切るガードが多いんですけど、テクニックとかディフェンスの素早さだったりは、日本の方がすごいです」
B:指揮を執ったのは現役時代にシューターだった拓殖大の池内監督でしたが、シュートに関して何かアドバイスはもらいましたか?
「シュートが入らないときに、もうちょっとこうした方が良いんじゃないかとか、あとは練習のシューティングのときに、リバウンドに入ってくれて『今のはちょっと違うな』とかいろいろ言ってもらうことはありましたね」
B:そういえば原選手は、下級生の頃はミドルシュートが多かったように思うのですが、今は3Pシュートも増えましたよね。
「それはありますね。僕正直、3年くらいまであまりちゃんと3Pシュートの練習をしたことなかったんですよ。自分の中では、3Pシュートもミドルシュートの延長戦というか…。普通にシューティングで3Pを打ち続けると、なんか打ち方がよく分からなくなるんです。ミドルシュートだといつも通り打てるんですけど。それで試合中も、流れの中で打つので全然3Pラインとか気にしてなくて。シュートを打ってみて結果的に、あ、3Pだったなって感じだったんです」
B:確かに、3Pラインを踏むくらいの2Pシュートが多かったですね。
「ラインを気にしちゃうと、ボールのもらい方とかに無理が出てシュートが崩れちゃうような気がするので…。でもそれじゃダメだと思って、本格的に3Pの練習を打ち始めたのは3年生とか今年からですね」
B:あとは、フェイダウェイを打つ機会も増えましたよね?
「そうですね。身に付けたというか、やっていくうちに自然と…。自分はスピードがあまりないので、ああでもしないとブロックされることが多いんですよ。前、飛竜からフェイダウェイはどうやったら入るのかって聞かれたんですけど、結構遊びでなんとなく打っているうちに身に付いたというか、無意識に感覚で打ってる感じなんです。もとから反り気味だったんですけど、大学2年生くらいから自然とフェイダウェイ気味になりましたね」
B:原選手は、普段のシューティングはどのように行うんですか?
「基本的にはあまり本数とかは気にせず、気がすむまで打つ感じです。シュートは昔から好きなので、入らなかったらずーっと打ち続けるタイプですね。一人で、『くっそ、入んねー。ムカつくな』とかイライラしながら。それで、『お、良い感じ良い感じ!』ってなったらやめます。でも今年は割と後輩にリバウンドに入ってもらって、本数を決めて練習することが多いですね。それを必ずやった後で、自由にシューティングをする感じです」
マイペースだが「はっちゃけるときは、はっちゃける」
B:ここからはバスケ以外のお話を伺いたいのですが、自分の性格は?
「マイペースですかね? 結構気分屋です。インドア派というか、面倒くさがりで…あまり遠出したくない(笑)。目的があれば渋谷や新宿も行きますけど、目的もなく都心まで出てぶらつくことはほぼないですね。無駄なエネルギーは使わないというか、すぐ足が疲れちゃうんです(笑)」
B:若者らしくないですね(笑)。
「買い物とかしてて特に目的もなくお店を回ってると、雑貨屋とかに入ってイスに座りたくなりますね。みんなが回ってるのを休んで待ちたいタイプです。嫌いじゃないんですけど、疲れちゃうんです(笑)。あと、普段はそんな積極的に自分からたくさん話さないかもしれないです。はっちゃけるときは、はっちゃけますけどね。まぁ、国士舘はみんなそうです(笑)」
B:応援団も、はっちゃけるときははっちゃけますよね(笑)。
「そうですね。いつも明るく盛り上げてくれるので、応援はすごく力になります。なのになかなか勝てなくて、チームメイトにも本当に申し訳なかったですね。毎試合、わざわざ遠いところまで来てくれたのに」
B:最近、国士舘も以前と少しイメージが変わったように思います。1部に上がったからかもしれませんが。
「そうですよね。たぶん、前より可愛くなってません?(笑)コワモテのやつもいるかもしれないですけど、基本みんな子どもです」
そういえば筑波大のホームゲームのとき、国士舘の選手たちがすごくエスコートキッズの子たちに優しかったのが印象的でした。
「そうですか? まぁ、たぶんみんな子どもは好きですね。たまに大学の先生が子どもを連れてくることがあるんですけど、みんなすぐちょっかい出すんです。サッカーとかで遊んでる子どものボールを、大人げなく蹴ってイタズラしたり…気付けば一緒になって遊んです。みんな精神年齢が同じくらいなんです(笑)」
B:話は変わりますが、地元・千葉の自慢はありますか?
「自慢ですか? 自慢かー…なんだろう。まぁ、ディズニーじゃないですか。あ、そういえば船橋に『アンデルセン公園』という公園があるんですけど、なぜかそこが何かの日本のテーマパークランキングで3位に入ったんですよね」
B:あ、一時期騒がれていましたよね。1位がディズニーランド、2位がディズニーシーで、3位がそこの公園だと。
「はい。僕からしたら小さい頃から知っている公園なので、ランキングを知ってなんで!? ってなりましたね。まさかのUSJより上ですから。まぁ、確かに面白いんですよ? アスレチックみたいなのが多くて、子どもの頃の行ってすごく楽しかったです。でも、USJより上はさすがに…と(苦笑)。ただ、ネットって恐いなと思ったのは、そのランキングがTwitterとかでめっちゃ騒がれたじゃないですか。そしたらこの前、筑波大のホームゲームのときに親が試合を見に来て、帰りは車で千葉まで送ってもらったんですけど、そのときアンデルセン公園の近くの道が大渋滞だったんです(笑)。小さい頃はなかった仮設の駐車場とかできてて…。改めて、ネットの力はすごいな〜と思いました」
B:他に千葉自慢はありますか?
「うーん…意外と、良い感じに都会ですけど、静かでちょっと田舎な部分もあります。自分はそのくらいが好きなんですよ。ちょっと出れば都会だし、地元は静かだし。……こんなのが自慢って言ったらあれですけど(苦笑)。あとは、食べ物では梨がおいしいですね。自分のおばあちゃんちの近くに梨園がたくさんあって、小さい頃はよく食べていました」
B:千葉の特産でなくて構いませんが、原選手の好きな食べ物は?
「チーズケーキです。甘いものはすぐ飽きちゃうんですけど、チーズケーキは結構好きです。タルトも好きなので、チーズケーキのタルトが良いですね。下が硬いやつ。よく分からないですけど、最近差し入れでよくいただくんですよ」
B:嫌いな食べ物は?
「メロンと椎茸です。メロンは、食べられるんですけど、自分から食べようとはならない。椎茸は、切り方があんま好きじゃなくて…」
B:切り方ですか(笑)
「なんていうんですかね…食べ物っぽくないというか、ゴムっぽい感じが…。他のキノコは好きなんですけど、椎茸は苦手です」
B:では、次にインタビューを回す人を指名してください。
「どうしますかね…。僕、あんまり有名な選手には回したくないんですよ。だって高校時代から全国で活躍してた選手とかは、もうみんなだいたい知っているじゃないですか。だからマニアックな人に回したいなと思って、田代か、加藤か…あとは明治のやつらも仲良いんですけどね。どうしようかな…。じゃあ、小さい頃から知っている田代にしますか」
B:では専修大の田代選手に決定ですね。田代選手はどんな人ですか?
「根は良いやつだと思います。でもあいつと話してると、すぐ『オチがない』とか言われるんで、僕何も話せなくなるんですよ!(笑)。あいつはネタ仕込んできたりするし、それを面白く話せるし、敵わないです。あとは、意外に寂しがりやですね」
B:田代選手には何を聞けばいいですか?
「うーん…最近太ったから体重とかじゃないですか。本人は痩せたって言い張ってるんですけど。僕もあいつも、太りやすいです。骨太だし。なので、スタイルの面を聞いてみるとか……いや、本当にそんなのでいいのかな?(笑)」
B:(笑)。では次回は専修大の田代選手にお話を伺います。原選手、どうもありがとうございました。
◆#22原 修太(はら しゅうた)
高根台中→習志野高→国士舘大
・2006 全国ミニバス大会出場
・2014 ヤングジャパン
・2014 李相佰盃日本代表
・2014 日本学生選抜(三菱電機カップ)
・2014 日本代表国際親善試合日本代表(ヤングジャパン)
・2015 ユニバーシアード日本代表
(2015.10.5&11.29インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.32~国士舘大学・原修太選手~

当たり出したら止まらない爆発的なシュート力を武器に、1年生の頃からチームの得点源として活躍してきた原選手。2年生のときに国士館大の1部昇格に貢献し、大学4年を迎えた今年はユニバーシアード日本代表に選ばれるなど、大学界を代表する選手の一人へと成長を遂げた4年間があり、今後のキャリアでも活躍が期待されます。しかしそんな原選手は、中学・高校時代は全国大会とは全くの無縁。そんな状況からいかにして大学で花開いたのか、知られざる中学・高校時代のエピソードも今回じっくりと伺っています。
また、大学受験の珍エピソードや意外(?)な千葉自慢など、バスケットボール以外のお話もたっぷりと語っていただきました。32回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
[続きを読む]
きっかけとなったミニバスの合併

「見て分かるとおり、やっぱりバスケに対して熱いやつですね。オフシーズンに一緒にバスケしたんですけど、その追い込み方が自主練のレベルじゃない。そこはすごいなと思います」
B:自主練を一緒にやったんですか?
「自分はハンドリングが全然ダメなので、LINEであいつに『どうしたらいい?』って相談したんですよ。そうしたら今年(2015年)の1月くらいに、ハンドリングのコーチみたいな人と一緒にワークアウトするから来る? と誘われて。それで行って一緒にやってみたら、めちゃくちゃ腕がキツくて、無理でした(苦笑)。でもあいつは全然余裕な感じでやっていたので、やっぱり違うなと思いましたね」
B:予想以上に過酷なワークアウトだったんですね。
「なんだかんだ大丈夫だろうって甘い気持ちで参加したんですけど、やられましたね(苦笑)。次の日は筋肉痛がヤバかったです。日々ああいう練習をしているから、あいつのハンドリングはすごいんだなと実感しました」
B:岡本選手は、性格的にはどんな人ですか? 延岡学園ではいじり役だったらしいのですが。
「え、いじり役ですか!? あ、でもまぁ黒木(慶應大#7)や岩田(拓殖大#29)がいますもんね(笑)。岩田とかかなりいじられキャラですし。赤石(拓殖大#99)なんかは絡むくせに、いじりが雑だし(笑)。飛竜の性格は…かわいいですね。コートの外では、普段はかわいいやつです」
B:大学に入ってから知り合ったんですよね?
「そうです。でも高校時代から、一方的に知ってはいました。自分、高校生のときは全国大会も出てないし、あまり全国の強豪校とかに興味なかったんですよ。だから名前を知っている選手も数人しかいなくて、礼生(東海大#0ベンドラメ)と、ハッシー(東海大#21橋本)と、小松(筑波大#16)くらいかな。小松は、同じ千葉で昔から戦っていたので知っていたのと、ハッシーは月バスで見て『うわ、こいつデケー!』って驚いた覚えがあります。それで飛竜のことは、確か高校3年のウインターカップで知りました。決勝を東京体育館に見に行ったんですけど、最後にベンチから飛竜が出てきて、ダブルクラッチか何かを決めたんです。それを見て『あいつヤベーな』と思った記憶はありますね」
B:最初の印象は、ウインターカップの決勝で見た選手だったと。
「はい。それで大学になって国士舘と拓大って1部に上がる前は練習試合をすることも結構多かったので、最初に見たときに『あ、延学のアイツだ!』と思いました。それで、気付いたら結構仲良くなっていましたね」

「小学校3年生です。ベタな感じですけど、自分の2個上の姉がバスケをやっていて、その試合をよく見に行っていたんです。そのミニバスチームのコーチから、『入りなよ』と誘われたのがきっかけですね。ただ自分、小学生のときに水泳とかもやってみたんですけど、辞めちゃって…。だから親も、『すぐ辞めるかもしれないから』って考えていたみたいで最初はバッシュを買ってもらえなかったんですよ。それで、ある程度長く続ければバッシュも買ってあげるよと言われて、バスケだけはちゃんと続けました。それでバッシュを買ってもらいました」
B:ご両親はバスケをやっていたんですか?
「昔はやっていたみたいですね。でもあまり詳しくは聞いたことないです」
B:バスケに関して、ご両親からアドバイスされることはありませんでしたか?
「あまりないんですけど、小6の頃はかなり言われました。僕、小5までは小学校の部活みたいな感じのチームだったんですけど、小6のときに近くの小学校とチームが合併したんです。そのチームが結構強豪で、監督もその合併したチームの厳しい監督になったんですが、そこから親のバスケスイッチが入ったのか、急に厳しく言うようになって…。だから自分、6年生なのにホント毎試合で泣いてました(笑)。監督にも怒られ、親にも怒られ…」
B:合併してから環境がガラリと変わったんですね。
「はい。チームが強くなって、周りも上手い選手が多かったので、自分だけがダメで足を引っ張る試合もありました。そしたら試合のあと、帰りの車の中で親にすっごいダメ出しされるんです。そこでまた泣いて(笑)。あの1年間は、怒られて泣いた記憶ばっかりですね。親は、なぜか中学に上がったらピタッと何も言わなくなったんですけど…。今でもなんで6年生のあのときだけめちゃくちゃ怒られたのか、謎です(笑)」
突如拓けた全国ミニバス大会への道

「一応、6年生のときは関東大会に初出場して、優勝しました」
B:そんな強豪チームだったんですか。全国ミニバス大会には出場したんですか?
「はい、一応…。でもその全ミニ出場も、たまたま運が良かったんです。確か、香川のチームが5校制(※5校以上で編成するチームは、原則全国大会に出場できない)に引っ掛かったか何かで急に出られなくなって、関東で優勝したうちが繰り上がりで出ることになったんです。千葉県では、小松(筑波大#16)のいた『村上イーグレッツ』っていうめちゃくちゃ強豪のチームが県優勝して全ミニに出ることになっていたので、僕らも一度引退していたんですけど、その後で声がかかって、急きょ千葉県から2チーム出ることになりました」
B:珍しい経緯ですね。
「本当に運が良かったですね。そもそも優勝した関東大会も、当時ブロックが2つあって、村上とは別のブロックだったので…。確か関東大会には、佐藤翔耶(法政大#67)のいた栃木の佐野ミニバスがいて、そこも全ミニに出るような強いチームだったんですけど、別ブロックだったんです。まぁ、運が良くて関東優勝して、さらに運が良くて全国に出られたんです。そう思うと、自分はミニバスが結構全盛期ですね(笑)」
B:全国大会での戦いはどうでしたか?
「予選リーグで新潟の葛塚東ってところと対戦したんですけど、そこが結構サイズのあるチームで負けてしまいました。佐賀のチームには勝ったんですが、予選リーグ2位で決勝トーナメントには行けなかったです。でも確か僕らのブロックは葛塚東が準優勝で、村上イーグレッツが優勝だったんです。村上は自分的に最強のチームだと思っていたので、仕方ないかなという感じでした」
B:初めて味わう全国レベルは、どう感じましたか?
「うーん、でもミニバスは監督が厳しかったので、とにかく何も考えずに必死にやっていただけでした。代々木の体育館がスゲーとは思いましたけど、そんな全国のレベルを味わうほどの余裕がなかったですね(笑)。あとは、東京に来たついでに、いろいろ観光できたのが良い思い出です。千葉ですけど、小学生だし東京なんか滅多に行かないじゃないですか。それは楽しかったです」
B:小学生の頃に対戦して覚えている選手はいますか?
「当時は、田渡凌(現ドミニカン大)がいた弥生第二小と練習試合をよくやっていて、田渡凌があっちから話し掛けてくれたんですよ。それは自分の中でちょっとした自慢でした(笑)。まぁもう今じゃ絶対に忘れられてると思いますけど。彼はミニバスのときからかなりすごかったですね。膝が痛いって言っていたのに、自分、めっちゃやられましたから」
B:原選手は、当時どういうプレースタイルだったんですか?
「小学校は基本、シュートしか打ってなかったですね。ドライブはほとんどしていませんでした。うちのガードがスピードもあってうまかったんです。だから僕は動き回ってそこに合わせてボールをもらって、ひたすらジャンプシュート。特に0度から打つことが多かったですね。なぜか小6のときは膝が痛かったので、あまりドライブして膝に負担をかけたくなかったのもありました」

「そうですね。プレースタイルは、今と大きくは変わらないかもしれません。今よりシュートの距離はもっと短かったですけど。ミニバスは3Pラインがないですし、あんまり遠いとシュートが届かなかったんですよ。当時、全部ジャンプシュートで、空中で溜めて打つように言われていたので、距離があると無理でした。エアボールになると怒られるし、極力近い位置で打つようにしていましたね」
B:身長はどれくらいでしたか?
「普通でした。小さくはなかったですけど。小6で156cmくらいだったと思います。小4くらいまではデカかったんですけど、小5、小6で急に止まっちゃったんです。でも小6の最後、中学入るときには160cmくらいになって、中学の3年間で25cmくらい伸びました。卒業するときには183くらいだったと思います」
B:それは一気に伸びましたね。
「不思議なのは、専修の田代(#24)いるじゃないですか。あいつのことは同じ市内だったので小学生の頃から知っていたんですけど、大会のプログラムとかの身長を見ると、僕と田代って小学生の頃からずーっと身長が同じくらいなんですよ。伸び方が同じ。自分が身長止まる時期はあいつも止まるし、自分が一気に伸びればあいつも一気に伸びるんです(笑)。今もあいつが187とか188くらいで、ほぼ同じなんですよね」
意外にも「中学はバスケの記憶が薄い」

「チームとしては親の関係で1人は市原の方にいったんですけど、それ以外はミニバスと変わらないメンバーでそのまま地元の中学に進みました。中学時代は……なんか正直、バスケに関する記憶が薄いんですよね(苦笑)。1、2年生のときは全く試合に出られなくて、自分たちの代になってようやくスタメンになれた感じでしたし」
B:中学はどんなチームだったんですか?
「全然強豪という感じではなかったです。平日は基本的にハーフコートしか使えませんでしたし。成績も自分の代は市の5位くらいで、県大会も出られないようなチームでした。それに顧問の先生がすごく私生活を大事にする先生だったんですけど、自分、中学時代はガキだったので、何かやらかしてすぐ見つかって怒られてばかりいたんです」
B:例えば?
「掃除の時間に柔らかいテニスボールみたいなので野球やってて、ボールを時計にぶつけて壊して怒られたり…。あ、体育館の時計にバスケットボールをぶつけて壊して怒られたこともありました(苦笑)」
B:やんちゃな中学生だったんですね(笑)。
「教師に反抗するってことはないんですけど、地味〜に、しょうもないことをやるタイプだったんですよ。体育や音楽の時間別のことをこっそりしてたり。でもこっそりやるのに、なぜかそれが全部バレてるという。中学の先生やバスケ部の監督からしたら、自分は結構ダメなやつだったと思いますね。でも、そういう毎日が楽しくて。バスケ以外のことが楽しかったので、バスケに対して記憶が薄いのかも知れないです」

「そうですね。なんであんなに興味がなかったのか…。自分の代の県大会が地元の船橋アリーナでやっていたんですけど、それも友だちはみんな見に行ったのに自分は行かなかったし、親が見に行って決勝をビデオで撮って来たんですけど、それもちょっと見て飽きて最後まで見ませんでした。あ、そういえば市の選抜にも落とされたので、それでやる気をなくしてたのかもしれないですね」
B:市の選抜には選ばれなかったんですか。
「はい。選考会があって、監督から『アピールしろよ!』みたいに言われていたんですけど、当時の自分は反抗期というか、そういうアピールがちょっと恥ずかしくて。中学生って、頑張るのが恥ずかしいみたいなところあるじゃないですか。今思えば一生懸命やれば良かったなと思いますし、もちろん一生懸命やったところで受かるか分からなかったわけですけど、結局市の選抜はいきなり1次で落とされました。僕と同じく、田代も市の選抜は選ばれてないです(笑)」
B:今大学の1部で活躍している2人なのに意外です。ちなみに田代選手は、当時どんな選手だったんですか?
「あいつは何でもできる感じでした。抜き方とかもうまいし、外のシュートも入るし。小学校のときから、僕とプレースタイルは違いますけどマッチアップすることが多かったので、ちょっとライバル視というか、意識していました」
B:ほかに中学時代に対戦して覚えている選手はいますか?
「うーん…中学は、県大会すら出られなくてほんと船橋市内で留まっていたので、県でどこが強いのかとか全国では誰が上手いかとか、全く分からなかったんですよね(笑)。あ、小松がいる習志野五中とは練習試合をやったと思います。点差とかは全く覚えてないですけど、たぶんボコボコにやられましたね。あとは田代のいた前原中とも対戦したんですけど、自分たちの代ではやっていないです。練習試合でちょっとやったくらいかな。だから中学で田代と対戦することはあまりなかったですね」
「人生で1、2位を争うくらい焦った」大学受験

「小学生のとき、バスケの強い高校と言ったら市立船橋しか知らなくて、小学校の卒アルか何かに『市船に入ってバスケで有名になる』みたいなことを書いたんですよ。でも中学校のときに、『習志野五中の人たちがいっぱい来るなら俺、試合出られないじゃん。無理だ』って普通に思って。あと僕、小さい頃からおじいちゃん子だったんですけど、その祖父が中3の春に亡くなって、その祖父と習志野の当時の監督が仲良かったんです。それで小さい頃からその監督には可愛がってもらっていたので、そのつながりもあって習志野にしようかなと。県内では習志野もそんなに弱くはなかったし自分は試合に出たかったので、結構あっさりと決めました」
B:それで地元の船橋ではなく、習志野高校に決めたんですね。
「はい。船橋市の僕は習志野に行き、習志野五中の人たちは市船に行くという、ちょうど入れ替わりな感じで(笑)。でも習志野も、受験はいろいろ大変でしたね。千葉県って、今は違うかもしれませんが当時は『特色化選抜』という入試方法があって、公立の高校がそれぞれの学校のやり方で試験をやるんです。一般の入試よりももっと前に。それで習志野の場合は作文と面接の試験で、特色の方がたぶん倍率は高かったんですけど、一応受けるだけ受けてみようと思ったんです」
B:推薦入試・AO入試のようなものですね。
「はい。でも試験当日、まだ時間があると思ってのんびり地元のイオンで友だちとご飯食べてたんですけど、電車に乗って学校に向かったら、思いのほか遠くて(笑)。というか、今はスマホのアプリで電車を調べられますけど、当時は携帯を持ってても電車を調べるってことを知らなかったんです。それで、乗った電車が目的地の手前で終点になっちゃって、完全に遅刻したんです。めちゃくちゃ焦りながら学校までダッシュして、もう門が閉まっていたんですけど『すみませーん!』って泣きついて開けてもらって…。もう、あれは焦りまくりましたね」

「もう人生で1、2位を争うくらい焦りました。焦りすぎて、試験カードみたいなやつも別の私立のやつ渡しちゃったりとか(苦笑)。それで作文も汗だくのまま書いて、全然うまく書けなかった気がするんですよ。で、面接も、一応結構練習してきたんですけど、全然自分の予想と違って…」
B:どんな面接だったんですか?
「いや、僕の想定では、コンコンってドアをノックしてから『失礼します』って言って部屋に入る予定だったのに、いきなり最初からドアが開いてたんですよ!(笑) もうそこから焦って『え、どうしよう!』ってパニック。しかも面接が終わったあと、練習では右のドアから入って左のドアから出ていく予定だったんですけど、左のドアから出ようとしたらカギが掛かっていたんです。出ようとしたら、ガチャガチャってなって。なんかもう、ほんと『終わった…』と思いましたね(笑)」
B:ドタバタですね(笑)。
「はい。もう絶対落ちたと思いました。友だちがもう一人一緒に受けていたんですけど、そいつは僕より真面目で優秀なやつだったので、絶対に自分は落ちてそいつは受かるだろうと思っていたんです。だから、一緒に合格発表を見に行くときも、そいつに『俺が落ちても優しい言葉かけなくていいからな! 俺のことバカにしろよ!』とか言ってて。でも掲示板を見たら、奇跡的に2人とも受かっていたんです。それはめちゃくちゃうれしかったですね。掲示板見る前は、近くで喜んでるやつらを見て『ちょっとは周りの落ちたやつのことも考えろよな』って内心思っていたんですけど、いざ自分が受かったら人の目も気にせず、ハイタッチしてめちゃくちゃ喜びました(笑)」
B:習志野高校は、入ってみてどうでしたか?
「習志野って今は部員がすごく多いんですけど、僕がいた頃は普通に1学年10人くらいで、やんちゃなやつらが多かったと思います。当時の監督の指導も、結構自由な感じで。監督は、当時75歳くらいだったんですけど、大昔はオリンピックに出たこともあるすごい選手だったらしく、背が190㎝くらいありました」

「その監督、いろいろと面白い、元気なおじいちゃんだったんですよ。例えば3メンをやっていると、急にパスカットしようとして飛び出してくる。もう、超危ないです。走ってる人がぶつかったら大怪我しそうだし、ボールをカットしたときも『痛〜!』って言ってるし。もうヒヤヒヤでした。そうかと思うと、いきなり練習中に寝ちゃうんです(笑)。ずーっと同じ練習が続くので『いつまで続くんだろう…』と思って監督の方を見ると、イスに座ったまま寝てるんですよ(笑)。怒るときも『こらぁ〜』って、なんとなく柔らかい感じでした。当時、江戸川大にいた臼井さん(12年度江戸川大主将)たちの代のキャプテンの先輩が、たまに練習に見に来てくれていたんですけど、監督よりその人がめっちゃ厳しかったですね」
B:OBがコーチとして来ていたんですね。
「はい。その先輩や臼井さんがいた代は、確か関東大会に出場していて、習志野の中ではすごく強い代でした。その先輩の指導のもと、僕らも結構走る練習とかをやっていましたね」
高校では「自由にのびのび」プレイ

「はい、僕が卒業するのと入れ替わりで、黒田先生がコーチになったんです。今でもたまに練習に顔を出すんですけど、僕がいた頃の習志野ではないですね(笑)。部員も多いし、すごくピシッとしていて緊張感があります。黒田先生がしっかりみんなをまとめているので、集合がかかればみんなダーってダッシュで集まるじゃないですか。僕がいた頃は、監督から「集合〜」って言われても、タッタッタッて小走りくらいでしたから(笑)。今のように練習着をそろえることもなかったし、僕らの頃は今思うとかなりゆるーい感じでしたね(苦笑)。まぁでも、僕はあの監督の下で3年間自由にやらせてもらえて良かったなと思います。2年生からスタメンで出させてもらえていろいろ経験も積めましたし、自由にのびのびやらせてもらえた分、自分たちで考えてどうにかしようとする部分もあって楽しかったので。まぁそのかわりと言ったらアレですが、強豪校出身の選手たちと比べたら全然基礎ができてないなと、大学に入ってから痛感しましたけどね(苦笑)」
B:原選手たちの代は、最高成績はどれくらいだったんですか?
「僕らの代は県ベスト16です。1個上の代の方が強くて、確か県で6位くらいだったかなと思いますが。僕らは江戸川の王(#10)とかがいた柏日体に負けました。しかも高3のときは、関東大会の県予選で柏日体とやったときに、パスカットして骨折したんですよ(苦笑)。相手が速攻のときに王に向けてすっごい高いパスを飛ばしたんですけど、それを『取れる!』って思って全力でジャンプしたら、バランスを崩して着地失敗。そのときに自分の左手を下敷きにしてしまって、立ち上がった途端に左手が熱くて感覚もありませんでした。病院に行ったら骨折と診断されて、最後のインターハイ予選には無理やり出たんですけど、直前まで全然練習していなかったし、普通に拓大紅陵高校に負けました」
B:それが引退試合となったんですね。バスケは大学でも続けようと思っていたんですか?
「いや、最初は高校までで良いかなと思っていたんです。でも偶然、拓大江陵の監督から試合で負けた後に『大学でもバスケ続けたら?』って言われて。拓大江陵は、練習試合もよくやる高校だったので、その監督とも知り合いでした。ただ、そのとき拓大江陵の監督から、『1部は別格だから、続けるとしたら3部か、良くて2部だな』と冷静に言われたんですよね(笑)。それで自分でも、1部は無理そうだけど、3部や2部でバスケ続けるのも有りかなと思ったんです」
B:最初から1部でプレーしたい、というわけではなかったんですね。それで、どうして国士館大に?
「どうしようかな〜と思っているときに、学校の体育館で大学説明会っていうのがあったんですよ。そのときに入口の一番目の前にあったのが国士舘で、まず名前がカッコいいなと…」

「最初の印象はそうです(笑)。で、ブースで詳しく話を聞いてみて、あ、結構いいなと。それで調べたら国士舘は2部だったので、ぴったりじゃないかと思いました。高校に指定校推薦があったので、それで進学を決めました」
B:ではバスケ推薦ではなく、普通に一般生としての入学だったんですね。
「はい。国士舘のバスケも全く見ずに決めました(笑)。指定校推薦の試験が秋にあって、それが決まってから初めてリーグ戦を見に行きました。そこで初めて国士舘のバスケを見て、『あ、こんなチームだったんだ』と。しかも見に行ったのが、2011年のリーグ戦の最終日で、西片さん(11年度主将・現大塚商会)とか三村さん(11年度卒・現メディセオ)とかの代だったんですけど、勝てば入れ替え戦、負ければ引退っていう、めっちゃ大事な試合だったんですよ」
B:白鴎大とのすごい試合でしたよね。あの試合を見に来ていたんですか。
「はい。あの試合が、僕が生まれて初めて見た国士舘のバスケでした。会場も国士館の体育館だったんですよね。それでその試合の後、小倉監督に挨拶に行きました」
大学1年からつかんだチャンス

「入学する前は、自分はバスケ推薦じゃないしBチームだと言われていたので、Bチームで数年頑張ってAチームに上がろうと思っていたんです。でもたまたま運が良かったのは、入学前に合宿に参加できたことで…。国士舘って毎年3月に合宿をするんですよ。今は沖縄なんですけど、僕が入学するときは長野合宿でした。で、普通、新1年生はバスケ推薦の人たちだけが合宿に参加するんですけど、1個上で市船橋の中島さん(14年度卒)から『お前、そこに参加したほうがいいぞ』とアドバイスをいただいて。それで習志野の監督経由か何かで、小倉さんに参加させてくださいと頼んだんです。バスケ推薦じゃなくて一般生でその合宿に参加した1年生は、俺と菅(#4)くらいだったと思います」
B:その合宿が転機となったのですね。
「そうですね。合宿は、AチームとBチームに分かれてやっていて、もともと自分は1日目の午前中にAに参加して午後はBに参加する予定だったんです。でもたまたま、その午前中に自分かなり調子良くて。たぶん、先輩たちはオフシーズン明けであまり調子が上がってなかったんですよ。そのとき自分は4番ポジションで使われたんですけど、あまりディフェンスも来なかったので結構シュートが打てたんです。それで午後はBの予定だったのが、『お前午後もAでいいよ』と言われて。ほんとそれは大きかったですね」
B:それから試合に徐々に使われるようになったと。
「はい。練習試合とかでも交代で試合出してもらえて。でも僕、本当に高校まで全国とかでプレーしていなかったので、やっぱり試合に出ると怒られることも多かったし、出されては引っ込められ、出されては引っ込められでしたね(苦笑)。ただ新人戦で、調子がかなり良いというわけではなかったんですけどまぁまぁ得点が取れて、その流れで夏も調子が良かったので、リーグ戦もスタメンで使ってもらえました」
B:リーグ戦の初戦、いきなりの大活躍だったので、『何者だこの1年生は!』と驚きました。
「あー、確か初戦は結構調子が良かったんですよね。まぁ1年生のときは、背負うものもなくて気が楽でしたね。自分が点を取れなくても、平田さん(2012年度卒)が結構取ってくれたので。だから最初、リーグ戦の目標は平均4点くらいだったんです(笑)」
B:それは目標としては低くないですか?(笑)
「そうですかね? まぁ僕、たぶんハードルを下げて気を楽にして臨むタイプなんです。プレッシャーをなくすと、意外とシュートが入って。あ、あとはBOJに載るってのも目標にありました(笑)」
B:ありがとうございます(笑)。確か、試合終了間際にバスケットカウントを決めた試合が初のインタビューでしたね。
「はい。でもあれば、最後のおいしいところを持っていった感じですよね(苦笑)。残り20秒くらいの場面でレイアップをぽろりと落として、『終わったー!』って思ってたら、その後、祐二さん(高橋・13年度卒・現NBDLパスラボ山形)からすごいアシストパスが飛んできて、『うわ!』みたいな(笑)。そしたらたまたまファウルをもらった感じでした。祐二さんのお陰です」

「本当ですか? それ、今聞きたい言葉ですね(苦笑)。まぁ1年生のときは、もらってただシュートを打つだけの役割だったので、それしか考えずにいられました。しかもタケさん(松島・13年度主将・現NBLレバンガ北海道)もいたし、いろいろアドバイスをくれたんです。怖いもの知らずというか、あまりよく分からずに1年目はやっていたのが良かったのかもしれません」
B:1年生のときは、2部3位で1部との入れ替え戦に進出しましたね。3戦にもつれた末に、早稲田大に敗れてしまいましたが…。
「代々木はめちゃくちゃ緊張しましたね。1戦目と、2戦目の前半まではものすごく緊張していて、全然自分のプレーができなくて。2戦目の後半と3戦目でようやく緊張も取れてきたんですけど…。あの入れ替え戦は、早稲田の大塚さん(12年度卒・現豊田通商)がヤバかったです。試合中なのに、ハッとさせられましたから。『あのタケさんが股抜きされんの!?』みたいな。あれは衝撃でした」
尊敬する先輩たちのもとでチームが1つに

「そうですね。曹宇辰さんと平田さんが引退して、得点源がいなくなるぞと。あとは、キャプテンになったタケさんが恐すぎて…。今思っても、タケさんはすごかったなと思います」
B:松島選手は4年生になって、練習中や試合中にあの明るいキャラクターを封印していましたよね。
「はい。プライベートでは全然普通に楽しい人なんですけど、練習中は、恐いなんてもんじゃなかったですよ。2年生のときは、小倉監督より、タケさんの方がみんなに怒ってましたから。本当にスゴいですよ」
B:話には聞くんですが、取材のときはニコニコしているので、あまり恐いところが想像できないんですよね。
「いや、なんていうんですかね…無言のプレッシャーとかがすごいんです。練習の前とか何も話さないんですよ。挨拶してもほとんど無視だし、ピリッとした雰囲気をかもし出してる。みんなでちょっかい出しても真顔で無視です。それで練習中も、声出さないとめちゃくちゃ怒るんです。一番タケさんの声が通るので、僕はタケさんとかぶらないタイミングを計って『ファイトー!』とか声出してました(笑)。たぶん皆さんが想像するような国士舘って感じじゃなくて、高校生のような練習でしたね。フットワークとか手を抜くとめっちゃ怒られるので」
B:原選手も怒られていたんですね?
「そうですね。一回僕、都大会のユニフォームを間違えたんですよ。2年生の…6月か7月くらいだったかな。いつも僕、背番号22番なのに、都大会だけ12番をもらって…それで間違えて22番を持ってきちゃったんです。会場で気付いて『やべー!』って家までユニフォームを取りに行って会場に戻ったら、もう試合が始まっていました。そのとき、タケさんがものすごい怒った顔してて…。あれは恐ろしかったですね。試合のあとの集合で、みんなに『今日はすみませんでした』って謝ろうとしたんですけど、『今日は…』って言ったらタケさんが『集合終わろう』って解散させちゃったんですよ。それからリアルに1か月くらい口を聞いてもらえませんでした(苦笑)」
B:それは恐いですね(苦笑)。あの年はトーナメントでチーム状況もあまり良くなかったですよね。よくリーグ戦で立て直せたなと思いましたが。
「そうですね。正直リーグ戦も、前半はあまり調子良くなかったですね。個人的にも2年生のときは宇辰さんと平田さんが抜けたこともあって、2年生のくせに『俺がやらなきゃ』みたいに思っていたんです。それが空回りしていてなかなか思うようなプレーができなくて…。でも後半、個人的にも徐々に調子が上がってきましたし、タケさんや祐二さんがチームをすごく引っ張ってくれました。それでリーグ戦も2巡目は全勝できたんですよね。4年生のお陰でのびのびやらせてもらえていたので、今思うと楽しかったです。特に入れ替え戦はすごく楽しかったですね。4年生と仲が良かったので、その人たちと一緒に1部に上がれたことがものすごくうれしかったです」

「(笑)。でもあれ、タケさん練習後にあの練習していたんですよ。ハーフラインくらいからのシュート。みんな『あの人何やってんだろ…』みたいな感じで見てたんですけど、あれが入れ替え戦で入ったので、『あの練習が生きた!!』ってみんなびっくりしてました(笑)」
B:あのワンプレーで勢いに乗りましたよね。3戦にもつれた末に、1部昇格となったわけですが、高校生のときには1部でプレーするなんて夢にも思っていなかったんですよね。
「はい。1部に昇格してうれしい気持ちもものすごくあったんですが、正直、やばいかもって不安もありました。入れ替え戦のあと、その年のインカレで自分、明治にすごい抑えられてしまったんですよ。あれで、1部のディフェンスはやばいんだなと痛感しました」
B:3年生のときは振り返っていかがですか? 春はなかなか結果が出ませんでしたが。
「そうですね。タケさんと祐二さんが抜けて、トーナメントは全然うまくいかず…苦しかったです。早稲田にも負けるし、順位決定戦でも中央に競り負けて…。マジ泣きそうでした。ってか、華武伊さん(新田・14年度卒)が無駄に優しくしてくるから、泣きそうになるんですよ!!(笑)特に早稲田戦の後で僕めっちゃ怒られて、華武伊さんに励まされましたね」
B:リーグ戦は昇格初年度ながら好成績を残しましたね。リーグ戦で5位、プレーオフで6位でした。
「トーナメントで結果が出なかったので、リーグも始まる前はかなり危機感がありました。でも1週目で東海大と対戦したときに、前半まで競り合うことができて、それがちょっと自信になったんです。そこからは、もうノリと勢いでやってましたね(笑)。あのときは伊集さん(14年度卒・現九州電力)も永山さん(14年度卒・現大塚商会)もいて、みんなシュートがポンポン入りましたし。よく分からないまま思い切り良くやってたら、結果が付いてきた感じでした」
B:あの年は、拓殖大などにも勝ったんですよね。
「まぁでも、拓大が僕らのことナメてたんだと思います(笑)。1試合目は普通にナメてて、2試合目は伊集さんがいなかったので、それでナメてたんだと思います。絶対そうです(笑)」

「そうですね。でも4年間で何度も苦しいときはあったし、そのおかげでメンタルは鍛えられましたね。今年は春に代表の合宿に行っていて自分もいなかったりしたし、それでもなんとかなるかなという感触はあったんです。リーグの1週目も筑波に負けてはしまいましたが、それでもそんなに悪くなくて。次の東海との試合でも自分たちの出来というよりは相手が強かったなという感じで。でも拓殖大に負けてからチームの雰囲気が悪くなっていきました。安易なミスも増えて、そうすると強気なプレーを自分もチームもできなくなっていったんです。攻め気がないというのは分かっていたんですが、どうすればいいのか本当にわからなくなって、監督に求められることにも応えられなくなっていったのが自分の弱さだったなと思います」
そういう中でどうしていたんですか?
「学生コーチに話したりしていましたが、なかなか解決できる課題でもなくて、ただ聞いてもらうことで助けられていたのはあると思います。一人じゃ乗りきれないことでした。来年は2部からになりますが、今年活躍した下(#15)もいいし、インサイドの馬(#66)にも期待しています。いいチームになると思っています」
写真上:2012年の主将・松島選手(現NBL北海道)。まさにチームの精神的支柱として国士舘大を1部に導いた。
大きな刺激と課題を得た国際試合の経験

「自分にとってすごく大きい経験でした。でも、世界の相手にちょっとビビってしまったというか…。セットプレーも多かったので、最初はこのタイミングで打っていいのかなって迷ってしまうところもありました。もっと積極的に打てば良かったなというのは反省点ですね。それに、交代で出る難しさも学びました。特に自分はシューターなので、交代で出て最初の1本で決めないといけない。その難しさはすごくありました。でも、他に点が取れる選手がたくさんいたので、自分は他のところで仕事をしようと思って、ユニバのときは、ディフェンスやスクリーンアウトに割と徹していました。それはまた、自分のチームとは違う役割で勉強になったなと思います。それに他のチームメイトと比べて自分は全然ファンダメンタルがダメだと思ったので、そういう部分も刺激になりました」
B:国際試合を経験して、どんなことを感じましたか?
「3Pシュートの大切さはあらためて感じましたね。やっぱり中まで攻め込めない場合も多いので、日本は外からちゃんと決めなきゃだめだなと。それに、なんだか上から目線に聞こえるかも知れないですけど、礼生とか祐眞さん(藤井・13年度拓殖大卒・現東芝神奈川)を見ていて、ガードは全然日本の方が技術で上だなと思いました。他の国は、デカかったりゴツかったり、体で押し切るガードが多いんですけど、テクニックとかディフェンスの素早さだったりは、日本の方がすごいです」
B:指揮を執ったのは現役時代にシューターだった拓殖大の池内監督でしたが、シュートに関して何かアドバイスはもらいましたか?
「シュートが入らないときに、もうちょっとこうした方が良いんじゃないかとか、あとは練習のシューティングのときに、リバウンドに入ってくれて『今のはちょっと違うな』とかいろいろ言ってもらうことはありましたね」
B:そういえば原選手は、下級生の頃はミドルシュートが多かったように思うのですが、今は3Pシュートも増えましたよね。
「それはありますね。僕正直、3年くらいまであまりちゃんと3Pシュートの練習をしたことなかったんですよ。自分の中では、3Pシュートもミドルシュートの延長戦というか…。普通にシューティングで3Pを打ち続けると、なんか打ち方がよく分からなくなるんです。ミドルシュートだといつも通り打てるんですけど。それで試合中も、流れの中で打つので全然3Pラインとか気にしてなくて。シュートを打ってみて結果的に、あ、3Pだったなって感じだったんです」

「ラインを気にしちゃうと、ボールのもらい方とかに無理が出てシュートが崩れちゃうような気がするので…。でもそれじゃダメだと思って、本格的に3Pの練習を打ち始めたのは3年生とか今年からですね」
B:あとは、フェイダウェイを打つ機会も増えましたよね?
「そうですね。身に付けたというか、やっていくうちに自然と…。自分はスピードがあまりないので、ああでもしないとブロックされることが多いんですよ。前、飛竜からフェイダウェイはどうやったら入るのかって聞かれたんですけど、結構遊びでなんとなく打っているうちに身に付いたというか、無意識に感覚で打ってる感じなんです。もとから反り気味だったんですけど、大学2年生くらいから自然とフェイダウェイ気味になりましたね」
B:原選手は、普段のシューティングはどのように行うんですか?
「基本的にはあまり本数とかは気にせず、気がすむまで打つ感じです。シュートは昔から好きなので、入らなかったらずーっと打ち続けるタイプですね。一人で、『くっそ、入んねー。ムカつくな』とかイライラしながら。それで、『お、良い感じ良い感じ!』ってなったらやめます。でも今年は割と後輩にリバウンドに入ってもらって、本数を決めて練習することが多いですね。それを必ずやった後で、自由にシューティングをする感じです」
マイペースだが「はっちゃけるときは、はっちゃける」

「マイペースですかね? 結構気分屋です。インドア派というか、面倒くさがりで…あまり遠出したくない(笑)。目的があれば渋谷や新宿も行きますけど、目的もなく都心まで出てぶらつくことはほぼないですね。無駄なエネルギーは使わないというか、すぐ足が疲れちゃうんです(笑)」
B:若者らしくないですね(笑)。
「買い物とかしてて特に目的もなくお店を回ってると、雑貨屋とかに入ってイスに座りたくなりますね。みんなが回ってるのを休んで待ちたいタイプです。嫌いじゃないんですけど、疲れちゃうんです(笑)。あと、普段はそんな積極的に自分からたくさん話さないかもしれないです。はっちゃけるときは、はっちゃけますけどね。まぁ、国士舘はみんなそうです(笑)」
B:応援団も、はっちゃけるときははっちゃけますよね(笑)。
「そうですね。いつも明るく盛り上げてくれるので、応援はすごく力になります。なのになかなか勝てなくて、チームメイトにも本当に申し訳なかったですね。毎試合、わざわざ遠いところまで来てくれたのに」
B:最近、国士舘も以前と少しイメージが変わったように思います。1部に上がったからかもしれませんが。
「そうですよね。たぶん、前より可愛くなってません?(笑)コワモテのやつもいるかもしれないですけど、基本みんな子どもです」

「そうですか? まぁ、たぶんみんな子どもは好きですね。たまに大学の先生が子どもを連れてくることがあるんですけど、みんなすぐちょっかい出すんです。サッカーとかで遊んでる子どものボールを、大人げなく蹴ってイタズラしたり…気付けば一緒になって遊んです。みんな精神年齢が同じくらいなんです(笑)」
B:話は変わりますが、地元・千葉の自慢はありますか?
「自慢ですか? 自慢かー…なんだろう。まぁ、ディズニーじゃないですか。あ、そういえば船橋に『アンデルセン公園』という公園があるんですけど、なぜかそこが何かの日本のテーマパークランキングで3位に入ったんですよね」
B:あ、一時期騒がれていましたよね。1位がディズニーランド、2位がディズニーシーで、3位がそこの公園だと。
「はい。僕からしたら小さい頃から知っている公園なので、ランキングを知ってなんで!? ってなりましたね。まさかのUSJより上ですから。まぁ、確かに面白いんですよ? アスレチックみたいなのが多くて、子どもの頃の行ってすごく楽しかったです。でも、USJより上はさすがに…と(苦笑)。ただ、ネットって恐いなと思ったのは、そのランキングがTwitterとかでめっちゃ騒がれたじゃないですか。そしたらこの前、筑波大のホームゲームのときに親が試合を見に来て、帰りは車で千葉まで送ってもらったんですけど、そのときアンデルセン公園の近くの道が大渋滞だったんです(笑)。小さい頃はなかった仮設の駐車場とかできてて…。改めて、ネットの力はすごいな〜と思いました」
B:他に千葉自慢はありますか?
「うーん…意外と、良い感じに都会ですけど、静かでちょっと田舎な部分もあります。自分はそのくらいが好きなんですよ。ちょっと出れば都会だし、地元は静かだし。……こんなのが自慢って言ったらあれですけど(苦笑)。あとは、食べ物では梨がおいしいですね。自分のおばあちゃんちの近くに梨園がたくさんあって、小さい頃はよく食べていました」
B:千葉の特産でなくて構いませんが、原選手の好きな食べ物は?
「チーズケーキです。甘いものはすぐ飽きちゃうんですけど、チーズケーキは結構好きです。タルトも好きなので、チーズケーキのタルトが良いですね。下が硬いやつ。よく分からないですけど、最近差し入れでよくいただくんですよ」
B:嫌いな食べ物は?
「メロンと椎茸です。メロンは、食べられるんですけど、自分から食べようとはならない。椎茸は、切り方があんま好きじゃなくて…」
B:切り方ですか(笑)
「なんていうんですかね…食べ物っぽくないというか、ゴムっぽい感じが…。他のキノコは好きなんですけど、椎茸は苦手です」

「どうしますかね…。僕、あんまり有名な選手には回したくないんですよ。だって高校時代から全国で活躍してた選手とかは、もうみんなだいたい知っているじゃないですか。だからマニアックな人に回したいなと思って、田代か、加藤か…あとは明治のやつらも仲良いんですけどね。どうしようかな…。じゃあ、小さい頃から知っている田代にしますか」
B:では専修大の田代選手に決定ですね。田代選手はどんな人ですか?
「根は良いやつだと思います。でもあいつと話してると、すぐ『オチがない』とか言われるんで、僕何も話せなくなるんですよ!(笑)。あいつはネタ仕込んできたりするし、それを面白く話せるし、敵わないです。あとは、意外に寂しがりやですね」
B:田代選手には何を聞けばいいですか?
「うーん…最近太ったから体重とかじゃないですか。本人は痩せたって言い張ってるんですけど。僕もあいつも、太りやすいです。骨太だし。なので、スタイルの面を聞いてみるとか……いや、本当にそんなのでいいのかな?(笑)」
B:(笑)。では次回は専修大の田代選手にお話を伺います。原選手、どうもありがとうございました。
◆#22原 修太(はら しゅうた)
高根台中→習志野高→国士舘大
・2006 全国ミニバス大会出場
・2014 ヤングジャパン
・2014 李相佰盃日本代表
・2014 日本学生選抜(三菱電機カップ)
・2014 日本代表国際親善試合日本代表(ヤングジャパン)
・2015 ユニバーシアード日本代表
(2015.10.5&11.29インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
- 関連記事
-
- 【SPECIAL】BOJラインvol.33〜田代直希選手〜 (2016/03/29)
- 【SPECIAL】BOJラインvol.32〜原 修太選手〜 (2016/01/25)
- 【その他の記事】BOJライン一覧 (2016/01/25)
テーマ : バスケットボール(日本) - ジャンル : スポーツ
| BLOGTOP |