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2013.03.31 (Sun)
【SPECIAL】BOJラインvol.15〜星野拓海選手〜
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.15~筑波大学・星野拓海選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第14回の青山学院大・野本建吾選手からバトンを渡されたのは、筑波大・星野拓海選手です。
全国区の強豪・市立船橋高校から筑波大学に進学。当たり始めると止まらない3Pシュートを武器に、大型シューターとしてチームの勝利に貢献してきました。また4年目のシーズンはキャプテンに就任し、“団結”をテーマに掲げて仲間を牽引。チームの絆を強固なものとし、1シーズン通して好成績を収めて笑顔で4年間を終えました。
心優しく、コートを離れればのんびりとした様子の星野選手ですが、小学生の頃からの夢を現実にするなど、ぶれない芯を持っている選手。そんな星野選手の魅力を、卒業前にインタビューでじっくりとお伺いしました。BOJライン、第15回もどうぞお楽しみ下さい。
BOJ(以下B):BOJライン、第15回は筑波大・星野拓海選手です。よろしくお願いします。野本選手からの紹介ですが、野本選手とはいつ知り合ったんですか?
「いつですかね…? チームメイトの坂東(筑波大#14)が北陸高校のつながりで野本と仲が良かったので、坂東から『あいつ、超いいやつですよ』みたいなことは聞いていたんですよ。でも実際ちゃんと話したのは、たぶん関東選抜の時ですね。最初は硬かったんですけど、あいつもああいうキャラなのですぐ打ち解けて。今は可愛い後輩という感じです。すごく真面目なやつみたいで、本当に“後輩”って感じですね」
B:関東選抜のメンバーはすごく仲が良いとお伺いしました。
「めっちゃ仲いいですね。智伸(長谷川智伸・拓殖大#94)とかとはもともと仲良かったんですけど、ほかのメンバーは結構初めて話すような人も多くて。でも徳島(選抜の開催地)に行くまでにはすごく仲良くなりました。村田(関東学院大#30)とか高田(法政大#0)とか、初対面でしたけど、今となっては飲みに行ったりもする友達です。そのくらいみんな仲が良いですね」
B:それは素敵ですね。では本題に入りますが、バスケを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校2年の終わりに、友達に誘われて練習を見に行ったのがきっかけですね。それにその時ちょうど『スラムダンク』にハマっていたので、完全に『スラムダンク』の影響です(笑)。でも本当にバスケットが好きで、クラブの時間以外もずっとバスケしかしてなかったです。『スラムダンク』もバスケも、それくらい大好きでしたね」
B:狩野選手は『スラムダンク』を読んだことないと以前仰っていました。
「そうなんですよ! 前にそれ聞いて、『マジかー』って。絶対損してますね(笑)」
B:兄弟はいるんですか?
「姉が一人います。でもミニバスも最後に人数が足りないからって、かじった程度だし、中学では陸上をやっていたんですけど、そんな本気ではやってなかったですね。まぁうちの家族、誰もバスケやってないんです」
B:バスケット以外の競技は?
「父は陸上の棒高跳びをやっていたみたいですけど、今はぽっちゃりして全然その姿が想像できないです(笑)。母はバレーボールだったかな? まぁ全然スポーツ一家ではないですね。バスケをやっていた人は親戚にも誰もいないので、もし『スラムダンク』がなかったら自分もバスケはやっていなかったかも知れません」
B:では小学校・中学校はどんなチームでしたか?
「小・中と本当に家から近くて、小学校は歩いていっていたし、中学も自転車で5分とかだったし、全然強いチームではなかったですね。ただのバスケ部という感じで。中学は、1・2年の頃は市で一回戦負けとかでした。でも2年のジュニアオールスターくらいから自分も選抜系に入れるようになって、そうしたら選抜でお世話になった先生が、たまたま僕が中学3年の時にうちの学校に来ることになったんです。それで中学3年の時は、関東大会に出てあと1勝すれば全中に出られるというところまでいきました。最後は梅林(東海大#12)のいる東海大相模に負けて引退しました」
B:中学3年の時は強かったんですね。
「そうですね。それまでは本当に市でも勝てないし、でも部活はすごくキツいしで、あまり楽しくなかったんですけど、勝てるようになってからはめっちゃ楽しかったです。それに自分、3年の時は生徒会長もやっていて、結構忙しかったですね」
B:生徒会長だったんですか!
「はい、ノリで立候補して…。演説とか、校門の前に立って『挨拶運動』とかもしました(笑)。卒業式の答辞も読んだし、成人式の時は成人代表の挨拶も読みましたね」
B:さすがですね。そういえば中央大の佐藤将斗選手も生徒会長だったと言っていました。(BOJラインvol.10参照)
「あ、そうみたいですね。まぁでも、僕がいる地域の規模が小さいんです(笑)」
B:それでもすごいことだと思います。文武両道だったんですね。
「中学の時は結構勉強もしていて、中1の時は最初塾に通っていました。ジュニアオールスターとか選抜に選ばれるようになってからは忙しくて辞めましたけど」
思い出のジュニアオールスター決勝
B:2005年のジュニアオールスターは、千葉は準優勝だったんですよね。
「はい。決勝で福岡に負けました。ジュニアオールスターはすごく覚えています。準決勝で埼玉と当たったんですけど、その時の埼玉って大塚(早稲田大#6)のいる新座四中とか、めっちゃ強くて。そこが山だと言われていたんですけど、結構普通に勝てて、気付いたら決勝でした。でも自分は当時あまり強くもなかったし、どこの中学が強いとか誰が上手いとかも全然分からなかったんです。それで、まわりの人から『あいつやばいぞ』みたいなこと言われていたのが、比江島(青学大#56)だったんですよね。実際あいつとマッチアップだったんですけど、ついてみたら本当にやばかったです(笑)」
B:その当時、お互い身長はどれくらいだったんですか?
「全く同じくらいですね。182とか183で。ほんと上手くてびっくりしました。でもその時は、上野翼が完全にエースだったんです。あいつにボール持たせれば絶対点が取れる、みたいな。彼もやばかったですね。僕らの世代ってあいつが結構ヒーローで、比江島が2位みたいな感じでしたからね(笑)。でも今考えると、あの時の福岡って狩野(東海大#33)もいて、玉井(早稲田大#8)とか和田力也(浜松大#33)もいて、すごいメンバーですよね。そりゃ強いです」
B:千葉のメンバーも、現在大学でも活躍している選手が多いですよね。
「そうですね。今回、千葉ジェッツの前座試合で千葉選抜としてチームを作って、久しぶりにみんなと同じチームでやれました。鈴木康貴(駒澤大#8)とも、バスケするのはジュニアオールスター以来です。8年ぶりかな? あいつもミニバスからめっちゃ上手くて、中学もあいつのいる中学(市立船橋中)は強かったですね」
B:そうだったんですか。では中学を卒業して、どうして市立船橋高校に進んだんですか?
「最初は、勉強しようかバスケしようか迷っていたんです。でもバスケが好きだったので、バスケの強いチームに行こうと。それで千葉は出たくなかったので、県内では市船が一番全国に近いかなと思って決めました。学校の先生を目指していたんですけど、結果を残せば良い大学にも行けるし、しっかり高校・大学で勉強していれば教員免許も取れるから大丈夫だよと言われたこともあります」

B:学校の先生には幼い頃からなりたかったんですか?「そうですね。この前、小学生の時に作ったタイムカプセルが送られてきたんですけど、そこにも『先生になります』と書いてありました。しかも、『そのために筑波大学に入る』って書いてあったんですよ。それは覚えてなかったので、びっくりしました。多分小さい頃お父さんに、筑波の宇宙センターに連れて行ってもらって、『こういうすごい大学があるんだぞ』って言われたことが印象に残っていたんだと思います」
B:小学生の頃に宣言した通りになっていますね! 市立船橋に入って、最初はどうでしたか?
「僕、中学生の頃から遠藤さん(2010年大東文化大卒・現JBLリンク栃木)と仲が良かったんですけど、市船って遠藤さんが高1の時ってずっと坊主だったし、ランニングコースをずっと走らされるみたいな話は聞いていたので、入学前からめっちゃビビっていたんです。でも確かに厳しいんですけど、遠藤さんなり神さんなり先輩たちが優しくしてくれたので、上下関係はあまり無かったですね。練習はすごくキツいし、入部してすぐ坊主にならなきゃいけなかったのも、泣く泣くという感じでしたが…。まぁ市船ってほかの部活もとにかく厳しいので、厳しいのが当たり前な感じでした」
写真上下:bjリーグ千葉ジェッツの前座試合で。
名門・市立船橋高での大爆発
B:星野選手は1年生の頃からスターターだったんですよね。
「はい。入学前、3月くらいからチームに合流させてもらって、遠征も一緒に行かせてもらいました。最初はちょっとしか出なかったんですけど、入学してから初めての大会でいきなりスタートに呼ばれて、『おおっ』てびっくりしましたね。でもその一番最初のデビュー戦で、3Pを13本決めたんですよ」
B:13本!それはすごいですね!
「その試合は本当に今でも忘れられない試合ですね。本当に入学して一試合目でした。そこから3年間スタメンで出させてもらいましたね」
B:その時から3Pシューターだったんですね。
「いや、実はそうでもないんです。中学の時は、打ってはいたんですけどそんなシューターという感じでは無くて、チームの中で大きい方だったので、4番とか5番ポジションがメインでした。高校に入ってからは、まわりに大きい人がいたので3番・4番になりましたけど。シューターでは無かったんですけど、シュートを打つのは好きだったし、打っても怒られなかったので、たくさん打っていたら入りました(笑)」
B:いきなり一試合目で爆発したのがすごいですね。そのあと気負って調子が悪くなる人と、そのまま勢いに乗って調子を上げる人がいると思いますが。
「はじめの1年間はすごく調子が良かったんです。2年の春くらいにスランプというか、入らなくなる時期はありましたね。そこからぼちぼちという感じです。波がすごくあるから大変ですね」
B:高3の時は、インターハイで沖縄の北中城高校とトリプルオーバータイムの熱戦だったんですよね。星野選手はインターハイ前に怪我をしていたとか。
「そうなんです。インターハイ予選の初戦で、倒れた時に手をついたらものすごく痛くて、そのまますぐ病院に行ったんです。そうしたら『折れています』と。実はそのとき自分、折れてるって聞いた瞬間にふら〜っと気絶したんですよね(笑)。それまで骨折とか一回も大きい怪我をしたことなかったので、折れてるって聞いただけでびっくりしちゃって。それからも、たまに大きい病院でレントゲンを撮って自分の折れてるやつを見るたびに、貧血でクラクラして『ちょっと横になっていいですか』ってなるくらいでしたね(苦笑)」
B:手首を骨折したんですか?
「はい。左手の、舟状骨ってところを。治りにくい部分みたいです。だからインターハイ予選は出られなくて、ぎりぎり本戦で出られた感じですね。そうしたら、隆一(大東文化大#14岸本)と、貴哉(筑波大#47砂川)のチームとあんな試合になって。あれも忘れられない試合のうちのひとつですね」
B:骨折して、よく大会に間に合いましたね。
「ガチガチにして、固定する硬いやつをくっつけて、左手は全く使えなかったですね。まぁ右手は残っていたので、なんとか打てる感じでした」
B:岸本選手や砂川選手は当時どんな印象でしたか?
「貴哉はU−15で話したことがあって、隆一とも貴哉とのつながりでちょろっと話したことがあったんです。あいつら“沖縄”って感じで誰とでもすぐ仲良くなるので、試合前からめっちゃ気さくな感じで『よろしくねー!』って。でも始まってみたら、ものすごい試合でしたね…。121点とって負けるなんて今までなかったですから。しかも一回戦だったので、どこかの高校の普通の体育館でやったんですよ。クーラーも無いし、めっちゃ汗ダラダラで。ほんとキツかったです」
B:インターハイは初戦敗退となってしまいましたが、最後のウィンターカップはベスト8だったんですよね。
「そうですね。遠藤さんが3年の時もベスト8に入って、2年連続ベスト8でした」
B:そういえば遠藤選手が、2007年のウインターカップは自分のせいで負けたと言っていました。(BOJラインvol.8参照)
「明成戦ですね(笑)。後半一気に追い上げて2点差まで追いついて、最後に自分たちの攻めだったんですけど、そこで遠藤さんがパスミスして。めっちゃ覚えています。あっけなく終わりました(笑)」
B:遠藤選手は最初みんなにバレてないかと思ったと言っていましたが、鮮明に覚えているんですね(笑)。自分が高3の時のウインターカップにはどんな思い出がありますか?
「メインコートで洛南に負けたことですね。その前の国体でも京都に負けているんです。中学の時からずっと比江島に負けています(苦笑)。あいつには中学の頃から一回も勝ったことないですね」
キャプテンの苦悩と重圧。そして夢の筑波大へ
B:星野選手が高3年の時に、市立船橋は現在の近藤義行監督に変わったんですよね。
「はい。高2の終わりに、U−18で中国だか台湾に合宿に行ったんですよ。日本に帰ってきたら、お母さんから『近藤先生になったよー』って言われて(笑)。とりあえず学校に行かなきゃと思って学校に行って、そこで近藤先生に『よろしく』って言われたのは覚えていますね。噂にはなっていたんですけど、びっくりしました」
B:高3の時は星野選手がキャプテンですよね。監督も変わって、苦労もあったのでは?
「そうですね。僕の時は先生も1年目だったので、去年までのことを継続しつつ色々変えていかなきゃいけなくて、それは大変でした。近藤先生もずっと女子を指導されてきた方なので、市船で初めて男子を見ることになって戸惑いとかもあったみたいです。選手から反発もあって、自分はキャプテンだから先生の悩みも聞くし、チームメイトの悩みも聞くみたいな狭間の立場で、夏くらいまでは苦労しました。でもウィンターカップが決まった時期くらいから、ようやく先生のやりたいバスケットが自分たちもできるようになって、チームもまとまってきたと思います」
B:キャプテンの経験は以前にもあったんですか?
「中学生の時に、県選抜で初めてキャプテンになりました。中学でもキャプテンになりそうだったんですけど、生徒会長だったこともあって忙しかったので違う人になりましたね」
B:市立船橋で何を学んだと思いますか?
「なんだろうな…色々ありますけど…。勝たなきゃいけないというプレッシャーというのは、すごく経験になりましたね。市船は、千葉でもずっと勝ち続けてきた名門高なので。そういうプレッシャーに打ち勝って戦うというのは高校時代にすごく学んだことです」
B:千葉県内では幕張総合や市立柏などがライバルチームですよね。つながりは強いんですか? 国体での混成チームも、すごくチームワークが良いと聞きますが。
「そうですね。特に今は、スタッフ同士ですごく仲がいいんです。僕が下級生の時は、県内で手の内は見せないみたいなところがあったんですけど、近藤先生が市船に来てから、合同で合宿とか練習もやっているみたいですね。みんなで切磋琢磨していると思います」
B:高校卒業後は筑波大に進みました。ずっと筑波大に行きたかったんですよね。
「はい。筑波1本でずっと考えていました。先生にも筑波に行きたいという旨はずっと伝えていたので、結構すんなり決まりましたね。高3の5月とかインターハイ予選の前くらいにはもう決まったので、バスケに打ち込むことができました」
B:そんなに早く決まったんですか。
「はい。吉田先生も、僕が行きたいって思っていることを知って、視野に入れてくれていたみたいで。すぐに声をかけてくれましたね」
B:大学に入学した頃はケガがあってなかなか出番がなかったですね。
「高3の終わりくらいからですね。ウインターカップが終わって少し休んで、練習を再開しようとした時に疲労骨折していたのが折れたんです。それが筑波に合流する1週間くらい前だったので、合流とともに大学の附属病院に入院して手術しました。今もボルトが入ってます。小指なので抜きづらいんですよ。新人戦には間に合ったんですが、夏前にまた同じところを疲労骨折したんです。それで秋までにしっかり治そうと10月、11月までずっとリハビリしていて1年のシーズンが終わってしまいました」
B:スタッフからは期待しているんだけど、なかなか…という話も出ていました。
「1年生なのでそこまで試合に絡む感じではなかったんですが、中央や専修は1年生から試合に出ている選手が多かったので、そこは悩みましたね。でも無理して出てまたケガしたくなかったので、しっかりリハビリして、2年からは大きなケガはしていないです。捻挫とかはありましたけど」
B:高校から大学に行くと最初は馴染むのに時間がかかるというのが一般的ですが、どうでしたか?
「入学した時は片峯さん(09年度卒・現福大大濠HC)が主将で、すごく怖くてリーダーシップがありました。先生が出張とかでいない時の方が練習が厳しくて、1年の仕事も絶対にミスできないし、挨拶や振る舞いもしっかりしようという雰囲気がありましたね」
B:片峯主将は本当にリーダーシップがありましたよね。今も大濠をしっかりと指導して結果も出していますし。
「練習中もやる気がなかったり適当なプレーをしたら途中で止めて、指導されました。グサッと言うんですが、核心を突いたことしか言わないのでそれはすごいなと思いました。練習終わりのミーティングで集合した時も先生より良いことを言ったりするんです(笑)。本当に偉大だなと思っていました」
B:バスケット自体にはすぐ馴染めましたか?吉田監督は理論もしっかりしていますよね。
「ものすごくたくさんフォーメーションがあるので、1年生には覚えることが多すぎて最初はミスもありました。最初は先輩に教えてもらう形で覚えていくんですが、トーナメント、リーグと進むにつれてフォーメーションも増えていきます。リーグの途中から紙とかで配られて復習していく形になりますね」
B:星野選手が入ってきた年は筑波が1部に復帰した年なので、勝率としては苦しんだ年でしたね。
「そうですね。トーナメントでも1回戦くらいで拓大にすぐ負けて、リーグ戦も1勝、2勝ぐらいしかできなくて。でもたまたま1部が8チームから10チームに増える年で入替え戦がなくて、降格はなかった年で良かったです。1部リーグは僕が月バスで見ていたような人たちがうじゃうじゃいるところで、こういうところでやるんだなあという思いがありましたね」
B:あの年は筑波が慶應大に勝ったことで日大が優勝したんですよね。
「そうです、砂川(#47)がすごく活躍して。あれはめっちゃ覚えてますね。筑波は1年くらいああいう試合が多かったです。強豪相手に驚くような試合をするというか。2年の時も日大に勝ったり、慶應にも勝ったかな。青学相手にも延長に持ち込んだり、変な爆発力があるチームでした」
B:いつ爆発するかというのがあって、見ていて油断できないチームでした。あとは星野選手と言えば2年生の新人戦が印象的ですね。主将を努めていたけれど、最後はあまりいい試合ができずに吉田監督に厳しく対応されたとか。
「最終戦の後、めちゃめちゃ怒られて見放されましたね。あまりいい試合でなく負けてしまって『もう(面倒を)見ない』とまで言われてしまったんです。自分たちは頑張っているつもりだったんですが、期待されたようにできなくて」
B:あの時のインタビューでとても長々と語ってくれたのが印象深いです。
「それ、とても覚えています(笑)。吉田先生とのことについてずっと言っていましたね。2年の時はそんな感じであまりいい思い出がないですね(苦笑)」
写真上:1年生の新人戦での星野選手。当時はまだユニホームが緑で背番号は37だった。
写真中:中央が絶対的なキャプテンだった片峯聡太選手(#13)。現在は福岡大付属大濠高校のヘッドコーチとして後進の指導に当たっている。左は鹿野洵生選手(現JBL日立サンロッカーズ)、右は田渡修斗選手(現JBLリンク栃木)。
写真下:2010年、入替え戦はなかったが順位決定戦で関東学院大学と対戦。2勝して喜ぶ様子を見せる筑波大。中央の#76が星野選手。
団結して結果を出した4年目
B:確かに少しもどかしい時間も長かったように思いますが、今年の星野選手はそういうことを乗り越えてチームをまとめたのでは、という感じがしました。
「自分は背負いむというか、考えこんじゃうタイプです。2年のその時もそうだし、今年の始まりも同様で、うまく噛み合わなかったんです。でも周りの同期のサポートがとても良くて、自分が今年こうしたいと思うことをみんなが分かってくれました。4年の横のつながりが良かったので、みんなもまとまってついてきてくれて、今までにないぐらいすごく団結できたかなと思います」
B:今年は学年にかかわらずお互い何でも言い合うようになったとか。
「下級生がメインガードだったので、それだと下級生が意見を言ってくれないとどうプレーしたいのか分からないですよね。それもあって何かあったら言おう、とチームとして定義づけていました。笹山(#21)もそうだし、みんなが1年を通して言うようになりました。修人さん(11年度主将田渡・現JBLリンク栃木ブレックス)の代は彼がガードでチームの中心でした。一人だけがそうやって飛び抜けていると、まとまりきれない時に勝てなかったりしたので、全体のまとまりを今年は重視していました」
B:それが年間を通して結果にも出ましたね。
「例えば、オールジャパンは4年連続出られなかったのがワースト記録だったんです。去年の方が個性的で能力も高い選手が多かったのに出られなくて、吉田先生にそう言われて。それを見返すじゃないけど、やってやるぞと思ってシーズンに入りました。今年はだから、オールジャパンに行けて本当に嬉しかったですね」
B:春シーズンも日筑戦での3Pシュートは見事でしたし、最初にいい兆しが出たなと思いました。
「でも1年を通して自分の調子はあまり上がらなかったです(苦笑)。緊張というか背負い込んだ部分で最後まであまりいいプレーはできませんでした。だからプレーではなくどうチームを支えるかを1年間通して考えてきました。流れが悪い時にどうするかとか、大事なところを締めたりとか、そこを積極的にやっていきました」
B:でもプレーは他にできる選手もいますし、そういうキャプテンの仕事も大事だったのでは。
「そうですね。だから今年は何十年ぶりぐらいにいい成績を残したので気持ちよく卒業できます(笑)。吉田先生が就任して以来インカレで一番いい成績だったし、オールジャパンもそうです。最後は吉田先生がいた東芝とも戦えたのでそれは良かったなと。東芝戦では相手チームから“健司コール”があったみたいです(笑)」
B:そうだったんですか(笑)。少しさかのぼりますが、筑波は東日本大震災があった年に被災して、そこも影響は大きかったのではないかなと思いますが。
「あの時にメインの体育館が壊れて使えなくなってしまいました。今やっと新しい体育館の建設が始まった状況です。今もウエイトはプレハブに機材を置いてやっているんですが、狭いので入れない人は外でやっているような感じで。そこは本当に他の大学が羨ましかったです。でも新しくなっていいものができるのを期待しています。2年間他学部の体育館を借りてやってきたんですが、最初は使っていない体育館の掃除から始めました。私立の大学の体育館はきれいで、トレーニングルームも充実していていつでも使える。それは羨ましかったですね。でもその時にバスケをできることが嬉しかったし、バスケさえできない人もあの時は出た訳なので、感謝の気持ちしかありませんでした」
B:大変でしたね。また、筑波は勉強もしっかりやるチームですがそういった面はどうでしたか?
「僕らの代は推薦は3人で、あとは5,6人は一般入学なので授業でも真面目だし、テストもちゃんとやるので、推薦の僕らはそこに着いて行くだけです。ちゃんとやらないと『え?』っていう目で見られるので(笑)」
B:なるほど、勉強面は一般入学の選手たちがリードして、バスケットは推薦の選手たちが引っ張るんですね。
「まさにそんな感じです。要点をまとめたものをテスト前にもらったり、助けてもらいました」
B:頼もしいですね。
「一般生がバスケ部に入れるのが筑波のいいところです。他は入れないところが多いので。本当に4年間バスケも勉強も頑張りました」
B:バスケにも勉強にも取り組んできたことと思いますが、大学を通して学んだことはどんなことですか?
「筑波は歴史も伝統もあるので、それを毎年受け継いでいかなければいけません。筑波はバスケだけではいけない。アメリカに似ているというか、アメリカだと単位が取れないとバスケできないですよね。筑波はそういう感じです。一大学生でもあり、一バスケットプレイヤーでもある。でもバスケの時は100%集中して、他のことに取り組む時はそれに集中する。そういうメリハリが学べました」
高校時代に合宿で鍛えたシュートはメンタルも重要
B:星野選手といえば、もうひとつ、入学の頃からシュートフォームが変わったような印象があります。
「そうですか?」
B:1年の時は写真を撮ると顔がうまく写らない不思議な形だったんです。でも今は普通に顔も写るんです。細かいことかもしれませんが。
「自分ではあまり気にしてなかったです。でも確かにそう言われると下級生の時は少し打ちにくかったかも。でも今はすんなり打てますね。元々独特なシュートと言われてはいましたけど」
B:シュートは教えてもらったりしましたか? どうやって習得してきたんでしょう。
「自分が市船にいた時代はシューティング合宿というものがありました。朝9時から夜までずっとシュートを打ち続ける合宿です。2人組で10分間、リバウンドを交代して、自分の好きなところからひたすらシュートを打つんです。腕が上がらなくなって腱鞘炎になりますね。合宿は3日間で金曜の午後から日曜の午前中までシュートし続けるんですが、だいたい合計で6000本とかかな? 本当にキツかったです。夜になると『なんで打ってるんだろう?』って気持ちにはなりましたね(笑)。でもやっぱりそれで入るようになるんですよね。でもその時に変な癖がついたのかな(笑)」
B:では自分では特に変えたりしていないんですね。
「そうですね、普通にシューティングしているつもりでした。自然に打ちやすい形になってきたんでしょうね(笑)」
B:自分が調子がいい感覚というのはどういう感じですか?
「やはり打った瞬間に入ると分かる時は調子がいい時ですね。でもだいたい1本目が入るか入らないかで気持ちが違ってきます。メンタルは大事ですね。空回りしても入らないし。練習では良くても急に入らなくなったりするし、それは自分でもどうしようもないというか、気持ちの作り方は大事ですね」
B:なるほど、ありがとうございます。では、次にインタビューを回す人を指名してもらえますか?
「じゃあ学生選抜で同じだった専修大の宇都で」
B:専修は初ですね! 宇都選手は星野選手から見てどんな存在ですか?
「野本と同じで“後輩”っていう感じです。バスケはめっちゃ好きだし、めっちゃ語ってくれますよ。“宇都ワールド”を持ってます。でも高校時代からあいつとは試合をしているんです。その時は友達じゃなかったけど、大学に入って選抜で仲良くなりました。移動の飛行機の中とか結構いろんな話をしました。あいつも『はい』、みたいな感じで聞いてくれるんですよ(笑)」
B:宇都選手に何を聞けばいいですか? バスケについては熱く語ってくれるんですよね。
「個人的にはあいつの趣味がよく分からないので、それをぜひ聞いて欲しいです。普段何してるのか(笑)。あとは選抜の時に都市伝説の話をしていたら、宇都がめっちゃ食いついてくれて、いっぱい話したんですけど、それがすごく可愛かったです(笑)」
B:では次回は専修大・宇都直輝選手に話を伺います。星野選手、ありがとうございました。
写真下:Tシャツに書いた言葉は今年を象徴する「団結」の文字。
◆#76星野 拓海(ほしの たくみ)
有秋中→市立船橋高→筑波大
4年・SF・主将
188cm/85kg
・2005 ジュニアオールスター千葉県代表
・2008 ウィンターカップベスト8(高3)
・2010 新人戦 優秀選手賞
・2012 1部リーグ戦 優秀選手賞
・2012 関東学生選抜代表
(2013.1.13インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.15~筑波大学・星野拓海選手~

全国区の強豪・市立船橋高校から筑波大学に進学。当たり始めると止まらない3Pシュートを武器に、大型シューターとしてチームの勝利に貢献してきました。また4年目のシーズンはキャプテンに就任し、“団結”をテーマに掲げて仲間を牽引。チームの絆を強固なものとし、1シーズン通して好成績を収めて笑顔で4年間を終えました。
心優しく、コートを離れればのんびりとした様子の星野選手ですが、小学生の頃からの夢を現実にするなど、ぶれない芯を持っている選手。そんな星野選手の魅力を、卒業前にインタビューでじっくりとお伺いしました。BOJライン、第15回もどうぞお楽しみ下さい。
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バスケットに出会ったきっかけ
「いつですかね…? チームメイトの坂東(筑波大#14)が北陸高校のつながりで野本と仲が良かったので、坂東から『あいつ、超いいやつですよ』みたいなことは聞いていたんですよ。でも実際ちゃんと話したのは、たぶん関東選抜の時ですね。最初は硬かったんですけど、あいつもああいうキャラなのですぐ打ち解けて。今は可愛い後輩という感じです。すごく真面目なやつみたいで、本当に“後輩”って感じですね」
B:関東選抜のメンバーはすごく仲が良いとお伺いしました。
「めっちゃ仲いいですね。智伸(長谷川智伸・拓殖大#94)とかとはもともと仲良かったんですけど、ほかのメンバーは結構初めて話すような人も多くて。でも徳島(選抜の開催地)に行くまでにはすごく仲良くなりました。村田(関東学院大#30)とか高田(法政大#0)とか、初対面でしたけど、今となっては飲みに行ったりもする友達です。そのくらいみんな仲が良いですね」
B:それは素敵ですね。では本題に入りますが、バスケを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校2年の終わりに、友達に誘われて練習を見に行ったのがきっかけですね。それにその時ちょうど『スラムダンク』にハマっていたので、完全に『スラムダンク』の影響です(笑)。でも本当にバスケットが好きで、クラブの時間以外もずっとバスケしかしてなかったです。『スラムダンク』もバスケも、それくらい大好きでしたね」
B:狩野選手は『スラムダンク』を読んだことないと以前仰っていました。
「そうなんですよ! 前にそれ聞いて、『マジかー』って。絶対損してますね(笑)」
B:兄弟はいるんですか?
「姉が一人います。でもミニバスも最後に人数が足りないからって、かじった程度だし、中学では陸上をやっていたんですけど、そんな本気ではやってなかったですね。まぁうちの家族、誰もバスケやってないんです」
B:バスケット以外の競技は?
「父は陸上の棒高跳びをやっていたみたいですけど、今はぽっちゃりして全然その姿が想像できないです(笑)。母はバレーボールだったかな? まぁ全然スポーツ一家ではないですね。バスケをやっていた人は親戚にも誰もいないので、もし『スラムダンク』がなかったら自分もバスケはやっていなかったかも知れません」
B:では小学校・中学校はどんなチームでしたか?
「小・中と本当に家から近くて、小学校は歩いていっていたし、中学も自転車で5分とかだったし、全然強いチームではなかったですね。ただのバスケ部という感じで。中学は、1・2年の頃は市で一回戦負けとかでした。でも2年のジュニアオールスターくらいから自分も選抜系に入れるようになって、そうしたら選抜でお世話になった先生が、たまたま僕が中学3年の時にうちの学校に来ることになったんです。それで中学3年の時は、関東大会に出てあと1勝すれば全中に出られるというところまでいきました。最後は梅林(東海大#12)のいる東海大相模に負けて引退しました」
B:中学3年の時は強かったんですね。
「そうですね。それまでは本当に市でも勝てないし、でも部活はすごくキツいしで、あまり楽しくなかったんですけど、勝てるようになってからはめっちゃ楽しかったです。それに自分、3年の時は生徒会長もやっていて、結構忙しかったですね」
B:生徒会長だったんですか!
「はい、ノリで立候補して…。演説とか、校門の前に立って『挨拶運動』とかもしました(笑)。卒業式の答辞も読んだし、成人式の時は成人代表の挨拶も読みましたね」
B:さすがですね。そういえば中央大の佐藤将斗選手も生徒会長だったと言っていました。(BOJラインvol.10参照)
「あ、そうみたいですね。まぁでも、僕がいる地域の規模が小さいんです(笑)」
B:それでもすごいことだと思います。文武両道だったんですね。
「中学の時は結構勉強もしていて、中1の時は最初塾に通っていました。ジュニアオールスターとか選抜に選ばれるようになってからは忙しくて辞めましたけど」
思い出のジュニアオールスター決勝

「はい。決勝で福岡に負けました。ジュニアオールスターはすごく覚えています。準決勝で埼玉と当たったんですけど、その時の埼玉って大塚(早稲田大#6)のいる新座四中とか、めっちゃ強くて。そこが山だと言われていたんですけど、結構普通に勝てて、気付いたら決勝でした。でも自分は当時あまり強くもなかったし、どこの中学が強いとか誰が上手いとかも全然分からなかったんです。それで、まわりの人から『あいつやばいぞ』みたいなこと言われていたのが、比江島(青学大#56)だったんですよね。実際あいつとマッチアップだったんですけど、ついてみたら本当にやばかったです(笑)」
B:その当時、お互い身長はどれくらいだったんですか?
「全く同じくらいですね。182とか183で。ほんと上手くてびっくりしました。でもその時は、上野翼が完全にエースだったんです。あいつにボール持たせれば絶対点が取れる、みたいな。彼もやばかったですね。僕らの世代ってあいつが結構ヒーローで、比江島が2位みたいな感じでしたからね(笑)。でも今考えると、あの時の福岡って狩野(東海大#33)もいて、玉井(早稲田大#8)とか和田力也(浜松大#33)もいて、すごいメンバーですよね。そりゃ強いです」
B:千葉のメンバーも、現在大学でも活躍している選手が多いですよね。
「そうですね。今回、千葉ジェッツの前座試合で千葉選抜としてチームを作って、久しぶりにみんなと同じチームでやれました。鈴木康貴(駒澤大#8)とも、バスケするのはジュニアオールスター以来です。8年ぶりかな? あいつもミニバスからめっちゃ上手くて、中学もあいつのいる中学(市立船橋中)は強かったですね」
B:そうだったんですか。では中学を卒業して、どうして市立船橋高校に進んだんですか?
「最初は、勉強しようかバスケしようか迷っていたんです。でもバスケが好きだったので、バスケの強いチームに行こうと。それで千葉は出たくなかったので、県内では市船が一番全国に近いかなと思って決めました。学校の先生を目指していたんですけど、結果を残せば良い大学にも行けるし、しっかり高校・大学で勉強していれば教員免許も取れるから大丈夫だよと言われたこともあります」

B:学校の先生には幼い頃からなりたかったんですか?「そうですね。この前、小学生の時に作ったタイムカプセルが送られてきたんですけど、そこにも『先生になります』と書いてありました。しかも、『そのために筑波大学に入る』って書いてあったんですよ。それは覚えてなかったので、びっくりしました。多分小さい頃お父さんに、筑波の宇宙センターに連れて行ってもらって、『こういうすごい大学があるんだぞ』って言われたことが印象に残っていたんだと思います」
B:小学生の頃に宣言した通りになっていますね! 市立船橋に入って、最初はどうでしたか?
「僕、中学生の頃から遠藤さん(2010年大東文化大卒・現JBLリンク栃木)と仲が良かったんですけど、市船って遠藤さんが高1の時ってずっと坊主だったし、ランニングコースをずっと走らされるみたいな話は聞いていたので、入学前からめっちゃビビっていたんです。でも確かに厳しいんですけど、遠藤さんなり神さんなり先輩たちが優しくしてくれたので、上下関係はあまり無かったですね。練習はすごくキツいし、入部してすぐ坊主にならなきゃいけなかったのも、泣く泣くという感じでしたが…。まぁ市船ってほかの部活もとにかく厳しいので、厳しいのが当たり前な感じでした」
写真上下:bjリーグ千葉ジェッツの前座試合で。
名門・市立船橋高での大爆発

「はい。入学前、3月くらいからチームに合流させてもらって、遠征も一緒に行かせてもらいました。最初はちょっとしか出なかったんですけど、入学してから初めての大会でいきなりスタートに呼ばれて、『おおっ』てびっくりしましたね。でもその一番最初のデビュー戦で、3Pを13本決めたんですよ」
B:13本!それはすごいですね!
「その試合は本当に今でも忘れられない試合ですね。本当に入学して一試合目でした。そこから3年間スタメンで出させてもらいましたね」
B:その時から3Pシューターだったんですね。
「いや、実はそうでもないんです。中学の時は、打ってはいたんですけどそんなシューターという感じでは無くて、チームの中で大きい方だったので、4番とか5番ポジションがメインでした。高校に入ってからは、まわりに大きい人がいたので3番・4番になりましたけど。シューターでは無かったんですけど、シュートを打つのは好きだったし、打っても怒られなかったので、たくさん打っていたら入りました(笑)」
B:いきなり一試合目で爆発したのがすごいですね。そのあと気負って調子が悪くなる人と、そのまま勢いに乗って調子を上げる人がいると思いますが。
「はじめの1年間はすごく調子が良かったんです。2年の春くらいにスランプというか、入らなくなる時期はありましたね。そこからぼちぼちという感じです。波がすごくあるから大変ですね」
B:高3の時は、インターハイで沖縄の北中城高校とトリプルオーバータイムの熱戦だったんですよね。星野選手はインターハイ前に怪我をしていたとか。
「そうなんです。インターハイ予選の初戦で、倒れた時に手をついたらものすごく痛くて、そのまますぐ病院に行ったんです。そうしたら『折れています』と。実はそのとき自分、折れてるって聞いた瞬間にふら〜っと気絶したんですよね(笑)。それまで骨折とか一回も大きい怪我をしたことなかったので、折れてるって聞いただけでびっくりしちゃって。それからも、たまに大きい病院でレントゲンを撮って自分の折れてるやつを見るたびに、貧血でクラクラして『ちょっと横になっていいですか』ってなるくらいでしたね(苦笑)」
B:手首を骨折したんですか?
「はい。左手の、舟状骨ってところを。治りにくい部分みたいです。だからインターハイ予選は出られなくて、ぎりぎり本戦で出られた感じですね。そうしたら、隆一(大東文化大#14岸本)と、貴哉(筑波大#47砂川)のチームとあんな試合になって。あれも忘れられない試合のうちのひとつですね」
B:骨折して、よく大会に間に合いましたね。
「ガチガチにして、固定する硬いやつをくっつけて、左手は全く使えなかったですね。まぁ右手は残っていたので、なんとか打てる感じでした」
B:岸本選手や砂川選手は当時どんな印象でしたか?
「貴哉はU−15で話したことがあって、隆一とも貴哉とのつながりでちょろっと話したことがあったんです。あいつら“沖縄”って感じで誰とでもすぐ仲良くなるので、試合前からめっちゃ気さくな感じで『よろしくねー!』って。でも始まってみたら、ものすごい試合でしたね…。121点とって負けるなんて今までなかったですから。しかも一回戦だったので、どこかの高校の普通の体育館でやったんですよ。クーラーも無いし、めっちゃ汗ダラダラで。ほんとキツかったです」
B:インターハイは初戦敗退となってしまいましたが、最後のウィンターカップはベスト8だったんですよね。
「そうですね。遠藤さんが3年の時もベスト8に入って、2年連続ベスト8でした」
B:そういえば遠藤選手が、2007年のウインターカップは自分のせいで負けたと言っていました。(BOJラインvol.8参照)
「明成戦ですね(笑)。後半一気に追い上げて2点差まで追いついて、最後に自分たちの攻めだったんですけど、そこで遠藤さんがパスミスして。めっちゃ覚えています。あっけなく終わりました(笑)」
B:遠藤選手は最初みんなにバレてないかと思ったと言っていましたが、鮮明に覚えているんですね(笑)。自分が高3の時のウインターカップにはどんな思い出がありますか?
「メインコートで洛南に負けたことですね。その前の国体でも京都に負けているんです。中学の時からずっと比江島に負けています(苦笑)。あいつには中学の頃から一回も勝ったことないですね」
キャプテンの苦悩と重圧。そして夢の筑波大へ

「はい。高2の終わりに、U−18で中国だか台湾に合宿に行ったんですよ。日本に帰ってきたら、お母さんから『近藤先生になったよー』って言われて(笑)。とりあえず学校に行かなきゃと思って学校に行って、そこで近藤先生に『よろしく』って言われたのは覚えていますね。噂にはなっていたんですけど、びっくりしました」
B:高3の時は星野選手がキャプテンですよね。監督も変わって、苦労もあったのでは?
「そうですね。僕の時は先生も1年目だったので、去年までのことを継続しつつ色々変えていかなきゃいけなくて、それは大変でした。近藤先生もずっと女子を指導されてきた方なので、市船で初めて男子を見ることになって戸惑いとかもあったみたいです。選手から反発もあって、自分はキャプテンだから先生の悩みも聞くし、チームメイトの悩みも聞くみたいな狭間の立場で、夏くらいまでは苦労しました。でもウィンターカップが決まった時期くらいから、ようやく先生のやりたいバスケットが自分たちもできるようになって、チームもまとまってきたと思います」
B:キャプテンの経験は以前にもあったんですか?
「中学生の時に、県選抜で初めてキャプテンになりました。中学でもキャプテンになりそうだったんですけど、生徒会長だったこともあって忙しかったので違う人になりましたね」
B:市立船橋で何を学んだと思いますか?
「なんだろうな…色々ありますけど…。勝たなきゃいけないというプレッシャーというのは、すごく経験になりましたね。市船は、千葉でもずっと勝ち続けてきた名門高なので。そういうプレッシャーに打ち勝って戦うというのは高校時代にすごく学んだことです」
B:千葉県内では幕張総合や市立柏などがライバルチームですよね。つながりは強いんですか? 国体での混成チームも、すごくチームワークが良いと聞きますが。
「そうですね。特に今は、スタッフ同士ですごく仲がいいんです。僕が下級生の時は、県内で手の内は見せないみたいなところがあったんですけど、近藤先生が市船に来てから、合同で合宿とか練習もやっているみたいですね。みんなで切磋琢磨していると思います」
B:高校卒業後は筑波大に進みました。ずっと筑波大に行きたかったんですよね。
「はい。筑波1本でずっと考えていました。先生にも筑波に行きたいという旨はずっと伝えていたので、結構すんなり決まりましたね。高3の5月とかインターハイ予選の前くらいにはもう決まったので、バスケに打ち込むことができました」
B:そんなに早く決まったんですか。
「はい。吉田先生も、僕が行きたいって思っていることを知って、視野に入れてくれていたみたいで。すぐに声をかけてくれましたね」
B:大学に入学した頃はケガがあってなかなか出番がなかったですね。
「高3の終わりくらいからですね。ウインターカップが終わって少し休んで、練習を再開しようとした時に疲労骨折していたのが折れたんです。それが筑波に合流する1週間くらい前だったので、合流とともに大学の附属病院に入院して手術しました。今もボルトが入ってます。小指なので抜きづらいんですよ。新人戦には間に合ったんですが、夏前にまた同じところを疲労骨折したんです。それで秋までにしっかり治そうと10月、11月までずっとリハビリしていて1年のシーズンが終わってしまいました」
B:スタッフからは期待しているんだけど、なかなか…という話も出ていました。
「1年生なのでそこまで試合に絡む感じではなかったんですが、中央や専修は1年生から試合に出ている選手が多かったので、そこは悩みましたね。でも無理して出てまたケガしたくなかったので、しっかりリハビリして、2年からは大きなケガはしていないです。捻挫とかはありましたけど」

「入学した時は片峯さん(09年度卒・現福大大濠HC)が主将で、すごく怖くてリーダーシップがありました。先生が出張とかでいない時の方が練習が厳しくて、1年の仕事も絶対にミスできないし、挨拶や振る舞いもしっかりしようという雰囲気がありましたね」
B:片峯主将は本当にリーダーシップがありましたよね。今も大濠をしっかりと指導して結果も出していますし。
「練習中もやる気がなかったり適当なプレーをしたら途中で止めて、指導されました。グサッと言うんですが、核心を突いたことしか言わないのでそれはすごいなと思いました。練習終わりのミーティングで集合した時も先生より良いことを言ったりするんです(笑)。本当に偉大だなと思っていました」
B:バスケット自体にはすぐ馴染めましたか?吉田監督は理論もしっかりしていますよね。
「ものすごくたくさんフォーメーションがあるので、1年生には覚えることが多すぎて最初はミスもありました。最初は先輩に教えてもらう形で覚えていくんですが、トーナメント、リーグと進むにつれてフォーメーションも増えていきます。リーグの途中から紙とかで配られて復習していく形になりますね」
B:星野選手が入ってきた年は筑波が1部に復帰した年なので、勝率としては苦しんだ年でしたね。
「そうですね。トーナメントでも1回戦くらいで拓大にすぐ負けて、リーグ戦も1勝、2勝ぐらいしかできなくて。でもたまたま1部が8チームから10チームに増える年で入替え戦がなくて、降格はなかった年で良かったです。1部リーグは僕が月バスで見ていたような人たちがうじゃうじゃいるところで、こういうところでやるんだなあという思いがありましたね」
B:あの年は筑波が慶應大に勝ったことで日大が優勝したんですよね。
「そうです、砂川(#47)がすごく活躍して。あれはめっちゃ覚えてますね。筑波は1年くらいああいう試合が多かったです。強豪相手に驚くような試合をするというか。2年の時も日大に勝ったり、慶應にも勝ったかな。青学相手にも延長に持ち込んだり、変な爆発力があるチームでした」

「最終戦の後、めちゃめちゃ怒られて見放されましたね。あまりいい試合でなく負けてしまって『もう(面倒を)見ない』とまで言われてしまったんです。自分たちは頑張っているつもりだったんですが、期待されたようにできなくて」
B:あの時のインタビューでとても長々と語ってくれたのが印象深いです。
「それ、とても覚えています(笑)。吉田先生とのことについてずっと言っていましたね。2年の時はそんな感じであまりいい思い出がないですね(苦笑)」
写真上:1年生の新人戦での星野選手。当時はまだユニホームが緑で背番号は37だった。
写真中:中央が絶対的なキャプテンだった片峯聡太選手(#13)。現在は福岡大付属大濠高校のヘッドコーチとして後進の指導に当たっている。左は鹿野洵生選手(現JBL日立サンロッカーズ)、右は田渡修斗選手(現JBLリンク栃木)。
写真下:2010年、入替え戦はなかったが順位決定戦で関東学院大学と対戦。2勝して喜ぶ様子を見せる筑波大。中央の#76が星野選手。
団結して結果を出した4年目

「自分は背負いむというか、考えこんじゃうタイプです。2年のその時もそうだし、今年の始まりも同様で、うまく噛み合わなかったんです。でも周りの同期のサポートがとても良くて、自分が今年こうしたいと思うことをみんなが分かってくれました。4年の横のつながりが良かったので、みんなもまとまってついてきてくれて、今までにないぐらいすごく団結できたかなと思います」
B:今年は学年にかかわらずお互い何でも言い合うようになったとか。
「下級生がメインガードだったので、それだと下級生が意見を言ってくれないとどうプレーしたいのか分からないですよね。それもあって何かあったら言おう、とチームとして定義づけていました。笹山(#21)もそうだし、みんなが1年を通して言うようになりました。修人さん(11年度主将田渡・現JBLリンク栃木ブレックス)の代は彼がガードでチームの中心でした。一人だけがそうやって飛び抜けていると、まとまりきれない時に勝てなかったりしたので、全体のまとまりを今年は重視していました」
B:それが年間を通して結果にも出ましたね。
「例えば、オールジャパンは4年連続出られなかったのがワースト記録だったんです。去年の方が個性的で能力も高い選手が多かったのに出られなくて、吉田先生にそう言われて。それを見返すじゃないけど、やってやるぞと思ってシーズンに入りました。今年はだから、オールジャパンに行けて本当に嬉しかったですね」
B:春シーズンも日筑戦での3Pシュートは見事でしたし、最初にいい兆しが出たなと思いました。
「でも1年を通して自分の調子はあまり上がらなかったです(苦笑)。緊張というか背負い込んだ部分で最後まであまりいいプレーはできませんでした。だからプレーではなくどうチームを支えるかを1年間通して考えてきました。流れが悪い時にどうするかとか、大事なところを締めたりとか、そこを積極的にやっていきました」
B:でもプレーは他にできる選手もいますし、そういうキャプテンの仕事も大事だったのでは。
「そうですね。だから今年は何十年ぶりぐらいにいい成績を残したので気持ちよく卒業できます(笑)。吉田先生が就任して以来インカレで一番いい成績だったし、オールジャパンもそうです。最後は吉田先生がいた東芝とも戦えたのでそれは良かったなと。東芝戦では相手チームから“健司コール”があったみたいです(笑)」
B:そうだったんですか(笑)。少しさかのぼりますが、筑波は東日本大震災があった年に被災して、そこも影響は大きかったのではないかなと思いますが。
「あの時にメインの体育館が壊れて使えなくなってしまいました。今やっと新しい体育館の建設が始まった状況です。今もウエイトはプレハブに機材を置いてやっているんですが、狭いので入れない人は外でやっているような感じで。そこは本当に他の大学が羨ましかったです。でも新しくなっていいものができるのを期待しています。2年間他学部の体育館を借りてやってきたんですが、最初は使っていない体育館の掃除から始めました。私立の大学の体育館はきれいで、トレーニングルームも充実していていつでも使える。それは羨ましかったですね。でもその時にバスケをできることが嬉しかったし、バスケさえできない人もあの時は出た訳なので、感謝の気持ちしかありませんでした」
B:大変でしたね。また、筑波は勉強もしっかりやるチームですがそういった面はどうでしたか?
「僕らの代は推薦は3人で、あとは5,6人は一般入学なので授業でも真面目だし、テストもちゃんとやるので、推薦の僕らはそこに着いて行くだけです。ちゃんとやらないと『え?』っていう目で見られるので(笑)」
B:なるほど、勉強面は一般入学の選手たちがリードして、バスケットは推薦の選手たちが引っ張るんですね。
「まさにそんな感じです。要点をまとめたものをテスト前にもらったり、助けてもらいました」

「一般生がバスケ部に入れるのが筑波のいいところです。他は入れないところが多いので。本当に4年間バスケも勉強も頑張りました」
B:バスケにも勉強にも取り組んできたことと思いますが、大学を通して学んだことはどんなことですか?
「筑波は歴史も伝統もあるので、それを毎年受け継いでいかなければいけません。筑波はバスケだけではいけない。アメリカに似ているというか、アメリカだと単位が取れないとバスケできないですよね。筑波はそういう感じです。一大学生でもあり、一バスケットプレイヤーでもある。でもバスケの時は100%集中して、他のことに取り組む時はそれに集中する。そういうメリハリが学べました」
高校時代に合宿で鍛えたシュートはメンタルも重要

「そうですか?」
B:1年の時は写真を撮ると顔がうまく写らない不思議な形だったんです。でも今は普通に顔も写るんです。細かいことかもしれませんが。
「自分ではあまり気にしてなかったです。でも確かにそう言われると下級生の時は少し打ちにくかったかも。でも今はすんなり打てますね。元々独特なシュートと言われてはいましたけど」
B:シュートは教えてもらったりしましたか? どうやって習得してきたんでしょう。
「自分が市船にいた時代はシューティング合宿というものがありました。朝9時から夜までずっとシュートを打ち続ける合宿です。2人組で10分間、リバウンドを交代して、自分の好きなところからひたすらシュートを打つんです。腕が上がらなくなって腱鞘炎になりますね。合宿は3日間で金曜の午後から日曜の午前中までシュートし続けるんですが、だいたい合計で6000本とかかな? 本当にキツかったです。夜になると『なんで打ってるんだろう?』って気持ちにはなりましたね(笑)。でもやっぱりそれで入るようになるんですよね。でもその時に変な癖がついたのかな(笑)」
B:では自分では特に変えたりしていないんですね。
「そうですね、普通にシューティングしているつもりでした。自然に打ちやすい形になってきたんでしょうね(笑)」
B:自分が調子がいい感覚というのはどういう感じですか?
「やはり打った瞬間に入ると分かる時は調子がいい時ですね。でもだいたい1本目が入るか入らないかで気持ちが違ってきます。メンタルは大事ですね。空回りしても入らないし。練習では良くても急に入らなくなったりするし、それは自分でもどうしようもないというか、気持ちの作り方は大事ですね」
B:なるほど、ありがとうございます。では、次にインタビューを回す人を指名してもらえますか?
「じゃあ学生選抜で同じだった専修大の宇都で」
B:専修は初ですね! 宇都選手は星野選手から見てどんな存在ですか?
「野本と同じで“後輩”っていう感じです。バスケはめっちゃ好きだし、めっちゃ語ってくれますよ。“宇都ワールド”を持ってます。でも高校時代からあいつとは試合をしているんです。その時は友達じゃなかったけど、大学に入って選抜で仲良くなりました。移動の飛行機の中とか結構いろんな話をしました。あいつも『はい』、みたいな感じで聞いてくれるんですよ(笑)」

「個人的にはあいつの趣味がよく分からないので、それをぜひ聞いて欲しいです。普段何してるのか(笑)。あとは選抜の時に都市伝説の話をしていたら、宇都がめっちゃ食いついてくれて、いっぱい話したんですけど、それがすごく可愛かったです(笑)」
B:では次回は専修大・宇都直輝選手に話を伺います。星野選手、ありがとうございました。
写真下:Tシャツに書いた言葉は今年を象徴する「団結」の文字。
◆#76星野 拓海(ほしの たくみ)
有秋中→市立船橋高→筑波大
4年・SF・主将
188cm/85kg
・2005 ジュニアオールスター千葉県代表
・2008 ウィンターカップベスト8(高3)
・2010 新人戦 優秀選手賞
・2012 1部リーグ戦 優秀選手賞
・2012 関東学生選抜代表
(2013.1.13インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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