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2014.03.12 (Wed)
【SPECIAL】BOJラインvol.22〜山田典政選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.22~中央大学・山田典政選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第21回の日本大・坂田 央選手からバトンを渡されたのは、中央大・山田典政選手です。
センターポジションとしては187cmと小柄ながら、アシストや体を上手く使った器用なプレーで中央大のインサイドを支えてきた縁の下の力持ち。ひとつ上の代には佐藤将斗(第10回BOJライン)ら「カルテット」と呼ばれた4人の主力選手がいましたが、下級生の頃から彼らとの連係プレーにも磨きをかけ、中央大のラストピースとして3年時には1部昇格に貢献しました。ラストイヤーとなったリーグ戦では怪我に泣いて悔しい結果となったものの、後輩の育成など数字に現れない部分で残したものは決して小さくなかったでしょう。
そのほか、はちゃめちゃなチームだったという中学時代や、ライバルたちと切磋琢磨した高校時代のエピソードも詳しく伺いました。そこから見えてくるのは、自分よりも大きい選手を相手に立ち向かっていったその裏に、数々の工夫や自身の意識の変化があったということ。第22回BOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第22回は中央大・山田選手です。よろしくお願いします。坂田央選手からの紹介ですが、ふたりは昔から知り合いだそうですね。
「そうですね。中学生の時から都大会とかで戦っていました。央は中学の選抜は選ばれていなかったんですけど、選抜で仲良かったやつが央と仲良くて、それで話すようになりました」
B:坂田選手は山田選手のことを、話しやすくてお父さんみたいだと言っていましたが。
「そんなキャラですか(笑)。でも確かに、央といてもあまりふざけないですね。わりと真面目に語り合います。会ったら絶対長く話しますね。試合後とかに、一緒にご飯を食べに行ったりして」
B:バスケットの話をするんですか?
「バスケットもですけど、春はガッツリ就活の相談でした(笑)。ラーメンを食べながら『面接って難しいわ』とか話していました」
B:坂田選手は山田選手から見てどんなキャラクターですか?
「央は、ちょっとフワフワしている感じですね。なんか見ていて心配です(苦笑)。しっかりしているように見えて、結構抜けているというか…。のびのびしていて、とにかく自由なんですよね。遊ぶ時とかも集合時間が曖昧で、『だいたい何時ごろ来て』みたいなゆるいやつなんです」
B:だいたい(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校5年生です。自分、当時めちゃくちゃ太っていて、持久走でもビリになるくらい運動が大嫌いだったんです。運動より家にいる方が好きでした。でも当時から身長が大きかったこともあって、母親の友だちからミニバスに誘われて1回見に行くことになったんです。そうしたら、みんなめっちゃ走ったり跳んだりしてて。自分としては『うわー無理だ』と思ったんですけど、母から『ダイエットがてら始めてみなさい』と言われて、チームに仲が良い友だちも多かったし、とりあえず始めてみることにしました」
B:ダイエットがきっかけだったんですね。ミニバスはどんなチームだったんですか?
「自分の4個上がすごく強い代で、その時にいた星さんって人のお父さんが監督だったんですね。それで自分が入った時にその代はもう卒業していたんですけど、ちょうど自分たちの代も20人くらいいて人が集まっていたので、それじゃあまた力を入れて頑張ろうか、という時だったんです。結果それが実になったのが6年生の時でしたね。東京都で2位になって、関東大会にも出ることができました」
B:それでは練習もかなりハードだったんですか?
「そうですね。というか、その当時は分からなかったんですけど、今大学のやつらにミニバスの話を聞くと自分は結構練習していたんだなと思います。週6で練習していたので。学校が終わったら家に帰ってすぐ自転車で体育館に戻る、という生活が普通でした。チームメイトもみんな仲良くて、学校の昼休みとか朝早くとかもみんなで集まってわいわいバスケしていたんですよ。それくらい毎日バスケ漬けでしたね」
B:運動嫌いだったのに、気付けばバスケット漬けの毎日だったと。
「はい。すごく楽しかったです。バスケ始める前は嫌だなと思っていたんですけど、ちょっとできるようになったらどんどん楽しくなってきましたね」
コーチがいなくなった中での練習だった中学チーム
B:そこから、中学校は恩方中に進んだんですよね。
「はい。八王子のめっちゃ田舎の学校なんですよ。校庭で猿がブランコに乗っていたり、イノシシが出たから集団下校になったりするくらい(笑)」
B:それはすごいですね。どんなチームだったんですか?
「ミニバスのみんなで、そのまま恩方中に入学したんです。だからメンツも変わらないまま違和感なくやれましたね。中学も楽しかったです。ただ、コーチが中2の時に病気になってしまって、それから練習をちゃんと見てくれる指導者がいなかったんです。だからずっと自分たちで練習メニューを考えながらやっていました。でもどうしてもみんなまだ中学生だし、楽しいことがしたいじゃないですか(苦笑)。だから1対1の練習とかゲームとか、好きな練習ばかりやっていましたね。ランメニューもほとんどしなかったので、全然体力がなくて。八王子では1位になれても都大会では全く勝てなかったです」
B:中学生の年齢で、自分たちだけで厳しくやるのは難しいですよね。
「そうなんですよね。試合の時もアップは鬼ごっことかで、1Q2Qで体を動かして、後半から追い上げて逆転するみたいな(笑)。とにかくめちゃくちゃでした。八王子でもまわりから『あのチームはめちゃくちゃだ』とか言われていたくらいで。それで、3年生になってやっと新しいコーチが来てくれたんです。その新しいコーチは車椅子バスケの審判をしているちょっと有名な方で、その人がチームを立て直そうといろいろ教えてくれました。でも1年じゃちょっとそれは難しくて、結局都大会で央のいる梅丘中に負けました」
B:梅丘中は強かったですか。
「はい。あの時の梅丘中、強いしデカかったんですよ。央と晃大(早稲田大#15木村)がいて。本当にボッコボコにやられましたね(苦笑)」
B:苦い思い出なんですね。でも恩方中は面白いチームだったみたいですね。
「そうですね。でも今、恩方中の男バス、なくなっちゃったみたいなんですよ。たまたま最近バスケ部じゃない友達が恩方中に教育実習に行っていて、『バスケ部の写真飾ってあったよ』みたいなこと言われたので『まじか。バスケ部どうだった?』って聞いたら、『今、女バスだけで男バスはないらしい』って。えー!? ってなりましたね(笑)」
自分の武器を学んだ選抜での経験
B:中学生のときは、ジュニアオールスターに選ばれていますが。
「ジュニアオールスターは、自分の中でターニングポイントでしたね。それまでは、中学もコーチがいなかったし本当にただ楽しくやっていたんですよ。実際八王子のレベルしか知らないし。でもジュニアオールスターに選ばれて、東京Aでチームを作って(※東京都は東京A・東京Bで2チーム出場)、まずそこで東京都のレベルを知ったんですよね。190cm近くあって走れるやつとか、めちゃくちゃ速いガードとかがいて、『すげー!』と思いました」
B:東京Aは当時中学1年生の安藤誓哉選手(明治大#16)も選ばれていたんですよね。
「そうなんです。安藤誓哉もやばかったし、全国の前にまず都のレベルってすごいと思ったんですよ。それで大会前に1カ月くらい練習したんですけど、そこで高瀬先生という今実践学園高校にいる先生に出会って、いろいろ戦術を教えてもらったんです。あとそこで、古武術を使ったセンタープレイとかも知りました」
B:古武術と言えば、桐朋高校などが取り入れて話題になりましたよね。
「そうです、そうです。その桐朋高校の先生が教えてくれたセンタープレイを練習して。それがまた面白かったんですよね。あ、こういうバスケットもあるんだと」
B:ナンバ走りなどもやっていたんですか?
「あ、ナンバ走りの走り方も教わったんですよ! でもそれは先生方には申し訳ないですけど正直やっていてもよく分からなくて(笑)。でも、センターの守り方とかはすごく勉強になりましたね。自分は小さかったので、こういう風につけば大きい選手が嫌がるから、というのをすごく熱心に教えてもらって。しかも実際うまく抑えられたんですよね。その時に、小さくても大きい選手と戦えるんだって思いました。自分は最初、練習試合とかでも全然出させてもらえなかったんですよ。でもそれが悔しくて見返してやろうと思って、その大会前の練習でめっちゃ頑張って、ジュニアオールスター当日は一応スタメンで出させてもらえるようになりました。それはちょっと自信にもなりましたね」
B:大会当日は、どうでしたか?
「予選リーグで北海道と沖縄の2チームと試合したんですけど、そこで初めて全国を知ったんですよね。あんな大きい体育館で試合するのも初めてで、もうそれだけで圧倒されちゃって。それで、確か沖縄に1点差(48-49)で、北海道には2点差(56-58)で負けたんです。しかも沖縄との試合は、自分が最後にフリースローを打って外して負けたんですよ。それがもう、悔しいのとみんなに申し訳ないのとで…。大会があっという間に終わってしまって、まだ試合したいのにってすごく思いました。その時に、これからもバスケット続けようと思いましたね。ジュニアオールスターで、バスケの楽しさとか深さとか、自分はまだ全然知らないんだと気付かされました」
B:そこからどうして東海大菅生高校に進んだんですか?
「選抜に選ばれると、とりあえず都内の色んな高校から声がかかるんですよ。名前だけとかでも。でもその時に一番熱心に誘ってくれたのが、菅生の近藤先生だったんです。しかもさっき話したミニバスの監督の息子の星さんが菅生高校だったので、そのつながりもあって決めました。あと、ラッカー・ジャンってやつと、大野竜一(中央大#21)が菅生に行くと。あいつらのことは知っていたので、面白そうだなと思ったんです」
B:大野選手のことは昔から知っていたんですね。
「はい。ミニバスの頃から知っています。自分がミニバスで東京都2位だった時に、1位のチームが大野のいるところだったんですよ。3点差くらいで負けて、自分たちは2位で。ミニバスの頃、大野は見た目がめっちゃガラ悪かったですね(笑)。スキンヘッドで眉毛も薄くて、正直かなり怖かったです。でもバスケは上手かったし、あいつと同じチームでやってみたいと思ったことも菅生に決めた理由のひとつですね」
B:入学した頃は、菅生高校は全国大会に出たことのないわりと新興チームですよね。
「はい。小山正男先生という有名な先生が中学から上がってきて、自分が1年の年がその3年目だったんですよ。ちょうどその頃に強化しはじめた感じでしたね。運が良かったと思います。入って最初の年に、インターハイとウインターカップに初出場でしたし」
写真下:1年の京王電鉄杯でダンクコンテストに出場した大野。抜群の跳躍力と絵になるフォームで観客からも大きな歓声が上がった。
緊張しきりだった冬の大舞台
B:入部して最初はどうでした?
「入ってまず自分、敬語が全く使えなかったんですよ! 恩方中は上下関係もなかったので。そこにまず苦戦しましたね。あと、菅生って1年生は『名T』というTシャツを着るんです。名前Tシャツ。みんな真っ白いTシャツの裏表に、『1年○組山田典政』みたいに大きく自分の名前を書くんですね。それで先生や上級生が1年生の名前を覚えるまで、入部して半年くらいはずっとそのTシャツを着なきゃいけない。それはかなり恥ずかしかったです。体育館内の練習ならまだ良いんですけど、それ着て外を走らなきゃいけない時はだいぶ恥ずかしかったです。名前を全面に出して走っているから、知らないサッカー部の先輩とかからふざけて名前を呼ばれるんですよ(笑)。バスケ部の名物みたいな感じで、他の部活の人からもよくいじられましたね」
B:変わった決まりですね(笑)。それで1年生のときは、インターハイもウインターカップも創部初出場でしたが。
「はい。高校でもまた、自分のバスケットの枠が広がりましたね。自分は全然試合は出てないですけど、入戸野さん(中央大12年度卒・現アースフレンズ東京)とか佐々木隼さん(東海大11年度卒・現葵企業)とかすごい先輩たちに出会って。先輩たちは正直怖かったですけど(笑)、こういう先輩たちを目指そうと思ってまた新しい目標ができました」
B:試合に出られるようになったのは2年生からですか?
「そうですね。2年生の時に、やっと入戸野さんのプレースタイルにタイミングを合わせられるようになってきました。最初はすごく大変で苦労したんですけど、今思うと、結果的には入戸野さんが自分のバスケット人生の中で一番合わせやすいガードだったかなと。どこにパスが来るかとかどう動くかとかが一番分かるのが入戸野さんでしたし、来てほしいと思うところにドンピシャでパスが来るんですよね。試合に出させてもらったのはそのあたりからです」
B:2年生の時は、インターハイは出られず、ウインターカップは出場したんですよね。
「はい。インターハイは世田谷学園に負けて行けなくて…。あの頃いつも世田谷学園と争っていたんです。厄介なことに、決勝リーグとかで八王子が世田谷学園にポロッと負けるんですよ! それで面倒くさいことになる(笑)。しかも世田谷学園には1点差か2点差で負けたんです。それは悔しかったですね。確かあの時、あと1分で1点差くらいだったんですけど、入戸野さんが試合中に吐いてたんですよ。それを見て『え、入戸野さん吐くまで頑張ってるんだ』って衝撃で。結果負けてしまったんですけど、自分の中ではそういう入戸野さんの姿を見てもっと頑張らなきゃという思いがあって、それで冬に臨んだんですよね。で、確かウインターカップは世田谷学園に2点差で勝って出場できたんです」
B:夏のリベンジを果たしたんですね。高2のウインターカップは、いかがでしたか?
「自分、インターハイ予選の時はスタメンではなかったんですけど、ウインターはスタメンになれたんです。全国大会初めてのスタメンで、めちゃくちゃ緊張したのは覚えていますね。しかも東京体育館だし自分たち東京のチームだし、応援がすごいじゃないですか。どうしようどうしようって緊張しすぎて、正直あまり覚えてないなと。とにかく頭の中は、『ミスって入戸野さんに怒られないようにしよう』ってことでいっぱいでした(笑)」
B:必死でやっていたんですね。
「やっていましたね。先輩たちに迷惑はかけられないと思って。自分が何も活躍しなくていいからとにかくミスらず、チームが勝てればいいと思ってやっていました」
B:対戦した新潟商業や東海大三、延岡学園のことは覚えていますか?
「覚えています、覚えています。ザック(東海大#10)とも戦っているんですよね。マッチアップはしなかったんですけど。あの時はうちのチーム結構サイズがあって、入戸野さん以外の4人はみんな185cmから190cmくらいあったから、自分が3番ポジションだったんですよ。それで東海大三と戦ったときは、みんなでザックを抑えようみたいな作戦で、それが上手くはまりました。ザックはあの時1年生で、今思うと可愛かったですね(笑)。まだ不器用で、1年生って感じだったので」
B:そうだったんですか。メインコートでやった延岡学園との試合はいかがでしたか?
「延岡は、普通に力の差を感じましたね。自分は川元とマッチアップして、とにかく3Pを打たれないようにってことは分かっているんですけど、やられるんですよ。それに交代でセンターにもついたんですけど、延岡はジャーラ(浜松大・現イカイ)がいたんです。あいつ210cmくらいあるし横幅もすごいじゃないですか。その時はさすがに、『古武術、意味ねぇ!』と思いました(笑)。あそこまでデカいと全然通用しない。しかも自分、高校生の時はかなり細かったので、ボックスアウトも片手で押さえられたり吹っ飛ばされたりして…。あれは力の差を思い知らされましたね。ただあの時、入戸野さんと和田力也さん(浜松大・現イカイ)のマッチアップがすごく白熱したんですよ。スピードの和田力也と、パワーの入戸野みたいな。しかもふたりとも負けず嫌いな感じだからお互いやりあっていて、試合中だったんですけど普通にずっと見ていました。面白かったですね」
写真中:コートを縦横無尽に駆けまわる入戸野と山田の合わせのプレーは、大学でも見どころ十分だった。
チームが崩れたことで「チームワークの大切さを知った」
B:それは熱いマッチアップですね。小学生の頃からセンターをやっていて、3番ポジションを務めるのは難しくなかったですか?ディフェンスもシューターについていくのは大変かと思いますが。
「難しかったですね。でも自分、高校生の時は細かったので結構走れたんですよ。京北と試合した時も、目(明治大#2)とマッチアップでしたね。逆に細すぎて、大きいセンターにつく方が守れないというか。しかも菅生ってめっちゃ走るチームで、とにかく大野と俺がサイドを走れという指示でした。あの時はかなり走るスタイルでしたね。入戸野さんもいたし」
B:それでは練習でもかなり走っていたんですか?
「いや、うちって走り込みみたいなランメニューはなかったんですよ。夏も冬も。でもそのかわり、とにかくゲーム形式の練習が多いんです。足がつるくらい、5対5とか対人系をガンガンやっていましたね」
B:そこで走力を鍛えたんですね。話を戻しますが、ウインターカップが終わって、自分たちの代になってからはいかがでしたか?
「入戸野さんが卒業して、ガードがいなくなったことは大きかったです。自分と大野は試合に出ていたので今まで通り走るんですけど、そこにパスをとばしてくれる人がいない。そこで一度チームが崩れましたね。自分と大野もどうすれば良いか分からなくて、ガードも経験ない下級生がやっていたので、どうしようどうしようって。自分も自ら攻めるというより合わせるタイプのプレイヤーだったので、とにかく点が取れなかったんです。僕たち入学してから都ではベスト4が当たり前だったんですけど、1月の新人戦でベスト8まで落ちちゃって。そこでまた、チームワークの大切さを知りました。一人ひとりが力を持っていても、つながらなきゃ意味がないんだと気付いて。そこから、自分も誰かを生かせるようにパスを狙うようにしたんです」
B:連係プレーで、得点力不足を補っていこうと?
「そうです。セットプレーとかも練習して、自分もパスを積極的に狙うようにしました。今までは入戸野さんがガツンと攻めて、そこにまわりが合わせるのがパターンだったんですけど、高3になってからはとりあえず自分がボールをもらって、そこで攻められなくてもいいからパスを回して起点になろうと思いました。スタイルが少し変わりましたね」
B:それは誰かに教えられたというよりは、自分で考えたんですか?
「そうですね。意識が少しずつ変わっていったというか、それまでは点数を取った方が楽しいと思っていたんですよ。中学生の時は、ガンガン勝手に攻めて『今日は○点だ』とか気にしていたんです。それが高校で入戸野さんに出会ったことで合わせで点を取る楽しさを知って。それで3年生になって入戸野さんがいなくなって、最初は中学生の頃の自分にちょっと戻りかけたんですけど、それでは全然勝てなくて、そこで初めて変わりましたね。アシストが好きになりました」
B:そういう変化がインターハイ予選につながったんでしょうか。
「そうですね。そこからチームも大きく変わって、新人戦の悔しさを晴らすことができました。インターハイ予選の世田谷学園の試合は、高校の試合の中で一番覚えている試合ですね」
鮮明に覚えている好ゲームの数々
B:世田谷学園との対戦はどんな試合だったんですか?
「めっちゃドタバタした試合でしたね(笑)。途中までかなり点差を離してリードしていて、正直みんな結構油断していたんです。そしたら4Qで追い上げられて、最後残り30秒くらいで2点差まで追いつかれたんですね。それでタイムアウトがあって監督からいろいろ指示があったんですけど、その時にうちのラッカー・ジャンってやつが話終わってないのフラ〜っと先にコートに出てっちゃったんですよ! 『やばい、あいつ絶対話聞いてない!』って思ったんですけど、案の定、よく分からないところでなぜかダブルチームを仕掛けに行って、相手がノーマークになってシュートを決められたんです。でも、それがたまたま、ギリギリで24秒オーバータイムになってノーカウントだったんですね」
B:危なかったですね(笑)。
「はい。しかもそれで終わりじゃなくて、残り3秒くらいあってマイボールになったんです。それでまたタイムアウトになって監督から、とにかくスローインをちゃんと出してファウルゲームされないように逃げようという指示があったんですけど、監督がその話をしているときに、またラッカー・ジャンがフラ〜っとにコートに出てっちゃったんですよ(笑)。『やばい、あいつまた聞いてない!』って思ったんですけど、まぁあいつはボール出ししないから大丈夫かと。でもぱっとコートを見たら、ラッカーが勝手に審判からボールもらってボール出しをしようとしているんです。チーム全員『えー!』ってなりましたね(笑)。それで、やる予定だったスローインのフォーメーションもできなくて、『やばい!5秒になる!』って時に、たまたま世田谷学園がめっちゃディナイをしていて自分の裏が空いたんです。それで逆サイドに走って、ラッカーもそれに気付いて大きくパスを出して。でもまたそのパスが、めちゃくちゃ下手だったんですよ!大きく投げすぎて、エンドラインのギリギリ取れるか取れないかくらいのところで、自分が片足で立ってなんとかボールを取りました。そうしたら、世田谷学園の吉川治瑛(慶應義塾大#13)が必死に押してくるんです(笑)。それに片足で耐えながら、試合終了のブザーが鳴ったのを覚えてますね。超マヌケな格好でインターハイ出場を決めました(笑)」
B:壮絶な試合だったんですね(笑)。
「はい。その時はラッカー・ジャンにふざけんなと思いましたね。勝ったからいいものの。めちゃくちゃだったからよく覚えている試合です」
B:インターハイは振り返っていかがでした?
「インターハイは、いきなり初戦の松江東との試合がダブルオーバータイムでした。相手チームがディフェンスすごくて、かなり攻めあぐねて。しかも4Qも延長も、いつも勝てそうなところでギリギリブザービーターみたいな形で相手にシュートを決められて追いつかれるんですよ。『うわ、スゲー粘り強い!』って思って(苦笑)。本当に、試合がすごく長かったのを覚えています。確かぼくらその日の最終試合で、隣のコートとかどんどん試合が終わっていくんですよ。正直、もういいよと思いましたね。お客さんもパラパラ帰り始めて」
B:初戦から長い戦いだったんですね。それが2回戦に響いたのでしょうか。
「響きましたね。正直キツかったです。2回戦は宇都宮工業との試合で、当時高1の橋本晃佑(東海大#21)がいたんですけど、あいつすげーでかいじゃないですか。手を伸ばすともうリングなんですよね。高3の時は大きい先輩たちが抜けて自分がセンターをやっていたので、ブロックとかされまくって、あれは普通に負けました。完全に無力でしたね(苦笑)」
B:そうだったんですか。そのあと、冬のウインターカップは出場ならずだったんですね。
「はい。出られなかったです。決勝リーグの八王子との試合も、確か2点差くらいのめっちゃ接戦だったんですけど、最後に自分が留学生を気にしてレイアップを外して負けたんですよ。それはよく覚えていますね。京北との試合も、接戦だったんですけど、目に42点くらい取られてしまって…」
B:それはすごい点数ですね。
「あの時は自分も調子が良くて38点くらい取って、マッチアップは違ったんですけどお互いやり合う感じでしたね。試合のあと京北の田渡監督に『お前、すごかったよ』みたいに声をかけられたんですよ。その時は自分も嬉しくて調子乗ったんですけど、でも田渡監督から去り際に『でもうちの目は42点取ったけどな』って言われて、それは『くっそー!』と思いました(笑)」
B:八王子や京北とも力の差はなかったんですね。
「接戦にはなりましたね。3年のあの頃は本当に楽しかったです。チームメイトもみんな頑張っていたし。京北戦は、ガードの下舘(国士館大)って僕とタメのやつがめちゃくちゃディフェンスを頑張ってくれて、田渡(田渡凌・現Ohlone College)を前半で3ファウルとかに追い込んだんですよ。そいつ、大野と小学校・中学校・高校が一緒で、とにかくディフェンスが上手くて。そんな感じでチーム全員で頑張っていたし、ウインターカップは行けなかったんですけどすごく楽しかったですね」
B:そういえば坂田選手が、山田選手に引退させられたと言っていました。日大豊山高校のこともこの時に破っているんですよね。
「あ、そうだそうだ!ベスト8決めくらいかな。あの時もすごく楽しかったですね。菅生と豊山って仲良くて坂田とも友達だったので。試合前にあいつが『今日、お前ら引退させるわ。お前らとやれて良かった』とか言うので、いやいや絶対負けないからとか言い合ってました(笑)。豊山高校はチームの支柱が3人いたんですけど、たまたま僕らも大野、自分、ジャンって3人が主力で、しかも3人がお互いマッチアップだったんです。それは白熱しましたね。それに個人的にも僕、国体に選ばれてないんですけど、監督から大会前に『まわりから山田は国体選ばれなかったけど良い選手だなと言われるくらい見返してやれ』と言われて。その言葉があったから、自分の中で坂田を若干ライバル視していたんです。あいつ、ミニ国体でもめっちゃ活躍していましたし。それで試合も、坂田が決めれば自分が決め返すみたいな感じで、その攻防がすごく楽しかったですね。豊山高校の山本も腰を痛めていて大会が怪我明けみたいな感じだったんですけど、自分たちとの試合にコンディションを合わせてきて、ハーフから3P投げて同点にするとかヤバいくらい好調でした。すごく盛り上がって、わりと接戦(92−86)だったんですけど勝てて嬉しかったですね」
B:他の高校の選手たちとも仲が良かったんですか?
「そうですね。わりと自分、誰とでもしゃべれるというか、試合後とかもよく話しかけていたので。それに高3でみんな引退してから、東京の選手たちで10人くらい集まってみんなでバスケしたんですよ。池田(筑波大#35)とか目とか央とかと。それも楽しかったし、それくらいみんな仲が良かったですね。面白いやつが多かったし。目とか自分は結構いじられていました(笑)」
試合に出るために試みた肉体改造
B:ではここから大学の話に移りますが、中央大に入って最初はいかがでしたか?
「実はまさか中央大に行くことになるとは思ってなくて、決まったときもまわりから『試合はたぶん出られないから、卒業することだけ考えろ』と言われていたんですよ(笑)。入学したときは自分、75〜6キロしかなくて超細くて、サイズもないし国体にも選ばれてないし、本当に無名のやつでした。同期と比べても、大野は1年の最初にダンクコンテストに出て一躍注目されたし、耀佑(中央大#91宮澤)は高3のウインターカップで優勝しているし、塩谷(中央大#24)は名門・洛南高校出身だし、堀江(中央大#37)は名門・大濠高校出身だし。自分ひとりだけ『誰?』という感じの選手で、OBとの懇親会みたいなやつでも4人は色んなOBから話しかけられているのに、自分は誰からも話しかけられなくてずっと黙々とご飯を食べていました(笑)。それで1年生のときは試合の時も、ビデオとかチーム券販売の担当だったんですよ。みんなが試合をやっている中でチーム券を売ってて、ほとんどスタッフみたいな感じでしたね」
B:1年生の時は日の目を見ることはなかったんですね。
「はい。でも最初は『卒業できればいいや』と自分に言い聞かせていたんですけど、やっぱり途中でなんか悔しくなってきて。高校の時は結構試合で活躍していたのに、今何もできてないじゃんと思ったんです。でも大学って体の当たりも強くて、しかも自分、センターしかできないじゃないですか。フォワードになれるかといえば、同じフォワードには大貴さん(小野大貴・12年度卒・現横河電機)とかりょーけんさん(渡邉良健・12年度卒・現大塚商会)がガンガン活躍していたので、これは無理だと。でもかといって1部のセンターとなると、基本190cm以上あるのが普通だったり、ちょっと小さくてもガタイが大きかったりする。だからとにかくまずは肉体改造をしようと思って、1年生の終わりのオフで20キロ太ったんです。そうしたら2年生から少しずつ試合に出られるようになりましたね」
B:入学した頃から変わったなとは思いましたが、1年の終わりに一気に体が大きくなったんですね。
「はい。12月から1月の間でめっちゃ太りましたね。まぁ、もともと単純に太りやすい体でもあるので、そんな苦労なく普通に生活してたら太れたんですけど(笑)。でもそうしたら急に体が重くなりすぎて走れなくなっちゃったんですよ。その時は、将斗さんとかからもめっちゃ怒られましたね。初めて大学の試合でスタメンで出られたんですけど、走れないし、自分以外の4人は『カルテット』って呼ばれていて阿吽の呼吸だし、完全に自分だけ場違いで足を引っ張っていたんです。大学での試合経験も少なくてよく分からないし、テンポも合わせられないし、その時は逆に少し試合に出るのが嫌でしたね。怖くなったというか」
B:そうだったんですか。そこからどう立ち直っていったんですか?
「一緒にやっていく中で入戸野さんや将斗さんから色々『こういう時はこう動くんだ』とか教えてもらって、段々体の使い方も覚えていって。その時に自分で学んだのは、もう点数は取らなくて良いやと。怒られないように、ディフェンスとアシストだけ頑張ろうと思ったんです。そうしたらそれがあの4人と上手くはまって。点数はあの4人が取ってくれるじゃないですか。それからですね、少しずつ手応えを掴んだのは。それに、大貴さんがめっちゃ可愛がってくれて、ご飯に行ったり遊びに行ったりいろいろ連れて行ってくれたんですよ。そうしたら大貴さんとも自然とタイミングとかプレーも合うようになりました。その頃にはバスケットが楽しくなってきて、中央に入って良かったなと思いましたね」
B:2年生の時が大きな転機だったんですね。
「はい。2年生の時が一番辛かったし、成長もできた年だったと思います」
B:あのシーズンは2部でしたが、2部には留学生のセンターもいますよね。それはいかがでした?
「でもあの時は自分の体格も大きくなって、古武術も結構通用したので、アビブ(白鴎大12年度卒・現レノヴァ鹿児島)とかもすごく大きかったですけどそんなに怖いイメージはなくて。意外と戦えるなというのはありましたね」
写真下:カルテットのひとり、小野大貴と両手を掲げて喜ぶ山田。小野はチームのムードメーカーでもあった。
初めて嬉し泣きした入れ替え戦
B:厳しいリーグ戦を2位で終え、2011年の入れ替え戦では明治と対戦しましたが敗れてしまいましたね。第3戦はわずか2点差で、壮絶な試合でした。
「そうですね。あの時は、何が起きたのか、なんで負けたのかよく分からなかったです。チームも手を抜いていたわけじゃなくて、本当に全力で戦っていたし。でもあとから思えば、ただ単にそういうのを明治の4年生の力が上回っていたのかなと。もう一殻、破らなきゃいけないのかなと思いました。たった2点差でも、大貴さんも言っていたんですが『負けるべくして負けた』と思います。どこかしらで足りないものがあって、自分たちでも気付かない甘えがあったから負けたんだと。自分たちは頑張っているつもりだったんですけど、どこかしらで明治より努力が足りなかったのかなと思いました。勝負ってそういうものかなって」
B:そうだったんですか。ただ佐藤選手や小野選手も、自主練する後輩たちが増えて刺激になっていると以前に話していました。
「そうなんですか。でもやっぱり、カルテットの存在が大きかったですね。先輩たちの足は引っ張れないと思って自分たちも練習していました。大貴さんたちもめっちゃ筋トレとかしていましたし、しかも、1個上はすごくリーダーシップのある代だったんですよ。試合に出ている4人はもちろんチームを引っ張ってくれるし、あまり表に出てないかもしれないですけど、一般生に森渕さん(12年度卒)と古河さん(12年度卒)がいて、そのふたりが練習中に声を出してみんなを鼓舞してくれるんです。僕がさぼりがちだった時も、『筋トレやろうや』みたいに誘ってくれたり。あの人たちのおかげで自分もすごく成長できましたね。本当にあの6人のことは尊敬していて、ああなりたいと思っていました」
B:偉大な先輩たちだったんですね。話を戻しますが、入れ替え戦で惜しくも敗れた翌年、3年生の時はいかがでしたか?
「3年のときは、無我夢中でした。本当に今年1部に上がるしかないと。入れ替え戦で負けてからもう1回心を入れ直して頑張ろう、という感じでしたね。途中で入戸野さんが辞めそうになったりいろいろあったんですけど、結果的にあのメンバーで入れ替え戦に臨めたのは嬉しかったです。ただ、リーグ戦で白鴎に勝てなかったのが心残りですね。インカレに行けなかったので。でも入れ替え戦で、昇格して先輩たちを引退させられたのは本当に嬉しかったです」
B:その、2年連続入替え戦に進んで昇格となった3年生のときの日体大との入れ替え戦は、チームの集大成が出た試合でしたね。
「そうですね。あの試合は、バスケットをやってきた中で一番、他と比じゃないくらい嬉しかったです。初めてあんなに嬉し泣きしました。1戦目は、勝ってもその前の年のことが思い出されてまだ喜べなくて、でも2戦目の3Qで、将斗さんと入戸野さんがフィーバーして結構点差を離したんですよね。あの時に『あ、これが4年の力だ』というのをすごく感じて。将斗さんとか怪我していたのにすごいシュート決めていたし、大貴さんとかりょーけんさんも活躍したじゃないですか。でもまだ最後の瞬間まで油断できないと思って、すごく緊張していたんですね。ただ最後の方でリードを広げたときに、気は抜いてないんですけど、今までのいろんなことがうわーってカムバックしてきて…。あの感覚は言葉にできないですね」
B:終盤は試合中でも、何人かの選手が涙していましたよね。
「はい。残り時間ちょっとになって、ぱっとベンチの方を見たら古河さんと森渕さんが交代の席にいたんですよ。それを見た瞬間、試合中で本当はダメなんですけど涙が出てきて。やっぱり4年生には最後に出てほしかったんです。応援席からも『まだ終わってねーぞ!泣くな!』って声が聞こえるんですけど、もう涙が止まらなくてユニフォームでずっと拭ってました。それで交代のブザーが鳴った時に、交代のイスのところで2人の4年生が手を広げて待っててくれて、試合中なんですけど、ガッて抱きついてうわーって泣きましたね。それで交代したのが一番印象に残っています。最後、将斗さんもフリースロー打つときに泣いていたじゃないですか。あの時に、『あ、僕ら勝ったんだ』と実感がわきました」
後輩の成長を促したラストシーズン
B:忘れられない試合ですね。ひとつ上の代が引退して、今シーズンはいかがだったでしょうか。
「今シーズンは、去年の4年生の存在が大きすぎて、自分たちも空回りしてしまったというか…。みんなに申し訳なかったし、正直一番悔いの残る年でしたね」
B:怪我もありましたし。
「そうですね。リーグ戦の1週間前くらいに肩を脱臼して、もうリーグ戦は最後の4試合くらいしか出られないことになって。その時はすごく悔しかったんですけど、それならと思って切り替えて、チームのためにそこから後輩のセンターの育成をしていこうと思ったんです。それで宍倉(#27)とかをずっと怒り続けて、できる限りのことを伝えようと。自分でもできてないことまで『こうやれ』ってめっちゃ怒り続けましたね(笑)」
B:インサイドの後輩たちも、だいぶ成長したのではないですか?
「そうですね。入れ替え戦の2戦目で、負けちゃったんですけど宍倉が大活躍してくれて。自分は全然思うようなプレーができなくて4年生として申し訳なかったんですけど、宍倉があれだけやってくれたのはすごく嬉しかったです。2部に落ちたのは本当に残念で申し訳なかったんですけど、ただそれだけは唯一良かったなと思いました。宍倉もあとは森(#25)と上手く合わせができれば、安心できるなと思います」
B:後輩たちに頑張って欲しいですね。では少しバスケット以外の話を伺いますが、自分の性格は?
「プラス思考ですね。あまり落ち込まないです。わりと楽観的というか、悩むこともありますけど、寝たら次の日は立ち直っていると思います」
B:オフの日は何を?
「結構アクティブに行動しますね。いろんなところに遊びに行きます。ドライブで温泉に行ったり。一昨年も、リーグ戦で日体に勝ったあとに次の日オフだったんですけど、みんなで『富士山登りたいな』って話していて『日体にも勝ったし、行っちゃう?』って感じで、ちょっと寝て夜中の2時から車を出して富士山に行ったんですよ(笑)。将斗さん、流田、自分、ぶちさん、竜一の5人で。でも5合目まで車で行ったら霧がすごくて1メートル先も見えない感じで、『あ、これは無理だ』ってなりました(笑)。だから近くの箱根に行って、ずーっと温泉に入っていましたね」
B:(笑)。それでは、次にインタビューを回す選手を指名してもらえますか?
「それ、いろいろ考えたんですけど……白鴎大の白濱(#15)でお願いしたいなと。大丈夫ですか?(笑)」
B:実は森山選手も、インタビューを回すのを坂田選手か白濱選手で迷っていたんですよね。
「あ、そうみたいですね。先週、森山とか白濱とかとごはん食べに行って森山が『坂田か白濱で迷ったんだよね〜』と言っていたので、じゃあ俺から白濱に回すわと。そうしたら白濱『まじで! めっちゃ嬉しい〜』って言ってました(笑)。たぶん、楽しみにしていると思います」
B:白濱選手とはいつから仲が良いんですか?
「2年のときにビッグマンキャンプがあって、同じ部屋だったんですよ。3人部屋で自分と谷口(中央大#5)と白濱が一緒で。そうしたら、国士舘の永野(#11)が、寂しいって言って部屋に来て、3人分しかベッドない部屋で4人で寝ました(笑)」
B:永野選手は寂しがりなんですね(笑)。
「そうですね、コワモテに見えて(笑)。あいつ後輩のことも、いじめるわりには『これ食べろよ』とか言ってめっちゃ優しいんですよ(笑)。そのビッグマンキャンプから、白濱も永野もたまたま2部で一緒だったし、よくしゃべるようになりました」
B:白濱選手には何の話を聞けば面白いですか?
「うーん…。まぁなんでもニコニコしゃべると思いますよ(笑)。あ、白濱はやっぱりジャンプ力とかダンクがすごいので、そういう話をすれば喜ぶと思います(笑)。ビッグマンキャンプでもシャンプ力を測定したんですけど、確か参加者の中でも一番くらいにすごかったですね。でもあいつ、2年の時とかは今ほど跳んでなかったですよね?途中からめっちゃ跳べるようになったかなって。そこらへんを聞いてほしいです」
B:それは気になりますね。では次回は白鴎大・白濱僚祐選手にお願いします。山田選手、ありがとうございました。
写真下:Tシャツのサインには「プラス思考」と書き添えた。
◆#22山田典政(やまだ のりまさ)
恩方中→東海大菅生高→中央大
4年・PF
187cm/96kg
・2006 ジュニアオールスター東京都代表
・2009 インターハイベスト32(高3)
(2013.11.22インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.22~中央大学・山田典政選手~

センターポジションとしては187cmと小柄ながら、アシストや体を上手く使った器用なプレーで中央大のインサイドを支えてきた縁の下の力持ち。ひとつ上の代には佐藤将斗(第10回BOJライン)ら「カルテット」と呼ばれた4人の主力選手がいましたが、下級生の頃から彼らとの連係プレーにも磨きをかけ、中央大のラストピースとして3年時には1部昇格に貢献しました。ラストイヤーとなったリーグ戦では怪我に泣いて悔しい結果となったものの、後輩の育成など数字に現れない部分で残したものは決して小さくなかったでしょう。
そのほか、はちゃめちゃなチームだったという中学時代や、ライバルたちと切磋琢磨した高校時代のエピソードも詳しく伺いました。そこから見えてくるのは、自分よりも大きい選手を相手に立ち向かっていったその裏に、数々の工夫や自身の意識の変化があったということ。第22回BOJライン、どうぞお楽しみください。
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「運動が大嫌いだった」少年時代
「そうですね。中学生の時から都大会とかで戦っていました。央は中学の選抜は選ばれていなかったんですけど、選抜で仲良かったやつが央と仲良くて、それで話すようになりました」
B:坂田選手は山田選手のことを、話しやすくてお父さんみたいだと言っていましたが。
「そんなキャラですか(笑)。でも確かに、央といてもあまりふざけないですね。わりと真面目に語り合います。会ったら絶対長く話しますね。試合後とかに、一緒にご飯を食べに行ったりして」
B:バスケットの話をするんですか?
「バスケットもですけど、春はガッツリ就活の相談でした(笑)。ラーメンを食べながら『面接って難しいわ』とか話していました」
B:坂田選手は山田選手から見てどんなキャラクターですか?
「央は、ちょっとフワフワしている感じですね。なんか見ていて心配です(苦笑)。しっかりしているように見えて、結構抜けているというか…。のびのびしていて、とにかく自由なんですよね。遊ぶ時とかも集合時間が曖昧で、『だいたい何時ごろ来て』みたいなゆるいやつなんです」
B:だいたい(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校5年生です。自分、当時めちゃくちゃ太っていて、持久走でもビリになるくらい運動が大嫌いだったんです。運動より家にいる方が好きでした。でも当時から身長が大きかったこともあって、母親の友だちからミニバスに誘われて1回見に行くことになったんです。そうしたら、みんなめっちゃ走ったり跳んだりしてて。自分としては『うわー無理だ』と思ったんですけど、母から『ダイエットがてら始めてみなさい』と言われて、チームに仲が良い友だちも多かったし、とりあえず始めてみることにしました」
B:ダイエットがきっかけだったんですね。ミニバスはどんなチームだったんですか?
「自分の4個上がすごく強い代で、その時にいた星さんって人のお父さんが監督だったんですね。それで自分が入った時にその代はもう卒業していたんですけど、ちょうど自分たちの代も20人くらいいて人が集まっていたので、それじゃあまた力を入れて頑張ろうか、という時だったんです。結果それが実になったのが6年生の時でしたね。東京都で2位になって、関東大会にも出ることができました」
B:それでは練習もかなりハードだったんですか?
「そうですね。というか、その当時は分からなかったんですけど、今大学のやつらにミニバスの話を聞くと自分は結構練習していたんだなと思います。週6で練習していたので。学校が終わったら家に帰ってすぐ自転車で体育館に戻る、という生活が普通でした。チームメイトもみんな仲良くて、学校の昼休みとか朝早くとかもみんなで集まってわいわいバスケしていたんですよ。それくらい毎日バスケ漬けでしたね」
B:運動嫌いだったのに、気付けばバスケット漬けの毎日だったと。
「はい。すごく楽しかったです。バスケ始める前は嫌だなと思っていたんですけど、ちょっとできるようになったらどんどん楽しくなってきましたね」
コーチがいなくなった中での練習だった中学チーム

「はい。八王子のめっちゃ田舎の学校なんですよ。校庭で猿がブランコに乗っていたり、イノシシが出たから集団下校になったりするくらい(笑)」
B:それはすごいですね。どんなチームだったんですか?
「ミニバスのみんなで、そのまま恩方中に入学したんです。だからメンツも変わらないまま違和感なくやれましたね。中学も楽しかったです。ただ、コーチが中2の時に病気になってしまって、それから練習をちゃんと見てくれる指導者がいなかったんです。だからずっと自分たちで練習メニューを考えながらやっていました。でもどうしてもみんなまだ中学生だし、楽しいことがしたいじゃないですか(苦笑)。だから1対1の練習とかゲームとか、好きな練習ばかりやっていましたね。ランメニューもほとんどしなかったので、全然体力がなくて。八王子では1位になれても都大会では全く勝てなかったです」
B:中学生の年齢で、自分たちだけで厳しくやるのは難しいですよね。
「そうなんですよね。試合の時もアップは鬼ごっことかで、1Q2Qで体を動かして、後半から追い上げて逆転するみたいな(笑)。とにかくめちゃくちゃでした。八王子でもまわりから『あのチームはめちゃくちゃだ』とか言われていたくらいで。それで、3年生になってやっと新しいコーチが来てくれたんです。その新しいコーチは車椅子バスケの審判をしているちょっと有名な方で、その人がチームを立て直そうといろいろ教えてくれました。でも1年じゃちょっとそれは難しくて、結局都大会で央のいる梅丘中に負けました」
B:梅丘中は強かったですか。
「はい。あの時の梅丘中、強いしデカかったんですよ。央と晃大(早稲田大#15木村)がいて。本当にボッコボコにやられましたね(苦笑)」
B:苦い思い出なんですね。でも恩方中は面白いチームだったみたいですね。
「そうですね。でも今、恩方中の男バス、なくなっちゃったみたいなんですよ。たまたま最近バスケ部じゃない友達が恩方中に教育実習に行っていて、『バスケ部の写真飾ってあったよ』みたいなこと言われたので『まじか。バスケ部どうだった?』って聞いたら、『今、女バスだけで男バスはないらしい』って。えー!? ってなりましたね(笑)」
自分の武器を学んだ選抜での経験

「ジュニアオールスターは、自分の中でターニングポイントでしたね。それまでは、中学もコーチがいなかったし本当にただ楽しくやっていたんですよ。実際八王子のレベルしか知らないし。でもジュニアオールスターに選ばれて、東京Aでチームを作って(※東京都は東京A・東京Bで2チーム出場)、まずそこで東京都のレベルを知ったんですよね。190cm近くあって走れるやつとか、めちゃくちゃ速いガードとかがいて、『すげー!』と思いました」
B:東京Aは当時中学1年生の安藤誓哉選手(明治大#16)も選ばれていたんですよね。
「そうなんです。安藤誓哉もやばかったし、全国の前にまず都のレベルってすごいと思ったんですよ。それで大会前に1カ月くらい練習したんですけど、そこで高瀬先生という今実践学園高校にいる先生に出会って、いろいろ戦術を教えてもらったんです。あとそこで、古武術を使ったセンタープレイとかも知りました」
B:古武術と言えば、桐朋高校などが取り入れて話題になりましたよね。
「そうです、そうです。その桐朋高校の先生が教えてくれたセンタープレイを練習して。それがまた面白かったんですよね。あ、こういうバスケットもあるんだと」
B:ナンバ走りなどもやっていたんですか?
「あ、ナンバ走りの走り方も教わったんですよ! でもそれは先生方には申し訳ないですけど正直やっていてもよく分からなくて(笑)。でも、センターの守り方とかはすごく勉強になりましたね。自分は小さかったので、こういう風につけば大きい選手が嫌がるから、というのをすごく熱心に教えてもらって。しかも実際うまく抑えられたんですよね。その時に、小さくても大きい選手と戦えるんだって思いました。自分は最初、練習試合とかでも全然出させてもらえなかったんですよ。でもそれが悔しくて見返してやろうと思って、その大会前の練習でめっちゃ頑張って、ジュニアオールスター当日は一応スタメンで出させてもらえるようになりました。それはちょっと自信にもなりましたね」
B:大会当日は、どうでしたか?
「予選リーグで北海道と沖縄の2チームと試合したんですけど、そこで初めて全国を知ったんですよね。あんな大きい体育館で試合するのも初めてで、もうそれだけで圧倒されちゃって。それで、確か沖縄に1点差(48-49)で、北海道には2点差(56-58)で負けたんです。しかも沖縄との試合は、自分が最後にフリースローを打って外して負けたんですよ。それがもう、悔しいのとみんなに申し訳ないのとで…。大会があっという間に終わってしまって、まだ試合したいのにってすごく思いました。その時に、これからもバスケット続けようと思いましたね。ジュニアオールスターで、バスケの楽しさとか深さとか、自分はまだ全然知らないんだと気付かされました」

「選抜に選ばれると、とりあえず都内の色んな高校から声がかかるんですよ。名前だけとかでも。でもその時に一番熱心に誘ってくれたのが、菅生の近藤先生だったんです。しかもさっき話したミニバスの監督の息子の星さんが菅生高校だったので、そのつながりもあって決めました。あと、ラッカー・ジャンってやつと、大野竜一(中央大#21)が菅生に行くと。あいつらのことは知っていたので、面白そうだなと思ったんです」
B:大野選手のことは昔から知っていたんですね。
「はい。ミニバスの頃から知っています。自分がミニバスで東京都2位だった時に、1位のチームが大野のいるところだったんですよ。3点差くらいで負けて、自分たちは2位で。ミニバスの頃、大野は見た目がめっちゃガラ悪かったですね(笑)。スキンヘッドで眉毛も薄くて、正直かなり怖かったです。でもバスケは上手かったし、あいつと同じチームでやってみたいと思ったことも菅生に決めた理由のひとつですね」
B:入学した頃は、菅生高校は全国大会に出たことのないわりと新興チームですよね。
「はい。小山正男先生という有名な先生が中学から上がってきて、自分が1年の年がその3年目だったんですよ。ちょうどその頃に強化しはじめた感じでしたね。運が良かったと思います。入って最初の年に、インターハイとウインターカップに初出場でしたし」
写真下:1年の京王電鉄杯でダンクコンテストに出場した大野。抜群の跳躍力と絵になるフォームで観客からも大きな歓声が上がった。
緊張しきりだった冬の大舞台

「入ってまず自分、敬語が全く使えなかったんですよ! 恩方中は上下関係もなかったので。そこにまず苦戦しましたね。あと、菅生って1年生は『名T』というTシャツを着るんです。名前Tシャツ。みんな真っ白いTシャツの裏表に、『1年○組山田典政』みたいに大きく自分の名前を書くんですね。それで先生や上級生が1年生の名前を覚えるまで、入部して半年くらいはずっとそのTシャツを着なきゃいけない。それはかなり恥ずかしかったです。体育館内の練習ならまだ良いんですけど、それ着て外を走らなきゃいけない時はだいぶ恥ずかしかったです。名前を全面に出して走っているから、知らないサッカー部の先輩とかからふざけて名前を呼ばれるんですよ(笑)。バスケ部の名物みたいな感じで、他の部活の人からもよくいじられましたね」
B:変わった決まりですね(笑)。それで1年生のときは、インターハイもウインターカップも創部初出場でしたが。
「はい。高校でもまた、自分のバスケットの枠が広がりましたね。自分は全然試合は出てないですけど、入戸野さん(中央大12年度卒・現アースフレンズ東京)とか佐々木隼さん(東海大11年度卒・現葵企業)とかすごい先輩たちに出会って。先輩たちは正直怖かったですけど(笑)、こういう先輩たちを目指そうと思ってまた新しい目標ができました」

「そうですね。2年生の時に、やっと入戸野さんのプレースタイルにタイミングを合わせられるようになってきました。最初はすごく大変で苦労したんですけど、今思うと、結果的には入戸野さんが自分のバスケット人生の中で一番合わせやすいガードだったかなと。どこにパスが来るかとかどう動くかとかが一番分かるのが入戸野さんでしたし、来てほしいと思うところにドンピシャでパスが来るんですよね。試合に出させてもらったのはそのあたりからです」
B:2年生の時は、インターハイは出られず、ウインターカップは出場したんですよね。
「はい。インターハイは世田谷学園に負けて行けなくて…。あの頃いつも世田谷学園と争っていたんです。厄介なことに、決勝リーグとかで八王子が世田谷学園にポロッと負けるんですよ! それで面倒くさいことになる(笑)。しかも世田谷学園には1点差か2点差で負けたんです。それは悔しかったですね。確かあの時、あと1分で1点差くらいだったんですけど、入戸野さんが試合中に吐いてたんですよ。それを見て『え、入戸野さん吐くまで頑張ってるんだ』って衝撃で。結果負けてしまったんですけど、自分の中ではそういう入戸野さんの姿を見てもっと頑張らなきゃという思いがあって、それで冬に臨んだんですよね。で、確かウインターカップは世田谷学園に2点差で勝って出場できたんです」
B:夏のリベンジを果たしたんですね。高2のウインターカップは、いかがでしたか?
「自分、インターハイ予選の時はスタメンではなかったんですけど、ウインターはスタメンになれたんです。全国大会初めてのスタメンで、めちゃくちゃ緊張したのは覚えていますね。しかも東京体育館だし自分たち東京のチームだし、応援がすごいじゃないですか。どうしようどうしようって緊張しすぎて、正直あまり覚えてないなと。とにかく頭の中は、『ミスって入戸野さんに怒られないようにしよう』ってことでいっぱいでした(笑)」
B:必死でやっていたんですね。
「やっていましたね。先輩たちに迷惑はかけられないと思って。自分が何も活躍しなくていいからとにかくミスらず、チームが勝てればいいと思ってやっていました」

「覚えています、覚えています。ザック(東海大#10)とも戦っているんですよね。マッチアップはしなかったんですけど。あの時はうちのチーム結構サイズがあって、入戸野さん以外の4人はみんな185cmから190cmくらいあったから、自分が3番ポジションだったんですよ。それで東海大三と戦ったときは、みんなでザックを抑えようみたいな作戦で、それが上手くはまりました。ザックはあの時1年生で、今思うと可愛かったですね(笑)。まだ不器用で、1年生って感じだったので」
B:そうだったんですか。メインコートでやった延岡学園との試合はいかがでしたか?
「延岡は、普通に力の差を感じましたね。自分は川元とマッチアップして、とにかく3Pを打たれないようにってことは分かっているんですけど、やられるんですよ。それに交代でセンターにもついたんですけど、延岡はジャーラ(浜松大・現イカイ)がいたんです。あいつ210cmくらいあるし横幅もすごいじゃないですか。その時はさすがに、『古武術、意味ねぇ!』と思いました(笑)。あそこまでデカいと全然通用しない。しかも自分、高校生の時はかなり細かったので、ボックスアウトも片手で押さえられたり吹っ飛ばされたりして…。あれは力の差を思い知らされましたね。ただあの時、入戸野さんと和田力也さん(浜松大・現イカイ)のマッチアップがすごく白熱したんですよ。スピードの和田力也と、パワーの入戸野みたいな。しかもふたりとも負けず嫌いな感じだからお互いやりあっていて、試合中だったんですけど普通にずっと見ていました。面白かったですね」
写真中:コートを縦横無尽に駆けまわる入戸野と山田の合わせのプレーは、大学でも見どころ十分だった。
チームが崩れたことで「チームワークの大切さを知った」

「難しかったですね。でも自分、高校生の時は細かったので結構走れたんですよ。京北と試合した時も、目(明治大#2)とマッチアップでしたね。逆に細すぎて、大きいセンターにつく方が守れないというか。しかも菅生ってめっちゃ走るチームで、とにかく大野と俺がサイドを走れという指示でした。あの時はかなり走るスタイルでしたね。入戸野さんもいたし」
B:それでは練習でもかなり走っていたんですか?
「いや、うちって走り込みみたいなランメニューはなかったんですよ。夏も冬も。でもそのかわり、とにかくゲーム形式の練習が多いんです。足がつるくらい、5対5とか対人系をガンガンやっていましたね」
B:そこで走力を鍛えたんですね。話を戻しますが、ウインターカップが終わって、自分たちの代になってからはいかがでしたか?
「入戸野さんが卒業して、ガードがいなくなったことは大きかったです。自分と大野は試合に出ていたので今まで通り走るんですけど、そこにパスをとばしてくれる人がいない。そこで一度チームが崩れましたね。自分と大野もどうすれば良いか分からなくて、ガードも経験ない下級生がやっていたので、どうしようどうしようって。自分も自ら攻めるというより合わせるタイプのプレイヤーだったので、とにかく点が取れなかったんです。僕たち入学してから都ではベスト4が当たり前だったんですけど、1月の新人戦でベスト8まで落ちちゃって。そこでまた、チームワークの大切さを知りました。一人ひとりが力を持っていても、つながらなきゃ意味がないんだと気付いて。そこから、自分も誰かを生かせるようにパスを狙うようにしたんです」
B:連係プレーで、得点力不足を補っていこうと?
「そうです。セットプレーとかも練習して、自分もパスを積極的に狙うようにしました。今までは入戸野さんがガツンと攻めて、そこにまわりが合わせるのがパターンだったんですけど、高3になってからはとりあえず自分がボールをもらって、そこで攻められなくてもいいからパスを回して起点になろうと思いました。スタイルが少し変わりましたね」
B:それは誰かに教えられたというよりは、自分で考えたんですか?
「そうですね。意識が少しずつ変わっていったというか、それまでは点数を取った方が楽しいと思っていたんですよ。中学生の時は、ガンガン勝手に攻めて『今日は○点だ』とか気にしていたんです。それが高校で入戸野さんに出会ったことで合わせで点を取る楽しさを知って。それで3年生になって入戸野さんがいなくなって、最初は中学生の頃の自分にちょっと戻りかけたんですけど、それでは全然勝てなくて、そこで初めて変わりましたね。アシストが好きになりました」
B:そういう変化がインターハイ予選につながったんでしょうか。
「そうですね。そこからチームも大きく変わって、新人戦の悔しさを晴らすことができました。インターハイ予選の世田谷学園の試合は、高校の試合の中で一番覚えている試合ですね」
鮮明に覚えている好ゲームの数々

「めっちゃドタバタした試合でしたね(笑)。途中までかなり点差を離してリードしていて、正直みんな結構油断していたんです。そしたら4Qで追い上げられて、最後残り30秒くらいで2点差まで追いつかれたんですね。それでタイムアウトがあって監督からいろいろ指示があったんですけど、その時にうちのラッカー・ジャンってやつが話終わってないのフラ〜っと先にコートに出てっちゃったんですよ! 『やばい、あいつ絶対話聞いてない!』って思ったんですけど、案の定、よく分からないところでなぜかダブルチームを仕掛けに行って、相手がノーマークになってシュートを決められたんです。でも、それがたまたま、ギリギリで24秒オーバータイムになってノーカウントだったんですね」
B:危なかったですね(笑)。
「はい。しかもそれで終わりじゃなくて、残り3秒くらいあってマイボールになったんです。それでまたタイムアウトになって監督から、とにかくスローインをちゃんと出してファウルゲームされないように逃げようという指示があったんですけど、監督がその話をしているときに、またラッカー・ジャンがフラ〜っとにコートに出てっちゃったんですよ(笑)。『やばい、あいつまた聞いてない!』って思ったんですけど、まぁあいつはボール出ししないから大丈夫かと。でもぱっとコートを見たら、ラッカーが勝手に審判からボールもらってボール出しをしようとしているんです。チーム全員『えー!』ってなりましたね(笑)。それで、やる予定だったスローインのフォーメーションもできなくて、『やばい!5秒になる!』って時に、たまたま世田谷学園がめっちゃディナイをしていて自分の裏が空いたんです。それで逆サイドに走って、ラッカーもそれに気付いて大きくパスを出して。でもまたそのパスが、めちゃくちゃ下手だったんですよ!大きく投げすぎて、エンドラインのギリギリ取れるか取れないかくらいのところで、自分が片足で立ってなんとかボールを取りました。そうしたら、世田谷学園の吉川治瑛(慶應義塾大#13)が必死に押してくるんです(笑)。それに片足で耐えながら、試合終了のブザーが鳴ったのを覚えてますね。超マヌケな格好でインターハイ出場を決めました(笑)」
B:壮絶な試合だったんですね(笑)。
「はい。その時はラッカー・ジャンにふざけんなと思いましたね。勝ったからいいものの。めちゃくちゃだったからよく覚えている試合です」
B:インターハイは振り返っていかがでした?
「インターハイは、いきなり初戦の松江東との試合がダブルオーバータイムでした。相手チームがディフェンスすごくて、かなり攻めあぐねて。しかも4Qも延長も、いつも勝てそうなところでギリギリブザービーターみたいな形で相手にシュートを決められて追いつかれるんですよ。『うわ、スゲー粘り強い!』って思って(苦笑)。本当に、試合がすごく長かったのを覚えています。確かぼくらその日の最終試合で、隣のコートとかどんどん試合が終わっていくんですよ。正直、もういいよと思いましたね。お客さんもパラパラ帰り始めて」
B:初戦から長い戦いだったんですね。それが2回戦に響いたのでしょうか。
「響きましたね。正直キツかったです。2回戦は宇都宮工業との試合で、当時高1の橋本晃佑(東海大#21)がいたんですけど、あいつすげーでかいじゃないですか。手を伸ばすともうリングなんですよね。高3の時は大きい先輩たちが抜けて自分がセンターをやっていたので、ブロックとかされまくって、あれは普通に負けました。完全に無力でしたね(苦笑)」
B:そうだったんですか。そのあと、冬のウインターカップは出場ならずだったんですね。
「はい。出られなかったです。決勝リーグの八王子との試合も、確か2点差くらいのめっちゃ接戦だったんですけど、最後に自分が留学生を気にしてレイアップを外して負けたんですよ。それはよく覚えていますね。京北との試合も、接戦だったんですけど、目に42点くらい取られてしまって…」
B:それはすごい点数ですね。
「あの時は自分も調子が良くて38点くらい取って、マッチアップは違ったんですけどお互いやり合う感じでしたね。試合のあと京北の田渡監督に『お前、すごかったよ』みたいに声をかけられたんですよ。その時は自分も嬉しくて調子乗ったんですけど、でも田渡監督から去り際に『でもうちの目は42点取ったけどな』って言われて、それは『くっそー!』と思いました(笑)」
B:八王子や京北とも力の差はなかったんですね。
「接戦にはなりましたね。3年のあの頃は本当に楽しかったです。チームメイトもみんな頑張っていたし。京北戦は、ガードの下舘(国士館大)って僕とタメのやつがめちゃくちゃディフェンスを頑張ってくれて、田渡(田渡凌・現Ohlone College)を前半で3ファウルとかに追い込んだんですよ。そいつ、大野と小学校・中学校・高校が一緒で、とにかくディフェンスが上手くて。そんな感じでチーム全員で頑張っていたし、ウインターカップは行けなかったんですけどすごく楽しかったですね」

「あ、そうだそうだ!ベスト8決めくらいかな。あの時もすごく楽しかったですね。菅生と豊山って仲良くて坂田とも友達だったので。試合前にあいつが『今日、お前ら引退させるわ。お前らとやれて良かった』とか言うので、いやいや絶対負けないからとか言い合ってました(笑)。豊山高校はチームの支柱が3人いたんですけど、たまたま僕らも大野、自分、ジャンって3人が主力で、しかも3人がお互いマッチアップだったんです。それは白熱しましたね。それに個人的にも僕、国体に選ばれてないんですけど、監督から大会前に『まわりから山田は国体選ばれなかったけど良い選手だなと言われるくらい見返してやれ』と言われて。その言葉があったから、自分の中で坂田を若干ライバル視していたんです。あいつ、ミニ国体でもめっちゃ活躍していましたし。それで試合も、坂田が決めれば自分が決め返すみたいな感じで、その攻防がすごく楽しかったですね。豊山高校の山本も腰を痛めていて大会が怪我明けみたいな感じだったんですけど、自分たちとの試合にコンディションを合わせてきて、ハーフから3P投げて同点にするとかヤバいくらい好調でした。すごく盛り上がって、わりと接戦(92−86)だったんですけど勝てて嬉しかったですね」
B:他の高校の選手たちとも仲が良かったんですか?
「そうですね。わりと自分、誰とでもしゃべれるというか、試合後とかもよく話しかけていたので。それに高3でみんな引退してから、東京の選手たちで10人くらい集まってみんなでバスケしたんですよ。池田(筑波大#35)とか目とか央とかと。それも楽しかったし、それくらいみんな仲が良かったですね。面白いやつが多かったし。目とか自分は結構いじられていました(笑)」
試合に出るために試みた肉体改造

「実はまさか中央大に行くことになるとは思ってなくて、決まったときもまわりから『試合はたぶん出られないから、卒業することだけ考えろ』と言われていたんですよ(笑)。入学したときは自分、75〜6キロしかなくて超細くて、サイズもないし国体にも選ばれてないし、本当に無名のやつでした。同期と比べても、大野は1年の最初にダンクコンテストに出て一躍注目されたし、耀佑(中央大#91宮澤)は高3のウインターカップで優勝しているし、塩谷(中央大#24)は名門・洛南高校出身だし、堀江(中央大#37)は名門・大濠高校出身だし。自分ひとりだけ『誰?』という感じの選手で、OBとの懇親会みたいなやつでも4人は色んなOBから話しかけられているのに、自分は誰からも話しかけられなくてずっと黙々とご飯を食べていました(笑)。それで1年生のときは試合の時も、ビデオとかチーム券販売の担当だったんですよ。みんなが試合をやっている中でチーム券を売ってて、ほとんどスタッフみたいな感じでしたね」
B:1年生の時は日の目を見ることはなかったんですね。
「はい。でも最初は『卒業できればいいや』と自分に言い聞かせていたんですけど、やっぱり途中でなんか悔しくなってきて。高校の時は結構試合で活躍していたのに、今何もできてないじゃんと思ったんです。でも大学って体の当たりも強くて、しかも自分、センターしかできないじゃないですか。フォワードになれるかといえば、同じフォワードには大貴さん(小野大貴・12年度卒・現横河電機)とかりょーけんさん(渡邉良健・12年度卒・現大塚商会)がガンガン活躍していたので、これは無理だと。でもかといって1部のセンターとなると、基本190cm以上あるのが普通だったり、ちょっと小さくてもガタイが大きかったりする。だからとにかくまずは肉体改造をしようと思って、1年生の終わりのオフで20キロ太ったんです。そうしたら2年生から少しずつ試合に出られるようになりましたね」
B:入学した頃から変わったなとは思いましたが、1年の終わりに一気に体が大きくなったんですね。
「はい。12月から1月の間でめっちゃ太りましたね。まぁ、もともと単純に太りやすい体でもあるので、そんな苦労なく普通に生活してたら太れたんですけど(笑)。でもそうしたら急に体が重くなりすぎて走れなくなっちゃったんですよ。その時は、将斗さんとかからもめっちゃ怒られましたね。初めて大学の試合でスタメンで出られたんですけど、走れないし、自分以外の4人は『カルテット』って呼ばれていて阿吽の呼吸だし、完全に自分だけ場違いで足を引っ張っていたんです。大学での試合経験も少なくてよく分からないし、テンポも合わせられないし、その時は逆に少し試合に出るのが嫌でしたね。怖くなったというか」

「一緒にやっていく中で入戸野さんや将斗さんから色々『こういう時はこう動くんだ』とか教えてもらって、段々体の使い方も覚えていって。その時に自分で学んだのは、もう点数は取らなくて良いやと。怒られないように、ディフェンスとアシストだけ頑張ろうと思ったんです。そうしたらそれがあの4人と上手くはまって。点数はあの4人が取ってくれるじゃないですか。それからですね、少しずつ手応えを掴んだのは。それに、大貴さんがめっちゃ可愛がってくれて、ご飯に行ったり遊びに行ったりいろいろ連れて行ってくれたんですよ。そうしたら大貴さんとも自然とタイミングとかプレーも合うようになりました。その頃にはバスケットが楽しくなってきて、中央に入って良かったなと思いましたね」
B:2年生の時が大きな転機だったんですね。
「はい。2年生の時が一番辛かったし、成長もできた年だったと思います」
B:あのシーズンは2部でしたが、2部には留学生のセンターもいますよね。それはいかがでした?
「でもあの時は自分の体格も大きくなって、古武術も結構通用したので、アビブ(白鴎大12年度卒・現レノヴァ鹿児島)とかもすごく大きかったですけどそんなに怖いイメージはなくて。意外と戦えるなというのはありましたね」
写真下:カルテットのひとり、小野大貴と両手を掲げて喜ぶ山田。小野はチームのムードメーカーでもあった。
初めて嬉し泣きした入れ替え戦

「そうですね。あの時は、何が起きたのか、なんで負けたのかよく分からなかったです。チームも手を抜いていたわけじゃなくて、本当に全力で戦っていたし。でもあとから思えば、ただ単にそういうのを明治の4年生の力が上回っていたのかなと。もう一殻、破らなきゃいけないのかなと思いました。たった2点差でも、大貴さんも言っていたんですが『負けるべくして負けた』と思います。どこかしらで足りないものがあって、自分たちでも気付かない甘えがあったから負けたんだと。自分たちは頑張っているつもりだったんですけど、どこかしらで明治より努力が足りなかったのかなと思いました。勝負ってそういうものかなって」
B:そうだったんですか。ただ佐藤選手や小野選手も、自主練する後輩たちが増えて刺激になっていると以前に話していました。
「そうなんですか。でもやっぱり、カルテットの存在が大きかったですね。先輩たちの足は引っ張れないと思って自分たちも練習していました。大貴さんたちもめっちゃ筋トレとかしていましたし、しかも、1個上はすごくリーダーシップのある代だったんですよ。試合に出ている4人はもちろんチームを引っ張ってくれるし、あまり表に出てないかもしれないですけど、一般生に森渕さん(12年度卒)と古河さん(12年度卒)がいて、そのふたりが練習中に声を出してみんなを鼓舞してくれるんです。僕がさぼりがちだった時も、『筋トレやろうや』みたいに誘ってくれたり。あの人たちのおかげで自分もすごく成長できましたね。本当にあの6人のことは尊敬していて、ああなりたいと思っていました」
B:偉大な先輩たちだったんですね。話を戻しますが、入れ替え戦で惜しくも敗れた翌年、3年生の時はいかがでしたか?
「3年のときは、無我夢中でした。本当に今年1部に上がるしかないと。入れ替え戦で負けてからもう1回心を入れ直して頑張ろう、という感じでしたね。途中で入戸野さんが辞めそうになったりいろいろあったんですけど、結果的にあのメンバーで入れ替え戦に臨めたのは嬉しかったです。ただ、リーグ戦で白鴎に勝てなかったのが心残りですね。インカレに行けなかったので。でも入れ替え戦で、昇格して先輩たちを引退させられたのは本当に嬉しかったです」

「そうですね。あの試合は、バスケットをやってきた中で一番、他と比じゃないくらい嬉しかったです。初めてあんなに嬉し泣きしました。1戦目は、勝ってもその前の年のことが思い出されてまだ喜べなくて、でも2戦目の3Qで、将斗さんと入戸野さんがフィーバーして結構点差を離したんですよね。あの時に『あ、これが4年の力だ』というのをすごく感じて。将斗さんとか怪我していたのにすごいシュート決めていたし、大貴さんとかりょーけんさんも活躍したじゃないですか。でもまだ最後の瞬間まで油断できないと思って、すごく緊張していたんですね。ただ最後の方でリードを広げたときに、気は抜いてないんですけど、今までのいろんなことがうわーってカムバックしてきて…。あの感覚は言葉にできないですね」
B:終盤は試合中でも、何人かの選手が涙していましたよね。
「はい。残り時間ちょっとになって、ぱっとベンチの方を見たら古河さんと森渕さんが交代の席にいたんですよ。それを見た瞬間、試合中で本当はダメなんですけど涙が出てきて。やっぱり4年生には最後に出てほしかったんです。応援席からも『まだ終わってねーぞ!泣くな!』って声が聞こえるんですけど、もう涙が止まらなくてユニフォームでずっと拭ってました。それで交代のブザーが鳴った時に、交代のイスのところで2人の4年生が手を広げて待っててくれて、試合中なんですけど、ガッて抱きついてうわーって泣きましたね。それで交代したのが一番印象に残っています。最後、将斗さんもフリースロー打つときに泣いていたじゃないですか。あの時に、『あ、僕ら勝ったんだ』と実感がわきました」
後輩の成長を促したラストシーズン

「今シーズンは、去年の4年生の存在が大きすぎて、自分たちも空回りしてしまったというか…。みんなに申し訳なかったし、正直一番悔いの残る年でしたね」
B:怪我もありましたし。
「そうですね。リーグ戦の1週間前くらいに肩を脱臼して、もうリーグ戦は最後の4試合くらいしか出られないことになって。その時はすごく悔しかったんですけど、それならと思って切り替えて、チームのためにそこから後輩のセンターの育成をしていこうと思ったんです。それで宍倉(#27)とかをずっと怒り続けて、できる限りのことを伝えようと。自分でもできてないことまで『こうやれ』ってめっちゃ怒り続けましたね(笑)」
B:インサイドの後輩たちも、だいぶ成長したのではないですか?
「そうですね。入れ替え戦の2戦目で、負けちゃったんですけど宍倉が大活躍してくれて。自分は全然思うようなプレーができなくて4年生として申し訳なかったんですけど、宍倉があれだけやってくれたのはすごく嬉しかったです。2部に落ちたのは本当に残念で申し訳なかったんですけど、ただそれだけは唯一良かったなと思いました。宍倉もあとは森(#25)と上手く合わせができれば、安心できるなと思います」
B:後輩たちに頑張って欲しいですね。では少しバスケット以外の話を伺いますが、自分の性格は?
「プラス思考ですね。あまり落ち込まないです。わりと楽観的というか、悩むこともありますけど、寝たら次の日は立ち直っていると思います」
B:オフの日は何を?
「結構アクティブに行動しますね。いろんなところに遊びに行きます。ドライブで温泉に行ったり。一昨年も、リーグ戦で日体に勝ったあとに次の日オフだったんですけど、みんなで『富士山登りたいな』って話していて『日体にも勝ったし、行っちゃう?』って感じで、ちょっと寝て夜中の2時から車を出して富士山に行ったんですよ(笑)。将斗さん、流田、自分、ぶちさん、竜一の5人で。でも5合目まで車で行ったら霧がすごくて1メートル先も見えない感じで、『あ、これは無理だ』ってなりました(笑)。だから近くの箱根に行って、ずーっと温泉に入っていましたね」
B:(笑)。それでは、次にインタビューを回す選手を指名してもらえますか?
「それ、いろいろ考えたんですけど……白鴎大の白濱(#15)でお願いしたいなと。大丈夫ですか?(笑)」
B:実は森山選手も、インタビューを回すのを坂田選手か白濱選手で迷っていたんですよね。
「あ、そうみたいですね。先週、森山とか白濱とかとごはん食べに行って森山が『坂田か白濱で迷ったんだよね〜』と言っていたので、じゃあ俺から白濱に回すわと。そうしたら白濱『まじで! めっちゃ嬉しい〜』って言ってました(笑)。たぶん、楽しみにしていると思います」
B:白濱選手とはいつから仲が良いんですか?
「2年のときにビッグマンキャンプがあって、同じ部屋だったんですよ。3人部屋で自分と谷口(中央大#5)と白濱が一緒で。そうしたら、国士舘の永野(#11)が、寂しいって言って部屋に来て、3人分しかベッドない部屋で4人で寝ました(笑)」
B:永野選手は寂しがりなんですね(笑)。
「そうですね、コワモテに見えて(笑)。あいつ後輩のことも、いじめるわりには『これ食べろよ』とか言ってめっちゃ優しいんですよ(笑)。そのビッグマンキャンプから、白濱も永野もたまたま2部で一緒だったし、よくしゃべるようになりました」

「うーん…。まぁなんでもニコニコしゃべると思いますよ(笑)。あ、白濱はやっぱりジャンプ力とかダンクがすごいので、そういう話をすれば喜ぶと思います(笑)。ビッグマンキャンプでもシャンプ力を測定したんですけど、確か参加者の中でも一番くらいにすごかったですね。でもあいつ、2年の時とかは今ほど跳んでなかったですよね?途中からめっちゃ跳べるようになったかなって。そこらへんを聞いてほしいです」
B:それは気になりますね。では次回は白鴎大・白濱僚祐選手にお願いします。山田選手、ありがとうございました。
写真下:Tシャツのサインには「プラス思考」と書き添えた。
◆#22山田典政(やまだ のりまさ)
恩方中→東海大菅生高→中央大
4年・PF
187cm/96kg
・2006 ジュニアオールスター東京都代表
・2009 インターハイベスト32(高3)
(2013.11.22インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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