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2014.03.30 (Sun)
【SPECIAL】BOJラインvol.23〜白濱僚祐選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.23~白鴎大学・白濱僚祐選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第22回の中央大・山田典政選手からバトンを渡されたのは、白鴎大学・白濱僚祐選手です。
白鴎大・齊藤監督も大きな期待を寄せるプレイヤーとして、1年生の頃からスタメンを張ってきた白濱選手。4年間でプレー、メンタルの両面で成長を遂げ、1部昇格やインカレベスト8入りなどチームの大躍進の立役者となりました。高い身体能力を持ち、ジャンプ力は大学界屈指。その躍動感あふれるプレーは、多くの観客たちにインパクトを残したことでしょう。卒業後はNBLのアイシンシーホース三河にアーリーエントリー。国内トップクラスのチームの一員となり、また新たな挑戦が始まりました。
佐賀県出身で、「たくさんの人に佐賀のことを知ってもらいたい」と話す白濱選手。運動能力を見込まれてバスケットを始め、高校時代は佐賀を代表する選手として活躍、大学でも4年間でここまでの選手へと成長したその道のりは、全国のバスケットボールプレイヤーに夢を与えるかもしれません。今シーズンのラストを飾る第23回BOJライン、どうぞお楽しみください。
B:BOJライン、第23回は白鴎大学・白濱選手です。よろしくお願いします。白濱選手はこのリレーインタビューに出たかったそうですね。
「そうですね、正直(笑)。たくさんの人に佐賀のことを知ってもらいたくて。前にリーグ戦で、BOJのピックアッププレイヤーみたいなので自分を出してくれたときがあったじゃないですか。あれで佐賀の人たちがちょっと沸いたと聞いて、それはめっちゃ嬉しかったです(笑)」
B:あの週は本当にいいプレーでした。紹介の仕方でもっと大学バスケが広がって欲しいので、佐賀でも見てもらえて良かったです。今日は存分に佐賀のエピソードも語ってもらいましょう。ところでこのインタビューは山田選手からの紹介ですが、彼とはビッグマンキャンプで同じ部屋になったことが仲良くなったきっかけだそうですね。
「え、そうでしたっけ!?」
B:覚えていないんですか(笑)。山田選手・谷口選手と3人同じ部屋で、そこに国士館大の永野選手が加わったそうですが。
「あ、そうだそうだ! ありましたね。確かに本格的に話すようになったのは、その頃からです。2年の時からお互い2部で結構顔を合わせることも多かったですし、話すようになりましたね」
B:山田選手は、白濱選手から見てどんな人ですか?
「一言でいえば、スゲーいいやつです。見るからにいい人じゃないですか。その上しっかりしているんですよね。みんなでごはん食べ行こうってなったらすぐセッティングしてくれたり、そのあとカラオケ行こうぜってなったらすぐ連れて行ってくれたり。みんなをまとめてくれるんです。いろいろ顔も広いですし、その人たちに頼んでお店を安くしてくれることもあって。いつもお世話してもらっていますね(笑)」
B:頼れる友人なんですね。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小3ですね。もともと2つ上の兄がバスケをやっていたこともあったんですけど、自分、小学校1・2年生のときから身長が高い方で、自分で言うのもなんですけど運動神経も良かったんですよ。それで、ミニバスの監督からずーっと『入れ入れ』と誘われていたんです。たまたま2年生のときに担任の先生がそのミニバスの監督になったんですけど、小学校って『連絡帳』あるじゃないですか。それに先生が毎日『ぜひともバスケ部に入れて下さい』って親に向けて書いていたくらいで(笑)。そんな熱烈コールもあって、やってみようかなと思って始めました。それで楽しくなっていった感じですね」
B:お兄さんがいるんですね。2人兄弟ですか?
「いや、6歳下の妹もいるので3人兄妹です。妹も最初はバスケをやり始めたんですけど、ソフトボール部に転向して。そこでは肩が強いとかで結構有望なピッチャーとして期待されていたみたいですね。今は辞めてしまったんですけど」
B:6歳も離れていると、可愛い妹なのでは?
「いや、でも思春期なのか、全然自分に構ってくれないんですよ(笑)」
中学時代に味わった全国レベル
B:中学校は、有明中に進んだんですよね。
「そうです。田舎ですし、小学校のメンバーでそのまま中学校に上がった感じですね。有明中は先生がめっちゃ厳しいとか練習がきついという噂は前々から聞いていたんですけど、小学校のみんなもそのまま行くし、ここで逃げたらダメだなと思って進みました。そうしたら、本当に練習がキツくて…(苦笑)」
B:厳しかったんですね。辞めようと思ったことは?
「いや、ほぼ常にと言っていいくらい思っていました(笑)。平日はまだ耐えられるんですけど、夏休みとかの長期オフになると毎日ガッツリ練習で。いつも帰り道、友達と自転車に乗りながら『明日、監督に辞めるって言いにいかね?』って言っていました。結局続けましたけどね」
B:有明中は、県内では強豪チームですよね。
「県内ではそうですね。1年のうちに3つ大きな大会があるんですけど、自分らの先輩たちはみんな3つとも優勝していました。でも自分たちの代は、先生が途中から変わったこともあってあまり結果が出せなくて…。先生がいた新人戦では勝てたんですけど、先生がいなくなってそのあとの春の大会と夏の大会は負けてしまいました」
B:少し調べたところ、新人戦の九州大会では長崎の小浜中学校と対戦しているそうですね。
「あ!覚えてます覚えてます!田中大貴くん(13年度東海大主将・現NBLトヨタ東京)と対戦しました。自分、しかもマッチアップでしたから。監督からも『あの選手はシュート入るから打たせるな』と言われて、ぴったりフェイスガード気味についた記憶があります。結局やられちゃったんですけどね(苦笑)。試合的には競った(57−60)んですけど、やっぱり田中大貴くんはうまかったです」
B:新人戦以降は、春、夏となかなか勝てなかったわけですね。
「はい。春の大会は、県大会の決勝までなんとか全部接戦でのらりくらりと勝ち上がったんですけど、決勝で昭栄中というところに負けました。昭栄中は、新栄小学校のメンバーがほぼ全員上がった学校で、新栄小もすごく強かったんですよ。それで、夏の最後の大会にいたっては県大会のベスト8くらいで負けましたね。また昭栄中に当たっちゃって。それが中学の引退試合でした」
B:ジュニアオールスターにも選ばれていますが、その思い出はありますか?
「覚えています。予選リーグで青森と愛媛と戦いましたね。青森には蛯名(13年度慶應義塾大主将)がいたんですけど、ほんとあの人中学生の時から今みたいな感じだったんですよ!(笑)とにかくゴツいし身長も高いし、しかもまた監督から『あいつがエースだから止めてこい』みたいに言われて、自分がマッチアップだったんです。まぁ、結局ボコボコにされて…。全然止められなかったですね。この人は中学生じゃない、化け物だと思いました(笑)」
B:全国レベルを初めて味わったのはその時ですか?
「そうですね。あ、でももともと中学の監督が、当時木屋瀬中にいた山崎先生や姪浜中にいた鶴我先生とめっちゃ仲良しだったんですよ。3チームで合同合宿をするくらい結構関わりがあって。それで合宿の時に木屋瀬や姪浜と対戦して、『なんだコイツら!』って衝撃を受けましたね(笑)。玉井(早稲田大)とか園(白鴎大)とか占部(鹿屋体育大)とかいて、結局、木屋瀬は全中も優勝したじゃないですか。だから、全国レベルは一応その頃から味わっていたと思います」
B:白濱選手は、中学生の頃どんなプレースタイルだったんですか?
「いや、今とあまり変わらないですよ。でも中学校の頃は、3Pは絶対打たないキャラでした。全部ドライブかミドルシュート。3P打ったら珍しい、という選手でした」
写真下:慶應義塾大の蛯名。フィジカルの強さは中学時代から発揮され、大学でも上背の勝る相手に負けないタフさだった。
強豪校・憧れの佐賀北高校へ
B:高校は、どうして佐賀北高校に行くことになったんですか?
「やっぱり県内で1番強かったし、憧れはあったんです。でも実力的に佐賀北なんて行けないと思っていたんですよ。でも一度中学3年生の時に佐賀北と練習試合させてもらって、その時にたまたま調子が良くて高校生相手にガンガンやれたんです。それを見て、北島先生が呼んでくれた感じですね」
B:高校は入ってみていかがでした?
「やっぱり佐賀の中ではスター軍団なわけじゃないですか。大峰さん(青学大12年度卒)だったり、船津さん(天理大12年度卒)だったり。大峰さんとか、下級生の頃から活躍していてよく佐賀新聞とかにも載っていたんですよ。試合とかも見に行っていたし、本当にすごいなと中学生の頃から思っていて。こんな人たちの中に自分も入れたってことが、まず感動でしたね」
B:練習のレベルから高いわけですね。
「はい。でも、中学校の頃はとにかく練習量がやばかったんですけど、高校は質を重視した練習でそれほど時間も長くなくて。短い時間で集中してやる感じでしたね」
B:高校1年生の時は、メンバーには入っていないそうですが。
「そうです。2年生になってやっとシックスマンとかで使われるようになりました。それまではずっと応援席ですね。1年生のときは、佐賀インターハイだったじゃないですか。だからすごく試合に出たかった気持ちはあったんですけどね。でもそこは出られなくて…。そのとき1年生でも公文(公文貴士)ってやつが唯一ひとりだけメンバーに入っていて、試合にも出ていたんですよ。だから『うらやましいなー』と思っていました。自分は応援席の一番うしろで、このジャンプ力を生かしてぴょんぴょんしながら応援していました(笑)」
B:2年生のときから試合に出られるようになり、埼玉インターハイでは正智深谷高校に1点差の勝利だったんですね。
「はい。もうあれ、超ドラマチックだったんですよ!試合、見に来ました?」
B:ごめんなさい、見てないです(苦笑)。どんな試合だったんですか?
「本当にすごい試合だったんですよ! 自分も細かくはあまり覚えていないのでちょっと違っているかも知れませんが、ずっとシーソーゲームで、確か残り30秒くらいで1点自分たちが勝っていたんです。それで相手のフリースローになって自分はリバウンドに入ったんですけど、自分のうしろから相手にオフェンスリバウンドを取られて、そのままシュートを決められてしまって…。そのときは『うわ、これで負けたら完全に俺のせいだ』と思いましたね。で、そのまま確か1点ビハインドで残り5秒くらいしかなくなって、しかも相手ボールのスローインで、絶体絶命な状況だったんです。その時に、自分はマッチアップがガードの人じゃなかったんですけど、自分のせいで負けるよりはと思って『俺につかせて下さい』と監督に言って。それで思いきりガードにディナイをしたら、スローインでパスをカットできたんです。それで前を走っている味方にパスして、ギリギリ逆転シュートが決まって。本当に劇的な勝利でしたね。もう、とにかくホッとしました。試合が終わってから監督にも、『お前、あのまま負けてたらやばかったな(笑)』って言われましたね。これは結構自分の中で印象に残っている試合です」
B:それは壮絶な試合だったんですね。正智深谷は地元のチームですし、アウェイな状況だったと思いますが。
「そうですね。相手チームの応援はやばかったです。僕ら、高校3年生の時も大阪インターハイで大阪学院とやっているので、不思議といつもアウェイなんですよね(笑)」
B:高1のインターハイは、正智深谷に勝ったあと大濠高校と対戦していますが。
「そうですね。大濠は、上野翼とか大下内さん(順天堂大12年度卒)とか大塚さん(早稲田大13年度卒・現NBDL豊田通商)とかいて、スター軍団だったじゃないですか。そういう人たちを前にして、自分めっちゃアワアワして(笑)。アワアワしている間に試合が終わっちゃった感じですね。全く活躍した印象がないです。普通に負けました」
B:2年生のウインターカップはいかがでしたか?
「2年のウインターは、結構自分の中で印象に残っている大会ですね。初めてのウインターカップ、しかもあの大きい東京体育館でやれるということで、すごくワクワクしていたんです。それでまず1回戦で神戸科学と対戦したんですけど、その時はまた自分、アワアワしちゃって(笑)。でも大峰さんがめっちゃ点をとってくれて(※35得点)、結構点差を離せて2回戦に進んだんですね。それで北陸と対戦したんですけど、その時は2試合目ということもあって慣れてきたのか、意外と活躍できて、バスケットカウントとかも獲れたんです。結果的には3点差で負けてしまったんですけど『自分、意外にやれるんじゃないか』と手応えを掴めた試合でしたね」
B:自信をつけたんですね。
「はい。北陸も、すごいスター選手がいっぱいいたじゃないですか。廣島さん(専修大12年度卒)、湯浅さん(富山大12年度卒)、川瀬さん(東海大12年度卒)、占部や寺嶋(国士館大13年度卒)とかもいましたし。そういう人たち相手に意外と活躍できたので、自信にはなりましたね」
写真上:佐賀北で一学年上のエースだった大峰は青山学院大でプレーした。白濱に劣らず高い身体能力の持ち主だった。
全国の舞台で学んだ経験と悔しさ
B:そのあと、先輩たちが卒業して自分たちの代となりましたが、高校3年生になって心境などは変化しましたか?
「全然違いましたね。とにかく自分がやらないと、という気持ちになりました。点も取らなきゃいけないし、ディフェンスでもエースにつくことが多かったので、責任感は多少出てきたかなと思います」
B:先ほど少し話に出ましたが、高3の大阪インターハイでは1回戦で大阪学院大高校と対戦して負けてしまったんですよね。
「はい。あの時もだいぶアウェイな感じで。あの試合は、自分のマッチアップが小阪(大阪学院大#22)って190cmくらいあるやつだったんですよ。とりあえずコイツをなんとかしないと勝てないと思って、ディフェンスを頑張ろうと思ったんですけど、なかなか難しかったですね」
B:これまでの話を聞いていると、白濱選手はマッチアップする選手が様々ですね。ガードからセンターまで幅広くつくというか。
「そうですね。自分、中学校まではフォワードをやっていたんですけど、中学のバスケ部を引退してから急激に身長が伸びて、チームのセンター陣を抜いて自分が一番大きくなっちゃったので、高校では自分が5番をやっていたんですよ。だから小阪につきましたし、エースがフォワードの時はそっちにつくこともありましたね」
B:そうだったんですか。身長はどれくらい伸びたんですか?
「中学校の最後の大会のときは174cmくらいでした。でも卒業するときにはもう182cmくらいありましたね。半年で10cm近く伸びたかなと。それで高校でもちょっと伸びて、高3になる時は186cmくらい、今は190cmあるかないかくらいです」
B:それは急激に伸びましたね。話を戻しますが、高3のウインターカップは光泉高校と対戦しているんですね。
「あれは思い出したくないです。ボコボコにされました(苦笑)。1Qで20点くらい空いた(14−36)んじゃないですかね? あの時、同期はみんなウインターカップには残らずに引退しちゃっていたので、3年生は自分ひとりだったんですよ。だからまわりはみんな下級生で、たぶん後輩も自分がいてやりにくかったと思うんですよね。藤森(天理大#11)とか上手いやつらも全然いつもの力を発揮できなくて、出だしからボコボコにされました。光泉は北川 弘(日本体育大13年度卒・現広島ドラゴンフライズ)とか清水(明治大13年度卒)とかがいて強かったですね」
B:苦い思い出なんですね。
「はい。しかも自分、ウインターの直前に右肩を亜脱臼しちゃったんです。だからテーピングぐるぐる巻きで試合に出ましたね。練習中、人にバーンとぶつかって痛いなーと思っていたんですけど、シュートを打とうとしたらピキっとなってもう腕が上がらないんですよ。しかも一回病院に行ったらそこがヤブ医者だったみたいで、『大丈夫、大丈夫。時間が経てば治るよ』と言われたんですけど、一週間経っても痛いままだったので違う病院に行ったら『脱臼してるじゃん!』となって(笑)。それであまり自分のプレーは出せませんでしたね」
B:高校3年間で、一番学んだことはなんですか?
「やっぱり、今考えれば全国のいろんな選手と戦えたことが一番の収穫でしたね。高2から全国大会にも結構出させてもらっていたし、福岡第一とか強いチームともよく練習試合していたので。そういう経験があったから、強い人たちを相手にしても少しは落ち着いてやれるようになったかなと思います」
B:バスケットのスタイル的には、どんなことを学びましたか?
「佐賀北は、新チームになったら最初にどういうチームにしたいかという目標を決めて、監督がそれに合わせて練習を組むんですよ。それで確か先輩たちは『考えるバスケット』みたいな目標にしていたので、結構システマチックなバスケットを重視していました。でも自分たちは先輩たちに比べたら能力もないので、『それじゃ勝てなくないか?』となり。やっぱり自分たちは走らなきゃ勝てないだろうってことで、『走るバスケット』をテーマにしたんです。そうしたら、その分練習でも結構走るメニューが組まれましたね。だから自分たちの代は結構トランジションゲームも多かったと思います。走れば勝てるというか、やっぱりブレイクが出ると勢いに乗れて自分たちもリードを広げられる。そういうアーリーオフェンスの大事さは学びましたね」
最初はスタメンが「嫌だった」
B:白鴎大にはどういう経由で進んだんですか?
「白鴎って、毎年福岡に遠征に来るんですよ。そのときたまたま高3の国体前の時期で、佐賀の国体チームでその遠征に参加させてもらったんです。齋藤さんはもともとインターハイでも自分を見てくれていたみたいなんですけど、その遠征のときに初めて話しました。白鴎はこういうチームだよ、こういう練習だよ、というのを聞いたり、Tシャツをもらったりしました」
B:やはり関東の大学には行きたかったんですか?
「関東の大学は強い、というイメージはありましたね。でも自分、実は大学でバスケする気なかったんですよ。自分、理学療法士になろうと思って、ギリギリまで地元の大学に行こうとしていたんです。実際一度、白鴎からの誘いを断っていて。でも高校の監督からも『お前にはバスケットを続けてほしい』と言われて、自分でも迷ったあげく、もう一回白鴎にお願いしますと言って入ることになりました」
B:それは大きな転機でしたね。大学バスケは実際入ってみていかがでしたか。
「入学する前の春休みから練習に参加したんですけど、最初の3日間くらいでめっちゃキツくて。体幹とかトレーニングとかで本当に体がバキバキで、寝返りも打てないくらい全身筋肉痛なんです。『これが大学か…!』と思いましたね。それ以降、徐々に慣れていきましたけど」
B:白鴎大は栃木県の小山にある大学ですが、栃木にはリンク栃木というチームがあって、そういう盛り上がりは感じるものですか?
「感じますね。自分の中でバスケってマイナーというかあまり広まっていない印象だったんですけど、こっちだと栃木テレビとかで試合も放送するじゃないですか。日本一にもなりましたし、お客さんも入っていて盛り上がりもすごくて、栃木のバスケって人気があるんだなと思いました」
B:白鴎大で、留学生の選手と一緒にプレーするというのはどんな経験になりましたか?
「まず高校の時は自分がインサイドだったじゃないですか。だから自分がシールする側だったんですけど、大学に入ったらアビブ(13年度卒)がいてチームの柱で、正直存在は大きかったですね。アビブがめっちゃシールしてくれて自分たちがドライブに行く道をあけてくれていたし、連携も取りやすくて、すごく良かったです」
B:高校ではセンターをやっていて、大学からフォワードには問題なくコンバートできたんですか?
「一応中学まではフォワードだったので、大丈夫かなと思っていたんですよ。でもピックの使い方とか緻密なところは全然ダメで。それに正直センターをやっていた時はスピードで結構相手を抜けたんですけど、フォワードだとドリブルワークとかももっと必要で、それは大変でした」
B:でも入学して1年生からスタメンで試合に出ていましたよね。
「そうなんですよ! 最初、練習でやる5対5とかから、いきなりスタメン組に入れられて。本当に自分でいいのかなって思いましたね。正直、めちゃくちゃ嫌でした(苦笑)。同期にもすごい人たちがいっぱいいるのに、なんで自分なんだろうって。毎回、練習の時にマネージャーからスタメンや控えを分けるナンバリングの色の発表があるんですけど、そこで自分がスタメンに入るのが、ほんっとに嫌でしたね」
B:そこまで嫌だったんですか。
「いざ試合をしたら、自分、ネット上でめっちゃ叩かれたんですよ!(笑)『なんであいつがスタメンなんだよ』みたいな。それを見つけて結構うわーって落ち込みました。でもその時に優二(田中)とか柳川から『こいつら見返してやれよ』って言われて、確かにと思ったんですよね。何も知らない人たちにそうやって叩かれるのは腹立つなと。それで若干、逆ギレみたいな感じで試合に臨んだら、意外と上手くいきました(笑)」
B:確かに白濱選手は最初少し消極的だった印象ですが、段々とプレーも吹っ切れたような様子でしたね。2年の新人戦も良かったですし。
「そうですね。あれは、すごく楽しかったです。決勝まで行けましたし、自信にもなりましたね。準々決勝の国士戦で優二(#10田中)が足を思いきり捻って次の試合から出られないとなって、あいつの分までがんばろうって感じで日体戦に臨んだら、結構快勝できました」
写真上:1年生の春。まだ体は細かった。
メンタルの部分から変わっていった白鴎大
B:2年生の途中から、廣瀬さん(現・青山学院大コーチ)がスタッフに入りましたよね。
「それは本当に大きかったですね。齋藤さんは、忙しくてそこまで練習にも毎回来られるというわけではなかったので。2年の途中から廣瀬さんが来て、そこから本気で1部とか上を目指そうとなって、そこから練習とかも本当に変わったんです。練習前もみんな早く来てドリブルとかシュートのワークアウトを自分でやって、それから練習に入る、みたいな感じで。だんだんそういう風に変わってきたんです」
B:気持ちから変わってきたのでしょうか。
「そうです。それは廣瀬さんの影響が大きいですね。細かいところまで言ってくれる人だし、ものすごく熱い人なので、あの人に引っ張られる感じで変わっていきましたね」
B:バスケットも、4年間でかなりシステマチックになった印象です。
「昔はとにかく1対1って感じだったんですけど、今はちゃんと作って攻められるようになったというか。でも、フォーメーションは自分が下級生の時から何十個もあったんですよ。覚えるのが大変なくらい。ただ、正直試合で使っているのはその中のほんの一部しかなかったんです。でも3、4年になるにつれて、試合で普通に使えるフォーメーションが増えました。実用性があるシンプルなやつをコーチが考えてくれて、だいぶやりやすくなりましたね」
B:あと白鴎大と言えば、3年生の時のゾーンディフェンスは強力でした。
「そうですね。ゾーンの中でもいっぱい種類がありましたし。その時はゾーンの練習ばかりしていましたね。たぶん、マンツーじゃ守れないからじゃないですか?(笑)結構武器になりましたよね」
B:特に、あの年では強力なライバルだった中央大に対するゾーンがかなり効いていた印象があります。
「そうですね。中央対策なところもありましたし、みんな本気でやっていましたね」
B:やはり2部の上位対決ということで、中央大のことは意識していたんですか?
「正直あの年は中央と勝負だろうなと思っていました。1個上にカルテット(佐藤・小野・入戸野・渡邉)がいて、結構警戒していましたね」
B:昨シーズンに比べれば、今年はあまりゾーンはやらなかったですね。
「そうですね。一応練習はしていたし、武器としては持っていたんですけど。でもなぜか今年はゾーンをしたときの方がやられていたかもしれないです。それで、マンツーの方がいいんじゃないかと。まぁ、マンツーのディフェンスも正直かなりしましたから。練習の最初がいきなりアップ無しでディフェンス練習なんですよ。それがアップだろ、みたいな感じで。ハーキーしながら後ろに下がるやつとか、毎回練習の最初にやっていました。ディフェンス練習は結構やった自信がありますね」
B:廣瀬コーチが青学に移って今年はまた新たなコーチも加わりましたが、どうでしたか?
「佐藤コーチに加えて新しく落合嘉郎コーチが来たので、そのふたりが熱心に『練習はこうした方がいいんじゃないですか』とかいろいろ意見を出してくれました。だからそんなに変わりはなかったです」
1部リーグで発揮したエースとしての実力
B:最終学年の今年は念願の1部リーグでしたが、2部との違いは感じましたか?
「違いましたね。要所、要所が違うなって。シュート力とか、狙いどころとか。2部だったらここで追いつけるのに、というところで1部のチームはしっかり1本決めてきて、そういう細かい部分がすごいなと感じました」
B:白濱選手自身、今年はかなり好調でしたよね。
「そうなんですよね、不思議と。たぶん自分がやらなきゃ、みたいな気持ちが一番大きかったと思います。柳川が夏合宿の時にめっちゃハマっちゃって調子が上がらなくて、福岡遠征の時もほとんどあいつは試合に出てないんですよ。それもあって、自分がやらなきゃって気持ちは大きかったです」
B:白鴎大の選手たちは、みんな強い相手に立ち向かっていく時の方が生き生きとして楽しそうでした。
「楽しいですね、その方が。2部だとどうしてもやれちゃう部分があったので。いや、天狗になっていたわけじゃないですよ?(笑) でも1部だと通用しない部分がたくさんあって、それが通用するようになったときがやっぱり嬉しかったですね」
B:力をつけて2部というステージを通過して、さらに上に挑戦する楽しさがあったんですね。1部に通用する部分もたくさん見えましたね。
「そうですね。まずリーグの開幕戦で明治と延長戦になったことが大きかったと思います。負けはしたんですけど、やれるんじゃないかという手応えはあったので」
B:リーグ戦の最後の2戦はなかなか調子が上がりませんでしたね。最終日の専修大戦は、試合後に号泣するほど悔しがっていましたが。
「そうですね。その前の日に大東に負けて、結構自分が調子悪くて。その2試合は消化試合じゃないですけど自分たちは順位が懸かっていない試合で、それに対して大東も専修も入れ替え戦が懸かっていて必死で向かって来るじゃないですか。それでたぶん受け身になってしまったのか、そういう感じがプレーに出てしまったんだと思います。それで監督から、大東戦が終わって『お前、このまま終わったらやっぱりそういう選手だったんだと思われるぞ』と怒られて、次の専修戦は絶対頑張って勝とうという気持ちで臨んだんです。それでもやっぱりいまいち活躍できないまま負けてしまって…。あれは悔しくて涙が出ましたね」
B:その悔しさがインカレにつながったんですね。チーム初のベスト8入りを果たしましたが。
「それは嬉しかったですね。オールジャパンにも出られましたし」
B:インカレの最後は、順位決定戦で専修大に敗れてかなり悔しそうでしたね。
「そうですね。今年、全部最後の試合が専修なんですよね。トーナメントも、リーグも、インカレも。トーナメントは結構劇的な逆転勝ちでしたけど、そのあとは勝てなくて。たぶんインカレの最終戦が一番悔し泣きしたんじゃないですか。あれ?逆に泣かなかったんでしたっけ?」
B:いや、泣いていましたよ。確か試合終了の前から。
「あ、そうでしたか(苦笑)。必死でやっていて、もうあまり覚えてないです」
B:インカレが終わってからオールジャパンまで、練習はどんな感じだったんですか?
「別にインカレが終わったから気を抜くとかはなく、練習は普通にしていましたね。逆にかなり勝つつもりで。兵庫に勝って、アイシンAWにも勝って、トヨタと戦おうという目標だったんですよね。だからオールジャパンは本当に悔しかったです」
B:NBLの兵庫ストークスに2点差の惜敗でしたね。
「はい。しかも最後、自分と柳川がふたりともシュートをポロリとこぼしたじゃないですか。あれが決まっていれば…。最後、自分でも『うわ!俺めっちゃ良いリバウンド取った!』って思ったんですよ。それがポロッとこぼれて。そのすぐあとに柳川もポロリしたじゃないですか。めっちゃ悔しかったですね。勝てた試合だったからこそ」
B:惜しかったですね。でも、お正月にバスケするというのは新鮮だったのでは?
「はい。それは楽しかったです。バスケ部のみんなで一緒に年越ししたんですよ。1年生に料理をひとり1品持ってきてもらって、コーラとサイダー飲みながらワイワイはっちゃけて。それはめっちゃ楽しかったです」
B:仲が良いんですね。
「仲良いですね。面白いやつらも多いし。年代関係なく仲が良いです」
B:白鴎大は女子部も強いですが、女子部とも交流はあるんですか?
「普通に仲良いですよ。会ったら話しますし。ただ、自分たちが頑張ってインカレでベスト8に入ったりオールジャパンに出たりしても、女バスはリーグ戦全勝優勝して国体でも優勝して、目指せ3冠みたいな感じだったじゃないですか。だから全部話題を持っていかれて、ちょっと恨みがあります(笑)。前に、栃木テレビか何かが白鴎に撮影に来てバスケ部が紹介されたんですけど、10分か15分くらいの枠の中で男バスは2分くらいで、あとは全部女バスだったんです。あ、こんなものかと思いましたね(苦笑)」
B:男バスは、ここからですね。
「はい。ここから後輩たちが逆転してくれることを願っています」
ある日をきっかけに1日で数種類のダンクを会得
B:初めてダンクができたのはいつですか?
「正式にちゃんとできたのは、高2です。ずっとできなかったんですけど、先輩にやってみろよって言われて何回もやっていたら、できちゃったんです。1回できたらそこで自分の中でコツを掴めたみたいで、その日のうちにいろんな種類のダンクができるようになったんですよね。一番最初にできたのは普通に片手でやるダンクだったんですけど、ボースハンドできて、バックダンクできて、一回転もできるようになりました」
B:その日のうちに、というのはすごいですね。
「なんか、調子に乗って『なんでもできるんじゃね?』って気持ちになって(笑)。気持ちの問題だと思います」
B:ジャンプ力はもともとあったんですか?
「いや、全然なかったですよ。中学生の時とか、卒業する時に182cmくらいあったんですけど、リング触るのがやっとって感じでした」
B:どうしてそんなに跳べるようになったんでしょう。
「なんなんですかね…?でも気付いたらジャンプキャラになってますよね」
B:普通のレイアップもかなり跳んでいますよね。トレーニングの成果でしょうか。
「そうですね。確かに、年々跳べるようになった感じはあります。ウエイトで、バネを使って全身の筋肉を鍛える器械が新しく導入されたんですけど。パワークリーンですかね?それをやり始めて、もっと跳べるようになったと思います。柳川とかもエグいダンクできるようになりましたし」
B:チーム全体として、体つきは4年間でだいぶ変わりましたよね。
「自分、1年生の時とか超細かったですからね。入学して初めて上を脱いだ時に、マネージャーから『棒!? 』って言われました(笑)。ガリッガリで、腕まわりとかも30cmくらいしかなかったですね。そこから35、6cmにはなって、だいぶ太くなりましたが」
B:2年生の時か3年生のはじめ頃に、体が変わったなと感じました。
「最初はウエイト嫌いだったんですよ。でも2年生あたりから練習も変わって、ウエイトも好きになったんです。自分でも結構追い込むようになって」
B:ウエイトで効果や結果が出るとますます好きになるんでしょうね。
「そうですね。最初は2、3日で少しは結果でるだろうとか思っていたんですけど、出ないじゃないですか。だから意味ないじゃん、みたいに思っていて。でも我慢してずっと継続してやっていたらだんだん形にも表れてきたので、好きになりました」
B:日頃からダンクは練習していたんですか?
「練習はしていないです。でも練習のあととか、遊びでやっていましたね。マンタスとかと。あいつ、そういうの大好きで、結構派手なダンクとかをやり出すんですよ。それで『白濱もやれ』みたいな(笑)」
B:森山選手(13年度明治大卒)や坂田選手(13年度日本大卒)と、遊びでダンクコンテストをやったとか。森山選手は白濱選手を絶賛していましたよ。
「あ、やりましたね。央と翔太と、柳川もいて。みんなダンクできるからやろうぜーってなったんです。みんなでわいわい『次こんなダンクできるかな?』みたいな感じで遊びでやっているうちに、いろいろできました」
B:白濱選手のダンクは、特に躍動感がありますよね。
「たぶん、他の人は簡単に難なくやっちゃうんじゃないですかね。自分はそういうところでしか目立てないので、頑張るからだと思います(笑)」
B:では、自分はどんな性格だと思いますか?
「よく変わり者って言われますね。マイペースなんですよ。血液型もAB型だし。人が話しているときに、いきなりパッと意味分からないことが言い出したりするとか言われます」
B:他の大学で仲の良い人は誰ですか?
「中央の山田とか日大の央とか、青学のバシオ(小林)とかですかね。あと明治は基本全員仲が良いです」
B:1部の選手たちとは1部に上がってから仲が良くなったんですか?
「そうですそうです。翔太(森山)とかと仲良くなったのも、リーグ戦の中断期間なんですよ。その時に明治も珍しくオフがあって、あいつらが栃木に遊びに来てくれて、そこからですね。翔太は親友です。相棒。…って言っとかないと(笑)。さっき『俺の名前いっぱい出せよ』って言われたので(笑)」
B:卒業後は、どんな目標を持っていますか?
「アイシンで、まずは足を引っ張らないように。しかも自分、チームに同い年が自分ひとりなので、例えたら自分の中では青学にひとりで行くようなものなんですよ。だからもう、雑用でもなんでもやります(笑)。それで徐々に、密かにスタメンを狙いたいなと。密かにいつか『アイシンのウイングといえば白濱やな』って言われるようになりたいです」
B:白濱選手のように大学で開花して注目を集めた選手がトップリーグで活躍すれば、中学や高校でプレーするより多くの選手たちの希望になりますよね。
「そうですね。こんな佐賀のド田舎の田舎っぺ大将が、大学でちょいちょい活躍して、アイシンに呼んでもらえるってことは、ちょっとは夢を与えられたかなと思います。頑張れば道は開けるって感じですね」
B:NBLでも頑張って下さい。では、インタビューを回す人を指名していただけますか?
「うーん、どうしようかな。自分、年下とそんなに仲良くないんですよね(笑)。でも新シーズン1発目だし、やっぱり有名どころがいいですよね?じゃあ、ガッキー(拓殖大#14大垣)とか面白そうじゃないですか?」
B:そうですね。大垣選手と交友はあるんですか?
「そうですね。いつも『小山に遊びに来いよ』って言っているんですけど、全然来てくれないです。あいつTwitterとかで『俺も小山行きたいっすわ!』とか絡んでくるくせに、来てくれない。なんで来てくれなかったのか聞きたいです(笑)」
B:(笑)。それでは次回は拓殖大学・大垣選手にその理由を聞いてみようと思います(笑)。白濱選手、ありがとうございました。
写真上:1部リーグでも1試合に数本のダンクを決めることは珍しくなかった。
写真中:1月のさよなら試合で。仲のいい選手たちと笑顔でのプレーだった。
写真下:Tシャツに書いた言葉は「謙虚」。「謙虚に頑張ります!」とコメント。
◆#15白濱僚祐(しらはま りょうすけ)
有明中→佐賀北高→白鴎大
4年・F
189cm/85kg
・2006 ジュニアオールスター佐賀県代表
・2009 インターハイ出場(高3)
・2009 ウインターカップ出場(高3)
(2014.2.16インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.23~白鴎大学・白濱僚祐選手~

白鴎大・齊藤監督も大きな期待を寄せるプレイヤーとして、1年生の頃からスタメンを張ってきた白濱選手。4年間でプレー、メンタルの両面で成長を遂げ、1部昇格やインカレベスト8入りなどチームの大躍進の立役者となりました。高い身体能力を持ち、ジャンプ力は大学界屈指。その躍動感あふれるプレーは、多くの観客たちにインパクトを残したことでしょう。卒業後はNBLのアイシンシーホース三河にアーリーエントリー。国内トップクラスのチームの一員となり、また新たな挑戦が始まりました。
佐賀県出身で、「たくさんの人に佐賀のことを知ってもらいたい」と話す白濱選手。運動能力を見込まれてバスケットを始め、高校時代は佐賀を代表する選手として活躍、大学でも4年間でここまでの選手へと成長したその道のりは、全国のバスケットボールプレイヤーに夢を与えるかもしれません。今シーズンのラストを飾る第23回BOJライン、どうぞお楽しみください。
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きっかけはミニバス監督からの熱烈コール
「そうですね、正直(笑)。たくさんの人に佐賀のことを知ってもらいたくて。前にリーグ戦で、BOJのピックアッププレイヤーみたいなので自分を出してくれたときがあったじゃないですか。あれで佐賀の人たちがちょっと沸いたと聞いて、それはめっちゃ嬉しかったです(笑)」
B:あの週は本当にいいプレーでした。紹介の仕方でもっと大学バスケが広がって欲しいので、佐賀でも見てもらえて良かったです。今日は存分に佐賀のエピソードも語ってもらいましょう。ところでこのインタビューは山田選手からの紹介ですが、彼とはビッグマンキャンプで同じ部屋になったことが仲良くなったきっかけだそうですね。
「え、そうでしたっけ!?」
B:覚えていないんですか(笑)。山田選手・谷口選手と3人同じ部屋で、そこに国士館大の永野選手が加わったそうですが。
「あ、そうだそうだ! ありましたね。確かに本格的に話すようになったのは、その頃からです。2年の時からお互い2部で結構顔を合わせることも多かったですし、話すようになりましたね」
B:山田選手は、白濱選手から見てどんな人ですか?
「一言でいえば、スゲーいいやつです。見るからにいい人じゃないですか。その上しっかりしているんですよね。みんなでごはん食べ行こうってなったらすぐセッティングしてくれたり、そのあとカラオケ行こうぜってなったらすぐ連れて行ってくれたり。みんなをまとめてくれるんです。いろいろ顔も広いですし、その人たちに頼んでお店を安くしてくれることもあって。いつもお世話してもらっていますね(笑)」
B:頼れる友人なんですね。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小3ですね。もともと2つ上の兄がバスケをやっていたこともあったんですけど、自分、小学校1・2年生のときから身長が高い方で、自分で言うのもなんですけど運動神経も良かったんですよ。それで、ミニバスの監督からずーっと『入れ入れ』と誘われていたんです。たまたま2年生のときに担任の先生がそのミニバスの監督になったんですけど、小学校って『連絡帳』あるじゃないですか。それに先生が毎日『ぜひともバスケ部に入れて下さい』って親に向けて書いていたくらいで(笑)。そんな熱烈コールもあって、やってみようかなと思って始めました。それで楽しくなっていった感じですね」
B:お兄さんがいるんですね。2人兄弟ですか?
「いや、6歳下の妹もいるので3人兄妹です。妹も最初はバスケをやり始めたんですけど、ソフトボール部に転向して。そこでは肩が強いとかで結構有望なピッチャーとして期待されていたみたいですね。今は辞めてしまったんですけど」
B:6歳も離れていると、可愛い妹なのでは?
「いや、でも思春期なのか、全然自分に構ってくれないんですよ(笑)」
中学時代に味わった全国レベル

「そうです。田舎ですし、小学校のメンバーでそのまま中学校に上がった感じですね。有明中は先生がめっちゃ厳しいとか練習がきついという噂は前々から聞いていたんですけど、小学校のみんなもそのまま行くし、ここで逃げたらダメだなと思って進みました。そうしたら、本当に練習がキツくて…(苦笑)」
B:厳しかったんですね。辞めようと思ったことは?
「いや、ほぼ常にと言っていいくらい思っていました(笑)。平日はまだ耐えられるんですけど、夏休みとかの長期オフになると毎日ガッツリ練習で。いつも帰り道、友達と自転車に乗りながら『明日、監督に辞めるって言いにいかね?』って言っていました。結局続けましたけどね」
B:有明中は、県内では強豪チームですよね。
「県内ではそうですね。1年のうちに3つ大きな大会があるんですけど、自分らの先輩たちはみんな3つとも優勝していました。でも自分たちの代は、先生が途中から変わったこともあってあまり結果が出せなくて…。先生がいた新人戦では勝てたんですけど、先生がいなくなってそのあとの春の大会と夏の大会は負けてしまいました」
B:少し調べたところ、新人戦の九州大会では長崎の小浜中学校と対戦しているそうですね。
「あ!覚えてます覚えてます!田中大貴くん(13年度東海大主将・現NBLトヨタ東京)と対戦しました。自分、しかもマッチアップでしたから。監督からも『あの選手はシュート入るから打たせるな』と言われて、ぴったりフェイスガード気味についた記憶があります。結局やられちゃったんですけどね(苦笑)。試合的には競った(57−60)んですけど、やっぱり田中大貴くんはうまかったです」
B:新人戦以降は、春、夏となかなか勝てなかったわけですね。
「はい。春の大会は、県大会の決勝までなんとか全部接戦でのらりくらりと勝ち上がったんですけど、決勝で昭栄中というところに負けました。昭栄中は、新栄小学校のメンバーがほぼ全員上がった学校で、新栄小もすごく強かったんですよ。それで、夏の最後の大会にいたっては県大会のベスト8くらいで負けましたね。また昭栄中に当たっちゃって。それが中学の引退試合でした」

「覚えています。予選リーグで青森と愛媛と戦いましたね。青森には蛯名(13年度慶應義塾大主将)がいたんですけど、ほんとあの人中学生の時から今みたいな感じだったんですよ!(笑)とにかくゴツいし身長も高いし、しかもまた監督から『あいつがエースだから止めてこい』みたいに言われて、自分がマッチアップだったんです。まぁ、結局ボコボコにされて…。全然止められなかったですね。この人は中学生じゃない、化け物だと思いました(笑)」
B:全国レベルを初めて味わったのはその時ですか?
「そうですね。あ、でももともと中学の監督が、当時木屋瀬中にいた山崎先生や姪浜中にいた鶴我先生とめっちゃ仲良しだったんですよ。3チームで合同合宿をするくらい結構関わりがあって。それで合宿の時に木屋瀬や姪浜と対戦して、『なんだコイツら!』って衝撃を受けましたね(笑)。玉井(早稲田大)とか園(白鴎大)とか占部(鹿屋体育大)とかいて、結局、木屋瀬は全中も優勝したじゃないですか。だから、全国レベルは一応その頃から味わっていたと思います」
B:白濱選手は、中学生の頃どんなプレースタイルだったんですか?
「いや、今とあまり変わらないですよ。でも中学校の頃は、3Pは絶対打たないキャラでした。全部ドライブかミドルシュート。3P打ったら珍しい、という選手でした」
写真下:慶應義塾大の蛯名。フィジカルの強さは中学時代から発揮され、大学でも上背の勝る相手に負けないタフさだった。
強豪校・憧れの佐賀北高校へ

「やっぱり県内で1番強かったし、憧れはあったんです。でも実力的に佐賀北なんて行けないと思っていたんですよ。でも一度中学3年生の時に佐賀北と練習試合させてもらって、その時にたまたま調子が良くて高校生相手にガンガンやれたんです。それを見て、北島先生が呼んでくれた感じですね」
B:高校は入ってみていかがでした?
「やっぱり佐賀の中ではスター軍団なわけじゃないですか。大峰さん(青学大12年度卒)だったり、船津さん(天理大12年度卒)だったり。大峰さんとか、下級生の頃から活躍していてよく佐賀新聞とかにも載っていたんですよ。試合とかも見に行っていたし、本当にすごいなと中学生の頃から思っていて。こんな人たちの中に自分も入れたってことが、まず感動でしたね」
B:練習のレベルから高いわけですね。
「はい。でも、中学校の頃はとにかく練習量がやばかったんですけど、高校は質を重視した練習でそれほど時間も長くなくて。短い時間で集中してやる感じでしたね」
B:高校1年生の時は、メンバーには入っていないそうですが。
「そうです。2年生になってやっとシックスマンとかで使われるようになりました。それまではずっと応援席ですね。1年生のときは、佐賀インターハイだったじゃないですか。だからすごく試合に出たかった気持ちはあったんですけどね。でもそこは出られなくて…。そのとき1年生でも公文(公文貴士)ってやつが唯一ひとりだけメンバーに入っていて、試合にも出ていたんですよ。だから『うらやましいなー』と思っていました。自分は応援席の一番うしろで、このジャンプ力を生かしてぴょんぴょんしながら応援していました(笑)」
B:2年生のときから試合に出られるようになり、埼玉インターハイでは正智深谷高校に1点差の勝利だったんですね。
「はい。もうあれ、超ドラマチックだったんですよ!試合、見に来ました?」
B:ごめんなさい、見てないです(苦笑)。どんな試合だったんですか?
「本当にすごい試合だったんですよ! 自分も細かくはあまり覚えていないのでちょっと違っているかも知れませんが、ずっとシーソーゲームで、確か残り30秒くらいで1点自分たちが勝っていたんです。それで相手のフリースローになって自分はリバウンドに入ったんですけど、自分のうしろから相手にオフェンスリバウンドを取られて、そのままシュートを決められてしまって…。そのときは『うわ、これで負けたら完全に俺のせいだ』と思いましたね。で、そのまま確か1点ビハインドで残り5秒くらいしかなくなって、しかも相手ボールのスローインで、絶体絶命な状況だったんです。その時に、自分はマッチアップがガードの人じゃなかったんですけど、自分のせいで負けるよりはと思って『俺につかせて下さい』と監督に言って。それで思いきりガードにディナイをしたら、スローインでパスをカットできたんです。それで前を走っている味方にパスして、ギリギリ逆転シュートが決まって。本当に劇的な勝利でしたね。もう、とにかくホッとしました。試合が終わってから監督にも、『お前、あのまま負けてたらやばかったな(笑)』って言われましたね。これは結構自分の中で印象に残っている試合です」

「そうですね。相手チームの応援はやばかったです。僕ら、高校3年生の時も大阪インターハイで大阪学院とやっているので、不思議といつもアウェイなんですよね(笑)」
B:高1のインターハイは、正智深谷に勝ったあと大濠高校と対戦していますが。
「そうですね。大濠は、上野翼とか大下内さん(順天堂大12年度卒)とか大塚さん(早稲田大13年度卒・現NBDL豊田通商)とかいて、スター軍団だったじゃないですか。そういう人たちを前にして、自分めっちゃアワアワして(笑)。アワアワしている間に試合が終わっちゃった感じですね。全く活躍した印象がないです。普通に負けました」
B:2年生のウインターカップはいかがでしたか?
「2年のウインターは、結構自分の中で印象に残っている大会ですね。初めてのウインターカップ、しかもあの大きい東京体育館でやれるということで、すごくワクワクしていたんです。それでまず1回戦で神戸科学と対戦したんですけど、その時はまた自分、アワアワしちゃって(笑)。でも大峰さんがめっちゃ点をとってくれて(※35得点)、結構点差を離せて2回戦に進んだんですね。それで北陸と対戦したんですけど、その時は2試合目ということもあって慣れてきたのか、意外と活躍できて、バスケットカウントとかも獲れたんです。結果的には3点差で負けてしまったんですけど『自分、意外にやれるんじゃないか』と手応えを掴めた試合でしたね」
B:自信をつけたんですね。
「はい。北陸も、すごいスター選手がいっぱいいたじゃないですか。廣島さん(専修大12年度卒)、湯浅さん(富山大12年度卒)、川瀬さん(東海大12年度卒)、占部や寺嶋(国士館大13年度卒)とかもいましたし。そういう人たち相手に意外と活躍できたので、自信にはなりましたね」
写真上:佐賀北で一学年上のエースだった大峰は青山学院大でプレーした。白濱に劣らず高い身体能力の持ち主だった。
全国の舞台で学んだ経験と悔しさ

「全然違いましたね。とにかく自分がやらないと、という気持ちになりました。点も取らなきゃいけないし、ディフェンスでもエースにつくことが多かったので、責任感は多少出てきたかなと思います」
B:先ほど少し話に出ましたが、高3の大阪インターハイでは1回戦で大阪学院大高校と対戦して負けてしまったんですよね。
「はい。あの時もだいぶアウェイな感じで。あの試合は、自分のマッチアップが小阪(大阪学院大#22)って190cmくらいあるやつだったんですよ。とりあえずコイツをなんとかしないと勝てないと思って、ディフェンスを頑張ろうと思ったんですけど、なかなか難しかったですね」
B:これまでの話を聞いていると、白濱選手はマッチアップする選手が様々ですね。ガードからセンターまで幅広くつくというか。
「そうですね。自分、中学校まではフォワードをやっていたんですけど、中学のバスケ部を引退してから急激に身長が伸びて、チームのセンター陣を抜いて自分が一番大きくなっちゃったので、高校では自分が5番をやっていたんですよ。だから小阪につきましたし、エースがフォワードの時はそっちにつくこともありましたね」
B:そうだったんですか。身長はどれくらい伸びたんですか?
「中学校の最後の大会のときは174cmくらいでした。でも卒業するときにはもう182cmくらいありましたね。半年で10cm近く伸びたかなと。それで高校でもちょっと伸びて、高3になる時は186cmくらい、今は190cmあるかないかくらいです」
B:それは急激に伸びましたね。話を戻しますが、高3のウインターカップは光泉高校と対戦しているんですね。
「あれは思い出したくないです。ボコボコにされました(苦笑)。1Qで20点くらい空いた(14−36)んじゃないですかね? あの時、同期はみんなウインターカップには残らずに引退しちゃっていたので、3年生は自分ひとりだったんですよ。だからまわりはみんな下級生で、たぶん後輩も自分がいてやりにくかったと思うんですよね。藤森(天理大#11)とか上手いやつらも全然いつもの力を発揮できなくて、出だしからボコボコにされました。光泉は北川 弘(日本体育大13年度卒・現広島ドラゴンフライズ)とか清水(明治大13年度卒)とかがいて強かったですね」

「はい。しかも自分、ウインターの直前に右肩を亜脱臼しちゃったんです。だからテーピングぐるぐる巻きで試合に出ましたね。練習中、人にバーンとぶつかって痛いなーと思っていたんですけど、シュートを打とうとしたらピキっとなってもう腕が上がらないんですよ。しかも一回病院に行ったらそこがヤブ医者だったみたいで、『大丈夫、大丈夫。時間が経てば治るよ』と言われたんですけど、一週間経っても痛いままだったので違う病院に行ったら『脱臼してるじゃん!』となって(笑)。それであまり自分のプレーは出せませんでしたね」
B:高校3年間で、一番学んだことはなんですか?
「やっぱり、今考えれば全国のいろんな選手と戦えたことが一番の収穫でしたね。高2から全国大会にも結構出させてもらっていたし、福岡第一とか強いチームともよく練習試合していたので。そういう経験があったから、強い人たちを相手にしても少しは落ち着いてやれるようになったかなと思います」
B:バスケットのスタイル的には、どんなことを学びましたか?
「佐賀北は、新チームになったら最初にどういうチームにしたいかという目標を決めて、監督がそれに合わせて練習を組むんですよ。それで確か先輩たちは『考えるバスケット』みたいな目標にしていたので、結構システマチックなバスケットを重視していました。でも自分たちは先輩たちに比べたら能力もないので、『それじゃ勝てなくないか?』となり。やっぱり自分たちは走らなきゃ勝てないだろうってことで、『走るバスケット』をテーマにしたんです。そうしたら、その分練習でも結構走るメニューが組まれましたね。だから自分たちの代は結構トランジションゲームも多かったと思います。走れば勝てるというか、やっぱりブレイクが出ると勢いに乗れて自分たちもリードを広げられる。そういうアーリーオフェンスの大事さは学びましたね」
最初はスタメンが「嫌だった」

「白鴎って、毎年福岡に遠征に来るんですよ。そのときたまたま高3の国体前の時期で、佐賀の国体チームでその遠征に参加させてもらったんです。齋藤さんはもともとインターハイでも自分を見てくれていたみたいなんですけど、その遠征のときに初めて話しました。白鴎はこういうチームだよ、こういう練習だよ、というのを聞いたり、Tシャツをもらったりしました」
B:やはり関東の大学には行きたかったんですか?
「関東の大学は強い、というイメージはありましたね。でも自分、実は大学でバスケする気なかったんですよ。自分、理学療法士になろうと思って、ギリギリまで地元の大学に行こうとしていたんです。実際一度、白鴎からの誘いを断っていて。でも高校の監督からも『お前にはバスケットを続けてほしい』と言われて、自分でも迷ったあげく、もう一回白鴎にお願いしますと言って入ることになりました」
B:それは大きな転機でしたね。大学バスケは実際入ってみていかがでしたか。
「入学する前の春休みから練習に参加したんですけど、最初の3日間くらいでめっちゃキツくて。体幹とかトレーニングとかで本当に体がバキバキで、寝返りも打てないくらい全身筋肉痛なんです。『これが大学か…!』と思いましたね。それ以降、徐々に慣れていきましたけど」
B:白鴎大は栃木県の小山にある大学ですが、栃木にはリンク栃木というチームがあって、そういう盛り上がりは感じるものですか?
「感じますね。自分の中でバスケってマイナーというかあまり広まっていない印象だったんですけど、こっちだと栃木テレビとかで試合も放送するじゃないですか。日本一にもなりましたし、お客さんも入っていて盛り上がりもすごくて、栃木のバスケって人気があるんだなと思いました」
B:白鴎大で、留学生の選手と一緒にプレーするというのはどんな経験になりましたか?
「まず高校の時は自分がインサイドだったじゃないですか。だから自分がシールする側だったんですけど、大学に入ったらアビブ(13年度卒)がいてチームの柱で、正直存在は大きかったですね。アビブがめっちゃシールしてくれて自分たちがドライブに行く道をあけてくれていたし、連携も取りやすくて、すごく良かったです」

「一応中学まではフォワードだったので、大丈夫かなと思っていたんですよ。でもピックの使い方とか緻密なところは全然ダメで。それに正直センターをやっていた時はスピードで結構相手を抜けたんですけど、フォワードだとドリブルワークとかももっと必要で、それは大変でした」
B:でも入学して1年生からスタメンで試合に出ていましたよね。
「そうなんですよ! 最初、練習でやる5対5とかから、いきなりスタメン組に入れられて。本当に自分でいいのかなって思いましたね。正直、めちゃくちゃ嫌でした(苦笑)。同期にもすごい人たちがいっぱいいるのに、なんで自分なんだろうって。毎回、練習の時にマネージャーからスタメンや控えを分けるナンバリングの色の発表があるんですけど、そこで自分がスタメンに入るのが、ほんっとに嫌でしたね」
B:そこまで嫌だったんですか。
「いざ試合をしたら、自分、ネット上でめっちゃ叩かれたんですよ!(笑)『なんであいつがスタメンなんだよ』みたいな。それを見つけて結構うわーって落ち込みました。でもその時に優二(田中)とか柳川から『こいつら見返してやれよ』って言われて、確かにと思ったんですよね。何も知らない人たちにそうやって叩かれるのは腹立つなと。それで若干、逆ギレみたいな感じで試合に臨んだら、意外と上手くいきました(笑)」
B:確かに白濱選手は最初少し消極的だった印象ですが、段々とプレーも吹っ切れたような様子でしたね。2年の新人戦も良かったですし。
「そうですね。あれは、すごく楽しかったです。決勝まで行けましたし、自信にもなりましたね。準々決勝の国士戦で優二(#10田中)が足を思いきり捻って次の試合から出られないとなって、あいつの分までがんばろうって感じで日体戦に臨んだら、結構快勝できました」
写真上:1年生の春。まだ体は細かった。
メンタルの部分から変わっていった白鴎大

「それは本当に大きかったですね。齋藤さんは、忙しくてそこまで練習にも毎回来られるというわけではなかったので。2年の途中から廣瀬さんが来て、そこから本気で1部とか上を目指そうとなって、そこから練習とかも本当に変わったんです。練習前もみんな早く来てドリブルとかシュートのワークアウトを自分でやって、それから練習に入る、みたいな感じで。だんだんそういう風に変わってきたんです」
B:気持ちから変わってきたのでしょうか。
「そうです。それは廣瀬さんの影響が大きいですね。細かいところまで言ってくれる人だし、ものすごく熱い人なので、あの人に引っ張られる感じで変わっていきましたね」
B:バスケットも、4年間でかなりシステマチックになった印象です。
「昔はとにかく1対1って感じだったんですけど、今はちゃんと作って攻められるようになったというか。でも、フォーメーションは自分が下級生の時から何十個もあったんですよ。覚えるのが大変なくらい。ただ、正直試合で使っているのはその中のほんの一部しかなかったんです。でも3、4年になるにつれて、試合で普通に使えるフォーメーションが増えました。実用性があるシンプルなやつをコーチが考えてくれて、だいぶやりやすくなりましたね」
B:あと白鴎大と言えば、3年生の時のゾーンディフェンスは強力でした。
「そうですね。ゾーンの中でもいっぱい種類がありましたし。その時はゾーンの練習ばかりしていましたね。たぶん、マンツーじゃ守れないからじゃないですか?(笑)結構武器になりましたよね」
B:特に、あの年では強力なライバルだった中央大に対するゾーンがかなり効いていた印象があります。
「そうですね。中央対策なところもありましたし、みんな本気でやっていましたね」
B:やはり2部の上位対決ということで、中央大のことは意識していたんですか?
「正直あの年は中央と勝負だろうなと思っていました。1個上にカルテット(佐藤・小野・入戸野・渡邉)がいて、結構警戒していましたね」
B:昨シーズンに比べれば、今年はあまりゾーンはやらなかったですね。
「そうですね。一応練習はしていたし、武器としては持っていたんですけど。でもなぜか今年はゾーンをしたときの方がやられていたかもしれないです。それで、マンツーの方がいいんじゃないかと。まぁ、マンツーのディフェンスも正直かなりしましたから。練習の最初がいきなりアップ無しでディフェンス練習なんですよ。それがアップだろ、みたいな感じで。ハーキーしながら後ろに下がるやつとか、毎回練習の最初にやっていました。ディフェンス練習は結構やった自信がありますね」
B:廣瀬コーチが青学に移って今年はまた新たなコーチも加わりましたが、どうでしたか?
「佐藤コーチに加えて新しく落合嘉郎コーチが来たので、そのふたりが熱心に『練習はこうした方がいいんじゃないですか』とかいろいろ意見を出してくれました。だからそんなに変わりはなかったです」
1部リーグで発揮したエースとしての実力

「違いましたね。要所、要所が違うなって。シュート力とか、狙いどころとか。2部だったらここで追いつけるのに、というところで1部のチームはしっかり1本決めてきて、そういう細かい部分がすごいなと感じました」
B:白濱選手自身、今年はかなり好調でしたよね。
「そうなんですよね、不思議と。たぶん自分がやらなきゃ、みたいな気持ちが一番大きかったと思います。柳川が夏合宿の時にめっちゃハマっちゃって調子が上がらなくて、福岡遠征の時もほとんどあいつは試合に出てないんですよ。それもあって、自分がやらなきゃって気持ちは大きかったです」
B:白鴎大の選手たちは、みんな強い相手に立ち向かっていく時の方が生き生きとして楽しそうでした。
「楽しいですね、その方が。2部だとどうしてもやれちゃう部分があったので。いや、天狗になっていたわけじゃないですよ?(笑) でも1部だと通用しない部分がたくさんあって、それが通用するようになったときがやっぱり嬉しかったですね」
B:力をつけて2部というステージを通過して、さらに上に挑戦する楽しさがあったんですね。1部に通用する部分もたくさん見えましたね。
「そうですね。まずリーグの開幕戦で明治と延長戦になったことが大きかったと思います。負けはしたんですけど、やれるんじゃないかという手応えはあったので」
B:リーグ戦の最後の2戦はなかなか調子が上がりませんでしたね。最終日の専修大戦は、試合後に号泣するほど悔しがっていましたが。
「そうですね。その前の日に大東に負けて、結構自分が調子悪くて。その2試合は消化試合じゃないですけど自分たちは順位が懸かっていない試合で、それに対して大東も専修も入れ替え戦が懸かっていて必死で向かって来るじゃないですか。それでたぶん受け身になってしまったのか、そういう感じがプレーに出てしまったんだと思います。それで監督から、大東戦が終わって『お前、このまま終わったらやっぱりそういう選手だったんだと思われるぞ』と怒られて、次の専修戦は絶対頑張って勝とうという気持ちで臨んだんです。それでもやっぱりいまいち活躍できないまま負けてしまって…。あれは悔しくて涙が出ましたね」
B:その悔しさがインカレにつながったんですね。チーム初のベスト8入りを果たしましたが。
「それは嬉しかったですね。オールジャパンにも出られましたし」
B:インカレの最後は、順位決定戦で専修大に敗れてかなり悔しそうでしたね。
「そうですね。今年、全部最後の試合が専修なんですよね。トーナメントも、リーグも、インカレも。トーナメントは結構劇的な逆転勝ちでしたけど、そのあとは勝てなくて。たぶんインカレの最終戦が一番悔し泣きしたんじゃないですか。あれ?逆に泣かなかったんでしたっけ?」

「あ、そうでしたか(苦笑)。必死でやっていて、もうあまり覚えてないです」
B:インカレが終わってからオールジャパンまで、練習はどんな感じだったんですか?
「別にインカレが終わったから気を抜くとかはなく、練習は普通にしていましたね。逆にかなり勝つつもりで。兵庫に勝って、アイシンAWにも勝って、トヨタと戦おうという目標だったんですよね。だからオールジャパンは本当に悔しかったです」
B:NBLの兵庫ストークスに2点差の惜敗でしたね。
「はい。しかも最後、自分と柳川がふたりともシュートをポロリとこぼしたじゃないですか。あれが決まっていれば…。最後、自分でも『うわ!俺めっちゃ良いリバウンド取った!』って思ったんですよ。それがポロッとこぼれて。そのすぐあとに柳川もポロリしたじゃないですか。めっちゃ悔しかったですね。勝てた試合だったからこそ」
B:惜しかったですね。でも、お正月にバスケするというのは新鮮だったのでは?
「はい。それは楽しかったです。バスケ部のみんなで一緒に年越ししたんですよ。1年生に料理をひとり1品持ってきてもらって、コーラとサイダー飲みながらワイワイはっちゃけて。それはめっちゃ楽しかったです」
B:仲が良いんですね。
「仲良いですね。面白いやつらも多いし。年代関係なく仲が良いです」
B:白鴎大は女子部も強いですが、女子部とも交流はあるんですか?
「普通に仲良いですよ。会ったら話しますし。ただ、自分たちが頑張ってインカレでベスト8に入ったりオールジャパンに出たりしても、女バスはリーグ戦全勝優勝して国体でも優勝して、目指せ3冠みたいな感じだったじゃないですか。だから全部話題を持っていかれて、ちょっと恨みがあります(笑)。前に、栃木テレビか何かが白鴎に撮影に来てバスケ部が紹介されたんですけど、10分か15分くらいの枠の中で男バスは2分くらいで、あとは全部女バスだったんです。あ、こんなものかと思いましたね(苦笑)」
B:男バスは、ここからですね。
「はい。ここから後輩たちが逆転してくれることを願っています」
ある日をきっかけに1日で数種類のダンクを会得

「正式にちゃんとできたのは、高2です。ずっとできなかったんですけど、先輩にやってみろよって言われて何回もやっていたら、できちゃったんです。1回できたらそこで自分の中でコツを掴めたみたいで、その日のうちにいろんな種類のダンクができるようになったんですよね。一番最初にできたのは普通に片手でやるダンクだったんですけど、ボースハンドできて、バックダンクできて、一回転もできるようになりました」
B:その日のうちに、というのはすごいですね。
「なんか、調子に乗って『なんでもできるんじゃね?』って気持ちになって(笑)。気持ちの問題だと思います」
B:ジャンプ力はもともとあったんですか?
「いや、全然なかったですよ。中学生の時とか、卒業する時に182cmくらいあったんですけど、リング触るのがやっとって感じでした」
B:どうしてそんなに跳べるようになったんでしょう。
「なんなんですかね…?でも気付いたらジャンプキャラになってますよね」
B:普通のレイアップもかなり跳んでいますよね。トレーニングの成果でしょうか。
「そうですね。確かに、年々跳べるようになった感じはあります。ウエイトで、バネを使って全身の筋肉を鍛える器械が新しく導入されたんですけど。パワークリーンですかね?それをやり始めて、もっと跳べるようになったと思います。柳川とかもエグいダンクできるようになりましたし」
B:チーム全体として、体つきは4年間でだいぶ変わりましたよね。
「自分、1年生の時とか超細かったですからね。入学して初めて上を脱いだ時に、マネージャーから『棒!? 』って言われました(笑)。ガリッガリで、腕まわりとかも30cmくらいしかなかったですね。そこから35、6cmにはなって、だいぶ太くなりましたが」
B:2年生の時か3年生のはじめ頃に、体が変わったなと感じました。
「最初はウエイト嫌いだったんですよ。でも2年生あたりから練習も変わって、ウエイトも好きになったんです。自分でも結構追い込むようになって」
B:ウエイトで効果や結果が出るとますます好きになるんでしょうね。
「そうですね。最初は2、3日で少しは結果でるだろうとか思っていたんですけど、出ないじゃないですか。だから意味ないじゃん、みたいに思っていて。でも我慢してずっと継続してやっていたらだんだん形にも表れてきたので、好きになりました」

「練習はしていないです。でも練習のあととか、遊びでやっていましたね。マンタスとかと。あいつ、そういうの大好きで、結構派手なダンクとかをやり出すんですよ。それで『白濱もやれ』みたいな(笑)」
B:森山選手(13年度明治大卒)や坂田選手(13年度日本大卒)と、遊びでダンクコンテストをやったとか。森山選手は白濱選手を絶賛していましたよ。
「あ、やりましたね。央と翔太と、柳川もいて。みんなダンクできるからやろうぜーってなったんです。みんなでわいわい『次こんなダンクできるかな?』みたいな感じで遊びでやっているうちに、いろいろできました」
B:白濱選手のダンクは、特に躍動感がありますよね。
「たぶん、他の人は簡単に難なくやっちゃうんじゃないですかね。自分はそういうところでしか目立てないので、頑張るからだと思います(笑)」
B:では、自分はどんな性格だと思いますか?
「よく変わり者って言われますね。マイペースなんですよ。血液型もAB型だし。人が話しているときに、いきなりパッと意味分からないことが言い出したりするとか言われます」
B:他の大学で仲の良い人は誰ですか?
「中央の山田とか日大の央とか、青学のバシオ(小林)とかですかね。あと明治は基本全員仲が良いです」
B:1部の選手たちとは1部に上がってから仲が良くなったんですか?
「そうですそうです。翔太(森山)とかと仲良くなったのも、リーグ戦の中断期間なんですよ。その時に明治も珍しくオフがあって、あいつらが栃木に遊びに来てくれて、そこからですね。翔太は親友です。相棒。…って言っとかないと(笑)。さっき『俺の名前いっぱい出せよ』って言われたので(笑)」
B:卒業後は、どんな目標を持っていますか?
「アイシンで、まずは足を引っ張らないように。しかも自分、チームに同い年が自分ひとりなので、例えたら自分の中では青学にひとりで行くようなものなんですよ。だからもう、雑用でもなんでもやります(笑)。それで徐々に、密かにスタメンを狙いたいなと。密かにいつか『アイシンのウイングといえば白濱やな』って言われるようになりたいです」
B:白濱選手のように大学で開花して注目を集めた選手がトップリーグで活躍すれば、中学や高校でプレーするより多くの選手たちの希望になりますよね。
「そうですね。こんな佐賀のド田舎の田舎っぺ大将が、大学でちょいちょい活躍して、アイシンに呼んでもらえるってことは、ちょっとは夢を与えられたかなと思います。頑張れば道は開けるって感じですね」

「うーん、どうしようかな。自分、年下とそんなに仲良くないんですよね(笑)。でも新シーズン1発目だし、やっぱり有名どころがいいですよね?じゃあ、ガッキー(拓殖大#14大垣)とか面白そうじゃないですか?」
B:そうですね。大垣選手と交友はあるんですか?
「そうですね。いつも『小山に遊びに来いよ』って言っているんですけど、全然来てくれないです。あいつTwitterとかで『俺も小山行きたいっすわ!』とか絡んでくるくせに、来てくれない。なんで来てくれなかったのか聞きたいです(笑)」
B:(笑)。それでは次回は拓殖大学・大垣選手にその理由を聞いてみようと思います(笑)。白濱選手、ありがとうございました。
写真上:1部リーグでも1試合に数本のダンクを決めることは珍しくなかった。
写真中:1月のさよなら試合で。仲のいい選手たちと笑顔でのプレーだった。
写真下:Tシャツに書いた言葉は「謙虚」。「謙虚に頑張ります!」とコメント。
◆#15白濱僚祐(しらはま りょうすけ)
有明中→佐賀北高→白鴎大
4年・F
189cm/85kg
・2006 ジュニアオールスター佐賀県代表
・2009 インターハイ出場(高3)
・2009 ウインターカップ出場(高3)
(2014.2.16インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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