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2015.02.11 (Wed)
【SPECIAL】BOJラインvol.26〜高橋貴大選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.26~青山学院大学・高橋貴大選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第25回の東海大・藤永佳昭選手からバトンを渡されたのは、青山学院大・高橋貴大選手です。
2007年の山形全中では、地元の大声援を受けて全中優勝の立て役者になったエースプレイヤー。また山形南高時代は、U-18日本代表としてアジア選手権なども経験したキャリアの持ち主です。今年度は青山学院大の主将として仲間を支え、ガードプレイヤーとして勝負強いアウトサイドシュートでもチームに貢献しています。
高橋選手のこれまでの歩みには、輝かしい栄光も、涙に暮れた悔しさもありました。知られざる一面も見えてきた第26回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第26回は青山学院大・高橋貴大選手です。よろしくお願いします。藤永選手からの紹介ですが、高橋選手から見て藤永選手はどんな人ですか?
「アキ(藤永)はバスケに対してすごく熱くて、一緒にいるときは結構バスケの話をすることが多いですね。とにかく優しいですし、良いやつです」
B:藤永選手は高橋選手のことを、すごく面白いやつだと言っていました。一発芸がすごいと(笑)。
「いやいや、すぐやらされるんですよ(笑)。でも笑ってくれるのはアキぐらいです。そういうところが良いやつですね(笑)」
B:一発芸はどこで鍛えたのですか?
「昔からいじられキャラなんですよね…。大学1年のときとか、辻さん(現NBL東芝神奈川)や伊藤さん(現NBL日立東京)に『なんかやって』ってよく振られました(笑)。AKB48を踊るとか。あとは慎之介(大垣)とかにもよく振られます」
B:大垣選手とも仲が良いんですよね。大垣選手はどんな人ですか?
「バスケに対して熱いのはアキと一緒なんですけど、あいつはギャグセンスが群を抜いていると思います(笑)。根は結構マジメですけど、はっちゃけるときははっちゃけるやつですね」
B:そうなんですね。では本題に入りますが、バスケを始めたのはいつ頃ですか?
「小3です」
B:きっかけは何ですか?
「両親が学生の頃にバスケをやっていたこともあって、小さい頃から母に連れられてよくバスケの試合を見に行っていたんです。でも僕はサッカーも好きだったので、いざチームに入ろうとしたときに、バスケにするかサッカーにするかすごく迷って。それでとりあえず練習を見学しようと、同じ日にバスケとサッカーの練習をどっちも見に行くことになったんです。それで、最初にバスケを2時間くらい見学して、母に『じゃあ次はサッカー行くよ』って言われたんですけど、疲れていたのか『もういいや、バスケにする』って感じで決めちゃいました(笑)」
B:そうなんですか。もしかしたらサッカーの道に行っていたかも知れませんね。
「はい。もしあそこでサッカーを最初に見に行っていたら、サッカーをやっていたと思います」
B:兄弟はいますか?
「いや、一人っ子です」
B:ミニバスは強かったんですか?
「いや、微妙でしたね。県で5位とか6位くらい。東北大会に出場するくらいでした」
B:どんなチームだったんですか?
「自分自身、小学生の頃からかなり身長が大きかったんですよ。小学校を卒業するときには確か172cmくらいあって、ズバ抜けて大きかったです。しかもたまたま、周りも結構背の高いメンバーがそろっていて。だから高さを生かして、そこそこまで勝ち進めた感じでしたね」
B:ではポジションはセンターだったんですか?
「はい。ミニバスって3Pラインがないですし、身長があるんだから中でプレーした方がいいなという感じで、インサイドのプレイヤーでしたね」
B:それは意外ですね。小学校を卒業して、山形第六中にはどういう経緯で進んだんですか?
「自分たちの代は、中3になるときに全中が地元開催される予定だったので、そこに向けて力を入れようという代だったんです。それで県内の選手はだいたい山形第六に集まっていて、そこに運良く呼んでもらえた感じですね」
B:中学は結構ハードに練習してきたんですか?
「いや、そこまでガッツリというわけではなかったと思います。一応週6とかで練習はありましたけど、走り込みをいっぱいやるとかいうよりは、戦術的なことの練習が多かったですね」
B:全中には、中1でも出場したんですよね。それが初めての全国大会ですか?
「はい。でも中1のときは、一応少し試合には出させてもらったんですけど、大事な場面では出られなかったし、そのときの先輩たちとか他県の人たちのプレーを見て、ただ感動しているだけで終わりました(笑)」
B:試合に主力として出られるようになったのはいつ頃ですか?
「スタメンで出させてもらえるようになったのは、中2からです。そのとき1個上の先輩たちの人数が少なくて、自分たちの代も結構試合に出ていたんです。だから中3になっても、ほぼそのままのメンバーって感じで戦えましたね」
山場を乗り越えて果たした全中優勝
B:中2の終わりにはジュニアオールスターにも選ばれていますが、そのときの思い出はありますか?
「ジュニアオールスターは、1試合目が静岡と対戦だったんですよ。前半で15点差くらいリードして、正直『あぁ、これはイケるな』と思いました(笑)。でも後半で巻き返されて、最後は1点差で負けてしまって…。初戦で負けてしまったので、2試合目は勝ったんですけど、結局決勝トーナメントには行けませんでした。あそこで油断していなければ、もっと上まで行けたんじゃないかとは思いましたね」
B:悔しい大会になってしまったんですね。そして中3では、地元開催の全中で見事優勝を成し遂げました。
「ホームだったので、応援がものすごかったんですよ。でも、不思議とあまり緊張はしなくて。力まずにプレーできたのが良かったかなって、今になって思います」
B:大会3日間で6試合を戦ったわけですが、一番印象に残っているのはどことの試合ですか?
「一番覚えているのは…、決勝も準決勝もよく覚えているんですけど、やっぱり決勝トーナメントの2回戦で福岡の姪浜中とやった試合ですかね。あ、思い出しましたけど、その試合だけ、めちゃくちゃ緊張したんですよ!(苦笑)」
B:それはどうして?
「中2の12月くらいに、関西の交歓大会に呼んでもらって、姪浜と試合して負けたんです。全中に向けて練習試合も結構していたんですけど、ケガ人とか抜きにフルメンバーで戦って負けたのは、後にも先にもたぶん姪浜だけでしたね。だから苦手意識がありました」
B:その負けた試合はどんな試合だったか覚えていますか?
「覚えています。確か途中まで10点くらいリードしていたんですけど、4Qでうちの笹原というインサイドの要が退場して、そこから追い上げられて、最後はブザービーターを決められて1点差の逆転負けでした。花田アマースィ真平というやつにブザービーターを決められたんですけど、そいつも化け物みたいにうまかったし、流田(中央大#31)とかもいて、姪浜はみんな上手くて強かったです」
B:では、全中でも姪浜戦が大きな山場だったんですね。
「はい。唯一負けたことのある相手だったので、ヤバいくらい緊張しました。全中って、決勝トーナメントはくじ引きじゃないですか。くじ引きの抽選の日の夜、みんなが泊まっている旅館にうちの親が抽選の結果を伝えに来たんです。それで、『組み合わせが決まりました。1回戦で勝ったら次に姪浜に当たります』って発表して(笑)。もう、『うわー、よりによってそこ引く?』って感じですよ。それでその夜からずっと緊張していて、試合前にさらに緊張が増してきて、アップもしっかりできなかったような気がします。実際試合が始まって、自分はあまり調子良くなかったんですけど、周りの人たちが頑張ってくれて、なんとか勝てたのは良かったです」
B:その山場を越えて、準決勝は本丸中が相手でしたね。本間選手(日体大#1)や1個下には富樫勇樹選手(テキサス・レジェンズ)がいて、力のあるチームだったと思いますが。
「そうですね。でも相性が良かったのか、本丸中には練習試合とかでも、メンバーがそろっている試合では一度も負けたことがなかったと思います。自分もあまり緊張しなかったし、ホームの声援もあって勝てましたね」
B:決勝は、前川選手(関東学院大#3)や2年生コンビの田渡凌選手(オローニ大)、池田選手(早稲田大#34)らがいる京北中が相手でした。スコアを見ると、1Qから30-11、前半終えて56-32と、前半から大きく差をつけての快勝だったようですね。
「いや、本当にあの試合は、できすぎでした(笑)。あんなに全員シュートが入る試合は経験したことがないです。中学生で前半60点近く取るって、そうそうないですよね」
B:高橋選手も35得点の活躍だったそうですが。
「自分もできすぎでした(笑)。たまたま決勝が調子良くて、運が良かったです」
B:その頃は、どんなプレーが得意だったんですか?
「監督が自由にやらせてくれたので、なんでもやっていました。ポジションは3番だったので、外から打ってもいいし、小さい人につかれたらインサイドで勝負してもいいし…って感じで、自由にやらせてもらえたので良かったです」
B:全中MVPにも選ばれましたね。
「いやでも、たまたま自分が調子良かっただけなんですよね。うちのチーム、みんな点が取れたんですよ。優秀選手に選ばれるような人って、チームの絶対的エースみたいなイメージがあったんですけど、自分は全然そういう感じではなくて。全員が得点できるチームの中でも、ただ決勝で自分が調子良くて優勝できたってだけですね」
山形南高は「体力もメンタルも鍛えられた」
B:そこから山形南高校にはどういう経緯で進んだんですか?
「一番大きかったのは、山形南の細谷先生に惹かれたのが大きかったです。中3のときに高校の県の試合を見に行ったんですよ。そうしたら、細谷先生がめっちゃ熱い人で、選手たちにも厳しいんですけど、自分自身もハッスルして、僕が見た試合ではベンチですごくハッスルした指揮していたんです。それで、『この人、熱くて良い人そうだなぁ』という印象を持って。そのあと、細谷先生と話す機会があって、やっぱりすごい人だなと思って進学を決めました」
B:山形第六中のスタメン5人のうち、3人は日大山形高に進んだそうですね。
「そうなんですよね。だから結構迷ったんです。でも細谷先生の話を聞いて、やっぱりすごい人だなと思って、一人だけ山形南に行きましたね」
B:山形南高校は、入学してみてどうでしたか?
「最初は本当に練習がキツくて大変でした。練習内容も練習量も、中学とは比にならないくらいハードで…。もう気力でなんとかやっていた感じですね(笑)。でも体力的にもメンタル的にも鍛えられて、自分のためにはなったと思います」
B:一番辛かったのは何のメニューですか?
「マルチ(マルチステージ)ってあるじゃないですか。青学でもテストみたいな感じで2か月に1回くらいの頻度でやりますけど、山南では、練習メニューの一貫として普通にいつもやるんですよ。それである日、みんな記録が悪かったときがあったんです。僕らは背の低いチームで走らなきゃ勝てなかったので、監督が『こんなんじゃダメだ』と。それでやり直しになって、そこから、5回くらいやり直しました(苦笑)。それはキツかったですね」
B:それはキツいですね…。高校時代にそれなら、青学でのマルチステージのテストも、そこまで難しくはなかったのでは?
「ガードは一応150回をクリアしなきゃいけないんですけど、大学1年のときはアップ無しでも普通に行ける感じでしたね。若くて体力がありました。今は死ぬ思いをしています(笑)」
B:高校時代、ポジションはどこだったんですか?
「確か高1のときは、2番だったと思います。でも高3のときは、スタメンの中で僕が一番大きかったんですよ。すごく小さい選手がいるわけではないんですけど、僕くらいの身長が5人集まっているチームでした。だから5人でポジションあまり関係なく、やっていましたね。僕も3Pを結構打っていましたし」
B:小学生のときはインサイドのプレイヤーだったんですよね。シュートはどこで磨いたんですか?
「中学生のときですね。中2くらいから何となく感覚を掴んでシュートが入るようになって、入るようになると、余計シューティングも楽しいじゃないですか。だからシューティングは中学生の頃にかなりやった記憶があります」
B:それは自主練などで?
「朝にこっそりシューティングしている感じでしたね」
B:話を戻しますが、高校1年生のときの埼玉インターハイは、1年生で唯一メンバー入りしていますね。
「そうですね。シックスマンとして、監督が使ってくださって。でも1年生のときは何も考えていなかったというか、先輩たちも自分の好きなように自由にやらせてくれました。だからのびのび、思い切りやっていた感じですね」
B:そのインターハイの思い出はありますか?
「八王子に負けて2回戦敗退だったんですけど、その負けた試合はすごく覚えています。確か3Pが、打っても打っても入らなくて…。10分の0くらいだったと思います。その試合は、本当にまだまだダメだなと思い知らされました」
B:高1のウインターカップでは、早くもスタメンになったんですね。
「山南(山形南)って毎年、受験勉強のために3年生がほとんどインターハイで引退して、2〜3人しか残らないんです。そのときもキャプテンの先輩が引退して、自分がそのかわりに入ってスタメンになりました。でも、初戦で負けてしまったんですよね」
B:小禄高校に6点差で敗れたそうですね。
「はい。もう、あっという間に終わってしまって、どんな試合だったのかも思えてないです(苦笑)。初めての東京体育館で、緊張して、雰囲気に呑まれましたね。フワフワした感じで試合に入ったような気がします」
B:小禄高校には松島良豪選手(13年度国士館大主将・現NBL兵庫ストークス)がいましたが、覚えていますか?
「あ、それは覚えています。マッチアップもしましたね。とにかくディフェンスがうまいなと思いました」
B:その翌年、高2のインターハイには不出場でしたね。
「はい。あのときは、県予選の途中で佐藤正成さん(13年度東海大卒・現NBDL東京アースフレンズZ)がケガしちゃったんですよね。準決勝の前の試合で、でもその時は正成さんがケガしたって僕らも気付かなかったんです。でも次の日には足がめっちゃ腫れていて、まともに歩けない状況になっていて…。それに大会の1週間前にも、スタメンだった菅野(東京農業大#11)というやつが腕を骨折したんです。だからスタメン5人中、2人いない状況でしたね」
B:それは苦しかったですね。それで準決勝はなんとか勝ち進んでも、決勝で敗れたと。
「はい。準決勝も、正直勝てるか分からないと思っていました。相手の鶴岡工業は、練習試合でも1回も勝ったことのないチームだったんです。でも試合が始まってみたら意外とみんな調子が良くて、奇跡的に勝てましたね。そのあとの決勝では相手が山形中央で、山形中央には逆に負けたことがないチームだったんです。でもみんな準決勝の鶴岡工業戦で全部力を使い果たしていて、確か10点差くらいで負けました」
B:それでインターハイは出られなかったんですね。ウインターカップは出場していますが、県予選はどんな戦いだったんですか?
「予選は、自分はダメダメでしたが、正成さんとか冬まで残った1個上の先輩たちに助けられて、結果的には快勝でした。でも個人的には全然ダメでしたね」
B:波があるんでしょうか。
「そうですね。入らない日は、打っても打っても全く入らないという試合も今まで結構ありました」

B:ウインターカップでは、初戦の明徳義塾戦で35得点を挙げています。
「その試合はすごく覚えています。その試合、確かその日の最終試合で、19時トスアップだったんです。だから午前中に青学の渋谷キャンパスの体育館を借りて練習したんですけど、練習が終わってから結構空き時間があって。それで監督からは『試合があるからしっかり宿舎に戻って休めよ』と言われたんですけど、『せっかく渋谷に来たんだし』ってことで、こっそり先輩たちとバスケショップの「ギャラリー2」に行って買い物したんです。そうしたらその帰り道に、本当にたまたま、監督とすれ違ったんですよ(苦笑)」
B:それはマズい状況ですね。
「はい。『やばい!怒られる!』と思ったんですけど、そのときは、すれ違っただけで何も言われず、宿舎に帰っても何も言われず、そのまま19時から試合が始まったんです。そうしたら自分、前半がダメダメで…。それでベンチに戻ったら、監督から『買い物なんてしてるからだ!』ってめちゃくちゃ怒られたんです(苦笑)。それで、これで負けたらヤバいと思って、後半めっちゃ頑張りました」
B:それは印象に残る試合でしたね(笑)。続く2回戦(vs文星芸大附)も快勝で、3回戦で福岡第一に当たりました。
「福岡第一戦は、本当に何もできなかったです。玉井さんとか和田さんとか、すごい人がいっぱいいて。強かったですね。3Pも全然入らなくて…。ダメダメでしたね」
数々の貴重な経験をしてきた高3の年
B:そこで先輩たちが引退して、高3ではキャプテンを務めました。
「はい。実は最初はやりたくなかったんですけどね。でもやらせてもらって、今は良かったなと思います。細谷先生はバスケ以外の人間性とかもすごく指導してくれる先生なので、『キャプテンなんだからもっと周りを見ろ』だとか、『チームメイトのやつの気持ちを考えろ』とか、かなり怒られました。でもそのお陰で、自分も気配りとか視野とか、成長できたことは多いなと思います。すごく良い経験でした」
B:高3になって、今までの年とは心境も違いましたか?
「自分たちも最後だし、勝ちたいって気持ちは強くありました。最上級生だからその分怒られることも増えて、いろいろ大変だったんですけど、でも楽しかったですね」
B:高3はインターハイにも出場していますよね。沖縄インターハイは、コートがすごく滑ったと聞きますが。
「いやー、初戦は本当に、滑るってレベルじゃなかったですよ。みんなドライブするたびに転んでいました。ボールも汗ですべるから、何回も拭いていましたね」
B:沖縄の暑さは大丈夫でしたか?
「それは結構大丈夫でした。山形も夏は割と暑いですし。あとは確か、沖縄の暑さ対策みたいな感じで体育館を閉め切って練習とかもやっていたんです。そんなに暑さは大丈夫でしたけど、床はやばかったです」
B:2回戦で市船橋に負けてしまったんですね。翌日の朝に、藤永選手が練習している山形南を見たと言っていましたが。
「あぁ、負けた日の次の日ですよね。でもそれ、たぶん自分はいなかったんですよ。細谷先生が『3年生は明日行かなくていいから』って言ってくれて。それで1、2年生は朝練に行ったんですけど、後輩たちが帰ってきて『北陸が死にそうになりながら走ってました』って言ってました。北陸も負けた次の日だったんです。お互い負けた次の日の早朝から練習なんて、大変だなと思いましたね(笑)」
B:沖縄での思い出はありますか?
「細谷先生が負けた後に、『どっか行きたいところあるか』って言ってくれて、美ら海水族館に行きました。いつも厳しいのに、そういう一面もあるんですよ。1年のときは埼玉インターハイで、ディズニーランドに寄って帰りました。それで沖縄のときは、美ら海に行ったのは覚えていますね」
B:インターハイを終えた後は、国体には参加せず、U-18日本代表としてアジア選手権に出場したんですよね。
「はい。でももともと僕、U-18のメンバーからは外れていたんです。でもたまたま出られない選手がいて、その空き枠に入れた感じでしたね」
B:そうだったんですか。周りのメンバーもレベルが高いと思いますが、どうでしたか?
「本当に貴重な経験ができたと思います。チームメイトもみんなレベルが高いですし、久夫先生(明成高ヘッドコーチ・佐藤久夫)がヘッドコーチだったので。久夫先生がすごい監督だってことは昔から知っていたんですが、まさか指導してもらえるとは思っていませんでした。こんな機会、滅多にないと思って、良いチャンスに恵まれたなと思いながらやっていましたね。久夫先生の言うことって、プレー面もだし、人としての部分も、すんなり納得できると言うか、すごく心に響くんです。いろいろな話をしてもらいました」
B:海外のチームとの試合はどうでしたか?
「笹山(筑波大)がスタメンで出ていて、自分はその交代みたいな感じで使ってもらっていました。そんなプレータイムは長くなかったので、その短い間に全力で頑張ろうと思って。とりあえず、ディフェンスだけは誰よりも頑張ろうと思って出ていましたね」
B:大垣選手は途中でケガしてしまったそうですが。
「そうなんですよ。その前の日に、二人ともダメダメだったので、二人で反省会をしていたんです。いろいろ反省して、『よし、明日から頑張ろう!』って言っていたのに、その次の日にケガしてました(苦笑)」
B:開催地のイエメンはどうでしたか?
「とりあえず遠かったです(笑)。でも食べ物とかは、たぶんイエメンの中でも良いホテルに泊まっていたので、おいしかったと思います」
B:日本代表の日の丸を背負って、自分自身何か変わりました?
「最初はまず、選ばれたことにビックリして、でも選ばれたからには思いきってやろうという感じでした。でも少しプレッシャーとまでは言わないですけど、代表メンバーだから、だらしないプレーはしちゃいけないなとは思いましたね」
B:代表活動で自分のチームを離れる不安や難しさはありましたか?
「ありましたね。チームに帰って、確か2週間後くらいにウインターカップ予選があったんですよ。その2週間でなんとかチームに合わせなければいけなくて、それは大変でした。先生も時間がないのが分かっているから、いつも以上に厳しかったですね。それでなんとか試合に臨んだんですけど、負けてしまいましたね」
B:しかも、同じ中学のメンバーがたくさんいる、日大山形に負けてしまったんですね。
「そうなんですよ(苦笑)。よく知っている相手だからこそ、本当にやりにくいんです。自分たち、いつも羽黒には勝てるんですよ。羽黒には勝てるけど、日大山形には勝てない。でも日大山形は、羽黒に勝てないんです。そういう相性の三角関係があったんですよね。だってインターハイ予選も、日大山形が逆の山で負けたので、日大山形とはやらずに済んでいますから。それでウインターカップは結局、羽黒が日大山形に勝って出場したんですよね」
B:実力が伯仲していたんですね。高校3年間で一番の思い出は何ですか?
「うーん、怒られたことしか覚えてないです(笑)。印象に残っているのは、仙台に遠征に行ったときの話なんですけど、自分と菅野の出来が良くなくて、先生から『山形まで走って帰って来い』って言われたのを半分真に受けちゃったんです。今思うと意味分かんないですけど、とりあえず二人で山南のバスが発車するのをやり過ごしました。菅野と『さあ、どうしようか』となったんですけど、普通にそこから電車で帰りました。帰ってからめちゃくちゃ怒られましたけど、それは結構思い出に残っています」
B:電車なら仙台から山形まで在来線で1時間ちょっとというところですが、動揺してしまったのでしょうか(笑)。今だから話せる思い出ですね。
青学に入学して「毎日が勉強だった」
B:青学にはどういう経緯で進学したんですか?
「もともと、青学に行きたい気持ちはあって、細谷先生にも青学に行きたいと伝えていたんです。それを当時監督だった長谷川さんに言ってくれたのか、幸いにも呼んでもらえたのがきっかけですね」
B:どうして青学に行きたかったんですか?
「あのときの青学って、スーパースター軍団じゃないですか。比江島さん(NBLアイシン三河)とか辻さん(NBL東芝神奈川)がいて、憧れがあったんですよね。自分が高3のとき、インカレを観に行ったんです。そのとき青学は橋本竜馬さん(NBLアイシン三河)とかアレクさん(湊谷安玲久司朱・NBL三菱電機名古屋)の代だったんですけど、ものすごく強くて、インカレも優勝して。その試合を見て、メンバーもすごいしバスケットもうまいし、この人たちの下でやれたら毎日充実するだろうなと思ったのは覚えていますね」
B:実際、入学してみていかがでしたか?
「いやー、もう先輩たちがうますぎて。なんかもう、一緒に練習しているというよりは、毎日教わっている感じでした。見て学ぶのもあるし、直接指導してもらうのもあるし。毎日が勉強でしたね」
B:特に誰からよくアドバイスをもらっていたんですか?
「やっぱりポジション的にガードの先輩たちですね。僕が1年のときに4年だった伊藤さん(日立東京)とか、よくマッチアップしていた俊樹さん(畠山・大阪エヴェッサ)とか。いろいろ教えてもらいました」
B:青学は人数が少ないので、1年生の仕事が大変と聞きます。
「それは大変でしたね。一番大変なのは、リーグ戦のときに、ボールとか荷物を持っていくこと。移動のときに、両手と背中がふさがるのは当たり前みたいな感じでした。1年のときはそれだけが辛かったです(笑)」
B:高校のときは実家生ですよね。初めての一人暮らしはどうでした?
「でもそんなに戸惑いとかはなかったですね。自分が1年生のときは同級生も近くにいたし、1個上の先輩も近くにいたので、いつも誰かの家に行っていました」
B:2年生になって、印象に残っていることはなんですか?
「新人戦はよく覚えていますね。特に、明治との試合はよく覚えています。明治は安藤、中東、皆川とメンバーがいて、かなり強いと言われていて、正直、完全にビビっていたんです(苦笑)。でも実際に試合してみたら前半で結構リードできて、3Qで追いつかれたんですけど、4Qでもう一回立て直せて勝てたのはホッとしました。それで次の試合で東海に当たったんですけど、東海はめっちゃ強くて、キツかったです(苦笑)」
B:あのときの新人戦チームは、野本選手以外あまり試合経験もなくて、いつも頼りにしていた先輩たちがいない中での戦いでしたよね。
「はい。正直、不安しかなかったです。自分たちだけで、どこまでやれるのかなって…。あのとき、誠司(#13鵤)もケガで出てなくて、人数も6人だったじゃないですか。上のポジションの3人は、ほぼ40分出ずっぱりでした。でも、結局あのメンバーでも3位になれて、手応えも少し感じられた大会だったと思います。東海にも頑張れば勝てるんじゃないかと思って大会を終えました」
B:それが全体チームにもつながったんですか?
「つながったんですかね…。2年のときは、試合にもなかなか絡めなかったので、試合に出て何か活躍した印象はないですね」
B:2年生のときは、辻選手が卒業して、チームに3Pがないと言われていましたよね。
「辻さんの穴は大きかったですね。辻さんは、なんであんなに入るのか意味分からないくらいシュートが入るので。辻さんも、比江島さんも、なんであんな入るのか意味が分からないです(苦笑)」
B:比江島選手はこのリレーインタビューでも、『シューティングするとシュートが入らなくなる』と言っていました(笑)。
「そうなんですか(笑)。いや、でも比江島さんはそんなこと言いつつも、結構シューティングしてるんですよ。そういうのをバシオさん(小林)とかが見逃さないで写メ撮るんですけど(笑)。あの人、実はバスケ大好きですから」
B:そうなんですね。話を戻しますが、チームに3Pがないと言われる中で、決めなければいけないというプレッシャーはあったんですか?
「プレッシャーはありましたね。それにまず、チームとしてインサイドが強みで、センターが攻めることが多かったので、自分が試合に出ても打っていいのかなって迷いがあったんですよ。それは今、すごく後悔しています。もっと思い切りよく打てば良かったなと。でもあの年は途中から山崎将也さん(富士通)がシューターとして起用されて、ちゃんとシュートも決めていましたよね。将也さんは、努力家だし、すごいと思います」
B:山崎選手はオールジャパンのレバンガ戦もすごかったですよね。その山崎選手や比江島選手が卒業して、大学3年のときはプレータイムも伸びました。特にインカレが印象に残りますが。
「3年のインカレといえば、準決勝の最後の自分のシュートですよね…。あれは決めたかったです。申し訳なさすぎて死にそうでした。1個上の先輩たちにはかなりお世話になっていたので。本当に先輩たちには良くしてもらっていたので、本当にすみませんというか、ただただ悔しかったです」
B:負けた試合のあとで、先輩たちからは何か言われましたか?畠山選手や張本選手は自分で『別に何も言ってないです』と言っていたんですが。
「いや、みんないろいろ言ってくれましたよ。それはたぶん照れだと思います(笑)。特に、先輩たちから『来年勝てばいいから』って言われて、それでさらに泣いちゃいましたね」
B:あと、あの試合は明治の応援団がすごかったですよね。
「確かサッカー部かが応援に来ていたんですよね。あのアウェイのような雰囲気は嫌でした。青学って、基本応援団がいないじゃないですか。正直、個人的には欲しいです(笑)。東海とか明治とか見ると、すごくうらやましいです」
B:あの悔しい準決勝の翌日、3位決定戦で高橋選手はすごくシュートの調子が良かったですよね。よく立ち直ったなと思ったんですが。
「もう、吹っ切りましたね。負けた次の日でしたけど、廣瀬さんにも、『今日空いているときに打たなかったら一生使わないぞ』って言われて。そういう風に言ってもらえたことで、逆に迷いがなくなりました。それに昨日、あれだけ悔しい思いをして、どん底を味わって、もうあれ以上悔しいことなんてないだろうと思ったんです。それで、外れてもいいから打とうって、開き直れたのが良かったんだと思います」
B:1Qも2Qも、クォーター終了時にブザービーターを決めましたよね。
「あ、そうですね。まぁ、大垣とマッチアップしていたので、そこは負けられないなと思って打ちました(笑)」
(写真上から)
1:青山学院大の部室にはこれまでの栄光を物語る、数々のトロフィーが並ぶ。
2:明治大との対戦で。ディフェンスの安藤に対し、ドリブルで切れこんでいく。
3:インカレの準決勝で最後のシュートを外し、号泣する高橋を主将の畠山と同じく4年の高橋が抱えるようにロッカーへと帰っていった。
4:翌日の3位決定戦。見事なブザービーターを決め、最高の笑顔でガッツポーズを見せた。
「やってくれる」後輩たちの成長ぶりに来季を託す
B:今年は下級生も成長して新しい青学の色が見えた1年でした。
「今年は去年までのようなスター選手はいませんでしたが、野本は頑張ってくれたし、どちらかといえば下級生に助けてもらいました。2年生は安藤以外、去年ほとんどプレータイムもなかったんですけど、新人戦とかを経てリーグ・インカレを通して成長して頼もしい存在になりました。3年生は、鵤とか船生とかやんちゃですけど(笑)、でもムードメーカー的存在で、それがあいつらの持ち味です。本当は下級生にいい思いをさせてやりたかったんですけど、インカレの結果は悔しいですし、下級生に申し訳ないと思います。でも今年は下級生のおかげで勝った試合も何回もあったし、そういう意味では来年やってくれると期待しています」
B:ではここからバスケット以外のお話を伺います。まず自分はどんな性格だと思いますか?
「性格ですか…?結構、おちゃらけていると思います。あとは人からよくいじられます(笑)」
B:オフの日は何をしていますか?
「オフの日は、基本、寝ていますね」
B:そういえば昨年明治大の主将だった森山選手が、『高橋に似てると言われる』と言っていました。
「あ、それはよく言われます。特に、1年生のときにめっちゃ言われましたね。最近やっと言われなくなりました」
B:試合を応援に来た森山選手の友だちが、間違えて高橋選手に話し掛けてしまったとか。
「そうなんですよ。いきなり知らない人から『もりしょー!』って言われて、『え、誰?』と思いました(笑)。そうしたらそのとき、たまたま森山さんが現れて、『あ、そういうことか』と。森山さんの存在は知っていたんですけど、『もりしょー』って森山さんのことかと、そのとき気付きました。そこから森山さんとはつながったんですよ。お兄さんみたいな感じですね(笑)」
B:あとは、地元の山形の自慢は何かありますか?
「うーん…やっぱさくらんぼじゃないですか。自分は好きじゃないんですけど(笑)。自分、種がある果物好きじゃないんですよ。面倒くさいじゃないですか。だからスイカとかも好きじゃないです。ぶどうも皮があるので好きじゃないです。切った状態の梨か桃が好きですね」
B:意外と面倒くさがりですね(笑)。山形のオススメスポットはありますか?
「なんだろう…。あ、スキーとかいいんじゃないですかね?蔵王のスキー場。自分は下手くそなのでやらないですけど(笑)。スノボとか、やったことすらないです」
B:山形は新規チーム「パスラボ山形ワイヴァンズ」もNBDLに参入しましたよね。これからバスケットも盛り上がるといいですね。
「そうですね。大神雄子さんとかも山形出身だし、意外とバスケ関係者もいるんですよね。そういえば、なんか山形にナショナルの施設があるらしくて、合宿とかを山形でやってる大学も多いです。トレーニングとかするには環境も良いみたいですね」
B:それでは、次にインタビューを回す人を指名してもらえますか?
「笹山でお願いします。アキと慎之介と笹山でごはん食べに行ったんですけど、そのとき次回す人どうしようかなって話をしたら、『貴哉でええやん』ってなって。貴哉も乗り気だったので、そうします」
B:笹山選手は高橋選手から見てどんな人ですか?
「バスケだけ見ると、めちゃくちゃうまいし、ガードとしてみんなを引っ張っていくキャラじゃないですか。でもプライベートでは、そんなに権力がない(笑)。いじられキャラの俺にいじられるくらい、本当にいじられキャラですね。ツッコミどころが多いというか、よく分からないヤツです(笑)。マジメな話もしますけど、わけ分かんない冗談とかも言ってくるので。すましているように見えて、プライベートではそんなことないと思います(笑)」
B:そうなんですね。笹山選手との思い出などありますか?
「高校生のときに、あいつと一緒にAKBの動画を見ていたのは覚えてますね。今思い出しましたけど、一緒にフリを覚えて、部屋で一緒に踊りました(笑)。なつかしいですね。俺は大島優子で、貴哉は篠田真理子が好きでした」
B:なるほど(笑)。ではその話もしてみましょう。それでは次回は、筑波大の笹山選手です。高橋選手、どうもありがとうございました。
◆#5高橋貴大
山形第六中→山形南高→青山学院大
4年・PG・主将
181cm/82kg
・2005 全中出場(中1)
・2007 ジュニアオールスター山形県代表
・2007 全中優勝(中3)
・2010 インターハイ出場(高3)
・2010 U-18 アジア選手権日本代表
・2012 新人戦3位
・2014 トーナメント3位
・2014 リーグ戦準優勝
(2014.7.24のインタビューに、インカレ時のものを合わせて構成しています)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.26~青山学院大学・高橋貴大選手~

2007年の山形全中では、地元の大声援を受けて全中優勝の立て役者になったエースプレイヤー。また山形南高時代は、U-18日本代表としてアジア選手権なども経験したキャリアの持ち主です。今年度は青山学院大の主将として仲間を支え、ガードプレイヤーとして勝負強いアウトサイドシュートでもチームに貢献しています。
高橋選手のこれまでの歩みには、輝かしい栄光も、涙に暮れた悔しさもありました。知られざる一面も見えてきた第26回目のBOJライン、どうぞお楽しみください。
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ミニバス時代はインサイドプレイヤー
「アキ(藤永)はバスケに対してすごく熱くて、一緒にいるときは結構バスケの話をすることが多いですね。とにかく優しいですし、良いやつです」
B:藤永選手は高橋選手のことを、すごく面白いやつだと言っていました。一発芸がすごいと(笑)。
「いやいや、すぐやらされるんですよ(笑)。でも笑ってくれるのはアキぐらいです。そういうところが良いやつですね(笑)」
B:一発芸はどこで鍛えたのですか?
「昔からいじられキャラなんですよね…。大学1年のときとか、辻さん(現NBL東芝神奈川)や伊藤さん(現NBL日立東京)に『なんかやって』ってよく振られました(笑)。AKB48を踊るとか。あとは慎之介(大垣)とかにもよく振られます」
B:大垣選手とも仲が良いんですよね。大垣選手はどんな人ですか?
「バスケに対して熱いのはアキと一緒なんですけど、あいつはギャグセンスが群を抜いていると思います(笑)。根は結構マジメですけど、はっちゃけるときははっちゃけるやつですね」
B:そうなんですね。では本題に入りますが、バスケを始めたのはいつ頃ですか?
「小3です」
B:きっかけは何ですか?
「両親が学生の頃にバスケをやっていたこともあって、小さい頃から母に連れられてよくバスケの試合を見に行っていたんです。でも僕はサッカーも好きだったので、いざチームに入ろうとしたときに、バスケにするかサッカーにするかすごく迷って。それでとりあえず練習を見学しようと、同じ日にバスケとサッカーの練習をどっちも見に行くことになったんです。それで、最初にバスケを2時間くらい見学して、母に『じゃあ次はサッカー行くよ』って言われたんですけど、疲れていたのか『もういいや、バスケにする』って感じで決めちゃいました(笑)」
B:そうなんですか。もしかしたらサッカーの道に行っていたかも知れませんね。
「はい。もしあそこでサッカーを最初に見に行っていたら、サッカーをやっていたと思います」
B:兄弟はいますか?
「いや、一人っ子です」
B:ミニバスは強かったんですか?
「いや、微妙でしたね。県で5位とか6位くらい。東北大会に出場するくらいでした」
B:どんなチームだったんですか?
「自分自身、小学生の頃からかなり身長が大きかったんですよ。小学校を卒業するときには確か172cmくらいあって、ズバ抜けて大きかったです。しかもたまたま、周りも結構背の高いメンバーがそろっていて。だから高さを生かして、そこそこまで勝ち進めた感じでしたね」

「はい。ミニバスって3Pラインがないですし、身長があるんだから中でプレーした方がいいなという感じで、インサイドのプレイヤーでしたね」
B:それは意外ですね。小学校を卒業して、山形第六中にはどういう経緯で進んだんですか?
「自分たちの代は、中3になるときに全中が地元開催される予定だったので、そこに向けて力を入れようという代だったんです。それで県内の選手はだいたい山形第六に集まっていて、そこに運良く呼んでもらえた感じですね」
B:中学は結構ハードに練習してきたんですか?
「いや、そこまでガッツリというわけではなかったと思います。一応週6とかで練習はありましたけど、走り込みをいっぱいやるとかいうよりは、戦術的なことの練習が多かったですね」
B:全中には、中1でも出場したんですよね。それが初めての全国大会ですか?
「はい。でも中1のときは、一応少し試合には出させてもらったんですけど、大事な場面では出られなかったし、そのときの先輩たちとか他県の人たちのプレーを見て、ただ感動しているだけで終わりました(笑)」
B:試合に主力として出られるようになったのはいつ頃ですか?
「スタメンで出させてもらえるようになったのは、中2からです。そのとき1個上の先輩たちの人数が少なくて、自分たちの代も結構試合に出ていたんです。だから中3になっても、ほぼそのままのメンバーって感じで戦えましたね」
山場を乗り越えて果たした全中優勝

「ジュニアオールスターは、1試合目が静岡と対戦だったんですよ。前半で15点差くらいリードして、正直『あぁ、これはイケるな』と思いました(笑)。でも後半で巻き返されて、最後は1点差で負けてしまって…。初戦で負けてしまったので、2試合目は勝ったんですけど、結局決勝トーナメントには行けませんでした。あそこで油断していなければ、もっと上まで行けたんじゃないかとは思いましたね」
B:悔しい大会になってしまったんですね。そして中3では、地元開催の全中で見事優勝を成し遂げました。
「ホームだったので、応援がものすごかったんですよ。でも、不思議とあまり緊張はしなくて。力まずにプレーできたのが良かったかなって、今になって思います」
B:大会3日間で6試合を戦ったわけですが、一番印象に残っているのはどことの試合ですか?
「一番覚えているのは…、決勝も準決勝もよく覚えているんですけど、やっぱり決勝トーナメントの2回戦で福岡の姪浜中とやった試合ですかね。あ、思い出しましたけど、その試合だけ、めちゃくちゃ緊張したんですよ!(苦笑)」
B:それはどうして?
「中2の12月くらいに、関西の交歓大会に呼んでもらって、姪浜と試合して負けたんです。全中に向けて練習試合も結構していたんですけど、ケガ人とか抜きにフルメンバーで戦って負けたのは、後にも先にもたぶん姪浜だけでしたね。だから苦手意識がありました」
B:その負けた試合はどんな試合だったか覚えていますか?
「覚えています。確か途中まで10点くらいリードしていたんですけど、4Qでうちの笹原というインサイドの要が退場して、そこから追い上げられて、最後はブザービーターを決められて1点差の逆転負けでした。花田アマースィ真平というやつにブザービーターを決められたんですけど、そいつも化け物みたいにうまかったし、流田(中央大#31)とかもいて、姪浜はみんな上手くて強かったです」
B:では、全中でも姪浜戦が大きな山場だったんですね。
「はい。唯一負けたことのある相手だったので、ヤバいくらい緊張しました。全中って、決勝トーナメントはくじ引きじゃないですか。くじ引きの抽選の日の夜、みんなが泊まっている旅館にうちの親が抽選の結果を伝えに来たんです。それで、『組み合わせが決まりました。1回戦で勝ったら次に姪浜に当たります』って発表して(笑)。もう、『うわー、よりによってそこ引く?』って感じですよ。それでその夜からずっと緊張していて、試合前にさらに緊張が増してきて、アップもしっかりできなかったような気がします。実際試合が始まって、自分はあまり調子良くなかったんですけど、周りの人たちが頑張ってくれて、なんとか勝てたのは良かったです」

「そうですね。でも相性が良かったのか、本丸中には練習試合とかでも、メンバーがそろっている試合では一度も負けたことがなかったと思います。自分もあまり緊張しなかったし、ホームの声援もあって勝てましたね」
B:決勝は、前川選手(関東学院大#3)や2年生コンビの田渡凌選手(オローニ大)、池田選手(早稲田大#34)らがいる京北中が相手でした。スコアを見ると、1Qから30-11、前半終えて56-32と、前半から大きく差をつけての快勝だったようですね。
「いや、本当にあの試合は、できすぎでした(笑)。あんなに全員シュートが入る試合は経験したことがないです。中学生で前半60点近く取るって、そうそうないですよね」
B:高橋選手も35得点の活躍だったそうですが。
「自分もできすぎでした(笑)。たまたま決勝が調子良くて、運が良かったです」
B:その頃は、どんなプレーが得意だったんですか?
「監督が自由にやらせてくれたので、なんでもやっていました。ポジションは3番だったので、外から打ってもいいし、小さい人につかれたらインサイドで勝負してもいいし…って感じで、自由にやらせてもらえたので良かったです」
B:全中MVPにも選ばれましたね。
「いやでも、たまたま自分が調子良かっただけなんですよね。うちのチーム、みんな点が取れたんですよ。優秀選手に選ばれるような人って、チームの絶対的エースみたいなイメージがあったんですけど、自分は全然そういう感じではなくて。全員が得点できるチームの中でも、ただ決勝で自分が調子良くて優勝できたってだけですね」
山形南高は「体力もメンタルも鍛えられた」

「一番大きかったのは、山形南の細谷先生に惹かれたのが大きかったです。中3のときに高校の県の試合を見に行ったんですよ。そうしたら、細谷先生がめっちゃ熱い人で、選手たちにも厳しいんですけど、自分自身もハッスルして、僕が見た試合ではベンチですごくハッスルした指揮していたんです。それで、『この人、熱くて良い人そうだなぁ』という印象を持って。そのあと、細谷先生と話す機会があって、やっぱりすごい人だなと思って進学を決めました」
B:山形第六中のスタメン5人のうち、3人は日大山形高に進んだそうですね。
「そうなんですよね。だから結構迷ったんです。でも細谷先生の話を聞いて、やっぱりすごい人だなと思って、一人だけ山形南に行きましたね」
B:山形南高校は、入学してみてどうでしたか?
「最初は本当に練習がキツくて大変でした。練習内容も練習量も、中学とは比にならないくらいハードで…。もう気力でなんとかやっていた感じですね(笑)。でも体力的にもメンタル的にも鍛えられて、自分のためにはなったと思います」
B:一番辛かったのは何のメニューですか?
「マルチ(マルチステージ)ってあるじゃないですか。青学でもテストみたいな感じで2か月に1回くらいの頻度でやりますけど、山南では、練習メニューの一貫として普通にいつもやるんですよ。それである日、みんな記録が悪かったときがあったんです。僕らは背の低いチームで走らなきゃ勝てなかったので、監督が『こんなんじゃダメだ』と。それでやり直しになって、そこから、5回くらいやり直しました(苦笑)。それはキツかったですね」
B:それはキツいですね…。高校時代にそれなら、青学でのマルチステージのテストも、そこまで難しくはなかったのでは?
「ガードは一応150回をクリアしなきゃいけないんですけど、大学1年のときはアップ無しでも普通に行ける感じでしたね。若くて体力がありました。今は死ぬ思いをしています(笑)」
B:高校時代、ポジションはどこだったんですか?
「確か高1のときは、2番だったと思います。でも高3のときは、スタメンの中で僕が一番大きかったんですよ。すごく小さい選手がいるわけではないんですけど、僕くらいの身長が5人集まっているチームでした。だから5人でポジションあまり関係なく、やっていましたね。僕も3Pを結構打っていましたし」
B:小学生のときはインサイドのプレイヤーだったんですよね。シュートはどこで磨いたんですか?
「中学生のときですね。中2くらいから何となく感覚を掴んでシュートが入るようになって、入るようになると、余計シューティングも楽しいじゃないですか。だからシューティングは中学生の頃にかなりやった記憶があります」
B:それは自主練などで?
「朝にこっそりシューティングしている感じでしたね」

「そうですね。シックスマンとして、監督が使ってくださって。でも1年生のときは何も考えていなかったというか、先輩たちも自分の好きなように自由にやらせてくれました。だからのびのび、思い切りやっていた感じですね」
B:そのインターハイの思い出はありますか?
「八王子に負けて2回戦敗退だったんですけど、その負けた試合はすごく覚えています。確か3Pが、打っても打っても入らなくて…。10分の0くらいだったと思います。その試合は、本当にまだまだダメだなと思い知らされました」
B:高1のウインターカップでは、早くもスタメンになったんですね。
「山南(山形南)って毎年、受験勉強のために3年生がほとんどインターハイで引退して、2〜3人しか残らないんです。そのときもキャプテンの先輩が引退して、自分がそのかわりに入ってスタメンになりました。でも、初戦で負けてしまったんですよね」
B:小禄高校に6点差で敗れたそうですね。
「はい。もう、あっという間に終わってしまって、どんな試合だったのかも思えてないです(苦笑)。初めての東京体育館で、緊張して、雰囲気に呑まれましたね。フワフワした感じで試合に入ったような気がします」
B:小禄高校には松島良豪選手(13年度国士館大主将・現NBL兵庫ストークス)がいましたが、覚えていますか?
「あ、それは覚えています。マッチアップもしましたね。とにかくディフェンスがうまいなと思いました」
B:その翌年、高2のインターハイには不出場でしたね。
「はい。あのときは、県予選の途中で佐藤正成さん(13年度東海大卒・現NBDL東京アースフレンズZ)がケガしちゃったんですよね。準決勝の前の試合で、でもその時は正成さんがケガしたって僕らも気付かなかったんです。でも次の日には足がめっちゃ腫れていて、まともに歩けない状況になっていて…。それに大会の1週間前にも、スタメンだった菅野(東京農業大#11)というやつが腕を骨折したんです。だからスタメン5人中、2人いない状況でしたね」
B:それは苦しかったですね。それで準決勝はなんとか勝ち進んでも、決勝で敗れたと。
「はい。準決勝も、正直勝てるか分からないと思っていました。相手の鶴岡工業は、練習試合でも1回も勝ったことのないチームだったんです。でも試合が始まってみたら意外とみんな調子が良くて、奇跡的に勝てましたね。そのあとの決勝では相手が山形中央で、山形中央には逆に負けたことがないチームだったんです。でもみんな準決勝の鶴岡工業戦で全部力を使い果たしていて、確か10点差くらいで負けました」
B:それでインターハイは出られなかったんですね。ウインターカップは出場していますが、県予選はどんな戦いだったんですか?
「予選は、自分はダメダメでしたが、正成さんとか冬まで残った1個上の先輩たちに助けられて、結果的には快勝でした。でも個人的には全然ダメでしたね」
B:波があるんでしょうか。
「そうですね。入らない日は、打っても打っても全く入らないという試合も今まで結構ありました」

B:ウインターカップでは、初戦の明徳義塾戦で35得点を挙げています。
「その試合はすごく覚えています。その試合、確かその日の最終試合で、19時トスアップだったんです。だから午前中に青学の渋谷キャンパスの体育館を借りて練習したんですけど、練習が終わってから結構空き時間があって。それで監督からは『試合があるからしっかり宿舎に戻って休めよ』と言われたんですけど、『せっかく渋谷に来たんだし』ってことで、こっそり先輩たちとバスケショップの「ギャラリー2」に行って買い物したんです。そうしたらその帰り道に、本当にたまたま、監督とすれ違ったんですよ(苦笑)」
B:それはマズい状況ですね。
「はい。『やばい!怒られる!』と思ったんですけど、そのときは、すれ違っただけで何も言われず、宿舎に帰っても何も言われず、そのまま19時から試合が始まったんです。そうしたら自分、前半がダメダメで…。それでベンチに戻ったら、監督から『買い物なんてしてるからだ!』ってめちゃくちゃ怒られたんです(苦笑)。それで、これで負けたらヤバいと思って、後半めっちゃ頑張りました」
B:それは印象に残る試合でしたね(笑)。続く2回戦(vs文星芸大附)も快勝で、3回戦で福岡第一に当たりました。
「福岡第一戦は、本当に何もできなかったです。玉井さんとか和田さんとか、すごい人がいっぱいいて。強かったですね。3Pも全然入らなくて…。ダメダメでしたね」
数々の貴重な経験をしてきた高3の年

「はい。実は最初はやりたくなかったんですけどね。でもやらせてもらって、今は良かったなと思います。細谷先生はバスケ以外の人間性とかもすごく指導してくれる先生なので、『キャプテンなんだからもっと周りを見ろ』だとか、『チームメイトのやつの気持ちを考えろ』とか、かなり怒られました。でもそのお陰で、自分も気配りとか視野とか、成長できたことは多いなと思います。すごく良い経験でした」
B:高3になって、今までの年とは心境も違いましたか?
「自分たちも最後だし、勝ちたいって気持ちは強くありました。最上級生だからその分怒られることも増えて、いろいろ大変だったんですけど、でも楽しかったですね」
B:高3はインターハイにも出場していますよね。沖縄インターハイは、コートがすごく滑ったと聞きますが。
「いやー、初戦は本当に、滑るってレベルじゃなかったですよ。みんなドライブするたびに転んでいました。ボールも汗ですべるから、何回も拭いていましたね」
B:沖縄の暑さは大丈夫でしたか?
「それは結構大丈夫でした。山形も夏は割と暑いですし。あとは確か、沖縄の暑さ対策みたいな感じで体育館を閉め切って練習とかもやっていたんです。そんなに暑さは大丈夫でしたけど、床はやばかったです」
B:2回戦で市船橋に負けてしまったんですね。翌日の朝に、藤永選手が練習している山形南を見たと言っていましたが。
「あぁ、負けた日の次の日ですよね。でもそれ、たぶん自分はいなかったんですよ。細谷先生が『3年生は明日行かなくていいから』って言ってくれて。それで1、2年生は朝練に行ったんですけど、後輩たちが帰ってきて『北陸が死にそうになりながら走ってました』って言ってました。北陸も負けた次の日だったんです。お互い負けた次の日の早朝から練習なんて、大変だなと思いましたね(笑)」
B:沖縄での思い出はありますか?
「細谷先生が負けた後に、『どっか行きたいところあるか』って言ってくれて、美ら海水族館に行きました。いつも厳しいのに、そういう一面もあるんですよ。1年のときは埼玉インターハイで、ディズニーランドに寄って帰りました。それで沖縄のときは、美ら海に行ったのは覚えていますね」
B:インターハイを終えた後は、国体には参加せず、U-18日本代表としてアジア選手権に出場したんですよね。
「はい。でももともと僕、U-18のメンバーからは外れていたんです。でもたまたま出られない選手がいて、その空き枠に入れた感じでしたね」

「本当に貴重な経験ができたと思います。チームメイトもみんなレベルが高いですし、久夫先生(明成高ヘッドコーチ・佐藤久夫)がヘッドコーチだったので。久夫先生がすごい監督だってことは昔から知っていたんですが、まさか指導してもらえるとは思っていませんでした。こんな機会、滅多にないと思って、良いチャンスに恵まれたなと思いながらやっていましたね。久夫先生の言うことって、プレー面もだし、人としての部分も、すんなり納得できると言うか、すごく心に響くんです。いろいろな話をしてもらいました」
B:海外のチームとの試合はどうでしたか?
「笹山(筑波大)がスタメンで出ていて、自分はその交代みたいな感じで使ってもらっていました。そんなプレータイムは長くなかったので、その短い間に全力で頑張ろうと思って。とりあえず、ディフェンスだけは誰よりも頑張ろうと思って出ていましたね」
B:大垣選手は途中でケガしてしまったそうですが。
「そうなんですよ。その前の日に、二人ともダメダメだったので、二人で反省会をしていたんです。いろいろ反省して、『よし、明日から頑張ろう!』って言っていたのに、その次の日にケガしてました(苦笑)」
B:開催地のイエメンはどうでしたか?
「とりあえず遠かったです(笑)。でも食べ物とかは、たぶんイエメンの中でも良いホテルに泊まっていたので、おいしかったと思います」
B:日本代表の日の丸を背負って、自分自身何か変わりました?
「最初はまず、選ばれたことにビックリして、でも選ばれたからには思いきってやろうという感じでした。でも少しプレッシャーとまでは言わないですけど、代表メンバーだから、だらしないプレーはしちゃいけないなとは思いましたね」

「ありましたね。チームに帰って、確か2週間後くらいにウインターカップ予選があったんですよ。その2週間でなんとかチームに合わせなければいけなくて、それは大変でした。先生も時間がないのが分かっているから、いつも以上に厳しかったですね。それでなんとか試合に臨んだんですけど、負けてしまいましたね」
B:しかも、同じ中学のメンバーがたくさんいる、日大山形に負けてしまったんですね。
「そうなんですよ(苦笑)。よく知っている相手だからこそ、本当にやりにくいんです。自分たち、いつも羽黒には勝てるんですよ。羽黒には勝てるけど、日大山形には勝てない。でも日大山形は、羽黒に勝てないんです。そういう相性の三角関係があったんですよね。だってインターハイ予選も、日大山形が逆の山で負けたので、日大山形とはやらずに済んでいますから。それでウインターカップは結局、羽黒が日大山形に勝って出場したんですよね」
B:実力が伯仲していたんですね。高校3年間で一番の思い出は何ですか?
「うーん、怒られたことしか覚えてないです(笑)。印象に残っているのは、仙台に遠征に行ったときの話なんですけど、自分と菅野の出来が良くなくて、先生から『山形まで走って帰って来い』って言われたのを半分真に受けちゃったんです。今思うと意味分かんないですけど、とりあえず二人で山南のバスが発車するのをやり過ごしました。菅野と『さあ、どうしようか』となったんですけど、普通にそこから電車で帰りました。帰ってからめちゃくちゃ怒られましたけど、それは結構思い出に残っています」
B:電車なら仙台から山形まで在来線で1時間ちょっとというところですが、動揺してしまったのでしょうか(笑)。今だから話せる思い出ですね。
青学に入学して「毎日が勉強だった」

「もともと、青学に行きたい気持ちはあって、細谷先生にも青学に行きたいと伝えていたんです。それを当時監督だった長谷川さんに言ってくれたのか、幸いにも呼んでもらえたのがきっかけですね」
B:どうして青学に行きたかったんですか?
「あのときの青学って、スーパースター軍団じゃないですか。比江島さん(NBLアイシン三河)とか辻さん(NBL東芝神奈川)がいて、憧れがあったんですよね。自分が高3のとき、インカレを観に行ったんです。そのとき青学は橋本竜馬さん(NBLアイシン三河)とかアレクさん(湊谷安玲久司朱・NBL三菱電機名古屋)の代だったんですけど、ものすごく強くて、インカレも優勝して。その試合を見て、メンバーもすごいしバスケットもうまいし、この人たちの下でやれたら毎日充実するだろうなと思ったのは覚えていますね」
B:実際、入学してみていかがでしたか?
「いやー、もう先輩たちがうますぎて。なんかもう、一緒に練習しているというよりは、毎日教わっている感じでした。見て学ぶのもあるし、直接指導してもらうのもあるし。毎日が勉強でしたね」
B:特に誰からよくアドバイスをもらっていたんですか?
「やっぱりポジション的にガードの先輩たちですね。僕が1年のときに4年だった伊藤さん(日立東京)とか、よくマッチアップしていた俊樹さん(畠山・大阪エヴェッサ)とか。いろいろ教えてもらいました」
B:青学は人数が少ないので、1年生の仕事が大変と聞きます。
「それは大変でしたね。一番大変なのは、リーグ戦のときに、ボールとか荷物を持っていくこと。移動のときに、両手と背中がふさがるのは当たり前みたいな感じでした。1年のときはそれだけが辛かったです(笑)」
B:高校のときは実家生ですよね。初めての一人暮らしはどうでした?
「でもそんなに戸惑いとかはなかったですね。自分が1年生のときは同級生も近くにいたし、1個上の先輩も近くにいたので、いつも誰かの家に行っていました」
![htakahashi19]](http://blog-imgs-76.fc2.com/b/o/j/bojweblog/20150211205832ac0.jpg)
「新人戦はよく覚えていますね。特に、明治との試合はよく覚えています。明治は安藤、中東、皆川とメンバーがいて、かなり強いと言われていて、正直、完全にビビっていたんです(苦笑)。でも実際に試合してみたら前半で結構リードできて、3Qで追いつかれたんですけど、4Qでもう一回立て直せて勝てたのはホッとしました。それで次の試合で東海に当たったんですけど、東海はめっちゃ強くて、キツかったです(苦笑)」
B:あのときの新人戦チームは、野本選手以外あまり試合経験もなくて、いつも頼りにしていた先輩たちがいない中での戦いでしたよね。
「はい。正直、不安しかなかったです。自分たちだけで、どこまでやれるのかなって…。あのとき、誠司(#13鵤)もケガで出てなくて、人数も6人だったじゃないですか。上のポジションの3人は、ほぼ40分出ずっぱりでした。でも、結局あのメンバーでも3位になれて、手応えも少し感じられた大会だったと思います。東海にも頑張れば勝てるんじゃないかと思って大会を終えました」
B:それが全体チームにもつながったんですか?
「つながったんですかね…。2年のときは、試合にもなかなか絡めなかったので、試合に出て何か活躍した印象はないですね」
B:2年生のときは、辻選手が卒業して、チームに3Pがないと言われていましたよね。
「辻さんの穴は大きかったですね。辻さんは、なんであんなに入るのか意味分からないくらいシュートが入るので。辻さんも、比江島さんも、なんであんな入るのか意味が分からないです(苦笑)」
B:比江島選手はこのリレーインタビューでも、『シューティングするとシュートが入らなくなる』と言っていました(笑)。
「そうなんですか(笑)。いや、でも比江島さんはそんなこと言いつつも、結構シューティングしてるんですよ。そういうのをバシオさん(小林)とかが見逃さないで写メ撮るんですけど(笑)。あの人、実はバスケ大好きですから」
B:そうなんですね。話を戻しますが、チームに3Pがないと言われる中で、決めなければいけないというプレッシャーはあったんですか?
「プレッシャーはありましたね。それにまず、チームとしてインサイドが強みで、センターが攻めることが多かったので、自分が試合に出ても打っていいのかなって迷いがあったんですよ。それは今、すごく後悔しています。もっと思い切りよく打てば良かったなと。でもあの年は途中から山崎将也さん(富士通)がシューターとして起用されて、ちゃんとシュートも決めていましたよね。将也さんは、努力家だし、すごいと思います」

「3年のインカレといえば、準決勝の最後の自分のシュートですよね…。あれは決めたかったです。申し訳なさすぎて死にそうでした。1個上の先輩たちにはかなりお世話になっていたので。本当に先輩たちには良くしてもらっていたので、本当にすみませんというか、ただただ悔しかったです」
B:負けた試合のあとで、先輩たちからは何か言われましたか?畠山選手や張本選手は自分で『別に何も言ってないです』と言っていたんですが。
「いや、みんないろいろ言ってくれましたよ。それはたぶん照れだと思います(笑)。特に、先輩たちから『来年勝てばいいから』って言われて、それでさらに泣いちゃいましたね」
B:あと、あの試合は明治の応援団がすごかったですよね。
「確かサッカー部かが応援に来ていたんですよね。あのアウェイのような雰囲気は嫌でした。青学って、基本応援団がいないじゃないですか。正直、個人的には欲しいです(笑)。東海とか明治とか見ると、すごくうらやましいです」

「もう、吹っ切りましたね。負けた次の日でしたけど、廣瀬さんにも、『今日空いているときに打たなかったら一生使わないぞ』って言われて。そういう風に言ってもらえたことで、逆に迷いがなくなりました。それに昨日、あれだけ悔しい思いをして、どん底を味わって、もうあれ以上悔しいことなんてないだろうと思ったんです。それで、外れてもいいから打とうって、開き直れたのが良かったんだと思います」
B:1Qも2Qも、クォーター終了時にブザービーターを決めましたよね。
「あ、そうですね。まぁ、大垣とマッチアップしていたので、そこは負けられないなと思って打ちました(笑)」
(写真上から)
1:青山学院大の部室にはこれまでの栄光を物語る、数々のトロフィーが並ぶ。
2:明治大との対戦で。ディフェンスの安藤に対し、ドリブルで切れこんでいく。
3:インカレの準決勝で最後のシュートを外し、号泣する高橋を主将の畠山と同じく4年の高橋が抱えるようにロッカーへと帰っていった。
4:翌日の3位決定戦。見事なブザービーターを決め、最高の笑顔でガッツポーズを見せた。
「やってくれる」後輩たちの成長ぶりに来季を託す

「今年は去年までのようなスター選手はいませんでしたが、野本は頑張ってくれたし、どちらかといえば下級生に助けてもらいました。2年生は安藤以外、去年ほとんどプレータイムもなかったんですけど、新人戦とかを経てリーグ・インカレを通して成長して頼もしい存在になりました。3年生は、鵤とか船生とかやんちゃですけど(笑)、でもムードメーカー的存在で、それがあいつらの持ち味です。本当は下級生にいい思いをさせてやりたかったんですけど、インカレの結果は悔しいですし、下級生に申し訳ないと思います。でも今年は下級生のおかげで勝った試合も何回もあったし、そういう意味では来年やってくれると期待しています」
B:ではここからバスケット以外のお話を伺います。まず自分はどんな性格だと思いますか?
「性格ですか…?結構、おちゃらけていると思います。あとは人からよくいじられます(笑)」
B:オフの日は何をしていますか?
「オフの日は、基本、寝ていますね」
B:そういえば昨年明治大の主将だった森山選手が、『高橋に似てると言われる』と言っていました。
「あ、それはよく言われます。特に、1年生のときにめっちゃ言われましたね。最近やっと言われなくなりました」
B:試合を応援に来た森山選手の友だちが、間違えて高橋選手に話し掛けてしまったとか。
「そうなんですよ。いきなり知らない人から『もりしょー!』って言われて、『え、誰?』と思いました(笑)。そうしたらそのとき、たまたま森山さんが現れて、『あ、そういうことか』と。森山さんの存在は知っていたんですけど、『もりしょー』って森山さんのことかと、そのとき気付きました。そこから森山さんとはつながったんですよ。お兄さんみたいな感じですね(笑)」
B:あとは、地元の山形の自慢は何かありますか?
「うーん…やっぱさくらんぼじゃないですか。自分は好きじゃないんですけど(笑)。自分、種がある果物好きじゃないんですよ。面倒くさいじゃないですか。だからスイカとかも好きじゃないです。ぶどうも皮があるので好きじゃないです。切った状態の梨か桃が好きですね」
B:意外と面倒くさがりですね(笑)。山形のオススメスポットはありますか?
「なんだろう…。あ、スキーとかいいんじゃないですかね?蔵王のスキー場。自分は下手くそなのでやらないですけど(笑)。スノボとか、やったことすらないです」
B:山形は新規チーム「パスラボ山形ワイヴァンズ」もNBDLに参入しましたよね。これからバスケットも盛り上がるといいですね。
「そうですね。大神雄子さんとかも山形出身だし、意外とバスケ関係者もいるんですよね。そういえば、なんか山形にナショナルの施設があるらしくて、合宿とかを山形でやってる大学も多いです。トレーニングとかするには環境も良いみたいですね」
B:それでは、次にインタビューを回す人を指名してもらえますか?
「笹山でお願いします。アキと慎之介と笹山でごはん食べに行ったんですけど、そのとき次回す人どうしようかなって話をしたら、『貴哉でええやん』ってなって。貴哉も乗り気だったので、そうします」

「バスケだけ見ると、めちゃくちゃうまいし、ガードとしてみんなを引っ張っていくキャラじゃないですか。でもプライベートでは、そんなに権力がない(笑)。いじられキャラの俺にいじられるくらい、本当にいじられキャラですね。ツッコミどころが多いというか、よく分からないヤツです(笑)。マジメな話もしますけど、わけ分かんない冗談とかも言ってくるので。すましているように見えて、プライベートではそんなことないと思います(笑)」
B:そうなんですね。笹山選手との思い出などありますか?
「高校生のときに、あいつと一緒にAKBの動画を見ていたのは覚えてますね。今思い出しましたけど、一緒にフリを覚えて、部屋で一緒に踊りました(笑)。なつかしいですね。俺は大島優子で、貴哉は篠田真理子が好きでした」
B:なるほど(笑)。ではその話もしてみましょう。それでは次回は、筑波大の笹山選手です。高橋選手、どうもありがとうございました。
◆#5高橋貴大
山形第六中→山形南高→青山学院大
4年・PG・主将
181cm/82kg
・2005 全中出場(中1)
・2007 ジュニアオールスター山形県代表
・2007 全中優勝(中3)
・2010 インターハイ出場(高3)
・2010 U-18 アジア選手権日本代表
・2012 新人戦3位
・2014 トーナメント3位
・2014 リーグ戦準優勝
(2014.7.24のインタビューに、インカレ時のものを合わせて構成しています)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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