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2015.03.25 (Wed)
【SPECIAL】BOJラインvol.28〜中東泰斗選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.28~明治大学・中東泰斗選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第27回の筑波大・笹山貴哉選手からバトンを渡されたのは、明治大・中東泰斗選手です。
奈良県出身で、滋賀の光泉高校から明治大へと進学。高い身体能力とオールラウンドなプレースタイルで、1年生の頃から主力として活躍してきました。4年間で様々な困難を乗り越え、ユニバーシアードや東アジア競技大会などで日の丸も背負ってきた中東選手。チームのエースとして、3年生の頃にはインカレ準優勝に貢献、最終学年となった今年はリーダーとして下級生主体のチームを支えました。現在は筑波大の笹山選手とともに、NBLの三菱電機名古屋にアーリーエントリー。活躍の場を広げています。
今回のインタビューでは、今まであまり明かされなかった高校時代のエピソードや、人柄についてもじっくりとお伺いしました。28回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第28回は明治大・中東選手です。よろしくお願いします。笹山選手からの紹介ですが、初めて出会ったのはいつですか?
「最初に話したのは、高校生のときの近畿エンデバーだと思います。高2のときかな? そこで仲良くなりましたね。近畿大会とかでもよく試合で当たりました」
B:笹山選手の第一印象はどうでしたか?
「洛南は強豪校なので、近畿の中でもちょっと特別な存在なんですよ。だからエンデバーとかで一緒になっても、最初は『スゲー、洛南だ』みたいな感じでした。その中でも、ササ(笹山)は話しやすいキャラでしたね。それで、『見た目よりおもしろいやつやなぁ』という印象になりました(笑)。結構、見た目は真面目じゃないですか。でもたぶん、みんなが思っているササと、僕らが知っているササとでは、キャラが違うと思います。猫かぶってますね(笑)」
B:ギャップのある人なんですね(笑)。では本題に入りますが、バスケはいつから始めたんですか?
「小学校2年生です。僕、野球が好きだったので、本当は野球チームに入りたかったんですよ。でも兄がバスケを始めて、そうしたらお母さんが、『親の当番が大変だから一緒の競技にして』と。それで泣く泣く野球を諦めて、バスケに入りました(笑)」
B:兄弟はお兄さんひとりですか?
「いえ、姉もいます。姉は何もスポーツはやってないですね。兄が2つ上で、姉が6つ上です。末っ子として、可愛がられながら育ちました(笑)」
B:小2でバスケを始めて、最初はどうでしたか?
「最初は野球がいいなと思っていたんですけど、バスケを始めてみたら、やっぱり楽しかったですね。初めて試合で決めたシュートはすごく覚えています。レイアップに行ったら、審判は吹かなかったんですけど、ベンチの友だちがみんな『トラベリングやー!』って突っ込んでました(笑)。かなりトラベリング疑惑だったのが、僕の記念すべき初シュートです(笑)」
B:(笑)。ミニバスはどんなチームだったんですか?
「ド田舎のチームですけど、近畿大会には行くことができました。その頃は、自分がチームの中で一番身長が大きかったです。でもセンターをやりつつ外のプレーもやっていたし、自由に好き勝手やらせてもらっていましたね。コーチも『センタープレーをしろ!』という人ではなかったので」
B:中東選手のオールラウンドなプレーはそこが原点かもしれませんね。運動神経は良かったんですか?
「一応小学校のマラソン大会はずっと1位でした。とはいっても、田舎の小さい学校の中で、ですけどね(笑)。地元は奈良の葛城市ってところなんですが、田舎で、まわりは田んぼとかしかないところなんですよ。いつも友だちと外を駆け回って遊んでいました」
B:全ミニ(全国ミニバスケットボール大会)には出ていないんですよね?
「出てないです。確か県で3位とかで、ギリギリ近畿大会に行けたくらいです。近畿大会では、野本建吾(青山学院大#7)がいたチームとも対戦しているんですよね。あまり覚えてないですけど。なんかデカいやつがいた気はするので、後から思うとそれが建吾だったのかなぁと思います」
惜しくも手が届かなかった全中
B:そこから、地元の中学校に進学したんですよね。
「はい。白鳳中という中学校です。ミニバスの友だちもみんなそのまま上がりました」
B:どんなチームでしたか?
「練習はめっちゃキツかったです。ひたすら走り込みが多かったし、かなり鍛えられましたね。シャツもインしなきゃいけなかったし(笑)。辛かったですけど、みんなで励まし合いながらやっていました。あの頃にあれだけ走ったから、今でも走れるのかもしれないですね」
B:練習メニューでは特に何がキツかったんですか?
「まず、フットワークが1時間くらいあるんですよ。それがまずキツい。それでフットワークが終わった後、シャトルランを6本くらいやって、その後、『セブンティーン』っていう練習メニュー、1分間でコートを横に17回走るやつがあるんですけど、それを2、3本 やって…。それがほぼ毎日の普通の練習でした。本当に走り込みが多かったです」
B:ポジションはどこだったんですか?
「確か4番でした。でも中学も、好き勝手にポジション関係なくやっていたと思います」
B:外のプレーの方が好きだったんでしょうか?
「そうですね。ドライブとか、外からも結構打っていました。まぁ大きい選手にディフェンスつかれることが多かったので、離れて外から打つみたいな感じでしたね」
B:全中(全国中学校バスケットボール大会)には出られなかったんですよね。
「はい。県大会では決勝リーグで、谷口光貴(中央大#5)がいた八木中ってところには勝ったんですけど、吉本(明治大#55)がいた若草中ってところに負けて、得失点差で近畿大会に出られずに終わりました。吉本には今でも『いや〜、ホンマ勝てると思わなかったっす』とか言われます(笑)」
B:負けた若草中との試合は、どんな試合だったんですか?
「僕が退場しました(苦笑)。笛に対応できなくて、ダメダメでしたね。というか僕、思えば引退試合で退場することが多いんですよね…」
B:確かに大学最後のオールジャパンも…。
「はい。そのとき、そう言えば中学の頃も退場して引退したなぁと思い出しました(笑)」
B:話を戻しますが、中学生のときは惜しくも全中の予選となる近畿大会に出られずに引退したと。
「はい。でも得失点差が微妙だったので、試合が終わってからも近畿大会に行けるかどうかよく分からなかったんですよ。最後の表彰式で発表されて、『あ、ダメだったんだ…』と。それは悔しかったです。出場枠が2チームなんですけど、確かあと1点か2点入れていれば僕らが行けていたんですよね。それで近畿大会では、若草は負けて、結局僕らが勝った八木中が全中に出たんです。あそこで若草に負けなければ、自分たちが全中に出ていたのにな〜とは思いましたね」
B:それは残念でしたね。中2の終わりにはジュニアオールスターにも出ていますが、思い出はありますか?
「予選リーグで新潟と戦ったんですけど、新潟はもう、富樫勇樹(現NBADLテキサス レジェンズ)がすごかった…。中1でこんなちっちゃいのに、何コイツ!? って感じでした。その頃から、フローターとかバンバン決めるんですよ。新潟はあと本間遼太郎(日本体育大#1)とかもいて、強くて、全く敵わなかったです」
B:全国レベルを味わったのは、そのときが初めてですよね?
「そうですね。自分は一応スタメンで出させてもらったんですけど、田舎のペーペーだったし、本当に周りに比べてまだまだだなと思いました」
B:他のチームを見て覚えている選手はいますか?
「皆川徹(13年度明治大卒)は覚えていますね。なんか埼玉にスゲーでかいやついるなと。確かその頃から2メートル近くあったんですよ。まさか、その後同じチームでプレーするとは思ってもみないですけどね」
B:中東選手はその頃、身長はどれくらいだったんですか?
「中学のときは、引退する前に178とか179くらいでしたね。でも部活を引退してから卒業するまでの数か月で、一気に185くらいまで伸びたんですよ。だから中学の先生にも『遅いよ』って言われました(笑)。それで高校でも5センチくらい伸びて、今190くらいですね」
B:それは急激に伸びましたね。お父さんお母さんも背は大きいんですか?
「父が180くらいで母が170くらいですね。姉も175くらいあって、兄も僕と同じくらいあるので、平均的にみんな大きいです」
B:奈良県出身の選手というと、先ほど話に出た谷口選手や吉本選手のほかに誰がいますか?
「藤高宗一郎さん(13年度関西大卒・現NBL日立東京)がそうですね。藤高さんは、僕のいたミニバスのすぐ隣のミニバスチームだったんですよ。だから小学生のときは、かなり練習試合もしました。そのときは藤高さん、小さくて正直あまり目立っていなかったんですけど、中学に入っていきなり身長が伸びたんです。正直、ミニバスのときは僕がボコボコやっていたのに、中学になったら『逆になったな』って藤高さんにも言われました(笑)。ものすごいダンクとかするじゃないですか。最初あれ見たときは、『この人、こんな選手だったっけ!?』ってびっくりしましたね(笑)」
B:そうだったんですね。あとは谷口光貴選手の兄で、スラムダンク奨学金2期生でもある谷口大智選手(現サウスイースタンオクラホマ州立大)も奈良出身ですよね。
「そうですね。あの人は、自分の兄貴と同じ代だったんですよ。同じ葛城郡の大会に出ていたので、対戦もしていました。でも小6で190センチ以上あったし、止められなかったですね(笑)。すごかったです」
先輩の背中を見て心機一転した高校の下級生時代
B:そこから、光泉高校にはどういう経緯で進んだんですか?
「いろいろあったんですけど、兄貴の高校の先生からのアドバイスもあって、やっぱりインターハイに出られるようなチームがいいなと。それで、中3のときに光泉の練習を見学しに行って、寺田先生のこともすごいと思ったし、光泉にしようと決めました」
B:光泉高校は入ってみてどうでしたか?
「これまた、走る系の練習が多くて…(苦笑)。光泉ってトランジションのチームだし、練習もそういう系のメニューが多くてしんどかったですね。でも中学でもだいぶ走ってきたので、まだなんとかやっていけました」
B:高校では寮生活ですよね?
「はい。でもそこはあまり問題なかったし、楽しかったですね。同期のやつと3人で一緒のところに住んでいました。順天堂の佐藤(#96)と、あと今バスケやってないんですけど同じ奈良県出身のやつです。それぞれ部屋が1人1つあったので、過ごしやすかったです」
B:1年生のときのことを振り返っていただけますか?
「1年生の頃は、試合も全然出てないですね。一応、冬からベンチ入りはしたんですけど、主力ではなかったです。あ、思い出といえば、埼玉インターハイのときに、大会が始まるより結構早めに現地入りするんですけど、そこで明成と練習試合をしたんですよ。主力は出ないで、お互いに下級生とか主力じゃないベンチメンバーとかで試合して。そこで自分は40分くらいほぼ出ずっぱりで、それがめっちゃキツかった覚えはありますね。北川さん(13年度日本体育大卒・現NBL広島)とかと一緒に出ていました」
B:明成は誰が試合に出ていたか覚えていますか?
「それが、あんまり覚えてないんですけど…。たぶん、菊地さん(13年度日本大卒)とか、安藤誓哉(現カナダプロチームRainmen)もいたのかな…? 失礼かもしれないですけど、その頃の明成ってみんな顔同じに見えてしまって(苦笑)。動きも統制されていて、機械みたいだし、強いし、スゲーなこのチームって思いました」
B:1年生のときのウインターカップの思い出はありますか?
「うーん…初戦で土浦日大に負けたんですよね。ベンチで見ているうちに、あっという間に終わっちゃった印象です(苦笑)」
B:それから高校2年生になって、試合にも少しずつ出られるようになったんですよね。
「はい。でもまだ夏の大阪インターハイはあまり出てないですね。冬頃には少しずつシックスマンとして出られるようになりました」
B:そのインターハイでは1回戦で福岡大附大濠に当たり、すごく良い試合をして、4Qで逆転されてしまったそうですが。
「はい。あの試合は正直、途中『勝った』と思いました(笑)。3Qまですっごいみんな良い調子だったんですけどね…。4Qで一気に40点くらい取られて、負けてしまいました」
B:ウインターカップの思い出はありますか?
「ウインターカップでは2回戦で、また明成と戦ったんですよね。そのとき、自分なぜか5番ポジションで出たんですよ。宮澤さん(13年度中央大卒・現NBDL豊田合成)とマッチアップしたのは覚えています。フィジカルが違い過ぎて、吹っ飛ばされまくりでした(笑)。その試合、誓哉もヤバかったし、高田歳也さん(13年度法政大卒・現新生紙パルプ商事)もバカバカシュートが入るし、レベルが違うなと。コテンパンにやられました」
B:明成はその年の優勝チームですしね。
「はい。だから明成が優勝して、優勝したチームに負けたんならまだマシかと思いました(笑)」
B:この年の光泉は、清水選手(2013年度明治大卒)がキャプテンだったんですね。淡々としていてクールなイメージがありますが。
「清水さんはすごく良いキャプテンでしたよ。真面目で手を抜かないし、締めるところは締めるし。そういう背中を見て、みんなもついて行かなきゃってなりました。それに北川さんもいたので、清水さんが言わない分、北川さんがいろいろ言ってくれましたね」
B:背中で見せるタイプのキャプテンだったんですね。
「はい。よく覚えているのは、光泉って練習前に腹筋とか縄跳びとかやるんですけど、僕、その頃そういうのをサボりがちだったんです(苦笑)。そうしたらある日、寺田先生に教官室に呼ばれて、『お前はなんでそんなサボるんだ。清水を見習え!』ってめっちゃ怒られたんです。『あんなに良いお手本が近くにいるのに、なんでお前はそうなんだ』と。それは自分でもそうだなと思って、それ以来心を入れ替えて、清水さんを見習ってちゃんとやるようになりました」
B:一番お世話になった先輩は?
「やっぱり清水さんと北川さんじゃないですかね。バスケットのこともいろいろ相談していたし、アドバイスもたくさんくれて、お世話になりました。試合中は北川さんがいろいろ言ってくれて、試合後には清水さんにいろいろ聞いて、『あそこはああちゃう?』みたいな感じでアドバイスをもらっていました」
なかなか万全な状況ではなかった高校の3年目
B:ウインターカップで先輩たちが引退して、自分たちの代になったわけですが。
「ウインターカップの明成戦が終わって、もう次の日から新チームで練習試合だったんです。全国から集まってるチームとかと。そこでいきなりめっちゃ怒られたのはよく覚えていますね(笑)」
B:沖縄インターハイはどうでしたか?
「沖縄はいろいろ大変でしたね。試合というより、体育館が…(苦笑)。初戦の松江東との試合は、体育館がめちゃくちゃ滑って。それで滑り止めの石灰を撒いて、一面真っ白な状態で試合したんですよ。すごかったですね、あれは」
B:雨が降って湿気が高かったこともあり、特に1回戦はかなり滑ったという話ですね。
「はい。体育館じゃないみたいでした。滑り止めをまいてもそれでも滑るし、先生にも『ケガするから速攻は出すな』と言われましたね。それで2回戦の福島工戦は、今度は体育館がめっちゃ暑くて…。なんとか勝ったんですけど、僕、試合が終わったら熱中症で倒れて、病院に行ったんです(苦笑)。それで次の試合の相手が、また明成だったんですよね」
B:明成とは不思議な縁がありますね。でも、万全な状態では臨めなかったと。
「そうです。それに明成戦の会場は、クーラーの効いてる体育館だったんですよ。自分たちはそれまで変な体育館だったので、いきなりそんな環境の良い体育館になったら逆に調子悪くなっちゃって(笑)。全然ダメでした」
B:なかなか環境も厳しい状態ですね。沖縄観光はできましたか?
「あ、それは楽しかったですね。試合に負けた後、先生から『お前ら海行くなよ』って言われていたんですけど、やっぱり沖縄に来たからには…ってことで、こっそり海で遊んだんです。そうしたら日焼けで真っ黒になって、結局『お前ら海行っただろ!』ってバレて怒られるという(笑)。今となっては良い思い出ですね。キャプテンの佐藤が一番怒られたので、ごめん佐藤!って感じでした」
B:インターハイを終えて、千葉国体では、滋賀はベスト4まで勝ち上がりましたね。
「あれは楽しかったですね。国体でも宮城と戦ったんですよ。本当に、明成と試合しすぎ(笑)。ただ、今までずーっと負けてきたんですけど、国体ではU-18日本代表で誓哉も佐藤久夫先生もいなかったし、勝つことができました。国体は、自分の中で唯一調子が良かった大会かもしれません。インターハイも熱中症だったし、ウインターカップも前日に体調不良になったんです。国体だけ万全な体調でプレーできましたね」
B:そうだったんですか。敗れた準決勝の京都戦の思い出はありますか?
「京都は強かったですね。洛南の人たちとか。それに自分たち、ベスト4に入った時点でちょっと満足しちゃっていて。先生からも『お前ら、ベスト4で満足してんじゃないか』と指摘されたんですけど、終わって振り返ればその通りでしたね。光泉高校的に、確か初めての全国ベスト4だったんです。それで満足しちゃった部分がありましたね」
B:初のベスト4だったんですか。光泉高校は相井選手(10年度早稲田大卒)、宇野選手(10年度立教大卒・現三井住友海上)、若林選手(10年度明治大卒・現NBDL豊田合成)らが3年生のときに全国ベスト8でしたよね。横江選手(11年度日体大卒・現TKbjリーグ滋賀)が2年生で。
「はい。確かあの時が、初めての全国ベスト8だったと思います。だから入学した頃からずっと、寺田先生から『あの代を見習え』と言われてきました。あの代のビデオもよく見ましたね。いつも比べられるくらい、あの代はちょっと特別でした」
B:国体とはいえ、そういう先輩たちの成績を超えられたわけですね。では自信をつけてウインターカップに臨んだわけですね?
「そう、そのハズだったんですよ。練習試合でも普通に調子良かったので、いけるって感じでウインターカップに入る予定だったんですけど…でも、大会前日に自分が体調崩して…。胃腸炎か何かにかかって、吐きまくって、そのまま試合に臨みました。正直かなりしんどかったですね。東京体育館って暖房効いているのに、アップしても全く汗かかないんですよ(笑)。あれはヤバかった。それで延岡と戦って、やっぱり全然ダメで、負けました。初戦敗退は、完全に僕のせいですね」
B:それは悔しかったですね。延岡学園はどんな印象でしたか?
「礼生(東海大#0ベンドラメ)がいて、バンバ(拓殖大#23)がいて…強かったですね。スタメンだったプイ(エリマン・関東学院大#10)よりも、バンバの方が厄介なんですよ。プイが出ているときは結構流れも良かったんですけど、バンバが出てきたら流れが変わって。確か自分がバンバについたんですけど、3Pはないだろうと思って離していたら普通に決められて、マジかと。それに礼生は、相変わらずスティールがすごかった印象があります。向こうがゾーンで、パスを普通にカットされたのは覚えていますね」
B:それが高校の引退試合となったわけですね。
「はい。本当に高校時代は、微妙な終わり方になってしまいました(苦笑)」
B:高3のときは、ずっと同期5人が不動のスタメンだったんですね。佐藤選手、小山選手(明治大)、杉本選手(中京大)、藤原選手(大阪体育大)らと。
「そうですね。今思うと、スタメン5人、メンツは結構揃っていたんですよね。サイズもあって、自分が3番をやっていたくらいだし」
B:中京大の杉本選手も良い選手ですよね。
「(杉本)慶はうまいですよね。なんだかんだアイツがアシストでうまく生かしてくれるから、自分も点を取れていた部分があります。点も取れるけど、普通にガードもできるヤツですよね」
B:卒業してから高校に遊びに行くことはありますか?
「たまに行きますね。この間も、インカレが終わった後に挨拶がてら遊びに行きました。寺田先生もインカレを観に来てくれていて、その後ご飯を食べたりしたので。現役のときは怖かったですけど、今は優しいです。でも未だに電話がかかってくると、ちょっとビクッと緊張します(笑)」
過酷な練習について行けたのは「負けず嫌いだから」
B:明治大にはどういう経緯で進んだんですか?
「最初は僕、地元も関西だし、兄も関西の大学にいたので関西の大学に行く予定だったんです。だから関東の大学から声がかかっても、先生が断っていたみたいで。でも、小山の母さんから『絶対に関東に行きなさい!』と強く推されたんです」
B:小山選手(明治大#18)のお母さんですか。
「はい。うちの母はバスケもよく知らないので、『どこでも好きなところに行きな』って感じだったんですよ。けど、小山の母さんはバスケもやっていて詳しい人なので、『絶対関東の方がいいよ!』と。それで、先生に『やっぱり関東に行きたいです』と言いました。それで話が残っていた学校の中から、明治を選んだ感じです。若林さんとか清水さんからも強く誘われましたし」
B:1年生のときのことを振り返っていかがですか?
「いや、まさかこんなに練習がキツいなんて思ってなくて(笑)。それは大変でしたね」
B:中東選手は1年のリーグ戦、ケガが治って試合に出るようになってからあまり臆せず積極的に攻めているように思いました。
「そうですね。とにかく『お前は攻めろ』と言われていたので。あの年のリーグ戦はよく覚えています。最初はケガで出られなくて、途中、10月に復帰したんですけどその復帰戦がすごく良かったんですよ。でもその次の試合、東海大の体育館で専修と対戦したんですけど、その試合がダメで、塚さんからめっちゃ怒られましたね。『お前、1日だけ良くてもあかんねん!!』って。あとは戸田の体育館でやったときもダメで、外の芝生でめっちゃ怒られたのはめっちゃ覚えています。悔しくて泣いたんですよ(笑)。それを今でも塚さんに言われます。『あの頃はお前、あんな泣いてんのにな〜ははは』って。今となっては良い思い出ですね。それに、あの年は入れ替え戦に勝って1部に残れたことが本当に大きかったです」
B:中央大との入れ替え戦は白熱しましたよね。第3戦は2点差でしたが、佐藤卓哉選手(11年度明治大卒・現三井住友海上)ら、4年生の意地を感じました。
「はい。あの試合は本当に4年生に助けられました。4年生の思いを強く感じた試合でしたね」
B:その年の4年生が引退して、翌年は2、3年生が主力になりましたよね。
「あの年は4年生がいなくて、2、3年のチームでした。2年生に上がるときの春は、信じられないくらいキツかったですね(笑)。今思い返しても、あの頃の練習は4年間で一番ハードだったと思います。1個上の森山さん、目さん(現bj東京サンレーヴス)、西川さん(現NBLレバンガ北海道)、成也さん(現NBL広島)の代は、たぶん一番怒られていましたね」
B:練習がキツくても、なんとかついていけたんですね。
「そうですね。やっぱり、怒られたりできなかったりするのが悔しかったんだと思います。結構負けず嫌いなので。やってやろうみたいな感じでした。それにもう、やるしかないので、慣れていきました(笑)」
B:2年生のときは、チームとしてディフェンスが良くなりましたよね。
「そうですね。練習もほとんどディフェンスの練習だったし、2年生のときは本当にディフェンスで勝っていたイメージです。リーグ戦は我慢して我慢して、なんとか勝ちを拾う試合が多かったですよね。でも2年生のときは、いろいろプレッシャーもあって大変でした。1年生のときは、負けは込んでも自分はルーキーだし何も考えずにプレーできた部分があったんです。でも2年生になってから、自分たちがチームの中心にならなければいけなかったし、入れ替え戦に行ったらやばいなという思いはずっとありました。それは苦しかったですね」
B:そうだったんですね。それでも苦しいリーグ戦を乗り越えて、インカレでは専修大を破ってベスト4に入りました。準決勝の青学戦では約50点差つけられ大敗しましたが…。
「あの青学戦は、忘れられないですね…。これ以上ないくらい圧倒されて。もう試合中から、塚さんが『お前ら、この試合は絶対覚えておけよ』って言い続けていたんです。それで翌年も、あの負けはずっと覚えていました。だから3年のインカレの準決勝で、青学にその借りをきっちり返せたのは本当にうれしかったですね」
写真中:インタビュー中に出てきたリーグ戦の日本大学戦は、3P2本を含むチームハイの18点を稼いだ。
代表に選ばれて変わった意識
B:3年生のときは、前の年からメンバーも変わらず、その2年間の集大成をインカレで出せましたよね。
「そうですね。2年のときからメンバーも変わらないし、コーチ陣も外山さん、知花さんが来てくれて充実していて、環境としても一番良かったなと思います。それがインカレの準優勝という結果に結びついたのかなと。東海は強かったですけどね。でも自分的には、3年生の1年間でだいぶ成長できたかなと思います。代表とかにも選ばれて、貴重な経験もできましたし。本当に1年1年いろんなことがあって、毎年成長していけたんですけどね」
B:ユニバーシアードや東アジア競技大会の経験は大きかったですか。
「はい。自分としては、初めて世界と戦う舞台でしたし。それにやっぱり日本代表に選ばれることで、いい加減なプレーはできないなとか、ちゃんとやらなきゃとか、自覚は生まれたと思います。正直、自分なんかが代表を背負っていいのかな?って思いましたけどね。誓哉も選ばれていなかったし、自分でいいのかなって」
B:他国と戦ってみていかがでしたか?
「ユニバのときはあまり試合に出なかったんですけど、東アジアでは最後の韓国戦では結構使ってもらえて、そのとき初めて20分以上試合に出たんです。その試合は楽しかったですね」
B:東アジア競技大会は、リーグ戦の合間のハードなスケジュールでしたね。
「それは大変でしたね。リーグ戦も変則的で、週に3試合とかあったじゃないですか。明治のほかのみんなはリーグの休止期間に結構リフレッシュできたみたいなんですけど、自分は代表に行って帰ってきたらすぐ試合みたいな。帰ってきて一番最初の週はなかなか感覚が合わなかったです。でも確か休止期間を終えて最初の試合が青学と大東だったんですけど、それも2連勝できたんですよね。特にそのとき青学に勝ったことは結構自信になりましたね。それによく覚えているのは、あのとき自分がスタメンじゃなくて、森山さん(13年度明治大主将・現3×3PREMIERE.EXE)がスタメンだったんですよ。それで森山さん、『泰斗、ありがとな!』とか調子良いこと言っていたわりに、そこまで活躍しないっていう(笑)。面白かったです」
B:(笑)。話を戻しますが、4年生になって途中からはチームリーダーとなるなど、さまざまな経験がありましたね。
「ありましたね、4年のときも4年のときで。1年1年、いろいろありすぎて、本当に濃い4年間でした(笑)。4年生になって新チームが始まったときは、前の年の準優勝を超えて優勝を狙うつもりでした。でもトーナメントでは、うまくいかず。2、3年生を使わずに4年生と1年生で試合したんですよ。それで全然だめで…。そのあと、じゃあリーグ戦から頑張るかってときに、誓哉がカナダに行っていなくなり。もう…大変でしたね。まぁ、下級生に助けられました。試合の中では言うこと聞いてやってくれるので(笑)」
B:安藤選手がいなくなって、中東選手にかかる負担も大きかったですね。
「徹もケガから戻ってきたばかりだったし、4年生の中でずっと試合に出てきたのは唯一自分だけでしたからね。途中からは自分がキャプテンをやることになりましたし(苦笑)」
B:いろいろ背負ったものは、どこで発散していたんですか?
「悩んだりもいろいろしましたけど、アキ(藤永)とかササ(笹山)もキャプテンをやっていたので、あの二人にも『こういうときどうしたらいいかな』って相談しましたね」
B:二人は良いアドバイスをくれましたか?
「どうやったかな…ササはあんまり良いアドバイスくれなかったかもしれないです(笑)。『とりあえず、お前が頑張るしかないやろ!』みたいな。アキは『俺はお前が頑張ってるの知ってるし、尊敬してるで』みたいに、良いこと言ってくれるんですよ。『俺、お前みたいなキャプテン目指すわ』みたいに言ってくれて、励ましてくれましたね」
B:各大学、キャプテンは苦労しますよね。大学は、高校のキャプテンとは全然違うと思いますし。
「そうですね。自分はもともと、そんなまとめるキャラでもないですし。高校のキャプテンって、キャプテンとはいえやっぱり先生がみんなに怒るじゃないですか。でも大学って、キャプテンが締めるところは締めなきゃいけなくて。それに明治の場合、練習でダメなときとか、塚さんから『泰斗、言え』みたいに言われるんですよ。チームメイトにそうやって言っていくのも大変でしたね」
B:今年は、1番ポジションもやりましたが。
「そうですね。誓哉がいなくなった後、なかなかガード陣が安定しなくて、最後は『お前、やってみないか?』と。まぁ、自分もそんな見せられるものではなかったと思いますけど(苦笑)。でも、外山さんも大学のときにユニバか何かでガードを経験して、それはすごくためになったと言っていたんです。自分もプロにもつながる良い経験になるだろうし、ガードをやってみるのも悪いことではないから、ということでやってみましたね。なかなかうまくできなかったですけど」
4年目で芽生えたリーダーシップ
B:インカレは、準々決勝で拓殖大に敗れました。大垣選手のブザービーターでやられましたね。
「そうですね。でも最後のプレーは何もできなかったし、仕方なかったかなと。それよりも、前半から自分はシュートが全然入らなかったので、悔やむならそこかなと思います。むしろ、あれだけ点差が開いていたのに、よく追いついたなって感じでしたね。プレスの練習も特にしていたわけではないのに、なぜかうまくハマって(苦笑)。たぶん拓実(#2齋藤)とか治耀(#32吉川)はカットするのが好きなので、そういう面がうまく機能したのかなと思います」
B:最後は6位で終えましたね。最後の5位決定戦は、奇しくもリーグ戦プレイオフの5位決定戦と同じ、国士館大との対戦でした。
「国士舘とも、よく対戦しましたね。インカレ前に練習試合もしていたので、お互いに知り尽くした同士でした。なんかもう、やり飽きた感じでしたね(笑)」
B:6位という結果についてはどう受け止めていますか?
「うーん、正直誓哉がいなくなった時点で、下との入替戦も行くかもしれないなと思っていたんです。1部に残ることに必死でした。それが結果的には、入替戦も回避できたし、下級生主体でインカレも6位まで行けたので、自分的にはまぁ良かったんじゃないかなと思います」
B:4年生としてチームに残せたもの、見せられたものはありますか?
「どうなんですかね〜。それは後輩に聞いてみないと分からないですけど(笑)。でも最終学年になった今年は、自分もちょっと今までの年と違ったと思います。今まではコートの中でも先輩たちとか誓哉がみんなに声をかけて引っ張ってくれたんですけど、今年はそれを自分がやらなきゃいけないなと思っていました。それで結構今年は、声を出したりして。プレーも、わりと大きな波もなくコンスタントにやれたんじゃないかなと思います。そういう面を見てくれていたらうれしいです。そういう背中を見て、来年は伊澤(#50)とかがやってくれるんじゃないかなと思います」
B:今年は親善試合なども多かったですね。
「それは楽しくやれましたね。地元が関西なので、関西で試合をできたのは良かったです。おばあちゃんとか、地元の友だちも観に来てくれたので。頑張っている姿を見せられたのはうれしかったですね」
B:最後のオールジャパンでは、NBLの和歌山相手に30得点の活躍でした。惜しくも4点差で敗れましたが、すばらしい活躍でしたね。
「自分は今後NBLに行くので、NBLのチーム相手に自分がどこまでやれるか、試す場だなと。最後は退場しちゃいましたけど、まぁまぁやれたかなとは思います。ドライブとか1対1とかは通じたなと感じました」
B:三菱電機名古屋ではどこのポジションになるんですか?
「2番、3番ですね。今は練習でフォワードのアマット・ウンバイ選手(#22)とマッチアップするんですよ。身体能力が凄まじいです(笑)」
B:笹山選手と二人、若手で新しい風を吹き込みたいですね。
「そうですね。今チームは結構ベテランの選手が多いので、僕とかササとか、智伸さん(#29長谷川)とか若いメンツがどれだけ頑張れるかも見どころになるんじゃないかなと。頑張らなきゃいけないです」
知らぬ間に人と仲良くなれる末っ子気質
B:話は変わりますが、自分の性格は?
「うーん…ちょっと人見知りかもしれないです。仲良くなったら仲良くなったで、グイグイいっちゃうんですけど。見た目が結構とっつきにくいみたいで、初対面であまり話しかけられないんですよ。話しかけられればわりとしゃべるんですけどね。あとは、単純。良く言えば素直な性格だと思います(笑)」
B:そういえば、宇都選手(13年度専修大卒・現NBLトヨタ東京)と仲の良いイメージがあります。
「そうですね。ユニバの選考会くらいで知り合って、知らない間に仲良くなりました。宇都さんいわく『俺、自分のテリトリーにガツガツ入ってくるやつは好きじゃないんだけど、お前はガツガツ入ってきたのに仲良くなってたわ』って。自分、先輩と仲良くなることが多いんですよね」
B:末っ子気質があっていたんでしょうか。
「そうかもしれないですね。それに宇都さんもO型で、結構性格も合ったんだと思います」
B:二人で会うときは何をするんですか?
「基本、会うのも練習後だったりしたので、普通にごはんに行ってしゃべる感じですね。バスケの話も結構します。最近こうなんだけど、どう思う?みたいに相談します。宇都さんは『それはお前、自信持たなアカンやろ』みたいに言ってくれますね」
B:そういえば今年は「フローターを打て」とアドバイスされたとリーグ戦中に言っていましたね。プレーについてもいろいろ言ってくれるのはいいですね。では、好きな食べ物、嫌いな食べ物はありますか?
「パスタが好きです。嫌いなものは特にないですけど、刺身系はあまり食べないです。嫌いじゃないですけど、好んで食べないです」
B:他のスポーツはやりますか?
「野球は小学生のときやりたかったくらいだし、結構好きですね。でもサッカーはあまり得意じゃないです。まぁ、どのスポーツも観るよりやるほうが好きです。NBAもあまり観ないですね」
B:安藤選手はNBAだけでなくヨーロッパのバスケも見ていましたよね。
「はい。だから誓哉からめっちゃおすすめされて、ちょびっと観るようになりました。『お前、観ないとうまくなんないよ!』ってめっちゃ言われたんです(笑)。それからは、NBAのその日のハイライトくらいは結構観るようになりましたね」
B:趣味はありますか?
「うーん…映画鑑賞ですかね。よく映画は見ます」
B:最近は何を見ました?
「最近は、ST(『ST赤と白の捜査ファイル』)を見ましたね。岡田将生と藤原竜也のやつ。邦画も結構見ます。最近観たやつでおすすめは、『アバウト・タイム』って映画ですね。人生を大切にしなきゃいけないって映画だったんですけど、めっちゃ心打たれました(笑)。映画で泣いたりあまりしないんですけど、その映画はちょっとウルっと来ちゃいましたね」
B:地元の奈良の自慢はありますか?
「奈良自慢…うーん…のどかです(笑)」
B:他には?(笑)
「空気がおいしい。奈良は、のんびりしているところが良いんですよ。同じ都があったといっても京都はやっぱり都会じゃないですか。奈良は自然もたくさんあってのんびりしていて、良いところだと思います。食べ物のオススメは、果物の柿かな? あとはやっぱりお寺ですかね。東大寺。僕は行かないですけど(笑)」
B:行かないんですね(笑)。
「もともとあるところで生まれ育つと、意外と行かないものですよ」
B:では、リレーインタビューを次に回す人をお願いします。
「坂東(筑波大#14)でお願いします。めっちゃ面白いので、あの人に行っとけば間違いない。バンさん、絶対このインタビューが回って来るの、待っていると思うので(笑)」
B:坂東選手とはいつから仲が良いんですか?
「ユニバのときとかに仲良くなって、意気投合しましたね。代表のチームでもムードメイカーで、ベンチでもめっちゃ面白いんですよ。それからは、試合の会場で会うといつも面白いので、爆笑しています。ポンポン面白いこと言うんですよね」
B:坂東選手にはどんな話をすれば盛り上がりますか?
「彼はオールマイティなので、何の話をしても笑いに変えてくれると思います!(笑)」
B:だいぶハードルが上がったような気もしますが、次回は筑波大・坂東拓選手にお願いしましょう。中東選手、どうもありがとうございました。
写真上2枚:2013年のリーグ戦、専修大との2戦目となった最終週の試合の最後には、宇都選手との1対1が実現。周囲も2人の勝負を見守る展開となった。
写真中:代表などでは坂東選手を中心にベンチのチームワークの良さも目立った。
写真下:Tシャツに書いた言葉は「飛躍」。今後のさらなる飛躍を期待したい。
◆#12中東泰斗(なかひがし たいと)
白鳳中→光泉高→明治大
4年・SG・主将
190cm/77kg
・2007 ジュニアオールスター奈良県代表
・2010 インターハイ出場(高3)
・2010 国体ベスト4(高3)
・2010 ウインターカップ出場(高3)
・2012 新人戦 5位
・2013 トーナメント 5位
・2013 リーグ戦 3位
・2013 インカレ 準優勝
・2013 ユニバーシアード日本代表
・2013 東アジア競技大会日本代表
・2014 リーグ戦 5位
・2014 インカレ 6位
・2014 李相佰杯代表
・2014 日本学生選抜(三菱電機カップ)
・2014 ヤングジャパン(ゼビオチャレンジカップ)
(2015.1.29インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.28~明治大学・中東泰斗選手~

奈良県出身で、滋賀の光泉高校から明治大へと進学。高い身体能力とオールラウンドなプレースタイルで、1年生の頃から主力として活躍してきました。4年間で様々な困難を乗り越え、ユニバーシアードや東アジア競技大会などで日の丸も背負ってきた中東選手。チームのエースとして、3年生の頃にはインカレ準優勝に貢献、最終学年となった今年はリーダーとして下級生主体のチームを支えました。現在は筑波大の笹山選手とともに、NBLの三菱電機名古屋にアーリーエントリー。活躍の場を広げています。
今回のインタビューでは、今まであまり明かされなかった高校時代のエピソードや、人柄についてもじっくりとお伺いしました。28回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
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「本当は野球がやりたかった」小学生の頃
「最初に話したのは、高校生のときの近畿エンデバーだと思います。高2のときかな? そこで仲良くなりましたね。近畿大会とかでもよく試合で当たりました」
B:笹山選手の第一印象はどうでしたか?
「洛南は強豪校なので、近畿の中でもちょっと特別な存在なんですよ。だからエンデバーとかで一緒になっても、最初は『スゲー、洛南だ』みたいな感じでした。その中でも、ササ(笹山)は話しやすいキャラでしたね。それで、『見た目よりおもしろいやつやなぁ』という印象になりました(笑)。結構、見た目は真面目じゃないですか。でもたぶん、みんなが思っているササと、僕らが知っているササとでは、キャラが違うと思います。猫かぶってますね(笑)」
B:ギャップのある人なんですね(笑)。では本題に入りますが、バスケはいつから始めたんですか?
「小学校2年生です。僕、野球が好きだったので、本当は野球チームに入りたかったんですよ。でも兄がバスケを始めて、そうしたらお母さんが、『親の当番が大変だから一緒の競技にして』と。それで泣く泣く野球を諦めて、バスケに入りました(笑)」
B:兄弟はお兄さんひとりですか?
「いえ、姉もいます。姉は何もスポーツはやってないですね。兄が2つ上で、姉が6つ上です。末っ子として、可愛がられながら育ちました(笑)」
B:小2でバスケを始めて、最初はどうでしたか?
「最初は野球がいいなと思っていたんですけど、バスケを始めてみたら、やっぱり楽しかったですね。初めて試合で決めたシュートはすごく覚えています。レイアップに行ったら、審判は吹かなかったんですけど、ベンチの友だちがみんな『トラベリングやー!』って突っ込んでました(笑)。かなりトラベリング疑惑だったのが、僕の記念すべき初シュートです(笑)」
B:(笑)。ミニバスはどんなチームだったんですか?
「ド田舎のチームですけど、近畿大会には行くことができました。その頃は、自分がチームの中で一番身長が大きかったです。でもセンターをやりつつ外のプレーもやっていたし、自由に好き勝手やらせてもらっていましたね。コーチも『センタープレーをしろ!』という人ではなかったので」
B:中東選手のオールラウンドなプレーはそこが原点かもしれませんね。運動神経は良かったんですか?
「一応小学校のマラソン大会はずっと1位でした。とはいっても、田舎の小さい学校の中で、ですけどね(笑)。地元は奈良の葛城市ってところなんですが、田舎で、まわりは田んぼとかしかないところなんですよ。いつも友だちと外を駆け回って遊んでいました」
B:全ミニ(全国ミニバスケットボール大会)には出ていないんですよね?
「出てないです。確か県で3位とかで、ギリギリ近畿大会に行けたくらいです。近畿大会では、野本建吾(青山学院大#7)がいたチームとも対戦しているんですよね。あまり覚えてないですけど。なんかデカいやつがいた気はするので、後から思うとそれが建吾だったのかなぁと思います」
惜しくも手が届かなかった全中

「はい。白鳳中という中学校です。ミニバスの友だちもみんなそのまま上がりました」
B:どんなチームでしたか?
「練習はめっちゃキツかったです。ひたすら走り込みが多かったし、かなり鍛えられましたね。シャツもインしなきゃいけなかったし(笑)。辛かったですけど、みんなで励まし合いながらやっていました。あの頃にあれだけ走ったから、今でも走れるのかもしれないですね」
B:練習メニューでは特に何がキツかったんですか?
「まず、フットワークが1時間くらいあるんですよ。それがまずキツい。それでフットワークが終わった後、シャトルランを6本くらいやって、その後、『セブンティーン』っていう練習メニュー、1分間でコートを横に17回走るやつがあるんですけど、それを2、3本 やって…。それがほぼ毎日の普通の練習でした。本当に走り込みが多かったです」
B:ポジションはどこだったんですか?
「確か4番でした。でも中学も、好き勝手にポジション関係なくやっていたと思います」
B:外のプレーの方が好きだったんでしょうか?
「そうですね。ドライブとか、外からも結構打っていました。まぁ大きい選手にディフェンスつかれることが多かったので、離れて外から打つみたいな感じでしたね」
B:全中(全国中学校バスケットボール大会)には出られなかったんですよね。
「はい。県大会では決勝リーグで、谷口光貴(中央大#5)がいた八木中ってところには勝ったんですけど、吉本(明治大#55)がいた若草中ってところに負けて、得失点差で近畿大会に出られずに終わりました。吉本には今でも『いや〜、ホンマ勝てると思わなかったっす』とか言われます(笑)」
B:負けた若草中との試合は、どんな試合だったんですか?
「僕が退場しました(苦笑)。笛に対応できなくて、ダメダメでしたね。というか僕、思えば引退試合で退場することが多いんですよね…」
B:確かに大学最後のオールジャパンも…。
「はい。そのとき、そう言えば中学の頃も退場して引退したなぁと思い出しました(笑)」
B:話を戻しますが、中学生のときは惜しくも全中の予選となる近畿大会に出られずに引退したと。
「はい。でも得失点差が微妙だったので、試合が終わってからも近畿大会に行けるかどうかよく分からなかったんですよ。最後の表彰式で発表されて、『あ、ダメだったんだ…』と。それは悔しかったです。出場枠が2チームなんですけど、確かあと1点か2点入れていれば僕らが行けていたんですよね。それで近畿大会では、若草は負けて、結局僕らが勝った八木中が全中に出たんです。あそこで若草に負けなければ、自分たちが全中に出ていたのにな〜とは思いましたね」

「予選リーグで新潟と戦ったんですけど、新潟はもう、富樫勇樹(現NBADLテキサス レジェンズ)がすごかった…。中1でこんなちっちゃいのに、何コイツ!? って感じでした。その頃から、フローターとかバンバン決めるんですよ。新潟はあと本間遼太郎(日本体育大#1)とかもいて、強くて、全く敵わなかったです」
B:全国レベルを味わったのは、そのときが初めてですよね?
「そうですね。自分は一応スタメンで出させてもらったんですけど、田舎のペーペーだったし、本当に周りに比べてまだまだだなと思いました」
B:他のチームを見て覚えている選手はいますか?
「皆川徹(13年度明治大卒)は覚えていますね。なんか埼玉にスゲーでかいやついるなと。確かその頃から2メートル近くあったんですよ。まさか、その後同じチームでプレーするとは思ってもみないですけどね」
B:中東選手はその頃、身長はどれくらいだったんですか?
「中学のときは、引退する前に178とか179くらいでしたね。でも部活を引退してから卒業するまでの数か月で、一気に185くらいまで伸びたんですよ。だから中学の先生にも『遅いよ』って言われました(笑)。それで高校でも5センチくらい伸びて、今190くらいですね」
B:それは急激に伸びましたね。お父さんお母さんも背は大きいんですか?
「父が180くらいで母が170くらいですね。姉も175くらいあって、兄も僕と同じくらいあるので、平均的にみんな大きいです」
B:奈良県出身の選手というと、先ほど話に出た谷口選手や吉本選手のほかに誰がいますか?
「藤高宗一郎さん(13年度関西大卒・現NBL日立東京)がそうですね。藤高さんは、僕のいたミニバスのすぐ隣のミニバスチームだったんですよ。だから小学生のときは、かなり練習試合もしました。そのときは藤高さん、小さくて正直あまり目立っていなかったんですけど、中学に入っていきなり身長が伸びたんです。正直、ミニバスのときは僕がボコボコやっていたのに、中学になったら『逆になったな』って藤高さんにも言われました(笑)。ものすごいダンクとかするじゃないですか。最初あれ見たときは、『この人、こんな選手だったっけ!?』ってびっくりしましたね(笑)」
B:そうだったんですね。あとは谷口光貴選手の兄で、スラムダンク奨学金2期生でもある谷口大智選手(現サウスイースタンオクラホマ州立大)も奈良出身ですよね。
「そうですね。あの人は、自分の兄貴と同じ代だったんですよ。同じ葛城郡の大会に出ていたので、対戦もしていました。でも小6で190センチ以上あったし、止められなかったですね(笑)。すごかったです」
先輩の背中を見て心機一転した高校の下級生時代

「いろいろあったんですけど、兄貴の高校の先生からのアドバイスもあって、やっぱりインターハイに出られるようなチームがいいなと。それで、中3のときに光泉の練習を見学しに行って、寺田先生のこともすごいと思ったし、光泉にしようと決めました」
B:光泉高校は入ってみてどうでしたか?
「これまた、走る系の練習が多くて…(苦笑)。光泉ってトランジションのチームだし、練習もそういう系のメニューが多くてしんどかったですね。でも中学でもだいぶ走ってきたので、まだなんとかやっていけました」
B:高校では寮生活ですよね?
「はい。でもそこはあまり問題なかったし、楽しかったですね。同期のやつと3人で一緒のところに住んでいました。順天堂の佐藤(#96)と、あと今バスケやってないんですけど同じ奈良県出身のやつです。それぞれ部屋が1人1つあったので、過ごしやすかったです」
B:1年生のときのことを振り返っていただけますか?
「1年生の頃は、試合も全然出てないですね。一応、冬からベンチ入りはしたんですけど、主力ではなかったです。あ、思い出といえば、埼玉インターハイのときに、大会が始まるより結構早めに現地入りするんですけど、そこで明成と練習試合をしたんですよ。主力は出ないで、お互いに下級生とか主力じゃないベンチメンバーとかで試合して。そこで自分は40分くらいほぼ出ずっぱりで、それがめっちゃキツかった覚えはありますね。北川さん(13年度日本体育大卒・現NBL広島)とかと一緒に出ていました」
B:明成は誰が試合に出ていたか覚えていますか?
「それが、あんまり覚えてないんですけど…。たぶん、菊地さん(13年度日本大卒)とか、安藤誓哉(現カナダプロチームRainmen)もいたのかな…? 失礼かもしれないですけど、その頃の明成ってみんな顔同じに見えてしまって(苦笑)。動きも統制されていて、機械みたいだし、強いし、スゲーなこのチームって思いました」
B:1年生のときのウインターカップの思い出はありますか?
「うーん…初戦で土浦日大に負けたんですよね。ベンチで見ているうちに、あっという間に終わっちゃった印象です(苦笑)」
B:それから高校2年生になって、試合にも少しずつ出られるようになったんですよね。
「はい。でもまだ夏の大阪インターハイはあまり出てないですね。冬頃には少しずつシックスマンとして出られるようになりました」
B:そのインターハイでは1回戦で福岡大附大濠に当たり、すごく良い試合をして、4Qで逆転されてしまったそうですが。
「はい。あの試合は正直、途中『勝った』と思いました(笑)。3Qまですっごいみんな良い調子だったんですけどね…。4Qで一気に40点くらい取られて、負けてしまいました」
B:ウインターカップの思い出はありますか?
「ウインターカップでは2回戦で、また明成と戦ったんですよね。そのとき、自分なぜか5番ポジションで出たんですよ。宮澤さん(13年度中央大卒・現NBDL豊田合成)とマッチアップしたのは覚えています。フィジカルが違い過ぎて、吹っ飛ばされまくりでした(笑)。その試合、誓哉もヤバかったし、高田歳也さん(13年度法政大卒・現新生紙パルプ商事)もバカバカシュートが入るし、レベルが違うなと。コテンパンにやられました」

「はい。だから明成が優勝して、優勝したチームに負けたんならまだマシかと思いました(笑)」
B:この年の光泉は、清水選手(2013年度明治大卒)がキャプテンだったんですね。淡々としていてクールなイメージがありますが。
「清水さんはすごく良いキャプテンでしたよ。真面目で手を抜かないし、締めるところは締めるし。そういう背中を見て、みんなもついて行かなきゃってなりました。それに北川さんもいたので、清水さんが言わない分、北川さんがいろいろ言ってくれましたね」
B:背中で見せるタイプのキャプテンだったんですね。
「はい。よく覚えているのは、光泉って練習前に腹筋とか縄跳びとかやるんですけど、僕、その頃そういうのをサボりがちだったんです(苦笑)。そうしたらある日、寺田先生に教官室に呼ばれて、『お前はなんでそんなサボるんだ。清水を見習え!』ってめっちゃ怒られたんです。『あんなに良いお手本が近くにいるのに、なんでお前はそうなんだ』と。それは自分でもそうだなと思って、それ以来心を入れ替えて、清水さんを見習ってちゃんとやるようになりました」
B:一番お世話になった先輩は?
「やっぱり清水さんと北川さんじゃないですかね。バスケットのこともいろいろ相談していたし、アドバイスもたくさんくれて、お世話になりました。試合中は北川さんがいろいろ言ってくれて、試合後には清水さんにいろいろ聞いて、『あそこはああちゃう?』みたいな感じでアドバイスをもらっていました」
なかなか万全な状況ではなかった高校の3年目

「ウインターカップの明成戦が終わって、もう次の日から新チームで練習試合だったんです。全国から集まってるチームとかと。そこでいきなりめっちゃ怒られたのはよく覚えていますね(笑)」
B:沖縄インターハイはどうでしたか?
「沖縄はいろいろ大変でしたね。試合というより、体育館が…(苦笑)。初戦の松江東との試合は、体育館がめちゃくちゃ滑って。それで滑り止めの石灰を撒いて、一面真っ白な状態で試合したんですよ。すごかったですね、あれは」
B:雨が降って湿気が高かったこともあり、特に1回戦はかなり滑ったという話ですね。
「はい。体育館じゃないみたいでした。滑り止めをまいてもそれでも滑るし、先生にも『ケガするから速攻は出すな』と言われましたね。それで2回戦の福島工戦は、今度は体育館がめっちゃ暑くて…。なんとか勝ったんですけど、僕、試合が終わったら熱中症で倒れて、病院に行ったんです(苦笑)。それで次の試合の相手が、また明成だったんですよね」
B:明成とは不思議な縁がありますね。でも、万全な状態では臨めなかったと。
「そうです。それに明成戦の会場は、クーラーの効いてる体育館だったんですよ。自分たちはそれまで変な体育館だったので、いきなりそんな環境の良い体育館になったら逆に調子悪くなっちゃって(笑)。全然ダメでした」
B:なかなか環境も厳しい状態ですね。沖縄観光はできましたか?
「あ、それは楽しかったですね。試合に負けた後、先生から『お前ら海行くなよ』って言われていたんですけど、やっぱり沖縄に来たからには…ってことで、こっそり海で遊んだんです。そうしたら日焼けで真っ黒になって、結局『お前ら海行っただろ!』ってバレて怒られるという(笑)。今となっては良い思い出ですね。キャプテンの佐藤が一番怒られたので、ごめん佐藤!って感じでした」

「あれは楽しかったですね。国体でも宮城と戦ったんですよ。本当に、明成と試合しすぎ(笑)。ただ、今までずーっと負けてきたんですけど、国体ではU-18日本代表で誓哉も佐藤久夫先生もいなかったし、勝つことができました。国体は、自分の中で唯一調子が良かった大会かもしれません。インターハイも熱中症だったし、ウインターカップも前日に体調不良になったんです。国体だけ万全な体調でプレーできましたね」
B:そうだったんですか。敗れた準決勝の京都戦の思い出はありますか?
「京都は強かったですね。洛南の人たちとか。それに自分たち、ベスト4に入った時点でちょっと満足しちゃっていて。先生からも『お前ら、ベスト4で満足してんじゃないか』と指摘されたんですけど、終わって振り返ればその通りでしたね。光泉高校的に、確か初めての全国ベスト4だったんです。それで満足しちゃった部分がありましたね」
B:初のベスト4だったんですか。光泉高校は相井選手(10年度早稲田大卒)、宇野選手(10年度立教大卒・現三井住友海上)、若林選手(10年度明治大卒・現NBDL豊田合成)らが3年生のときに全国ベスト8でしたよね。横江選手(11年度日体大卒・現TKbjリーグ滋賀)が2年生で。
「はい。確かあの時が、初めての全国ベスト8だったと思います。だから入学した頃からずっと、寺田先生から『あの代を見習え』と言われてきました。あの代のビデオもよく見ましたね。いつも比べられるくらい、あの代はちょっと特別でした」
B:国体とはいえ、そういう先輩たちの成績を超えられたわけですね。では自信をつけてウインターカップに臨んだわけですね?
「そう、そのハズだったんですよ。練習試合でも普通に調子良かったので、いけるって感じでウインターカップに入る予定だったんですけど…でも、大会前日に自分が体調崩して…。胃腸炎か何かにかかって、吐きまくって、そのまま試合に臨みました。正直かなりしんどかったですね。東京体育館って暖房効いているのに、アップしても全く汗かかないんですよ(笑)。あれはヤバかった。それで延岡と戦って、やっぱり全然ダメで、負けました。初戦敗退は、完全に僕のせいですね」
B:それは悔しかったですね。延岡学園はどんな印象でしたか?
「礼生(東海大#0ベンドラメ)がいて、バンバ(拓殖大#23)がいて…強かったですね。スタメンだったプイ(エリマン・関東学院大#10)よりも、バンバの方が厄介なんですよ。プイが出ているときは結構流れも良かったんですけど、バンバが出てきたら流れが変わって。確か自分がバンバについたんですけど、3Pはないだろうと思って離していたら普通に決められて、マジかと。それに礼生は、相変わらずスティールがすごかった印象があります。向こうがゾーンで、パスを普通にカットされたのは覚えていますね」

「はい。本当に高校時代は、微妙な終わり方になってしまいました(苦笑)」
B:高3のときは、ずっと同期5人が不動のスタメンだったんですね。佐藤選手、小山選手(明治大)、杉本選手(中京大)、藤原選手(大阪体育大)らと。
「そうですね。今思うと、スタメン5人、メンツは結構揃っていたんですよね。サイズもあって、自分が3番をやっていたくらいだし」
B:中京大の杉本選手も良い選手ですよね。
「(杉本)慶はうまいですよね。なんだかんだアイツがアシストでうまく生かしてくれるから、自分も点を取れていた部分があります。点も取れるけど、普通にガードもできるヤツですよね」
B:卒業してから高校に遊びに行くことはありますか?
「たまに行きますね。この間も、インカレが終わった後に挨拶がてら遊びに行きました。寺田先生もインカレを観に来てくれていて、その後ご飯を食べたりしたので。現役のときは怖かったですけど、今は優しいです。でも未だに電話がかかってくると、ちょっとビクッと緊張します(笑)」
過酷な練習について行けたのは「負けず嫌いだから」

「最初は僕、地元も関西だし、兄も関西の大学にいたので関西の大学に行く予定だったんです。だから関東の大学から声がかかっても、先生が断っていたみたいで。でも、小山の母さんから『絶対に関東に行きなさい!』と強く推されたんです」
B:小山選手(明治大#18)のお母さんですか。
「はい。うちの母はバスケもよく知らないので、『どこでも好きなところに行きな』って感じだったんですよ。けど、小山の母さんはバスケもやっていて詳しい人なので、『絶対関東の方がいいよ!』と。それで、先生に『やっぱり関東に行きたいです』と言いました。それで話が残っていた学校の中から、明治を選んだ感じです。若林さんとか清水さんからも強く誘われましたし」
B:1年生のときのことを振り返っていかがですか?
「いや、まさかこんなに練習がキツいなんて思ってなくて(笑)。それは大変でしたね」

「そうですね。とにかく『お前は攻めろ』と言われていたので。あの年のリーグ戦はよく覚えています。最初はケガで出られなくて、途中、10月に復帰したんですけどその復帰戦がすごく良かったんですよ。でもその次の試合、東海大の体育館で専修と対戦したんですけど、その試合がダメで、塚さんからめっちゃ怒られましたね。『お前、1日だけ良くてもあかんねん!!』って。あとは戸田の体育館でやったときもダメで、外の芝生でめっちゃ怒られたのはめっちゃ覚えています。悔しくて泣いたんですよ(笑)。それを今でも塚さんに言われます。『あの頃はお前、あんな泣いてんのにな〜ははは』って。今となっては良い思い出ですね。それに、あの年は入れ替え戦に勝って1部に残れたことが本当に大きかったです」
B:中央大との入れ替え戦は白熱しましたよね。第3戦は2点差でしたが、佐藤卓哉選手(11年度明治大卒・現三井住友海上)ら、4年生の意地を感じました。
「はい。あの試合は本当に4年生に助けられました。4年生の思いを強く感じた試合でしたね」
B:その年の4年生が引退して、翌年は2、3年生が主力になりましたよね。
「あの年は4年生がいなくて、2、3年のチームでした。2年生に上がるときの春は、信じられないくらいキツかったですね(笑)。今思い返しても、あの頃の練習は4年間で一番ハードだったと思います。1個上の森山さん、目さん(現bj東京サンレーヴス)、西川さん(現NBLレバンガ北海道)、成也さん(現NBL広島)の代は、たぶん一番怒られていましたね」
B:練習がキツくても、なんとかついていけたんですね。
「そうですね。やっぱり、怒られたりできなかったりするのが悔しかったんだと思います。結構負けず嫌いなので。やってやろうみたいな感じでした。それにもう、やるしかないので、慣れていきました(笑)」

「そうですね。練習もほとんどディフェンスの練習だったし、2年生のときは本当にディフェンスで勝っていたイメージです。リーグ戦は我慢して我慢して、なんとか勝ちを拾う試合が多かったですよね。でも2年生のときは、いろいろプレッシャーもあって大変でした。1年生のときは、負けは込んでも自分はルーキーだし何も考えずにプレーできた部分があったんです。でも2年生になってから、自分たちがチームの中心にならなければいけなかったし、入れ替え戦に行ったらやばいなという思いはずっとありました。それは苦しかったですね」
B:そうだったんですね。それでも苦しいリーグ戦を乗り越えて、インカレでは専修大を破ってベスト4に入りました。準決勝の青学戦では約50点差つけられ大敗しましたが…。
「あの青学戦は、忘れられないですね…。これ以上ないくらい圧倒されて。もう試合中から、塚さんが『お前ら、この試合は絶対覚えておけよ』って言い続けていたんです。それで翌年も、あの負けはずっと覚えていました。だから3年のインカレの準決勝で、青学にその借りをきっちり返せたのは本当にうれしかったですね」
写真中:インタビュー中に出てきたリーグ戦の日本大学戦は、3P2本を含むチームハイの18点を稼いだ。
代表に選ばれて変わった意識

「そうですね。2年のときからメンバーも変わらないし、コーチ陣も外山さん、知花さんが来てくれて充実していて、環境としても一番良かったなと思います。それがインカレの準優勝という結果に結びついたのかなと。東海は強かったですけどね。でも自分的には、3年生の1年間でだいぶ成長できたかなと思います。代表とかにも選ばれて、貴重な経験もできましたし。本当に1年1年いろんなことがあって、毎年成長していけたんですけどね」
B:ユニバーシアードや東アジア競技大会の経験は大きかったですか。
「はい。自分としては、初めて世界と戦う舞台でしたし。それにやっぱり日本代表に選ばれることで、いい加減なプレーはできないなとか、ちゃんとやらなきゃとか、自覚は生まれたと思います。正直、自分なんかが代表を背負っていいのかな?って思いましたけどね。誓哉も選ばれていなかったし、自分でいいのかなって」
B:他国と戦ってみていかがでしたか?
「ユニバのときはあまり試合に出なかったんですけど、東アジアでは最後の韓国戦では結構使ってもらえて、そのとき初めて20分以上試合に出たんです。その試合は楽しかったですね」
B:東アジア競技大会は、リーグ戦の合間のハードなスケジュールでしたね。
「それは大変でしたね。リーグ戦も変則的で、週に3試合とかあったじゃないですか。明治のほかのみんなはリーグの休止期間に結構リフレッシュできたみたいなんですけど、自分は代表に行って帰ってきたらすぐ試合みたいな。帰ってきて一番最初の週はなかなか感覚が合わなかったです。でも確か休止期間を終えて最初の試合が青学と大東だったんですけど、それも2連勝できたんですよね。特にそのとき青学に勝ったことは結構自信になりましたね。それによく覚えているのは、あのとき自分がスタメンじゃなくて、森山さん(13年度明治大主将・現3×3PREMIERE.EXE)がスタメンだったんですよ。それで森山さん、『泰斗、ありがとな!』とか調子良いこと言っていたわりに、そこまで活躍しないっていう(笑)。面白かったです」

「ありましたね、4年のときも4年のときで。1年1年、いろいろありすぎて、本当に濃い4年間でした(笑)。4年生になって新チームが始まったときは、前の年の準優勝を超えて優勝を狙うつもりでした。でもトーナメントでは、うまくいかず。2、3年生を使わずに4年生と1年生で試合したんですよ。それで全然だめで…。そのあと、じゃあリーグ戦から頑張るかってときに、誓哉がカナダに行っていなくなり。もう…大変でしたね。まぁ、下級生に助けられました。試合の中では言うこと聞いてやってくれるので(笑)」
B:安藤選手がいなくなって、中東選手にかかる負担も大きかったですね。
「徹もケガから戻ってきたばかりだったし、4年生の中でずっと試合に出てきたのは唯一自分だけでしたからね。途中からは自分がキャプテンをやることになりましたし(苦笑)」
B:いろいろ背負ったものは、どこで発散していたんですか?
「悩んだりもいろいろしましたけど、アキ(藤永)とかササ(笹山)もキャプテンをやっていたので、あの二人にも『こういうときどうしたらいいかな』って相談しましたね」
B:二人は良いアドバイスをくれましたか?
「どうやったかな…ササはあんまり良いアドバイスくれなかったかもしれないです(笑)。『とりあえず、お前が頑張るしかないやろ!』みたいな。アキは『俺はお前が頑張ってるの知ってるし、尊敬してるで』みたいに、良いこと言ってくれるんですよ。『俺、お前みたいなキャプテン目指すわ』みたいに言ってくれて、励ましてくれましたね」

「そうですね。自分はもともと、そんなまとめるキャラでもないですし。高校のキャプテンって、キャプテンとはいえやっぱり先生がみんなに怒るじゃないですか。でも大学って、キャプテンが締めるところは締めなきゃいけなくて。それに明治の場合、練習でダメなときとか、塚さんから『泰斗、言え』みたいに言われるんですよ。チームメイトにそうやって言っていくのも大変でしたね」
B:今年は、1番ポジションもやりましたが。
「そうですね。誓哉がいなくなった後、なかなかガード陣が安定しなくて、最後は『お前、やってみないか?』と。まぁ、自分もそんな見せられるものではなかったと思いますけど(苦笑)。でも、外山さんも大学のときにユニバか何かでガードを経験して、それはすごくためになったと言っていたんです。自分もプロにもつながる良い経験になるだろうし、ガードをやってみるのも悪いことではないから、ということでやってみましたね。なかなかうまくできなかったですけど」
4年目で芽生えたリーダーシップ

「そうですね。でも最後のプレーは何もできなかったし、仕方なかったかなと。それよりも、前半から自分はシュートが全然入らなかったので、悔やむならそこかなと思います。むしろ、あれだけ点差が開いていたのに、よく追いついたなって感じでしたね。プレスの練習も特にしていたわけではないのに、なぜかうまくハマって(苦笑)。たぶん拓実(#2齋藤)とか治耀(#32吉川)はカットするのが好きなので、そういう面がうまく機能したのかなと思います」
B:最後は6位で終えましたね。最後の5位決定戦は、奇しくもリーグ戦プレイオフの5位決定戦と同じ、国士館大との対戦でした。
「国士舘とも、よく対戦しましたね。インカレ前に練習試合もしていたので、お互いに知り尽くした同士でした。なんかもう、やり飽きた感じでしたね(笑)」
B:6位という結果についてはどう受け止めていますか?
「うーん、正直誓哉がいなくなった時点で、下との入替戦も行くかもしれないなと思っていたんです。1部に残ることに必死でした。それが結果的には、入替戦も回避できたし、下級生主体でインカレも6位まで行けたので、自分的にはまぁ良かったんじゃないかなと思います」
B:4年生としてチームに残せたもの、見せられたものはありますか?
「どうなんですかね〜。それは後輩に聞いてみないと分からないですけど(笑)。でも最終学年になった今年は、自分もちょっと今までの年と違ったと思います。今まではコートの中でも先輩たちとか誓哉がみんなに声をかけて引っ張ってくれたんですけど、今年はそれを自分がやらなきゃいけないなと思っていました。それで結構今年は、声を出したりして。プレーも、わりと大きな波もなくコンスタントにやれたんじゃないかなと思います。そういう面を見てくれていたらうれしいです。そういう背中を見て、来年は伊澤(#50)とかがやってくれるんじゃないかなと思います」

「それは楽しくやれましたね。地元が関西なので、関西で試合をできたのは良かったです。おばあちゃんとか、地元の友だちも観に来てくれたので。頑張っている姿を見せられたのはうれしかったですね」
B:最後のオールジャパンでは、NBLの和歌山相手に30得点の活躍でした。惜しくも4点差で敗れましたが、すばらしい活躍でしたね。
「自分は今後NBLに行くので、NBLのチーム相手に自分がどこまでやれるか、試す場だなと。最後は退場しちゃいましたけど、まぁまぁやれたかなとは思います。ドライブとか1対1とかは通じたなと感じました」
B:三菱電機名古屋ではどこのポジションになるんですか?
「2番、3番ですね。今は練習でフォワードのアマット・ウンバイ選手(#22)とマッチアップするんですよ。身体能力が凄まじいです(笑)」
B:笹山選手と二人、若手で新しい風を吹き込みたいですね。
「そうですね。今チームは結構ベテランの選手が多いので、僕とかササとか、智伸さん(#29長谷川)とか若いメンツがどれだけ頑張れるかも見どころになるんじゃないかなと。頑張らなきゃいけないです」
知らぬ間に人と仲良くなれる末っ子気質

「うーん…ちょっと人見知りかもしれないです。仲良くなったら仲良くなったで、グイグイいっちゃうんですけど。見た目が結構とっつきにくいみたいで、初対面であまり話しかけられないんですよ。話しかけられればわりとしゃべるんですけどね。あとは、単純。良く言えば素直な性格だと思います(笑)」
B:そういえば、宇都選手(13年度専修大卒・現NBLトヨタ東京)と仲の良いイメージがあります。
「そうですね。ユニバの選考会くらいで知り合って、知らない間に仲良くなりました。宇都さんいわく『俺、自分のテリトリーにガツガツ入ってくるやつは好きじゃないんだけど、お前はガツガツ入ってきたのに仲良くなってたわ』って。自分、先輩と仲良くなることが多いんですよね」
B:末っ子気質があっていたんでしょうか。
「そうかもしれないですね。それに宇都さんもO型で、結構性格も合ったんだと思います」

「基本、会うのも練習後だったりしたので、普通にごはんに行ってしゃべる感じですね。バスケの話も結構します。最近こうなんだけど、どう思う?みたいに相談します。宇都さんは『それはお前、自信持たなアカンやろ』みたいに言ってくれますね」
B:そういえば今年は「フローターを打て」とアドバイスされたとリーグ戦中に言っていましたね。プレーについてもいろいろ言ってくれるのはいいですね。では、好きな食べ物、嫌いな食べ物はありますか?
「パスタが好きです。嫌いなものは特にないですけど、刺身系はあまり食べないです。嫌いじゃないですけど、好んで食べないです」
B:他のスポーツはやりますか?
「野球は小学生のときやりたかったくらいだし、結構好きですね。でもサッカーはあまり得意じゃないです。まぁ、どのスポーツも観るよりやるほうが好きです。NBAもあまり観ないですね」
B:安藤選手はNBAだけでなくヨーロッパのバスケも見ていましたよね。
「はい。だから誓哉からめっちゃおすすめされて、ちょびっと観るようになりました。『お前、観ないとうまくなんないよ!』ってめっちゃ言われたんです(笑)。それからは、NBAのその日のハイライトくらいは結構観るようになりましたね」
B:趣味はありますか?
「うーん…映画鑑賞ですかね。よく映画は見ます」
B:最近は何を見ました?
「最近は、ST(『ST赤と白の捜査ファイル』)を見ましたね。岡田将生と藤原竜也のやつ。邦画も結構見ます。最近観たやつでおすすめは、『アバウト・タイム』って映画ですね。人生を大切にしなきゃいけないって映画だったんですけど、めっちゃ心打たれました(笑)。映画で泣いたりあまりしないんですけど、その映画はちょっとウルっと来ちゃいましたね」
B:地元の奈良の自慢はありますか?
「奈良自慢…うーん…のどかです(笑)」

「空気がおいしい。奈良は、のんびりしているところが良いんですよ。同じ都があったといっても京都はやっぱり都会じゃないですか。奈良は自然もたくさんあってのんびりしていて、良いところだと思います。食べ物のオススメは、果物の柿かな? あとはやっぱりお寺ですかね。東大寺。僕は行かないですけど(笑)」
B:行かないんですね(笑)。
「もともとあるところで生まれ育つと、意外と行かないものですよ」
B:では、リレーインタビューを次に回す人をお願いします。
「坂東(筑波大#14)でお願いします。めっちゃ面白いので、あの人に行っとけば間違いない。バンさん、絶対このインタビューが回って来るの、待っていると思うので(笑)」
B:坂東選手とはいつから仲が良いんですか?
「ユニバのときとかに仲良くなって、意気投合しましたね。代表のチームでもムードメイカーで、ベンチでもめっちゃ面白いんですよ。それからは、試合の会場で会うといつも面白いので、爆笑しています。ポンポン面白いこと言うんですよね」

「彼はオールマイティなので、何の話をしても笑いに変えてくれると思います!(笑)」
B:だいぶハードルが上がったような気もしますが、次回は筑波大・坂東拓選手にお願いしましょう。中東選手、どうもありがとうございました。
写真上2枚:2013年のリーグ戦、専修大との2戦目となった最終週の試合の最後には、宇都選手との1対1が実現。周囲も2人の勝負を見守る展開となった。
写真中:代表などでは坂東選手を中心にベンチのチームワークの良さも目立った。
写真下:Tシャツに書いた言葉は「飛躍」。今後のさらなる飛躍を期待したい。
◆#12中東泰斗(なかひがし たいと)
白鳳中→光泉高→明治大
4年・SG・主将
190cm/77kg
・2007 ジュニアオールスター奈良県代表
・2010 インターハイ出場(高3)
・2010 国体ベスト4(高3)
・2010 ウインターカップ出場(高3)
・2012 新人戦 5位
・2013 トーナメント 5位
・2013 リーグ戦 3位
・2013 インカレ 準優勝
・2013 ユニバーシアード日本代表
・2013 東アジア競技大会日本代表
・2014 リーグ戦 5位
・2014 インカレ 6位
・2014 李相佰杯代表
・2014 日本学生選抜(三菱電機カップ)
・2014 ヤングジャパン(ゼビオチャレンジカップ)
(2015.1.29インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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