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2013.10.22 (Tue)
【SPECIAL】BOJラインvol.19〜河上宗平選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.19~早稲田大学・河上宗平選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第18回の拓殖大・藤井祐眞選手からバトンを渡されたのは、早稲田大・河上宗平選手です。
的確な空間把握と絶妙なタイミングで飛び込むうまさを武器に、下級生の頃から早稲田大のスタメンを張ってきた河上選手。昨年からは4番から3番ポジションにコンバートしてオールラウンドなプレーに磨きをかけ、李相伯杯やユニバーシアードなど数々の代表にも選ばれている期待の選手です。
河上選手は、全国で手応えを掴んだのは「高3になってから」という遅咲きの選手。そこに至るまでには、幼い頃からの積み重ねとそれを支えたまわりの存在、そして大きな怪我を乗り越えたエピソードがありました。第19回BOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第19回は早稲田大学・河上宗平選手です。よろしくお願いします。藤井祐眞選手(拓殖大#40)からの紹介ですが、藤井選手とはいつ頃仲良くなったんですか?
「高校の頃からお互い全国大会で試合もして知ってはいたんですけど、本当に仲良くなり始めたのは大学3年くらいですね。3年の京王杯の時に、終わってから祐眞と天傑(青学大#8張本)と小林(青学大#3)と食事に行って、そこで結構仲良くなって。今はオフがあれば毎回遊んでいるくらい仲が良いですね」
B:藤井選手は河上選手から見てどういうキャラなんですか?
「もう、やんちゃ小僧って感じですね。見たまんまです(笑)。いたずら好きなやんちゃ小僧です」
B:確かに見たままですね(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「本格的に始めたのは、小学校5年生ですね」
B:きっかけが何かあったんですか?
「もともと父がバスケットをやっていたんです。父は山口県出身なんですけど、高校の時は国体に選ばれて確かキャプテンだったか、それくらいの選手だったみたいで。大学は日大に進んでそんなに試合は絡むようなプレイヤーではなかったみたいなんですけど、そういう父の影響は大きかったですね。あと2つ上の兄がミニバスをやっていたので、何かと試合や練習をいつも親に連れられて見に行っていて。それで気付いたら自分も兄と同じミニバスに入って始めていた感じですね」
B:ミニバスはどんなチームだったんですか?
「僕はもともと静岡の中でもかなり田舎の方の出身で、へんぴな山奥の村で育ったんです。だからあまり人もいないしお世辞にも強いチームではなかったんですけど、それでも熱心な監督がいてチームメイトにも恵まれて、本当に楽しくやっていた感じですね」
B:田舎で育ったんですか。
「そうです。たぶん、びっくりするくらい田舎ですよ(笑)。まわりは山だし、家のすぐ前は海でした。遊ぶと言ったら山とか海とか、アウトドアが基本でしたね」
B:中学校は、沼津市戸田中に進んだんですよね。
「はい。僕が中学1年とか2年の時に、戸田村(へだむら)が沼津市と合併して、名前も沼津市戸田中になりました。もともとは村だったし、中学校も全校生徒合わせて100人いないくらいの学校で。本当にど田舎ですね(笑)」
B:中学校のバスケ部はどんな部活だったんですか?
「同じ地域だったので中学校も小学校と監督が同じで、ミニバスと同じような感じで楽しくやっていました。中学校になったら顧問がいましたけど、その顧問の先生もすごく熱心で、今振り返っても恵まれた環境だったなと思います」
引き出してもらったオールラウンドなプレー
B:その頃、身長は高かったんですか?
「結構大きかったです。小学校6年生の時には確か174cmくらいあってチームの中で一番大きかったので、中1の時から結構試合にも使ってもらえました。とにかくリバウンドとブロックショットしかしてなかったですけどね(笑)」
B:ブロックショットも簡単ではないと思いますが、その頃はドリブルのようなテクニックはなかったわけですね。
「そうですね。ミニバスの頃は本当にリバウンドとブロックショットしかしてなかったと思います。でも父親が、背が大きいからインサイドでプレーしろと言う人ではなくて、色んなプレーができるに越したことはない、という考えの人だったんですよ。身長が大きいだけじゃダメだからドリブルとか外からのシュートも打つように言われていたし、監督さんとか中学の顧問の人もそれを全面的にやらせてくれる人たちでした。だから本当に、何もプレッシャーをかけられずにのびのびやらせてもらえていた感じですね」
B:そうだったんですか。その頃の経験が生きて、河上選手はオールラウンドなプレイヤーなんですね。
「本当に自分のプレーのベースになっているのは、中学の頃だと思いますね。自由にやらせてもらえて、自分の良いところを伸ばしてもらえたのかなと思います」
B:お父さんにはよく教えてもらうんですか?
「はい。母もすごくバスケが好きで今でも毎回試合を観に来てくれているんですけど、昔から試合のたびにビデオを撮ってくれていて、試合のあとにビデオを見て反省会をするのが家族のルーティーンでした。それで父親にビデオを見てもらって、アドバイスをもらったり時には強く怒られたりもして。でもそれが本当に一つひとつ段階を踏んで積み重なって、自分の実力以上のものを引き出してくれたのかなと思っています」
B:お父さんと一緒にバスケをすることはあるんですか?
「いや、一緒にプレーすることはあまりなかったですね。いつも口で教えてもらう感じで。でもやっぱり一番僕のプレーを見てくれている人なので、今でもビデオを見て僕のことを一番分かってくれているのは父だと思いますね」
B:中学時代はジュニアオールスターに2年連続で選ばれているんですね。2年連続は珍しいかと思いますが。
「初めて選ばれた年は、僕の学年は僕ひとりでしたね。上手くなかったんですけど、運良く選んでもらえた感じです」
B:2回目に選ばれた時には、決勝トーナメントまで進んでいるんですね。
「そうなんですよ。僕らの代の時は専修の大澤(#0大澤歩)とか神大の古橋(#7古橋広樹)、京都産業大にいる石川(#11石川琢己)とか、わりと静岡もメンバーが揃っていると言われていたんです。歩は怪我して本大会は出られなかったんですけど、それでも静岡としては数年ぶりに予選を抜けて決勝トーナメントに出られて。でも、決勝トーナメントは1回戦でいきなり鹿児島に当たってしまったんですよね」
B:鹿児島と言えば、永吉選手(青学大#25)たちがいたチームですね。
「そうなんです(苦笑)。ジュニアオールスターって、あんまりスカウティングもしないし正直どこが強いとかよく分からないじゃないですか。その中でいきなり、僕マッチアップが永吉だったんですよ! 全国にはこんなデカいやつがいるのかって、とにかく衝撃でしたね。鹿児島はめちゃくちゃ強くて、結局ダブルスコアで負けちゃいました」
B:そこで全国レベルを初めて知ったんですね。
「はい。東京体育館で初めてプレーできたし、これが全国かって思いました。かなり緊張もしましたし、思い出深い大会ですね」
B:中学生の頃には、エンデバーにも選ばれているんですよね?
「中3のときに、U−15に入りました。候補に選んでもらったら意外と自分のプレーが出せたというか、通用する部分もあってメンバーに入っちゃった感じですね。その時は本当に僕なんて全中に出るようなプレイヤーでもないですし、雑誌で見るような選手がたくさんいて、とにかくすごいな〜と思っていました」
B:自分のプレーが出せたというのは、今のようなプレースタイルですか?
「そうですね。その頃からドリブルをつくのも好きでしたし、外からシュートを打つのも好きでしたし、ドライブするのも好きでした。あんまりセンターという感じではなかったです。中学の自分のチームでも、ぶっちぎりで自分が一番デカかったんですけど、センターというイメージはなかったですね。本当にその頃好きにやらせてくれたまわりの人たちには感謝しています」
小学生の頃からの憧れ、名門・洛南高校へ
B:全中へは出場していませんが、高校は全国でも名門の洛南高校に進むことになったんですね。静岡は県内にも強豪校はあると思いますが、どうして京都の洛南に?
「もともと僕の父と母が、洛南が大好きだったんですよ。僕が小4くらいの時に家族で京都旅行に行って、母が『洛南の練習見に行こうよ』って言うくらいで(笑)。それで本当に練習を見に行きました。その時の洛南って深尾さん(深尾晃生・法政大2007年度卒・現NBDL東京海上日動)とかがいて、洛南の人たちと僕と兄で撮ってもらった写真もあるんですよ。今考えたら、結構アグレッシブなことしてましたよね(笑)」
B:もともと小学生の頃から憧れはあったんですね。
「そうですね。でも正直中学生の頃まで、全国でも超名門の洛南高校に行くなんて最初は全く考えていなかったんです。ただU−15に入ってから、もしかして全国でもやれるのかなとちょっと思い始めて。だけどいきなり県外に行くというのも抵抗があって、悩んでいたんですね。そうしたら『悩むくらいならまず練習を見に行こう』と父と母が言ってくれて、中3の12月くらいのものすごく遅い時期、ウインターカップの直前だったんですけど、洛南の練習に参加させてもらったんです。そうしたら、田村さん(田村晋・明治大2011年度卒・現曙ブレーキ工業)とマッチアップだったんですよ。いきなり思いっきりブロックされて、『うわ〜これが洛南か』と思いましたね。それでダメだな、全然通用しないなと思っていたんですけど、なぜか監督が練習終わったあとに、『お前をとるから』と言ってくれたんです」
B:その日に言われたんですか?
「そうです。練習に参加させてもらって、その練習のあとに。でもそう言ってもらえたんですけど、その時はその場ですぐに返事ができなかったんですよ。『え!? ちょっと待ってください!』みたいな(笑)。『自分、やっていけるのかな』って不安もありました。でも家に帰ってからいろいろ考えて、チャンスがあるなら洛南でやってみたいなと思って決めましたね」
B:そんな経緯があったんですか。実際入学してみていかがでしたか?
「ものすごかったですね。特に僕らが1年生のときって、2年生・3年生がめちゃくちゃ強くて、全国でも有名なタレント揃いだったじゃないですか。辻さん(辻直人・現NBL東芝)、田村さん、比江島さん(比江島慎・現NBLアイシン)、佐藤さん(佐藤将斗・12年度中央大主将)、大智さん(谷口大智)…。本当にすごかったんですよね。これが全国レベルか〜と。練習から全国でも最高峰のプレーを肌で感じることができたのは、本当に今にも生きていると思いますね。でも1年のときのインターハイは、能代に負けてしまって。そのときは、このメンバーがいても勝てないなんて、全国はやばいなと思いましたね(笑)」
B:比江島選手も、高2のインターハイは強いと言われながらも勝てなくて苦しんだと言っていました。(BOJラインvol.3)
「そうなんですよね。かなりすごい選手たちが揃っていて、強いと言われていました。その中でもやっぱり比江島さんはすごかったです。特に僕なんかは、比江島さんがすごく憧れの存在で。入学したときからこの人すごいなと思って見ていて、あんなの真似できないですけど、あの人と一緒にプレーできたのは自分の中でもすごく大きなことだと思いますね」
B:憧れの先輩だったんですね。比江島選手は、後輩にどう接するんですか?
「いやまぁ、コートを離れれば基本的に適当ですよ(笑)。『今日俺も一緒に遊びにいくわ。待っとって〜』と言って、来ないとか(笑)。そういうのがよくありました。『OK、OK!』とか言ってても適当なんです。でも、比江島さんにはかわいがってもらいましたね」
B:(笑)。河上選手は、ポジションはずっと4番ですか?
「基本的には4番で、3年になってからは5番で出ることもありましたね。4番となると、練習中のマッチアップが田村さんとか比江島さんになるんですよ。もう、ボッコボコにやられて…。とにかくすごかったですね」
B:洛南高校で、どんなことを学びましたか?
「本当にいろんなことを一から学びましたね。バスケット選手として未熟だった自分を、やっとひとりのバスケット選手にしてくれたというか。正直、中学までは自由に好き勝手やっていて、自分が活躍することが第一だったんですけど、洛南に来て勝つためのバスケットを教えてもらいました。その中に伝統のパス&ランとかがあって。自分を磨き上げてくれたというか、バスケット選手としての第一歩は洛南だったと思います」
写真:洛南の先輩でもある田村と佐藤。大学では明治大と中央大へと分かれた。
チャンスを掴みかけたタイミングで起きた悲劇
B:パス&ランで崩して攻めるバスケットは、難しくなかったですか?
「最初は戸惑いましたけど、1・2年生の頃はそんなに試合も出られませんでしたし、試合に出るようになった3年の頃にはもう慣れていたので。慣れれば楽しいし、充実感もありましたね」
B:1・2年の時は、メンバーには入っていてもあまり試合には絡めなかったんですね。
「そうですね。2年生になってやっと出られるかなって思ったんですけど、2年になるときにちょっと大きい怪我をしちゃったんですよ」
B:何の怪我だったんですか?
「鎖骨を骨折したんです。それで手術して、プレートを入れて。怪我したのが1年の終わりの2月ですね。本当に新チームが始まってこれからという時期でした。3年生が引退して、新チームになって最初の1カ月くらいは結構練習でもスタメンで使ってもらえたんですよ。だから、比江島さんとか大智さんとか佐藤さんとかと一緒にプレーさせてもらって、『うわぁ、楽しいな〜』って思っていたときに怪我してしまって。それで手術して本格的に復帰したのが、4月とか5月の頭でした。でも復帰したんですけど、全然怪我する前のようなプレーができなくて…。僕は全く意識してないんですけど、監督とかからもよく『お前、痛いのか』と聞かれるんです。意識はしてないつもりだったんですけど、やっぱりどこかいつもの自分じゃなかったみたいで」
B:怪我する前と後で、変わってしまったんですね。
「そうですね。怪我する前はスタートで使われていたし、復帰してうまくいけば国体とかウインターカップも出られるんじゃないかと思っていたんです。今思えばちょっと甘い考えですけど。でも復帰してもそうやって怪我する前のような動きができないから、どんどん自信がなくなってきちゃって…。全然動けなくて、正直このままじゃまずいなって焦りましたね。バスケをするために親も洛南に送ってくれたのに、やっと試合に出られるというタイミングで怪我しちゃったので。そのときはすごく落ち込みました」
B:そこからどのように調子を取り戻していったんですか?
「プレートを入れていたのでそれを抜かなきゃいけなかったんですけど、抜く手術をしたらまた一カ月くらい復帰に時間がかかるんですよ。それで、僕としてはやっぱり憧れだった比江島さんたちと一緒にプレーしたかったですし、たとえ自分が3年になったときに合流が遅れても良いから、手術は2年のウインターが終わってからにしようと思っていたんです。でも、監督から『お前のことは3年からちゃんと使いたい』と言われて。諦めろとは言われなかったですけど、2年生の間は試合に使ってもらえそうもなかったので、それならと思ってウインターの前にプレートを抜いたんです。それでちょっと入院して1カ月くらいバスケは休んで。だから高2のウインターは応援席で応援してたんですよね」
B:そんなエピソードがあったんですか。怪我に泣いたシーズンだったんですね。
「そうですね。2年のときは本当に、一番のどん底というか、試練も多かった年でしたね」
B:応援席からウインターカップ優勝の瞬間を見てどうでしたか?
「いや、やっぱり洛南はすごいなと。客観的に見ていても思いました。かっこいいなって。比江島さんも、神がかっていましたよね(笑)」
B:では早い時期にプレートを抜いて、3年生になってチームに合流したと。
「そうですね。新チームが始まった最初から合流はできました。でもまぁ、シックスマンとかで出番も最初は少なかったですね」
3年目にして味わった、全国での手応え
B:シックスマンでの出番が多かったんですね。
「はい。ほとんどの試合がシックスマンでしたね。鈴山と晃大(早稲田大#15木村)がスタメンで、そのどちらかと交代して出ることが多かったです。でも最初は本当に全然使ってもらえず出ても10分とかだったんですけど、インターハイの延岡戦で、負けはしたんですけど結構手応えを掴めたんです。とにかく『リバウンドを取ってこい』という感じで使われて、何も考えずにリバウンドとブロックショットだけやってこようと思って出たら、すごく調子が良くて。リバウンドも結構拾えたし、セネガル人もブロックできて、『あれ?結構自分、できるじゃん!』って(笑)。その試合が、初めて洛南の主力として出て手応えを掴めた試合でしたね」
B:全国で手応えを感じたのは3年生になってからだったんですね。
「そうです。そこで初めて手応えを掴んで、それが国体につながったんですよね。それで国体もシックスマンだったんですけど、急に出場時間が伸びたんです。今まで10分とか15分とかだったのが、国体のときは30分以上出させてもらって、それで優勝できたのは嬉しかったですね」
B:決勝はチームハイの活躍だったんですよね。
「そうなんです。あれは嬉しかったですね。自分のプレーを出せて活躍して、しかも全国制覇って、こんなに嬉しいことはないじゃないですか。そこで自分も全国でやれるんだなという自信になりました。運が良かったとかそういうのもあると思うんですけど、本当にあの時は嬉しかったです」
B:しかも相手が地元の静岡ですしね。藤井選手は「絶対行けると思った」と言っていました(笑)。
「そうですね。正直決勝に上がってくるのは福岡だと思っていたんですよ。だから福岡が静岡に大敗したのを知って、『嘘だろ!?』と思いましたね。でも相手が静岡ということで、『ここで負けたら俺はなんのために京都に来たんだ』って話になるじゃないですか。だからこそ負けられなかったですね。試合の入りはすごく悪くてボコボコにされたんですけど、なんとか巻き返して最後ギリギリで逆転して勝てました。あのときは、僕らの代が一番脚光を浴びたときだったんじゃないかと思います」
B:決勝に進む前の対戦はどんな戦いだったんですか?
「僕ら、組み合わせがめちゃくちゃ悪かったんですよ。いきなり1回戦が北陸(福井県)とで、2回戦が延岡(宮崎県)と。でも大会前は『最悪なところに入っちゃったな』って言っていたんですけど、なぜかみんなめちゃくちゃ調子が良くて、勝っちゃったんですよね。それで3回戦で千葉と当たって、千葉もすごく能力の高いチームだったんですけど、最後に小林のブザービーターで勝ったんです。それで決勝進出になりました」
B:初戦から強豪を突破して勢いに乗れたのが良かったんですね。一転してウインターカップは、大濠高校の勢いに飲まれてベスト16で散る形になりましたが。
「そうなんですよね。4連覇もかかる大事な大会だったんですが…。国体も優勝できたし、うまくハマれば優勝もできると思っていました。しかも大濠と夏場とかに練習試合をしても普通に圧勝で勝っていたんです。だから僕たち、大濠に勝てば次は藤枝明誠だったので、藤枝明誠に向けての練習をしていたんですよ。洛南って相手によってディフェンスを変えるなんてほとんどないんですけど、あのウインターカップの前は珍しく藤枝明誠を想定して祐眞を止めるためのボックスワンとかを練習して。でも、あの時は大濠がものすごく勢いに乗っていたんですよね。みんなめちゃくちゃシュートも入っていたし、二宮(早稲田大#4)もすごかった。それでやられちゃったんですよね」
B:自分のプレーはどうだったんですか?
「またベンチからの出場で30分くらい出たんですけど、それなりに調子も良かったんですよ。確か20点近くとったかな。でも最後の一番大事な場面で、ミスったんですよね…(苦笑)。残り30秒とか20秒しかない場面で4点ビハインドだったんですけど、僕がハイポストでパスをもらったら、たまたまドフリーだったんです。それでドライブに行って『よし!これで2点差だ!』と思っていたら、そのレイアップがリングの根元にあたって、コロコロってこぼれて。『うわー!』って思った瞬間そのままブレイクを出されて、6点差にされてしまいました。あれはやっちゃいましたね。ベンチも応援団もみんな一斉に『うわー!』ってなって、凄まじかったですから(苦笑)。持ってねー!って感じですね。あれは結構落ち込みました」
B:それは悔しいですね。高校最後の試合ですし。
「そうなんですよ。それでメインコートに立てずに終わったという…。試合が終わったあとも、みんな気を遣って誰も最後のプレーについて触れてこないんです。その中でバシオ(小林)だけが『なんで外してんの、お前』って言ってきて(笑)。でも逆に言ってくれて救われましたけどね。『ほんとごめん!』みたいな」
B:高校3年生のときは偉大な先輩たちが抜けた年で、そういう苦労もあったかと思いますが。
「それはだいぶありましたね。洛南って名門ですけど、やっぱり1個上と2個上はそのなかでも飛び抜けて強かったし、ウインターカップ3連覇とか結果も残していたじゃないですか。それで僕らが3年になって、そういう先輩たちがゴソッと抜けて…。僕らも一応、国体で優勝してるんですよ?三大大会のうちのひとつは勝ってるのに、なんかそれも忘れられちゃうというか(笑)。1個上や2個上のインパクトが強すぎて、まわりから『あの年の洛南ってあんまり…』みたいにすごく言われるんですよね。まぁ確かにウインターカップでベスト16に終わったのは大きなミスですけど…」
B:洛南は冬に強いというイメージがあるから、なおさらかもしれませんね。
「そうなんですよね。毎年、冬の洛南って言われていましたから。国体よりウインターカップの方が注目度も高いですし、それは仕方ないかなとは思いますけど」
B:先ほど小林選手の名前が出ましたが、小林選手とは高校の頃から仲が良いんですね。
「はい。小林は高校1年のときからずっと一番仲が良かったと思います。寮で一緒だったので。何かするときはだいたい一緒でしたね」
B:あの代の洛南は、個性あふれる選手が揃っているように思いますが。
「そうですね。蛯名(慶應義塾大#4)がキャプテンだったんですけど、たぶん大変だったと思いますよ(苦笑)。あいつもあいつで頭が良い分すごく悩んでいましたし。でもとにかく僕らの代は、みんな仲が良かったですね。寮生が僕と蛯名と小林と鈴木(早稲田大#7鈴木貴大)と成田(関東学院大#20成田宏樹)の5人だったんですけど、どっか遊びに行くといえばだいたい5人一緒でした。逆にいつも5人で行動しすぎて、たまにひとりいなかったりすると『あいつなんかあんじゃねーか?』みたいな(笑)。5人以外もみんな仲良かったですね」
B:そうだったんですね。そういえば河上選手は、洛南時代は怒られ役だったそうですね。
「高校のときは、ものすごく怒られましたね。たぶん、僕らの代では僕が一番怒られていると思います。僕と塩谷(中央大)が怒られ役だったんですよね」
B:どういうことで怒られていたんですか?
「僕って今でもそうなんですけど、浮き沈みあるというか…。良いときは良いけど、ダメなときはほんとダメって感じだったんですよ。たぶんそういうところが目についたのかなと。それに僕、力の抜き方が下手なんです(苦笑)。そういうのが上手い人もいるんですけど、僕が力を抜こうとしても不思議とすぐバレて『おい!なにしてんだ!』ってなるんですよね(苦笑)」
B:そうだったんですか。プレースタイルは、高校時代も中学生の頃から得意だったリバウンドとブロックショットが売りだったんですか?
「そうですね。洛南でも。本当は、比江島さんみたいに1on1でこじ開けて勝負どころで決められるような選手に憧れていたんですけど、そんな理想ばっかり追いかけてもだめだなと(苦笑)。まずはチームのために、ディフェンスとリバウンドを頑張ろうという感じでやっていました。ブロックは、小さい頃から好きだったんですよ。とりあえず跳んどこうみたいな」
B:河上選手はジャンプ力がありますよね。
「そうですね。でも高さ的にはそんなずば抜けて跳べているわけじゃないんですけど、よくまわりから『タイミングが良い』とかは言われていました。あまり考えたことはないですけど」
B:確かに、リバウンドや合わせも、その空間にちょうど良く入ってくる印象です。
「そうですかね。でも、無意識です。というか、意識していると逆にちょっとワンテンポ遅くなっちゃうんですよね。頑張ろうって集中しているときの方が、自然と体が動いてバッと飛び込める感じがしますね。意識しない方がいいのかなと思います」
先輩たちに支えられ力を存分に発揮
B:ではここから大学の話に移ります。どうして早稲田大を選んだんですか?
「進路が決まったのは春とか夏とかのわりと早い時期だったんですけど、正直、高3の春先って自分は全国でも全然活躍してなかったですし、バスケットで自分はそんなたいした選手じゃないなと思って。結果もなにも残してなくて、それこそ秋の国体で初めて全国でやれると思ったくらいじゃないですか。だから進路のことを考えた時に、バスケも大事だけど将来のことも考えなきゃなと思って、それで早稲田がいいなと思って先生に希望を出したんです。そうしたらいいよと言われて、早稲田に決まった感じですね」
B:声がかかって決めたわけではなかったんですね。そのとき早稲田大は2部でしたが、そうしたことも考えず。
「はい。2部とか1部とか、全然考えてなくて。早稲田のバスケット自体も、正直見たことがなかったですね。でもメンバー表を見てすごいメンバーが揃っているなとは思いました」
B:河上選手は入学して、1年の頃からスタートで使われていましたよね。
「そうなんですよね。あの時は、金井さん(2010年卒・現bj東京サンレーヴス)がトーナメントで怪我しちゃって、トーナメントの中央戦で初めてスタメンで使われたんです。そうしたらその時になぜかめちゃくちゃ調子が良くて、いきなり18点10リバウンドとかで。チームで一番点を取ったんです。それから結構スタートで使ってもらえるようになりましたね」
B:いきなり活躍して結果を出せたのが大きかったんですね。
「そうみたいです。まぁ1年のときは、正直いっぱいいっぱいでした(苦笑)。もう、何も考えずに必死にやるだけというか。試合だけじゃなく1年生の仕事とかもあるじゃないですか。そういうのも結構大変でしたね」
B:1年のときは、先輩たちについていくだけだったと。
「はい。走って、ディフェンスして、リバウンド飛び込んで。ボールなんて持つものじゃないと思ってました(笑)。持ったらすぐパス!みたいな。アシストされてノーマークのときだけ打つような、そんな感じでしたね。でも逆に何も考えることがなかったのでやりやすいというか、体も動いていたと思います」
B:いきなり入替戦もいけましたし。
「それは大きかったですね。正直1年で上がれるなんて思ってなかったです。入替戦で中央に勝ったのは今でもよく覚えています。あれが結構、僕の人生の分岐点だったかなって。1部でやるのと2部でやるのとじゃ結構全然違うと思うんです。大きかったですね、あそこで勝てたのは」
B:2年生になって初めて1部でプレーすることになりましたね。でも2年生の時も、リーグ戦はかなり活躍していましたよね。
「あの年は、いろいろ上手く噛み合ったんですよね。正直1部でどれくらいやれるか未知数だったんですけど、夏の合宿のときに久保田さん(11年度卒・現NBL和歌山)がユニバーシアードに行ってていなかったんですよ。そのときにアイシンとかすごく強いチームと練習試合をする機会があって、それで久保田さんもいないから、僕自身、得点も取らなきゃいけないし、リバウンドも負けちゃいけないなと思ったんです。そこでいろいろ1on1とかを試してみたら、何かきっかけを掴んだような手応えがあって。今までボールは持つものじゃないって感じだったんですけど、意外と仕掛けたらやれる部分があるぞと思いました。それからリーグに入って久保田さんが戻ってきたら、ますます上手くいったんですよね。やっぱり中心は久保田さんと大塚さん(12年度卒・現NBDL豊田通商)で、ふたりが攻めている間は僕もリバウンドだけを狙っていたんですけど、ふたりが上手く機能しないときに僕が仕掛けるみたいな形で。それがうまく噛み合って、だから結構良い成績を残せたのかなと思います」
B:2年生の頃は、河上選手が本当に良いところで合わせやリバウンドに飛び込んでいた印象です。
「はい。おいしいどこ取りといったらあれですけど、大塚さんのパスがあって、久保田さんのこぼれ球を拾って、数字だけ残していたような感じですね(笑)。あのときは本当にリーグ戦をやっていて楽しかったですし、充実感もありました。いろいろ思い出深いリーグ戦でしたね。日大にブザービーター3連発で勝った試合もあったじゃないですか」
B:ダブルオーバータイムにもつれた試合ですね。あれは熱戦でした。
「そうです、そうです。しかもブザービーターを決めたのが、全員洛南だったんですよね(笑)。僕がタップして延長に持ち込んで、晃大(#15木村)がスリーを決めてダブルオーバータイムになって、最後は藤原さん(2012年度卒)のシュートで逆転勝ちして」
B:洛南の選手は持っていますね(笑)。
「そうかもしれません(笑)。あの試合は楽しかったですね。興奮しました」
エースとしてぶつかった、マークされる苦労
B:それから3年生のときは、久保田選手が抜けてエース的な立場となりました。苦労もあった年かと思います。
「そうですね。大塚さんはいてくれましたが、やっぱり自分が点を取りにいかなきゃいけないとか相手のエースにつかなきゃいけないとか、あの時はすごくいろいろ考えすぎてしまって…。ブレイクもそんなに走れなかったですし、リバウンドもそんなに拾えなかった。マークされる大変さを知りましたね」
B:それまでは久保田選手にディフェンスも寄っていますからね。
「そうなんですよ。寄っているから、全然こっちを見てないなって隙に、リバウンドも拾えたし合わせも飛び込めたんですけど。久保田さんが抜けてからは、絶対に自分をマークするエースキラーのような人がいました。そこをどうやってこじ開けるかというのは、ずっとずっと課題でしたね」
B:インサイドの存在は本当に大きいですね。
「大きいですね。特に久保田さんなんかは、自分でプレーを作れる選手というか。1on1もすごく上手かったですし、4年間ほぼひとりで早稲田のインサイドをやってきたわけですから。やっぱりあの人はすごかったんだなと今でも感じますね」
B:昨年は、2部との入替戦にも回ってしまいましたね。
「はい。大塚さんも怪我して、結構大変でした、本当に。後半で一気に負けがこんだんですよね。沈みっぱなしでリーグ戦も終わっちゃって、入替戦もなんとか勝った感じでした」
B:去年からほぼ3番ポジションで使われるようになりましたよね。そこでの戸惑いもあったようですが。
「そうですね。3年のときは手探りというか『3番ってこんな感じでいいのかな?』という感じでプレーしていました。でも李相伯とかの代表ではこの身長で4番として使われることはほとんどなかったですし、もともとアウトサイドのプレーの大切さはすごく感じていて。ドライブとか3Pはすごく意識して、かなり練習もしましたね。でもチームがなかなか勝てなかったですし、正直自分が4番で出ている時の方がチームもうまく回るんじゃないかとかは、すごく思いました。自分は上でプレーするためにも3番でやらなきゃいけない、でもそうするとチームが勝てない…そういう葛藤みたいなものはありましたね。結構悩みました」
B:苦しんだシーズンだったんですね。
「はい。僕自身も李相伯杯の代表に選ばれたりして、やっぱり恥ずかしいプレーはできないなとかいろいろ思いましたし。自分が悪かったらチームも勝てないなと思ったし、そういうエースという立場を初めて経験したシーズンでした。今まで、高校のときはシックスマンだったし、大学1・2年の間はぴょんぴょん跳んでるだけだったじゃないですか(笑)。だから壁にぶつかって、いろんなことを感じた年でしたね」
B:壁にぶつかったときは、いろいろ考え込んでしまうタイプですか?
「たぶん考えすぎるタイプだと思います。でもその都度、両親もそうですし、友達とか監督とかがいつもアドバイスをくれました。場面場面でそういう人たちがいて、すごく恵まれた環境でやってきたなというのは今でも感じますね。本当にまわりの人たちが、僕の持っている以上のものを引き出してくれているなと。そうやって壁にぶつかったり悩んだりしても、しっかり段階を踏んで、自分なりに成長してきたのかなとは思いますね」
B:4年目となった今年も、大きな壁にぶつかっていますね。
「そうですね。いまいち…いまいちどころじゃないか、相当ひどいですね(苦笑)。自分たちが最上級生だし、4年生がしっかりしなきゃいけないんですけど…。正直春から調子が上がらなくて、苦しい状況ですね」
B:春は体調不良もあったと言っていましたが。
「はい。トーナメントのときに、扁桃腺がはれて。その時は、3日で5キロ痩せました(苦笑)。本当にやばかったです」
B:体重が落ちて、足元がふらつくという話を春はしていましたね。
「はい。病気になる前に、ユニバでガンガン練習してウエイトもかなりやって、自分的に体つきも前に比べてすごくガッチリしてきたと思っていたんですよ。そうしたら病気になって今までやってきたことが全部パーになって。正直ショックでしたね」
B:体重は戻したんですよね?
「はい。それはまたユニバの期間があって鍛えられたので、戻ってはいます」
B:今までもこういう波はあったんでしょうか?
「そうですね。でも、ここまで調子が悪いことはあまりなかったと思います。ここまで勝てていないのは、人生でも初めてですし。まぁ頑張るしかないですけどね」
代表で知った「知らない世界」で考え方が変わる
B:今年はユニバーシアード日本代表にも選ばれましたね。それについてはどう感じましたか?
「いやもう、ユニバに入ったことは、僕のバスケットのキャリアの中でも一番大きな出来事だと思っています。やっぱりすごく良い経験をさせてもらいました。ああやって上手い人たちと一緒にプレーするのは自分を高めてくれる経験だと思っていますし、世界とも初めて戦ったので。初めてだったので『うわぁ、これが世界か』と思ってしまうのが正直な気持ちなんですけど、でも本当に、自分の知らない世界を知ることができたというか、自分の中でもすごく考え方が変わりましたね」
B:それは、代表を意識するようになったとか?
「そうですね。今までは代表とかに自分が選ばれるなんて全く思ってなかったですし、ユニバに入ったときは正直びっくりしましたけど、入ってから、やっぱり日本のために頑張らなきゃと思うようになって。日の丸を背負うって、本当に言葉では表せないですけど、すごい経験をさせてもらっているなと思うんです。本当ならこの経験を、早稲田に還元しなきゃいけないんですけど」
B:でも、早稲田大の池田選手(#34)も河上選手が練習中からキャプテンとしてチームを引っ張ってくれていると言っていましたよ。
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、やっぱり結果を残すために僕らもやっているわけで。一番大事な結果がついてこないというのは、僕ら4年に責任があると思います。正直、今本当に苦しいですけど、それでもリーグ戦は続くので…なんとかしなきゃなと思います」
B:去年よりも苦しいシーズンですね。
「そうですね(苦笑)。去年はそれでもまだ3年生だったので。大塚さんもいたし、自分のプレーに集中できる部分がありました。でも今年に入ってからはやっぱり結果も気にしますし、4年生としてのプレッシャーも感じますね」
B:リーグ戦の休止期間には東アジア大会もありますが。
「はい。そこで何か掴まなきゃいけないと思いますし、掴めばまだまだ早稲田はやれると思うので。このまま終わるようなチームではないと思っていますし、僕自身もこんなふがいないまま終わるつもりもありません。何かきっかけを掴んで、一発見せたいなと思っています。がむしゃらに頑張ります」
B:代表メンバーたちとはどんな感じですか?
「仲良いですね。しかも僕ら、ユニバのときから実業団の選手とかがいなくて、学生だけだったじゃないですか。だからすごく団結していたというか、みんな仲良くなりましたね」
「サッカーが大好き」見えてきた意外な一面
B:ではここからバスケット以外のお話をお伺いします。まず、どうして『キャリー』というあだ名なんですか?
「あだ名がついたのは高1の春とか夏なんですけど、僕、洋楽がすごく好きで、聴きながらちょっと口ずさんでいたんですよ。そうしたらそれを聞いてた友達が、『なんかキャリーって言ってたぞ』みたいなこと言って(笑)。そこからですね、そこからキャリーと呼ばれるようになりました。別にそのあだ名が気に入っていたわけではないんですけど、僕自身も結構適当なので特に気にせず、キャリーと呼ばれても『何?』って普通に返事してたんですよ。そうしたらいつの間にかみんなそう呼ぶようになっていて、本当に高校で違和感ないくらいのあだ名に定着しちゃったんですよね。それで大学に入ったんですけど、早稲田って洛南出身が多いじゃないですか。だから、大学でも変わらずキャリーってなっちゃって。いつの間にかみんなそう呼んでいるんですよね」
B:そういう理由だったんですね。
「そうなんです。みんなによく『なんでなの?』って聞かれるんですけど、こうやって説明してもよく分からないですよね(笑)。説明するほどのことじゃないというか…」
B:きゃりーぱみゅぱみゅは関係ないんですね(笑)。
「はい。僕のほうが先なんですよ(笑)。でも地元の友達にきゃりーってあだ名がバレたのが、大学3年とか4年になってからなんです。ツイッターとかの名前をきゃりーにしているので。だから、地元のみんなに『きゃりーぱみゅぱみゅ好きなの?』って聞かれましたね。そこはよくいじられます」
B:藤井選手が、新しいあだ名は「ケ」だと言っていましたが(笑)。
「(笑)。ケリーとかケとか、いろいろあってよく分からないんですよ。たぶん、祐眞はキャが言いにくいんじゃないですか?まぁ適当だと思います(笑)」
B:河上選手は洋楽が好きなんですね。
「そうですね。昔は結構ロックが好きだったんですけど、最近はガチャガチャしてるのはあんま聴かなくなりましたね。なんか落ち着いたんですかね?(笑)よく分からないですけど」
B:オフの日は何をしているんですか?
「オフの日は寝ているか、バシオんちに行くか…」
B:藤井選手もまったく同じ回答でした(笑)。
「オフになればだいたい遊んでますから(笑)。バシオの家で気付いたらオフが終わっているということが多いです」
B:河上選手はサッカーも好きだとか。
「サッカー大好きですね。プレーは全然できないんですけど、高校の時から試合を見るのが好きで。Jリーグはあんまり見ないですけど、ヨーロッパとか。見るだけだったらバスケの試合より見てるんじゃないかってくらい見てますね」
B:自分ではやらないんですか?
「やらないです。ヨーロッパのスーパープレイとかを見すぎて、現実との違いが辛くて(笑)。あまりやらない方がいいんじゃないかと思ってます」
B:では、自分はどんな性格だと思いますか?
「僕は、良くも悪くもマイペースだと思います。めったに怒らないですね。興味があることにはかなりハマるんですけど、興味のないことには見向きもしないというか。あと、結構人見知りです」
B:そうなんですか。人当たりが良さそうなので意外です。
「こういうインタビューとかは大丈夫なんですけど、初対面とかダメな人です(笑)。初めて話しかけられると、『おっす』みたいな感じで話が終わっちゃうんですよね」
B:シャイな一面もあるんですね。では、次は誰にインタビューを回しましょうか。
「いろいろ考えたんですけど、明治の森山(#5森山翔太)はどうですか?」
B:いいですね。明治はまだ誰も行っていませんし。
「そうですよね。森山とは仲良いんです。あいつ、面白いしめっちゃ良いやつで、誰とでも仲良くなれるんですよ」
B:森山選手とはいつから仲が良いんですか?
「大学からですね。大学1年の頃に1年生で集まる機会があって、そのときに話しかけられたのがきっかけです。僕、高3の国体で千葉と試合したときに、森山がほぼフリーで行ったレイアップを思いっきりブロックしたんですよ。それを覚えていてくれたみたいで、『お前にブロックされたんだよな〜』って言われて、そこからですね」
B:森山選手に何を聞けば面白いでしょう。
「あいつ、ツイッターとかによく中国語とか韓国語が出てくるんですよ。やたら中国とか韓国に詳しくて。そのあたりを聞いてみたらいいと思います」
B:それは興味深いですね。では次回は明治大学の森山選手にお話を伺います。河上選手、ありがとうございました。
写真下:サインがないという河上選手、楷書できれいに名前を書いてくれた。添えた言葉は「一生懸命」。
◆#21河上宗平(かわかみ そうへい)
戸田中→洛南高→早稲田大
4年・F・主将
190cm/86kg
・2005 ジュニアオールスター静岡県代表
・2006 ジュニアオールスター静岡県代表
・2009 インターハイベスト8(高3)
・2009 国体優勝(高3)
・2009 ウィンターカップベスト16(高3)
・2012 李相伯杯代表
・2013 李相伯杯代表
・2013 ユニバーシアード日本代表
・2013 東アジア競技大会日本代表
(2013.9.21インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.19~早稲田大学・河上宗平選手~

的確な空間把握と絶妙なタイミングで飛び込むうまさを武器に、下級生の頃から早稲田大のスタメンを張ってきた河上選手。昨年からは4番から3番ポジションにコンバートしてオールラウンドなプレーに磨きをかけ、李相伯杯やユニバーシアードなど数々の代表にも選ばれている期待の選手です。
河上選手は、全国で手応えを掴んだのは「高3になってから」という遅咲きの選手。そこに至るまでには、幼い頃からの積み重ねとそれを支えたまわりの存在、そして大きな怪我を乗り越えたエピソードがありました。第19回BOJライン、どうぞお楽しみください。
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自然あふれる環境で育った幼少期
「高校の頃からお互い全国大会で試合もして知ってはいたんですけど、本当に仲良くなり始めたのは大学3年くらいですね。3年の京王杯の時に、終わってから祐眞と天傑(青学大#8張本)と小林(青学大#3)と食事に行って、そこで結構仲良くなって。今はオフがあれば毎回遊んでいるくらい仲が良いですね」
B:藤井選手は河上選手から見てどういうキャラなんですか?
「もう、やんちゃ小僧って感じですね。見たまんまです(笑)。いたずら好きなやんちゃ小僧です」
B:確かに見たままですね(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「本格的に始めたのは、小学校5年生ですね」
B:きっかけが何かあったんですか?
「もともと父がバスケットをやっていたんです。父は山口県出身なんですけど、高校の時は国体に選ばれて確かキャプテンだったか、それくらいの選手だったみたいで。大学は日大に進んでそんなに試合は絡むようなプレイヤーではなかったみたいなんですけど、そういう父の影響は大きかったですね。あと2つ上の兄がミニバスをやっていたので、何かと試合や練習をいつも親に連れられて見に行っていて。それで気付いたら自分も兄と同じミニバスに入って始めていた感じですね」
B:ミニバスはどんなチームだったんですか?
「僕はもともと静岡の中でもかなり田舎の方の出身で、へんぴな山奥の村で育ったんです。だからあまり人もいないしお世辞にも強いチームではなかったんですけど、それでも熱心な監督がいてチームメイトにも恵まれて、本当に楽しくやっていた感じですね」
B:田舎で育ったんですか。
「そうです。たぶん、びっくりするくらい田舎ですよ(笑)。まわりは山だし、家のすぐ前は海でした。遊ぶと言ったら山とか海とか、アウトドアが基本でしたね」
B:中学校は、沼津市戸田中に進んだんですよね。
「はい。僕が中学1年とか2年の時に、戸田村(へだむら)が沼津市と合併して、名前も沼津市戸田中になりました。もともとは村だったし、中学校も全校生徒合わせて100人いないくらいの学校で。本当にど田舎ですね(笑)」
B:中学校のバスケ部はどんな部活だったんですか?
「同じ地域だったので中学校も小学校と監督が同じで、ミニバスと同じような感じで楽しくやっていました。中学校になったら顧問がいましたけど、その顧問の先生もすごく熱心で、今振り返っても恵まれた環境だったなと思います」
引き出してもらったオールラウンドなプレー

「結構大きかったです。小学校6年生の時には確か174cmくらいあってチームの中で一番大きかったので、中1の時から結構試合にも使ってもらえました。とにかくリバウンドとブロックショットしかしてなかったですけどね(笑)」
B:ブロックショットも簡単ではないと思いますが、その頃はドリブルのようなテクニックはなかったわけですね。
「そうですね。ミニバスの頃は本当にリバウンドとブロックショットしかしてなかったと思います。でも父親が、背が大きいからインサイドでプレーしろと言う人ではなくて、色んなプレーができるに越したことはない、という考えの人だったんですよ。身長が大きいだけじゃダメだからドリブルとか外からのシュートも打つように言われていたし、監督さんとか中学の顧問の人もそれを全面的にやらせてくれる人たちでした。だから本当に、何もプレッシャーをかけられずにのびのびやらせてもらえていた感じですね」
B:そうだったんですか。その頃の経験が生きて、河上選手はオールラウンドなプレイヤーなんですね。
「本当に自分のプレーのベースになっているのは、中学の頃だと思いますね。自由にやらせてもらえて、自分の良いところを伸ばしてもらえたのかなと思います」
B:お父さんにはよく教えてもらうんですか?
「はい。母もすごくバスケが好きで今でも毎回試合を観に来てくれているんですけど、昔から試合のたびにビデオを撮ってくれていて、試合のあとにビデオを見て反省会をするのが家族のルーティーンでした。それで父親にビデオを見てもらって、アドバイスをもらったり時には強く怒られたりもして。でもそれが本当に一つひとつ段階を踏んで積み重なって、自分の実力以上のものを引き出してくれたのかなと思っています」
B:お父さんと一緒にバスケをすることはあるんですか?
「いや、一緒にプレーすることはあまりなかったですね。いつも口で教えてもらう感じで。でもやっぱり一番僕のプレーを見てくれている人なので、今でもビデオを見て僕のことを一番分かってくれているのは父だと思いますね」
B:中学時代はジュニアオールスターに2年連続で選ばれているんですね。2年連続は珍しいかと思いますが。
「初めて選ばれた年は、僕の学年は僕ひとりでしたね。上手くなかったんですけど、運良く選んでもらえた感じです」
B:2回目に選ばれた時には、決勝トーナメントまで進んでいるんですね。
「そうなんですよ。僕らの代の時は専修の大澤(#0大澤歩)とか神大の古橋(#7古橋広樹)、京都産業大にいる石川(#11石川琢己)とか、わりと静岡もメンバーが揃っていると言われていたんです。歩は怪我して本大会は出られなかったんですけど、それでも静岡としては数年ぶりに予選を抜けて決勝トーナメントに出られて。でも、決勝トーナメントは1回戦でいきなり鹿児島に当たってしまったんですよね」
B:鹿児島と言えば、永吉選手(青学大#25)たちがいたチームですね。
「そうなんです(苦笑)。ジュニアオールスターって、あんまりスカウティングもしないし正直どこが強いとかよく分からないじゃないですか。その中でいきなり、僕マッチアップが永吉だったんですよ! 全国にはこんなデカいやつがいるのかって、とにかく衝撃でしたね。鹿児島はめちゃくちゃ強くて、結局ダブルスコアで負けちゃいました」
B:そこで全国レベルを初めて知ったんですね。
「はい。東京体育館で初めてプレーできたし、これが全国かって思いました。かなり緊張もしましたし、思い出深い大会ですね」
B:中学生の頃には、エンデバーにも選ばれているんですよね?
「中3のときに、U−15に入りました。候補に選んでもらったら意外と自分のプレーが出せたというか、通用する部分もあってメンバーに入っちゃった感じですね。その時は本当に僕なんて全中に出るようなプレイヤーでもないですし、雑誌で見るような選手がたくさんいて、とにかくすごいな〜と思っていました」
B:自分のプレーが出せたというのは、今のようなプレースタイルですか?
「そうですね。その頃からドリブルをつくのも好きでしたし、外からシュートを打つのも好きでしたし、ドライブするのも好きでした。あんまりセンターという感じではなかったです。中学の自分のチームでも、ぶっちぎりで自分が一番デカかったんですけど、センターというイメージはなかったですね。本当にその頃好きにやらせてくれたまわりの人たちには感謝しています」
小学生の頃からの憧れ、名門・洛南高校へ

「もともと僕の父と母が、洛南が大好きだったんですよ。僕が小4くらいの時に家族で京都旅行に行って、母が『洛南の練習見に行こうよ』って言うくらいで(笑)。それで本当に練習を見に行きました。その時の洛南って深尾さん(深尾晃生・法政大2007年度卒・現NBDL東京海上日動)とかがいて、洛南の人たちと僕と兄で撮ってもらった写真もあるんですよ。今考えたら、結構アグレッシブなことしてましたよね(笑)」
B:もともと小学生の頃から憧れはあったんですね。
「そうですね。でも正直中学生の頃まで、全国でも超名門の洛南高校に行くなんて最初は全く考えていなかったんです。ただU−15に入ってから、もしかして全国でもやれるのかなとちょっと思い始めて。だけどいきなり県外に行くというのも抵抗があって、悩んでいたんですね。そうしたら『悩むくらいならまず練習を見に行こう』と父と母が言ってくれて、中3の12月くらいのものすごく遅い時期、ウインターカップの直前だったんですけど、洛南の練習に参加させてもらったんです。そうしたら、田村さん(田村晋・明治大2011年度卒・現曙ブレーキ工業)とマッチアップだったんですよ。いきなり思いっきりブロックされて、『うわ〜これが洛南か』と思いましたね。それでダメだな、全然通用しないなと思っていたんですけど、なぜか監督が練習終わったあとに、『お前をとるから』と言ってくれたんです」
B:その日に言われたんですか?
「そうです。練習に参加させてもらって、その練習のあとに。でもそう言ってもらえたんですけど、その時はその場ですぐに返事ができなかったんですよ。『え!? ちょっと待ってください!』みたいな(笑)。『自分、やっていけるのかな』って不安もありました。でも家に帰ってからいろいろ考えて、チャンスがあるなら洛南でやってみたいなと思って決めましたね」
B:そんな経緯があったんですか。実際入学してみていかがでしたか?
「ものすごかったですね。特に僕らが1年生のときって、2年生・3年生がめちゃくちゃ強くて、全国でも有名なタレント揃いだったじゃないですか。辻さん(辻直人・現NBL東芝)、田村さん、比江島さん(比江島慎・現NBLアイシン)、佐藤さん(佐藤将斗・12年度中央大主将)、大智さん(谷口大智)…。本当にすごかったんですよね。これが全国レベルか〜と。練習から全国でも最高峰のプレーを肌で感じることができたのは、本当に今にも生きていると思いますね。でも1年のときのインターハイは、能代に負けてしまって。そのときは、このメンバーがいても勝てないなんて、全国はやばいなと思いましたね(笑)」
B:比江島選手も、高2のインターハイは強いと言われながらも勝てなくて苦しんだと言っていました。(BOJラインvol.3)
「そうなんですよね。かなりすごい選手たちが揃っていて、強いと言われていました。その中でもやっぱり比江島さんはすごかったです。特に僕なんかは、比江島さんがすごく憧れの存在で。入学したときからこの人すごいなと思って見ていて、あんなの真似できないですけど、あの人と一緒にプレーできたのは自分の中でもすごく大きなことだと思いますね」
B:憧れの先輩だったんですね。比江島選手は、後輩にどう接するんですか?
「いやまぁ、コートを離れれば基本的に適当ですよ(笑)。『今日俺も一緒に遊びにいくわ。待っとって〜』と言って、来ないとか(笑)。そういうのがよくありました。『OK、OK!』とか言ってても適当なんです。でも、比江島さんにはかわいがってもらいましたね」
B:(笑)。河上選手は、ポジションはずっと4番ですか?
「基本的には4番で、3年になってからは5番で出ることもありましたね。4番となると、練習中のマッチアップが田村さんとか比江島さんになるんですよ。もう、ボッコボコにやられて…。とにかくすごかったですね」
B:洛南高校で、どんなことを学びましたか?
「本当にいろんなことを一から学びましたね。バスケット選手として未熟だった自分を、やっとひとりのバスケット選手にしてくれたというか。正直、中学までは自由に好き勝手やっていて、自分が活躍することが第一だったんですけど、洛南に来て勝つためのバスケットを教えてもらいました。その中に伝統のパス&ランとかがあって。自分を磨き上げてくれたというか、バスケット選手としての第一歩は洛南だったと思います」
写真:洛南の先輩でもある田村と佐藤。大学では明治大と中央大へと分かれた。
チャンスを掴みかけたタイミングで起きた悲劇

「最初は戸惑いましたけど、1・2年生の頃はそんなに試合も出られませんでしたし、試合に出るようになった3年の頃にはもう慣れていたので。慣れれば楽しいし、充実感もありましたね」
B:1・2年の時は、メンバーには入っていてもあまり試合には絡めなかったんですね。
「そうですね。2年生になってやっと出られるかなって思ったんですけど、2年になるときにちょっと大きい怪我をしちゃったんですよ」
B:何の怪我だったんですか?
「鎖骨を骨折したんです。それで手術して、プレートを入れて。怪我したのが1年の終わりの2月ですね。本当に新チームが始まってこれからという時期でした。3年生が引退して、新チームになって最初の1カ月くらいは結構練習でもスタメンで使ってもらえたんですよ。だから、比江島さんとか大智さんとか佐藤さんとかと一緒にプレーさせてもらって、『うわぁ、楽しいな〜』って思っていたときに怪我してしまって。それで手術して本格的に復帰したのが、4月とか5月の頭でした。でも復帰したんですけど、全然怪我する前のようなプレーができなくて…。僕は全く意識してないんですけど、監督とかからもよく『お前、痛いのか』と聞かれるんです。意識はしてないつもりだったんですけど、やっぱりどこかいつもの自分じゃなかったみたいで」
B:怪我する前と後で、変わってしまったんですね。
「そうですね。怪我する前はスタートで使われていたし、復帰してうまくいけば国体とかウインターカップも出られるんじゃないかと思っていたんです。今思えばちょっと甘い考えですけど。でも復帰してもそうやって怪我する前のような動きができないから、どんどん自信がなくなってきちゃって…。全然動けなくて、正直このままじゃまずいなって焦りましたね。バスケをするために親も洛南に送ってくれたのに、やっと試合に出られるというタイミングで怪我しちゃったので。そのときはすごく落ち込みました」
B:そこからどのように調子を取り戻していったんですか?
「プレートを入れていたのでそれを抜かなきゃいけなかったんですけど、抜く手術をしたらまた一カ月くらい復帰に時間がかかるんですよ。それで、僕としてはやっぱり憧れだった比江島さんたちと一緒にプレーしたかったですし、たとえ自分が3年になったときに合流が遅れても良いから、手術は2年のウインターが終わってからにしようと思っていたんです。でも、監督から『お前のことは3年からちゃんと使いたい』と言われて。諦めろとは言われなかったですけど、2年生の間は試合に使ってもらえそうもなかったので、それならと思ってウインターの前にプレートを抜いたんです。それでちょっと入院して1カ月くらいバスケは休んで。だから高2のウインターは応援席で応援してたんですよね」
B:そんなエピソードがあったんですか。怪我に泣いたシーズンだったんですね。
「そうですね。2年のときは本当に、一番のどん底というか、試練も多かった年でしたね」
B:応援席からウインターカップ優勝の瞬間を見てどうでしたか?
「いや、やっぱり洛南はすごいなと。客観的に見ていても思いました。かっこいいなって。比江島さんも、神がかっていましたよね(笑)」
B:では早い時期にプレートを抜いて、3年生になってチームに合流したと。
「そうですね。新チームが始まった最初から合流はできました。でもまぁ、シックスマンとかで出番も最初は少なかったですね」
3年目にして味わった、全国での手応え

「はい。ほとんどの試合がシックスマンでしたね。鈴山と晃大(早稲田大#15木村)がスタメンで、そのどちらかと交代して出ることが多かったです。でも最初は本当に全然使ってもらえず出ても10分とかだったんですけど、インターハイの延岡戦で、負けはしたんですけど結構手応えを掴めたんです。とにかく『リバウンドを取ってこい』という感じで使われて、何も考えずにリバウンドとブロックショットだけやってこようと思って出たら、すごく調子が良くて。リバウンドも結構拾えたし、セネガル人もブロックできて、『あれ?結構自分、できるじゃん!』って(笑)。その試合が、初めて洛南の主力として出て手応えを掴めた試合でしたね」
B:全国で手応えを感じたのは3年生になってからだったんですね。
「そうです。そこで初めて手応えを掴んで、それが国体につながったんですよね。それで国体もシックスマンだったんですけど、急に出場時間が伸びたんです。今まで10分とか15分とかだったのが、国体のときは30分以上出させてもらって、それで優勝できたのは嬉しかったですね」
B:決勝はチームハイの活躍だったんですよね。
「そうなんです。あれは嬉しかったですね。自分のプレーを出せて活躍して、しかも全国制覇って、こんなに嬉しいことはないじゃないですか。そこで自分も全国でやれるんだなという自信になりました。運が良かったとかそういうのもあると思うんですけど、本当にあの時は嬉しかったです」
B:しかも相手が地元の静岡ですしね。藤井選手は「絶対行けると思った」と言っていました(笑)。
「そうですね。正直決勝に上がってくるのは福岡だと思っていたんですよ。だから福岡が静岡に大敗したのを知って、『嘘だろ!?』と思いましたね。でも相手が静岡ということで、『ここで負けたら俺はなんのために京都に来たんだ』って話になるじゃないですか。だからこそ負けられなかったですね。試合の入りはすごく悪くてボコボコにされたんですけど、なんとか巻き返して最後ギリギリで逆転して勝てました。あのときは、僕らの代が一番脚光を浴びたときだったんじゃないかと思います」
B:決勝に進む前の対戦はどんな戦いだったんですか?
「僕ら、組み合わせがめちゃくちゃ悪かったんですよ。いきなり1回戦が北陸(福井県)とで、2回戦が延岡(宮崎県)と。でも大会前は『最悪なところに入っちゃったな』って言っていたんですけど、なぜかみんなめちゃくちゃ調子が良くて、勝っちゃったんですよね。それで3回戦で千葉と当たって、千葉もすごく能力の高いチームだったんですけど、最後に小林のブザービーターで勝ったんです。それで決勝進出になりました」
B:初戦から強豪を突破して勢いに乗れたのが良かったんですね。一転してウインターカップは、大濠高校の勢いに飲まれてベスト16で散る形になりましたが。
「そうなんですよね。4連覇もかかる大事な大会だったんですが…。国体も優勝できたし、うまくハマれば優勝もできると思っていました。しかも大濠と夏場とかに練習試合をしても普通に圧勝で勝っていたんです。だから僕たち、大濠に勝てば次は藤枝明誠だったので、藤枝明誠に向けての練習をしていたんですよ。洛南って相手によってディフェンスを変えるなんてほとんどないんですけど、あのウインターカップの前は珍しく藤枝明誠を想定して祐眞を止めるためのボックスワンとかを練習して。でも、あの時は大濠がものすごく勢いに乗っていたんですよね。みんなめちゃくちゃシュートも入っていたし、二宮(早稲田大#4)もすごかった。それでやられちゃったんですよね」
B:自分のプレーはどうだったんですか?
「またベンチからの出場で30分くらい出たんですけど、それなりに調子も良かったんですよ。確か20点近くとったかな。でも最後の一番大事な場面で、ミスったんですよね…(苦笑)。残り30秒とか20秒しかない場面で4点ビハインドだったんですけど、僕がハイポストでパスをもらったら、たまたまドフリーだったんです。それでドライブに行って『よし!これで2点差だ!』と思っていたら、そのレイアップがリングの根元にあたって、コロコロってこぼれて。『うわー!』って思った瞬間そのままブレイクを出されて、6点差にされてしまいました。あれはやっちゃいましたね。ベンチも応援団もみんな一斉に『うわー!』ってなって、凄まじかったですから(苦笑)。持ってねー!って感じですね。あれは結構落ち込みました」

「そうなんですよ。それでメインコートに立てずに終わったという…。試合が終わったあとも、みんな気を遣って誰も最後のプレーについて触れてこないんです。その中でバシオ(小林)だけが『なんで外してんの、お前』って言ってきて(笑)。でも逆に言ってくれて救われましたけどね。『ほんとごめん!』みたいな」
B:高校3年生のときは偉大な先輩たちが抜けた年で、そういう苦労もあったかと思いますが。
「それはだいぶありましたね。洛南って名門ですけど、やっぱり1個上と2個上はそのなかでも飛び抜けて強かったし、ウインターカップ3連覇とか結果も残していたじゃないですか。それで僕らが3年になって、そういう先輩たちがゴソッと抜けて…。僕らも一応、国体で優勝してるんですよ?三大大会のうちのひとつは勝ってるのに、なんかそれも忘れられちゃうというか(笑)。1個上や2個上のインパクトが強すぎて、まわりから『あの年の洛南ってあんまり…』みたいにすごく言われるんですよね。まぁ確かにウインターカップでベスト16に終わったのは大きなミスですけど…」
B:洛南は冬に強いというイメージがあるから、なおさらかもしれませんね。
「そうなんですよね。毎年、冬の洛南って言われていましたから。国体よりウインターカップの方が注目度も高いですし、それは仕方ないかなとは思いますけど」
B:先ほど小林選手の名前が出ましたが、小林選手とは高校の頃から仲が良いんですね。
「はい。小林は高校1年のときからずっと一番仲が良かったと思います。寮で一緒だったので。何かするときはだいたい一緒でしたね」
B:あの代の洛南は、個性あふれる選手が揃っているように思いますが。
「そうですね。蛯名(慶應義塾大#4)がキャプテンだったんですけど、たぶん大変だったと思いますよ(苦笑)。あいつもあいつで頭が良い分すごく悩んでいましたし。でもとにかく僕らの代は、みんな仲が良かったですね。寮生が僕と蛯名と小林と鈴木(早稲田大#7鈴木貴大)と成田(関東学院大#20成田宏樹)の5人だったんですけど、どっか遊びに行くといえばだいたい5人一緒でした。逆にいつも5人で行動しすぎて、たまにひとりいなかったりすると『あいつなんかあんじゃねーか?』みたいな(笑)。5人以外もみんな仲良かったですね」
B:そうだったんですね。そういえば河上選手は、洛南時代は怒られ役だったそうですね。
「高校のときは、ものすごく怒られましたね。たぶん、僕らの代では僕が一番怒られていると思います。僕と塩谷(中央大)が怒られ役だったんですよね」
B:どういうことで怒られていたんですか?
「僕って今でもそうなんですけど、浮き沈みあるというか…。良いときは良いけど、ダメなときはほんとダメって感じだったんですよ。たぶんそういうところが目についたのかなと。それに僕、力の抜き方が下手なんです(苦笑)。そういうのが上手い人もいるんですけど、僕が力を抜こうとしても不思議とすぐバレて『おい!なにしてんだ!』ってなるんですよね(苦笑)」
B:そうだったんですか。プレースタイルは、高校時代も中学生の頃から得意だったリバウンドとブロックショットが売りだったんですか?
「そうですね。洛南でも。本当は、比江島さんみたいに1on1でこじ開けて勝負どころで決められるような選手に憧れていたんですけど、そんな理想ばっかり追いかけてもだめだなと(苦笑)。まずはチームのために、ディフェンスとリバウンドを頑張ろうという感じでやっていました。ブロックは、小さい頃から好きだったんですよ。とりあえず跳んどこうみたいな」
B:河上選手はジャンプ力がありますよね。
「そうですね。でも高さ的にはそんなずば抜けて跳べているわけじゃないんですけど、よくまわりから『タイミングが良い』とかは言われていました。あまり考えたことはないですけど」
B:確かに、リバウンドや合わせも、その空間にちょうど良く入ってくる印象です。
「そうですかね。でも、無意識です。というか、意識していると逆にちょっとワンテンポ遅くなっちゃうんですよね。頑張ろうって集中しているときの方が、自然と体が動いてバッと飛び込める感じがしますね。意識しない方がいいのかなと思います」
先輩たちに支えられ力を存分に発揮

「進路が決まったのは春とか夏とかのわりと早い時期だったんですけど、正直、高3の春先って自分は全国でも全然活躍してなかったですし、バスケットで自分はそんなたいした選手じゃないなと思って。結果もなにも残してなくて、それこそ秋の国体で初めて全国でやれると思ったくらいじゃないですか。だから進路のことを考えた時に、バスケも大事だけど将来のことも考えなきゃなと思って、それで早稲田がいいなと思って先生に希望を出したんです。そうしたらいいよと言われて、早稲田に決まった感じですね」
B:声がかかって決めたわけではなかったんですね。そのとき早稲田大は2部でしたが、そうしたことも考えず。
「はい。2部とか1部とか、全然考えてなくて。早稲田のバスケット自体も、正直見たことがなかったですね。でもメンバー表を見てすごいメンバーが揃っているなとは思いました」
B:河上選手は入学して、1年の頃からスタートで使われていましたよね。
「そうなんですよね。あの時は、金井さん(2010年卒・現bj東京サンレーヴス)がトーナメントで怪我しちゃって、トーナメントの中央戦で初めてスタメンで使われたんです。そうしたらその時になぜかめちゃくちゃ調子が良くて、いきなり18点10リバウンドとかで。チームで一番点を取ったんです。それから結構スタートで使ってもらえるようになりましたね」
B:いきなり活躍して結果を出せたのが大きかったんですね。
「そうみたいです。まぁ1年のときは、正直いっぱいいっぱいでした(苦笑)。もう、何も考えずに必死にやるだけというか。試合だけじゃなく1年生の仕事とかもあるじゃないですか。そういうのも結構大変でしたね」
B:1年のときは、先輩たちについていくだけだったと。
「はい。走って、ディフェンスして、リバウンド飛び込んで。ボールなんて持つものじゃないと思ってました(笑)。持ったらすぐパス!みたいな。アシストされてノーマークのときだけ打つような、そんな感じでしたね。でも逆に何も考えることがなかったのでやりやすいというか、体も動いていたと思います」
B:いきなり入替戦もいけましたし。
「それは大きかったですね。正直1年で上がれるなんて思ってなかったです。入替戦で中央に勝ったのは今でもよく覚えています。あれが結構、僕の人生の分岐点だったかなって。1部でやるのと2部でやるのとじゃ結構全然違うと思うんです。大きかったですね、あそこで勝てたのは」
B:2年生になって初めて1部でプレーすることになりましたね。でも2年生の時も、リーグ戦はかなり活躍していましたよね。
「あの年は、いろいろ上手く噛み合ったんですよね。正直1部でどれくらいやれるか未知数だったんですけど、夏の合宿のときに久保田さん(11年度卒・現NBL和歌山)がユニバーシアードに行ってていなかったんですよ。そのときにアイシンとかすごく強いチームと練習試合をする機会があって、それで久保田さんもいないから、僕自身、得点も取らなきゃいけないし、リバウンドも負けちゃいけないなと思ったんです。そこでいろいろ1on1とかを試してみたら、何かきっかけを掴んだような手応えがあって。今までボールは持つものじゃないって感じだったんですけど、意外と仕掛けたらやれる部分があるぞと思いました。それからリーグに入って久保田さんが戻ってきたら、ますます上手くいったんですよね。やっぱり中心は久保田さんと大塚さん(12年度卒・現NBDL豊田通商)で、ふたりが攻めている間は僕もリバウンドだけを狙っていたんですけど、ふたりが上手く機能しないときに僕が仕掛けるみたいな形で。それがうまく噛み合って、だから結構良い成績を残せたのかなと思います」
B:2年生の頃は、河上選手が本当に良いところで合わせやリバウンドに飛び込んでいた印象です。
「はい。おいしいどこ取りといったらあれですけど、大塚さんのパスがあって、久保田さんのこぼれ球を拾って、数字だけ残していたような感じですね(笑)。あのときは本当にリーグ戦をやっていて楽しかったですし、充実感もありました。いろいろ思い出深いリーグ戦でしたね。日大にブザービーター3連発で勝った試合もあったじゃないですか」
B:ダブルオーバータイムにもつれた試合ですね。あれは熱戦でした。
「そうです、そうです。しかもブザービーターを決めたのが、全員洛南だったんですよね(笑)。僕がタップして延長に持ち込んで、晃大(#15木村)がスリーを決めてダブルオーバータイムになって、最後は藤原さん(2012年度卒)のシュートで逆転勝ちして」
B:洛南の選手は持っていますね(笑)。
「そうかもしれません(笑)。あの試合は楽しかったですね。興奮しました」
エースとしてぶつかった、マークされる苦労

「そうですね。大塚さんはいてくれましたが、やっぱり自分が点を取りにいかなきゃいけないとか相手のエースにつかなきゃいけないとか、あの時はすごくいろいろ考えすぎてしまって…。ブレイクもそんなに走れなかったですし、リバウンドもそんなに拾えなかった。マークされる大変さを知りましたね」
B:それまでは久保田選手にディフェンスも寄っていますからね。
「そうなんですよ。寄っているから、全然こっちを見てないなって隙に、リバウンドも拾えたし合わせも飛び込めたんですけど。久保田さんが抜けてからは、絶対に自分をマークするエースキラーのような人がいました。そこをどうやってこじ開けるかというのは、ずっとずっと課題でしたね」
B:インサイドの存在は本当に大きいですね。
「大きいですね。特に久保田さんなんかは、自分でプレーを作れる選手というか。1on1もすごく上手かったですし、4年間ほぼひとりで早稲田のインサイドをやってきたわけですから。やっぱりあの人はすごかったんだなと今でも感じますね」
B:昨年は、2部との入替戦にも回ってしまいましたね。
「はい。大塚さんも怪我して、結構大変でした、本当に。後半で一気に負けがこんだんですよね。沈みっぱなしでリーグ戦も終わっちゃって、入替戦もなんとか勝った感じでした」
B:去年からほぼ3番ポジションで使われるようになりましたよね。そこでの戸惑いもあったようですが。
「そうですね。3年のときは手探りというか『3番ってこんな感じでいいのかな?』という感じでプレーしていました。でも李相伯とかの代表ではこの身長で4番として使われることはほとんどなかったですし、もともとアウトサイドのプレーの大切さはすごく感じていて。ドライブとか3Pはすごく意識して、かなり練習もしましたね。でもチームがなかなか勝てなかったですし、正直自分が4番で出ている時の方がチームもうまく回るんじゃないかとかは、すごく思いました。自分は上でプレーするためにも3番でやらなきゃいけない、でもそうするとチームが勝てない…そういう葛藤みたいなものはありましたね。結構悩みました」
B:苦しんだシーズンだったんですね。
「はい。僕自身も李相伯杯の代表に選ばれたりして、やっぱり恥ずかしいプレーはできないなとかいろいろ思いましたし。自分が悪かったらチームも勝てないなと思ったし、そういうエースという立場を初めて経験したシーズンでした。今まで、高校のときはシックスマンだったし、大学1・2年の間はぴょんぴょん跳んでるだけだったじゃないですか(笑)。だから壁にぶつかって、いろんなことを感じた年でしたね」
B:壁にぶつかったときは、いろいろ考え込んでしまうタイプですか?
「たぶん考えすぎるタイプだと思います。でもその都度、両親もそうですし、友達とか監督とかがいつもアドバイスをくれました。場面場面でそういう人たちがいて、すごく恵まれた環境でやってきたなというのは今でも感じますね。本当にまわりの人たちが、僕の持っている以上のものを引き出してくれているなと。そうやって壁にぶつかったり悩んだりしても、しっかり段階を踏んで、自分なりに成長してきたのかなとは思いますね」
B:4年目となった今年も、大きな壁にぶつかっていますね。
「そうですね。いまいち…いまいちどころじゃないか、相当ひどいですね(苦笑)。自分たちが最上級生だし、4年生がしっかりしなきゃいけないんですけど…。正直春から調子が上がらなくて、苦しい状況ですね」
B:春は体調不良もあったと言っていましたが。
「はい。トーナメントのときに、扁桃腺がはれて。その時は、3日で5キロ痩せました(苦笑)。本当にやばかったです」
B:体重が落ちて、足元がふらつくという話を春はしていましたね。
「はい。病気になる前に、ユニバでガンガン練習してウエイトもかなりやって、自分的に体つきも前に比べてすごくガッチリしてきたと思っていたんですよ。そうしたら病気になって今までやってきたことが全部パーになって。正直ショックでしたね」
B:体重は戻したんですよね?
「はい。それはまたユニバの期間があって鍛えられたので、戻ってはいます」
B:今までもこういう波はあったんでしょうか?
「そうですね。でも、ここまで調子が悪いことはあまりなかったと思います。ここまで勝てていないのは、人生でも初めてですし。まぁ頑張るしかないですけどね」
代表で知った「知らない世界」で考え方が変わる

「いやもう、ユニバに入ったことは、僕のバスケットのキャリアの中でも一番大きな出来事だと思っています。やっぱりすごく良い経験をさせてもらいました。ああやって上手い人たちと一緒にプレーするのは自分を高めてくれる経験だと思っていますし、世界とも初めて戦ったので。初めてだったので『うわぁ、これが世界か』と思ってしまうのが正直な気持ちなんですけど、でも本当に、自分の知らない世界を知ることができたというか、自分の中でもすごく考え方が変わりましたね」
B:それは、代表を意識するようになったとか?
「そうですね。今までは代表とかに自分が選ばれるなんて全く思ってなかったですし、ユニバに入ったときは正直びっくりしましたけど、入ってから、やっぱり日本のために頑張らなきゃと思うようになって。日の丸を背負うって、本当に言葉では表せないですけど、すごい経験をさせてもらっているなと思うんです。本当ならこの経験を、早稲田に還元しなきゃいけないんですけど」
B:でも、早稲田大の池田選手(#34)も河上選手が練習中からキャプテンとしてチームを引っ張ってくれていると言っていましたよ。
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、やっぱり結果を残すために僕らもやっているわけで。一番大事な結果がついてこないというのは、僕ら4年に責任があると思います。正直、今本当に苦しいですけど、それでもリーグ戦は続くので…なんとかしなきゃなと思います」
B:去年よりも苦しいシーズンですね。
「そうですね(苦笑)。去年はそれでもまだ3年生だったので。大塚さんもいたし、自分のプレーに集中できる部分がありました。でも今年に入ってからはやっぱり結果も気にしますし、4年生としてのプレッシャーも感じますね」
B:リーグ戦の休止期間には東アジア大会もありますが。
「はい。そこで何か掴まなきゃいけないと思いますし、掴めばまだまだ早稲田はやれると思うので。このまま終わるようなチームではないと思っていますし、僕自身もこんなふがいないまま終わるつもりもありません。何かきっかけを掴んで、一発見せたいなと思っています。がむしゃらに頑張ります」
B:代表メンバーたちとはどんな感じですか?
「仲良いですね。しかも僕ら、ユニバのときから実業団の選手とかがいなくて、学生だけだったじゃないですか。だからすごく団結していたというか、みんな仲良くなりましたね」
「サッカーが大好き」見えてきた意外な一面

「あだ名がついたのは高1の春とか夏なんですけど、僕、洋楽がすごく好きで、聴きながらちょっと口ずさんでいたんですよ。そうしたらそれを聞いてた友達が、『なんかキャリーって言ってたぞ』みたいなこと言って(笑)。そこからですね、そこからキャリーと呼ばれるようになりました。別にそのあだ名が気に入っていたわけではないんですけど、僕自身も結構適当なので特に気にせず、キャリーと呼ばれても『何?』って普通に返事してたんですよ。そうしたらいつの間にかみんなそう呼ぶようになっていて、本当に高校で違和感ないくらいのあだ名に定着しちゃったんですよね。それで大学に入ったんですけど、早稲田って洛南出身が多いじゃないですか。だから、大学でも変わらずキャリーってなっちゃって。いつの間にかみんなそう呼んでいるんですよね」
B:そういう理由だったんですね。
「そうなんです。みんなによく『なんでなの?』って聞かれるんですけど、こうやって説明してもよく分からないですよね(笑)。説明するほどのことじゃないというか…」
B:きゃりーぱみゅぱみゅは関係ないんですね(笑)。
「はい。僕のほうが先なんですよ(笑)。でも地元の友達にきゃりーってあだ名がバレたのが、大学3年とか4年になってからなんです。ツイッターとかの名前をきゃりーにしているので。だから、地元のみんなに『きゃりーぱみゅぱみゅ好きなの?』って聞かれましたね。そこはよくいじられます」
B:藤井選手が、新しいあだ名は「ケ」だと言っていましたが(笑)。
「(笑)。ケリーとかケとか、いろいろあってよく分からないんですよ。たぶん、祐眞はキャが言いにくいんじゃないですか?まぁ適当だと思います(笑)」
B:河上選手は洋楽が好きなんですね。
「そうですね。昔は結構ロックが好きだったんですけど、最近はガチャガチャしてるのはあんま聴かなくなりましたね。なんか落ち着いたんですかね?(笑)よく分からないですけど」
B:オフの日は何をしているんですか?
「オフの日は寝ているか、バシオんちに行くか…」
B:藤井選手もまったく同じ回答でした(笑)。
「オフになればだいたい遊んでますから(笑)。バシオの家で気付いたらオフが終わっているということが多いです」
B:河上選手はサッカーも好きだとか。
「サッカー大好きですね。プレーは全然できないんですけど、高校の時から試合を見るのが好きで。Jリーグはあんまり見ないですけど、ヨーロッパとか。見るだけだったらバスケの試合より見てるんじゃないかってくらい見てますね」
B:自分ではやらないんですか?
「やらないです。ヨーロッパのスーパープレイとかを見すぎて、現実との違いが辛くて(笑)。あまりやらない方がいいんじゃないかと思ってます」
B:では、自分はどんな性格だと思いますか?
「僕は、良くも悪くもマイペースだと思います。めったに怒らないですね。興味があることにはかなりハマるんですけど、興味のないことには見向きもしないというか。あと、結構人見知りです」
B:そうなんですか。人当たりが良さそうなので意外です。
「こういうインタビューとかは大丈夫なんですけど、初対面とかダメな人です(笑)。初めて話しかけられると、『おっす』みたいな感じで話が終わっちゃうんですよね」
B:シャイな一面もあるんですね。では、次は誰にインタビューを回しましょうか。
「いろいろ考えたんですけど、明治の森山(#5森山翔太)はどうですか?」
B:いいですね。明治はまだ誰も行っていませんし。
「そうですよね。森山とは仲良いんです。あいつ、面白いしめっちゃ良いやつで、誰とでも仲良くなれるんですよ」

「大学からですね。大学1年の頃に1年生で集まる機会があって、そのときに話しかけられたのがきっかけです。僕、高3の国体で千葉と試合したときに、森山がほぼフリーで行ったレイアップを思いっきりブロックしたんですよ。それを覚えていてくれたみたいで、『お前にブロックされたんだよな〜』って言われて、そこからですね」
B:森山選手に何を聞けば面白いでしょう。
「あいつ、ツイッターとかによく中国語とか韓国語が出てくるんですよ。やたら中国とか韓国に詳しくて。そのあたりを聞いてみたらいいと思います」
B:それは興味深いですね。では次回は明治大学の森山選手にお話を伺います。河上選手、ありがとうございました。
写真下:サインがないという河上選手、楷書できれいに名前を書いてくれた。添えた言葉は「一生懸命」。
◆#21河上宗平(かわかみ そうへい)
戸田中→洛南高→早稲田大
4年・F・主将
190cm/86kg
・2005 ジュニアオールスター静岡県代表
・2006 ジュニアオールスター静岡県代表
・2009 インターハイベスト8(高3)
・2009 国体優勝(高3)
・2009 ウィンターカップベスト16(高3)
・2012 李相伯杯代表
・2013 李相伯杯代表
・2013 ユニバーシアード日本代表
・2013 東アジア競技大会日本代表
(2013.9.21インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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