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2012.06.08 (Fri)
【SPECIAL】BOJラインvol.11~岸本隆一選手~
リレー形式インタビュー「BOJライン」
vol.11~大東文化大学・岸本隆一選手~
選手の指名でリレー形式にインタビューをつなぐ「BOJライン」。第10回の中央大学・佐藤将斗選手からバトンを渡されたのは、大東文化大・岸本隆一選手です。
沖縄出身らしい独特のリズムで狭いスペースをかいくぐり、警戒した相手が引いて守ればすかさずライン後ろからロングシュート。ディフェンスにとっては非常に厄介な、リーグ屈指のスコアリング能力を持つ司令塔です。最終学年になり、試合中見せる真剣な顔つきからは責任感が伝わってきますが、コートを離れれば表情をコロコロと変え楽しそうに受け答えしてくれる選手。屈託のない人柄で岸本選手のまわりには自然と人が集まり、インタビュー中も通りかかるたくさんの選手からちょっかいを出されていました。そんな岸本選手の魅力をたっぷりとお伺いした第11回BOJライン、どうぞお楽しみください。
BOJ(以下B):BOJライン、第11回は大東文化大・岸本隆一選手です。よろしくお願いします。佐藤選手からの紹介ですが、辻直人選手(2011年度青学大卒・現JBL東芝)らとの飲み会が仲良くなったきっかけとのことですね。
「そうなんです。一回一緒に飲んで、その時から僕が佐藤をいじるようになった感じですね。僕は一方的に仲が良いつもりでいます(笑)。でもあいつが僕に(インタビューを)振ったってことは、あいつも仲が良いと思ってるってことですよね!」
B:そのようですね。佐藤選手が、岸本選手は何を言っても面白く返してくれると言っていました。
「うわー、ただのムチャ振りじゃないですか(笑)」
B:(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校3年生の時です。結構歳の離れた兄がいるんですけど、その兄の影響で。でもその前からバスケは遊びで結構やっていたんです。部活動として始めたのが小3って感じですね」
B:沖縄は街中にバスケのゴールがたくさんありますよね。ミニバスに入る前から、ストリートでやることはあったのでしょうか?
「そうですね。でも僕、中学校までは沖縄の中でも結構田舎の方で育ったので、そんな外のコートに行かなくても体育館が普通に空いてたんですよ。だから小っちゃい時は、ストリートでというよりも体育館で好きなようにやってた感じですね」
B:沖縄の体育館は、夏になると相当暑そうですね。それにすごく滑るという話はよく聞きますが。
「あー、確かに滑るって印象はあります! めちゃくちゃカラカラに晴れた日意外は最悪ですね。曇りでも滑るってイメージありますもん。いや、それは大げさかな(笑)。まぁそんな感じです。それにメチャ暑いですね。でも自分、暑いの嫌いじゃないんですよ。みんなは嫌だと思うんですけど、僕は結構平気でしたね」
B:ミニバスはどんなチームでしたか?
「全っ然強くないですよ。最初、僕の代は自分一人しかいなかったんです。自分たちの代の時は本当に10人寄せ集めみたいなチームで。県大会も行けなかったし、自分もそのまま最寄りの中学校に進みました。練習は一生懸命やってましたけど、強いチームとは無縁でしたね」
B:中学校も強豪ではなかったと。
「自分のチームは全然。県大会に出るのがやっとでした。結局なんとか県大会は出られたんですけど、一回戦で負けてすぐ終わりました」
B:では、岸本選手は小学校・中学校の時にはエース的な立場だったんでしょうか?
「小・中の時は、正直無敵だと思ってましたね! いや、嘘です嘘です(笑)。まぁ小学校・中学校と、好き勝手やりたいようにバスケしてました」
B:自分が伸びてきたなと感じたのはいつ頃ですか?
「自分の中でちょっと変わったかなと思うのは、ジュニアオールスターに選ばれてからですね。自分の中学は全然強くないのに、オールスターに選んでもらって。で、多少は自信を持ってジュニアオールスターに出たんですけど、全国に出たら、まあすごいやつがいっぱいいるじゃないですか! びっくりしましたね。上のレベルを見て、うわーこいつら違うなと思いました。自分も頑張ろうと思って、そこからちょっと変わりましたね」
B:ジュニアオールスターで、沖縄は決勝トーナメントで埼玉に負けてしまったんですよね。
「そうです。埼玉は大塚(早稲田大#6大塚勇人)とか、今チームメイトの大久保(#85大久保 亮)とかがいました。大塚にめちゃくちゃやられたのは覚えてますね(苦笑)。『何だコイツ!』って衝撃でしたよ。大塚はあの頃からかなり上手かったです」
B:その時には砂川貴哉選手(筑波大#47)と同じチームになりましたよね。
「そうなんです。僕、(砂川)貴哉とめちゃくちゃ仲良いんですよ! 高校も一緒に北中城に行くことになったんですけど、貴哉は宮古島出身だし、自分も地元が名護市ってところで高校まで少し遠かったので、『それなら二人で住もう!』という話になったんです。それで高1から3年間、僕と貴哉で二人暮らししてて。ずっと一緒だったし、超仲良いですね」
写真下:一時期一緒に住んでいたという筑波大の砂川選手。独特のムービングが特徴。
かけがえのない恩師との出会い
B:北中城高校に進もうと思ったのはなぜですか?
「僕の上の代が強かったってこともあったし、顧問の先生が(金城)バーニー先生だったこともあって。バーニー先生って、高校生の頃からすごい選手で、沖縄では伝説的な方なんです。僕も憧れて、バーニー先生に教えてもらいたいと思って北中城高校を選びましたね」
B:入学してみてどうでしたか?
「1年生の時は、僕らの2コ上も1コ上も強くて、僕なんて全然試合も出られなかったんです。でも“上の学年になればいずれ出られるだろう”くらいの甘い考えでやっていて。そうしたらバーニー先生に喝を入れられました。僕と貴哉は相っ当怒られましたね(苦笑)。でも今でも思いますけど、本当にすごい先生なんですよ、バーニー先生って。怒られて自分もだいぶ変わりましたね。感謝してます」
B:色んなことを教わったんですね。
「そうなんです。僕、今となっては『イエーイ!』みたいな感じですけど、高校の時は最初全くそんな感じじゃなかったんですよ。うつろな表情で淡々とバスケしてたんです(苦笑)。で、バーニー先生から『お前には感情が無いのか』みたいに言われたんです。『楽しいことしてるんだからいい顔しろ』って。それで結構感情を表に出すようになりましたね」
B:そうだったんですか。感情を出さなかったというのは、今の岸本選手を見ていると意外ですね。
「そうですね。それに笑うことはまだあったんですけど、自分“負けん気”とか“なにくそ精神”が無かったんです。悔しいとか思わずに、怒られたらどんどん『あぁ…あぁ…』って落ち込んでいくようなタイプでしたね」
B:何か変わるきっかけがあったんでしょうか?
「ある日練習試合で、普通に勝てる相手に負けた時があったんです。それで僕、超イライラして、バーニー先生の目の前でボールを思いっきりバーンと蹴っちゃって。もうその瞬間“あ、やばい!”ってハッと正気に戻りますよね(苦笑)。試合後のミーティングも明らかにいつもより短くて、“うわー先生絶対怒ってる! やばいやばい”って焦りまくり。そしたらその夜、先生から電話がかかってきたんです。『お前今日、俺の目の前でボール蹴ったな』と言われて、“やばいやばい”と思いながらひたすら謝ってたら、『…あれ最高だよ』と言われて(笑)。えー!?
ってなりますよね。どういうことですかと聞いたら、『お前のあの“なにくそ精神”が欲しかったんだ』って言われたんです。それで、あ~、こういうのが大事なのか~と。そこからは、嬉しい気持ちとか悔しい気持ちとか、結構感情を表に出すようになりました。とにかくバーニー先生にはめちゃくちゃお世話になりました」
B:金城バーニー先生のお蔭で今の岸本選手があるんですね。話は変わりますが、高3の時の埼玉インターハイでは市立船橋戦、明徳義塾戦とかなり熱い試合を繰り広げたそうですね。市立船橋には同じチームメイトの#75和田保彦選手もいますが。
「あーそうなんです! うちの和田とか、筑波の星野(#76星野拓海)とかいて。あの試合はトリプルオーバータイムになって、かなり熱い試合でしたね。もう最高に楽しかったです。自分は延長の最初の方で5ファウルで退場しちゃったんですよ。結局3回も延長やることになったので、思い返せば自分全然試合に出てないみたいな感覚ですね(笑)。展開が本当に面白くて超白熱して、見てて素直に『一生続けばいいのに』って思いました(笑)」
B:そうでしたか。ウィンターカップでは、高2・高3と出場を逃しているんですよね。沖縄には興南高校や小禄高校といったライバル校がいて、ウィンターカップ予選も熾烈な争いだったと思いますが。
「そうですね。高3の時は小禄高校が結局沖縄で優勝して出たんです。小禄との決勝戦は、ずっと相手のペースで試合が進んでしまって…。何だかんだ、あの負けた試合が高校時代で一番印象に残っている試合ですね」
B:小禄高校は一つ下の代に国士舘大の#15松島良豪選手がいた高校ですね。
「そうですそうです、タケがいた学校。それで、そもそも僕らのいた北中城って、思いっきりオフェンシブなチームだったんですよ、2点取られたら3点取り返せみたいな(笑)。それに対して小禄はディフェンシブなチームで、攻撃回数を減らされて、ずーっと焦らされて焦らされてそのまま試合が終わっちゃった感じでした。見事に向こうの術中にハマってしまったというか…。とにかくあれは悔しかったですね」
B:オフェンシブなチームだったという事ですが、北中城高校は常に100点オーバーが普通で、県内では150点取る試合も少なくなかったとか。岸本選手もかなり点を取っていたと思いますが、一試合に一人で最高何点とったことがありますか?
「え…しょうもないですよ?(苦笑)今までで一番取ったのは、確か県のベスト4がけの試合で、83点です」
B:それはすごいですね!
「いや! でもあれはホントしょうもないんです!(記録を)狙いに行けって言われて、勝負も決まってるのにずっと試合に出してくれたんです。それで前からプレスをかけて、相手がハマったのを全部外で待ってる僕がシュート、みたいな。これだけだったんです。だから僕がすごいとかじゃ全然ないんです! 周りがめちゃくちゃサポートしてくれたおかげです」
写真:2年生の新人戦。
沖縄のバスケットは「最高の環境」
B:沖縄はバスケットも人気があるスポーツですし、県大会なども盛り上がりそうですね。
「そうですね。こっちと比べると結構熱いスポーツだと思います。試合も大盛り上がりで、自分、輝いてたなぁと思いますね(笑)。沖縄に結構有名な体育館があるんですよ。こっちで言う代々木体育館みたいな。僕ら大東のメンバーって、代々木でバスケできることが嬉しくて『代々木だとジャンプ力が10cm上がる』とかよく言うんですけど(笑)、沖縄のその体育館も、『その体育館だと誰でもダンクできる』みたいに言われてたんです。まぁ実際そんなことあり得ないですけど(笑)。そこで試合したのは思い出深いですね」
B:高校の部員との印象に残っている思い出は?
「バスケ部は、本当に常に楽しかったんですよ! 珍しくないですか? 部活が毎日楽しみって。めちゃくちゃ仲良かったです。それに僕ら公立高校だから体育館を使える時間が限られてて、2部練がほとんど無かったんですよ。だから夏休みは、午前中に部活して、午後はバスケ部で海に行くのが日課でした。本当に毎日毎日(笑)。海にバスケのコートがあったので、バスケして、海に入って…。今思うと異国の地みたいですよね。本当に最高の環境でした。バスケ部との思い出はめちゃくちゃ濃いですね」
B:それは素敵ですね。ストリートバスケが根付いているから、沖縄の選手は1on1が上手くなるんでしょうか。
「そうかも知れませんね。それにどこのコートにも大体外国人がいるんです。しかも彼ら、ストバスと言えどもすごくムキになってやってくるので(笑)。外国人相手にみんな小さな頃からガンガンやってますからね。楽しかったですよ。本当に良いところで育ったなーと思います」
B:リズムも沖縄独特のものがありますよね。砂川貴哉選手なども変わったリズムを持っているというか。
「自分じゃよく分からないですけど…、でも貴哉は確かに変なリズムですね。あいつはひどいです(笑)」
B:1つ上の代にはスラムダンク奨学金などでも有名な並里 成選手がいますが、同じ沖縄出身の選手として彼はどのような存在ですか?
「(並里)成は、めちゃくちゃ上手いですよね。ずっと中学生の頃から見てきて、憧れの存在です。沖縄に帰った時に何回か一緒にトレーニングしたりして、この前正月に帰った時もバスケの話を聞かせてもらいました。やっぱり意識高いなーと思うし、めちゃくちゃ刺激をもらっていますね。やっぱりアメリカとか色々経験している人ですし。中学校で見た感じだと結構やんちゃなイメージだったんですけど、今はすごいしっかりしていて…。やっぱり上のレベルを知ると大人になるんだなーと思いましたね。とにかく刺激をもらえる存在です」
苦難を乗り越え徐々に芽生えてきた自覚
B:ではここからは大学のお話を伺います。どうして大東文化大学に進もうと思ったんですか?
「一つには、竹野さん(竹野明倫・07年度卒・現bj福岡)と阿部さん(阿部友和・07年度卒・現JBLレバンガ北海道)の試合を見て、憧れたからですね。ああいうの大好きだったんですよ。僕、性格に癖があるので(笑)、なんか悪者ちっくな感じがかっこいいなーって惹かれて。あとメンバーも、和田(#75)、大久保(#85)、張(#24)、鎌田(#43)といて、それに(藤井)佑亮(#19)もあとから来るって決まったことを聞いていたので、『あ、もうこれは行くしかない!』って思ったのがきっかけですね」
B:なるほど。入学して、1年生の時はなかなかプレータイムが伸びませんでしたね。
「最初は正直、かなりキツかったです。多分1年生の時が一番大変でしたね。1年生の頃って、ある程度自信を持って沖縄から来るじゃないですか。『1年生の頃からガンガン試合出てやるぞ』という野望もあって。でも大東ってわりと各高校のエースが集まってるし、自分と同じようにみんなある程度プライドを持ってやってるんですよね。その中で、1年の時は全然上手くいかなくて…。上手くいかないことが多すぎて、もう何度沖縄に帰ろうと思ったことか(苦笑)」
B:そうだったんですか。その時期を乗り越えられたのはどうしてですか?
「沖縄に帰ったら楽だろうなとは思ったんですけど、やっぱり送り出してくれた親であったり、『東京でも頑張れよ』と言ってくれた沖縄の友達のことだったりを考えたら、ここで帰るわけにはいかなくて。それだけを支えに、1年生の時はどうにかごまかして続けてこられた感じですね。だから本当にバスケットに集中できるようになったのは、なんだかんだ2年生からなんです。やっと環境にも慣れてきて、どうすれば試合に出られるかとか、試合に出たら結果を残そうとか、2年生になってようやく本格的に考えるようになりましたね」
B:2年生まではワンポイントでの起用が多かったですが、昨年、3年生の時はプレータイムをもらって見事に活躍したのではないですか?
「いやでも、あれも本当にたまたまですよね。(田中)将道さん(11年度主将・現富士通)の腰の調子が良くなくて、それがあったから僕に出番が回ってきたじゃないですか。将道さんが完璧なコンディションだったら、自分は絶対将道さんの控えで今まで通り『流れを変えて来い』みたいな役割だったと思います。それで自分も納得していたというか、それが自分の役目だと思っていて。だから去年は何も分からないままいきなり試合に出るようになって、そのまま何も考えずに攻めて、それが結果ああなったというだけですよね。たまたま運が良かったんだと思います」
B:3年生の終盤には、チームの中でも大事なシュートを任される選手になりましたよね。『たまたま運が良かった』と言っても、1年間通してチームを背負うという自覚も徐々に芽生えたのでは?
「それはあり…ましたね。少しは心境も変化したかなーと。でもリーグ戦は、正直そんな意識は全く無かったです。勝負所は絶対に、遠藤さん(遠藤祐亮・11年度卒・現リンク栃木)・小原さん(小原良公・11年度卒・現葵企業)だと思っていたので。でもインカレになると、ある程度は自覚もあったというか、勝負所でも自分が行ける時は行こうって気持ちになりましたね。来年4年生になった時のことも少し考え始めましたし。インカレで自覚した方かなと思います。まぁでもやっぱり3年生の時は、どこかしらであの3人(遠藤・小原・田中)に頼っていたんですけどね」
B:インカレではエースの遠藤選手も不調気味でしたが、それでもやはり4年生に頼る部分は大きかったんですね。
「結局はそうですね。僕、去年はほんとお調子者だったんですよ。できると思った時はとことん自分で行くくせに、逆境に立たされた時はすぐ『遠藤さん…!』『小原さん…!』ってパス回して(苦笑)。最低ですよ。本当に去年は将道さん、遠藤さん、小原さんの3人のチームでしたね、絶対に」
B:昨年のインカレは特に天理戦(11/25レポート)が印象に残ります。ラスト1分間の平尾選手(11年度天理大卒・現JBLパナソニック)との対決は凄まじかったですね。あの試合はどういう心境だったんですか?
「いやもう『絶対勝つ!』って、ただそれだけでした。あそこまでのクロスゲームは久しぶりで、自分としても久々にメチャ燃えましたね。やっぱりこっちは関東でやってるんだというプライドがあるし、天理には絶対負けたくなくて。自分がすごくノッてたというのもあって、ゲーム終盤はパスする気も全く無かったです。絶対自分が決めてやる、くらいの気持ちでした。で、最後の最後で……ミスしたんですよね。レイアップに行って、外して。あれはすごく申し訳なかったです。めちゃくちゃみんなに謝りました。みんなは『お前がだめだったら結局だめだったよ』と言ってくれたんですけど、あれは悔しかったですね…」
B:ではもし今年あんな場面があったら、今度は決めると。
「もーそれは絶対に! 絶対絶対決めます! ああいうシチュエーション、本当にここ一番って場面が来たら、どんなにディフェンスが来ても多分パスしなさそうですね。まぁそれは言い過ぎかもしれませんが、それくらいの強い気持ちがないと決められないと思っているので。そこら辺は譲らないようにしたいです」
B:1つ上の代との思い出はありますか?
「めちゃくちゃありますよ。勿論バスケもそうですけど、普通にパッと思い付くのはバスケ以外のことですね。めっちゃ普段から仲良くさせてもらいました。悩みを聞いてくれたのも一番近い存在の1個上だったし、先輩方にはすごくお世話になりましたね」
B:田中選手とは練習後に一対一の勝負をするのが恒例だったとか。
「あ、そうなんです。(田中)将道さんがそういうの好きなんですよ。僕もそこで将道さんから奪えるものは奪ってやろうくらいの気持ちだったし、なんだかんだ一対一はずっとしてましたね。練習が終わっても、将道さんと小原さんはずっと体育館に残って自主練してるんです。2人がめちゃくちゃ本気でシューティングしてるのを、自分と遠藤さんが横からチャチャ入れる、みたいな(笑)。自分、力を入れてシューティングするタイプじゃないんですよね。打ちたい時に打って、今日はこれでいいやと思ったらほとんど打たない。試合前なんかは感覚狂うのが嫌なので全然打たないんです。だからいっつも遠藤さんと一緒に田中さんや小原さんの邪魔してましたね(笑)。そんなのばっか覚えてます」
B:仲が良いんですね。だからこそ1つ上の代が引退した時は寂しい思いがあったと思いますが。
「それはそれはもう……(苦笑)」
B:頼っていたという先輩たちも卒業して、今年はキャプテンも務めますし、これまで以上に背負うものも大きいですね。
「そうですね。というか、去年の自分は何も背負わないまま、たまたま結果が出ただけで。でも今年はちゃんと背負うものは背負って、ガードとして周りを生かして、なおかつ自分も生きて、その上で結果を残せれば最高だと思っています。まあ自分が背負うと言っても、点を取れるやつは周りにもいっぱいいますし、そこをアシストで上手く生かして、それで自分も生きるようなバスケットがしたいですね。自分は1番ポジションですし、アシストも多少は意識してます」
B:トーナメントを見ていて、岸本選手は試合の中で調子の良い時間帯と悪い時間帯で波がありましたね。
「そうなんですよ。めちゃくちゃあるんですよね…。最近、自分からバスケが重くなっちゃうんです。しかもそれが単純に、自分の外のシュートが入らないときにそうなるんですよね。でも自分の中でそれじゃガードとは言えないと思ってるんです。自分の調子にしろチームの調子にしろ、シュート以外の何かで上手く流れを変えられるようにならないといけないなというのは、トーナメント期間中に本気で思いましたね」
B:『シュート以外の何か』とは、模索中ですか?
「そうですね。ディフェンスを前から当たってみたり、パスをどんどん散らせてみたり。でも結局行きついたのは、やっぱり(#43鎌田)裕也のところですよね。あそこに入れればバランスも見れるし、絶対落ち着く。あそこに一回ボールを入れる、ということは意識しています。最近になってますますアイツも自覚を持ってやってると思うし、それは心強いですね」
写真上:1年生の時の新人戦。番号は変わらず14番。
写真下:2011年のインカレ、天理大戦で。
勝負強さの鍵はプレッシャーにめげないタフなメンタル
B:勝負所での強さが光る岸本選手ですが、緊迫した場面でプレッシャーや焦りは無いんですか?
「いや、“やばいやばい”とはならないですね。シチュエーションにもよりますけど、シュート1本で追いつく場面なら全然焦りは感じません。残り1分、4点差くらいだったら全然まだいけるかなと。ただ、残り1分で5点とか6点ってなるとさすがに少し焦るかも知れません。シュート1本や2本じゃ追いつけない場面。まぁとにかく1本で追いつける差なら焦らないし、逆にそういう場面で自分、(ボールを)欲しがるんですよね。欲しがり屋さんなんで(笑)。パスくれ!ってなります」
B:なるほど。では、今後こういう選手になりたい、というイメージはありますか?
「明確にこの選手、というのは無いですけど…。色んな選手、みんなすごいと思ってるんですよ。言ってしまえば、みんなのすごいところを、うまーく合わせたような……いや、そんなおいしい話なんて無いか(笑)。まぁそうですね、おいしい選手になりたいです! あ、あと最近、応援してくれる人たちから『見ててワクワクする』って言われるんです。『ボールを持ったら何かしてくれそうな気がする』って。だからそれはちょっと最近意識してます。そうやって、“何か起きるんじゃないか”って思わせるような選手になりたいです」
B:確かに何か起きそうです。では、次にインタビューを回す人を指名してもらえますか?
「それなんですよねー! どうしようかな…。今までみんなパッと思い付いてるんですか?」
B:いや、そんなことはないですよ。どんな選手でも構いません。話を聞いたら面白そうな人、ということでも。
「いや、そうなると大東にいっちゃうので、それは良くないです(笑)。なので…李相伯の合宿で、僕がまた一方的にめちゃくちゃ絡んだんですけど、日体のクマ(#21熊谷尚也)ってどうですか?これもまた僕が一方的に仲良いと思ってるだけなんですけど(笑)」
B:いいですね。この企画も日体大にはまだ誰も回ってないですし。
「おーそうですよね! 俺、超良いパスしましたね! じゃあクマにしましょう」
B:熊谷選手にどんな話をしたら面白いですか?
「とりあえずあいつ、『なんとっとー』と『なんちゃっちゃー』しか言わないので(笑)。福岡の話をすれば喜ぶと思います(笑)」
B:(笑)。では次回は日本体育大・熊谷選手にお話を伺います。岸本選手、ありがとうございました。
写真下:サインのコメントは「努力に限りなし」。
◆#14岸本隆一(きしもと りゅういち)
屋部中→北中城高→大東文化大
4年・主将・PG
174cm/69kg
・2005ジュニアオールスター沖縄代表
・インターハイベスト32(高3)
・2012トーナメント得点王
・2012トーナメント3P王
・2012李相伯杯代表
・2012関東学生選抜代表
(2012.5.13インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
vol.11~大東文化大学・岸本隆一選手~

沖縄出身らしい独特のリズムで狭いスペースをかいくぐり、警戒した相手が引いて守ればすかさずライン後ろからロングシュート。ディフェンスにとっては非常に厄介な、リーグ屈指のスコアリング能力を持つ司令塔です。最終学年になり、試合中見せる真剣な顔つきからは責任感が伝わってきますが、コートを離れれば表情をコロコロと変え楽しそうに受け答えしてくれる選手。屈託のない人柄で岸本選手のまわりには自然と人が集まり、インタビュー中も通りかかるたくさんの選手からちょっかいを出されていました。そんな岸本選手の魅力をたっぷりとお伺いした第11回BOJライン、どうぞお楽しみください。
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全国の舞台で味わった衝撃と変化
「そうなんです。一回一緒に飲んで、その時から僕が佐藤をいじるようになった感じですね。僕は一方的に仲が良いつもりでいます(笑)。でもあいつが僕に(インタビューを)振ったってことは、あいつも仲が良いと思ってるってことですよね!」
B:そのようですね。佐藤選手が、岸本選手は何を言っても面白く返してくれると言っていました。
「うわー、ただのムチャ振りじゃないですか(笑)」
B:(笑)。では本題に入りますが、バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
「小学校3年生の時です。結構歳の離れた兄がいるんですけど、その兄の影響で。でもその前からバスケは遊びで結構やっていたんです。部活動として始めたのが小3って感じですね」
B:沖縄は街中にバスケのゴールがたくさんありますよね。ミニバスに入る前から、ストリートでやることはあったのでしょうか?
「そうですね。でも僕、中学校までは沖縄の中でも結構田舎の方で育ったので、そんな外のコートに行かなくても体育館が普通に空いてたんですよ。だから小っちゃい時は、ストリートでというよりも体育館で好きなようにやってた感じですね」
B:沖縄の体育館は、夏になると相当暑そうですね。それにすごく滑るという話はよく聞きますが。
「あー、確かに滑るって印象はあります! めちゃくちゃカラカラに晴れた日意外は最悪ですね。曇りでも滑るってイメージありますもん。いや、それは大げさかな(笑)。まぁそんな感じです。それにメチャ暑いですね。でも自分、暑いの嫌いじゃないんですよ。みんなは嫌だと思うんですけど、僕は結構平気でしたね」
B:ミニバスはどんなチームでしたか?
「全っ然強くないですよ。最初、僕の代は自分一人しかいなかったんです。自分たちの代の時は本当に10人寄せ集めみたいなチームで。県大会も行けなかったし、自分もそのまま最寄りの中学校に進みました。練習は一生懸命やってましたけど、強いチームとは無縁でしたね」
B:中学校も強豪ではなかったと。
「自分のチームは全然。県大会に出るのがやっとでした。結局なんとか県大会は出られたんですけど、一回戦で負けてすぐ終わりました」
B:では、岸本選手は小学校・中学校の時にはエース的な立場だったんでしょうか?
「小・中の時は、正直無敵だと思ってましたね! いや、嘘です嘘です(笑)。まぁ小学校・中学校と、好き勝手やりたいようにバスケしてました」
B:自分が伸びてきたなと感じたのはいつ頃ですか?
「自分の中でちょっと変わったかなと思うのは、ジュニアオールスターに選ばれてからですね。自分の中学は全然強くないのに、オールスターに選んでもらって。で、多少は自信を持ってジュニアオールスターに出たんですけど、全国に出たら、まあすごいやつがいっぱいいるじゃないですか! びっくりしましたね。上のレベルを見て、うわーこいつら違うなと思いました。自分も頑張ろうと思って、そこからちょっと変わりましたね」

「そうです。埼玉は大塚(早稲田大#6大塚勇人)とか、今チームメイトの大久保(#85大久保 亮)とかがいました。大塚にめちゃくちゃやられたのは覚えてますね(苦笑)。『何だコイツ!』って衝撃でしたよ。大塚はあの頃からかなり上手かったです」
B:その時には砂川貴哉選手(筑波大#47)と同じチームになりましたよね。
「そうなんです。僕、(砂川)貴哉とめちゃくちゃ仲良いんですよ! 高校も一緒に北中城に行くことになったんですけど、貴哉は宮古島出身だし、自分も地元が名護市ってところで高校まで少し遠かったので、『それなら二人で住もう!』という話になったんです。それで高1から3年間、僕と貴哉で二人暮らししてて。ずっと一緒だったし、超仲良いですね」
写真下:一時期一緒に住んでいたという筑波大の砂川選手。独特のムービングが特徴。
かけがえのない恩師との出会い

「僕の上の代が強かったってこともあったし、顧問の先生が(金城)バーニー先生だったこともあって。バーニー先生って、高校生の頃からすごい選手で、沖縄では伝説的な方なんです。僕も憧れて、バーニー先生に教えてもらいたいと思って北中城高校を選びましたね」
B:入学してみてどうでしたか?
「1年生の時は、僕らの2コ上も1コ上も強くて、僕なんて全然試合も出られなかったんです。でも“上の学年になればいずれ出られるだろう”くらいの甘い考えでやっていて。そうしたらバーニー先生に喝を入れられました。僕と貴哉は相っ当怒られましたね(苦笑)。でも今でも思いますけど、本当にすごい先生なんですよ、バーニー先生って。怒られて自分もだいぶ変わりましたね。感謝してます」
B:色んなことを教わったんですね。
「そうなんです。僕、今となっては『イエーイ!』みたいな感じですけど、高校の時は最初全くそんな感じじゃなかったんですよ。うつろな表情で淡々とバスケしてたんです(苦笑)。で、バーニー先生から『お前には感情が無いのか』みたいに言われたんです。『楽しいことしてるんだからいい顔しろ』って。それで結構感情を表に出すようになりましたね」
B:そうだったんですか。感情を出さなかったというのは、今の岸本選手を見ていると意外ですね。
「そうですね。それに笑うことはまだあったんですけど、自分“負けん気”とか“なにくそ精神”が無かったんです。悔しいとか思わずに、怒られたらどんどん『あぁ…あぁ…』って落ち込んでいくようなタイプでしたね」
B:何か変わるきっかけがあったんでしょうか?
「ある日練習試合で、普通に勝てる相手に負けた時があったんです。それで僕、超イライラして、バーニー先生の目の前でボールを思いっきりバーンと蹴っちゃって。もうその瞬間“あ、やばい!”ってハッと正気に戻りますよね(苦笑)。試合後のミーティングも明らかにいつもより短くて、“うわー先生絶対怒ってる! やばいやばい”って焦りまくり。そしたらその夜、先生から電話がかかってきたんです。『お前今日、俺の目の前でボール蹴ったな』と言われて、“やばいやばい”と思いながらひたすら謝ってたら、『…あれ最高だよ』と言われて(笑)。えー!?
ってなりますよね。どういうことですかと聞いたら、『お前のあの“なにくそ精神”が欲しかったんだ』って言われたんです。それで、あ~、こういうのが大事なのか~と。そこからは、嬉しい気持ちとか悔しい気持ちとか、結構感情を表に出すようになりました。とにかくバーニー先生にはめちゃくちゃお世話になりました」
B:金城バーニー先生のお蔭で今の岸本選手があるんですね。話は変わりますが、高3の時の埼玉インターハイでは市立船橋戦、明徳義塾戦とかなり熱い試合を繰り広げたそうですね。市立船橋には同じチームメイトの#75和田保彦選手もいますが。
「あーそうなんです! うちの和田とか、筑波の星野(#76星野拓海)とかいて。あの試合はトリプルオーバータイムになって、かなり熱い試合でしたね。もう最高に楽しかったです。自分は延長の最初の方で5ファウルで退場しちゃったんですよ。結局3回も延長やることになったので、思い返せば自分全然試合に出てないみたいな感覚ですね(笑)。展開が本当に面白くて超白熱して、見てて素直に『一生続けばいいのに』って思いました(笑)」
B:そうでしたか。ウィンターカップでは、高2・高3と出場を逃しているんですよね。沖縄には興南高校や小禄高校といったライバル校がいて、ウィンターカップ予選も熾烈な争いだったと思いますが。
「そうですね。高3の時は小禄高校が結局沖縄で優勝して出たんです。小禄との決勝戦は、ずっと相手のペースで試合が進んでしまって…。何だかんだ、あの負けた試合が高校時代で一番印象に残っている試合ですね」
B:小禄高校は一つ下の代に国士舘大の#15松島良豪選手がいた高校ですね。
「そうですそうです、タケがいた学校。それで、そもそも僕らのいた北中城って、思いっきりオフェンシブなチームだったんですよ、2点取られたら3点取り返せみたいな(笑)。それに対して小禄はディフェンシブなチームで、攻撃回数を減らされて、ずーっと焦らされて焦らされてそのまま試合が終わっちゃった感じでした。見事に向こうの術中にハマってしまったというか…。とにかくあれは悔しかったですね」
B:オフェンシブなチームだったという事ですが、北中城高校は常に100点オーバーが普通で、県内では150点取る試合も少なくなかったとか。岸本選手もかなり点を取っていたと思いますが、一試合に一人で最高何点とったことがありますか?
「え…しょうもないですよ?(苦笑)今までで一番取ったのは、確か県のベスト4がけの試合で、83点です」
B:それはすごいですね!
「いや! でもあれはホントしょうもないんです!(記録を)狙いに行けって言われて、勝負も決まってるのにずっと試合に出してくれたんです。それで前からプレスをかけて、相手がハマったのを全部外で待ってる僕がシュート、みたいな。これだけだったんです。だから僕がすごいとかじゃ全然ないんです! 周りがめちゃくちゃサポートしてくれたおかげです」
写真:2年生の新人戦。
沖縄のバスケットは「最高の環境」

「そうですね。こっちと比べると結構熱いスポーツだと思います。試合も大盛り上がりで、自分、輝いてたなぁと思いますね(笑)。沖縄に結構有名な体育館があるんですよ。こっちで言う代々木体育館みたいな。僕ら大東のメンバーって、代々木でバスケできることが嬉しくて『代々木だとジャンプ力が10cm上がる』とかよく言うんですけど(笑)、沖縄のその体育館も、『その体育館だと誰でもダンクできる』みたいに言われてたんです。まぁ実際そんなことあり得ないですけど(笑)。そこで試合したのは思い出深いですね」
B:高校の部員との印象に残っている思い出は?
「バスケ部は、本当に常に楽しかったんですよ! 珍しくないですか? 部活が毎日楽しみって。めちゃくちゃ仲良かったです。それに僕ら公立高校だから体育館を使える時間が限られてて、2部練がほとんど無かったんですよ。だから夏休みは、午前中に部活して、午後はバスケ部で海に行くのが日課でした。本当に毎日毎日(笑)。海にバスケのコートがあったので、バスケして、海に入って…。今思うと異国の地みたいですよね。本当に最高の環境でした。バスケ部との思い出はめちゃくちゃ濃いですね」
B:それは素敵ですね。ストリートバスケが根付いているから、沖縄の選手は1on1が上手くなるんでしょうか。
「そうかも知れませんね。それにどこのコートにも大体外国人がいるんです。しかも彼ら、ストバスと言えどもすごくムキになってやってくるので(笑)。外国人相手にみんな小さな頃からガンガンやってますからね。楽しかったですよ。本当に良いところで育ったなーと思います」
B:リズムも沖縄独特のものがありますよね。砂川貴哉選手なども変わったリズムを持っているというか。
「自分じゃよく分からないですけど…、でも貴哉は確かに変なリズムですね。あいつはひどいです(笑)」
B:1つ上の代にはスラムダンク奨学金などでも有名な並里 成選手がいますが、同じ沖縄出身の選手として彼はどのような存在ですか?
「(並里)成は、めちゃくちゃ上手いですよね。ずっと中学生の頃から見てきて、憧れの存在です。沖縄に帰った時に何回か一緒にトレーニングしたりして、この前正月に帰った時もバスケの話を聞かせてもらいました。やっぱり意識高いなーと思うし、めちゃくちゃ刺激をもらっていますね。やっぱりアメリカとか色々経験している人ですし。中学校で見た感じだと結構やんちゃなイメージだったんですけど、今はすごいしっかりしていて…。やっぱり上のレベルを知ると大人になるんだなーと思いましたね。とにかく刺激をもらえる存在です」
苦難を乗り越え徐々に芽生えてきた自覚

「一つには、竹野さん(竹野明倫・07年度卒・現bj福岡)と阿部さん(阿部友和・07年度卒・現JBLレバンガ北海道)の試合を見て、憧れたからですね。ああいうの大好きだったんですよ。僕、性格に癖があるので(笑)、なんか悪者ちっくな感じがかっこいいなーって惹かれて。あとメンバーも、和田(#75)、大久保(#85)、張(#24)、鎌田(#43)といて、それに(藤井)佑亮(#19)もあとから来るって決まったことを聞いていたので、『あ、もうこれは行くしかない!』って思ったのがきっかけですね」
B:なるほど。入学して、1年生の時はなかなかプレータイムが伸びませんでしたね。
「最初は正直、かなりキツかったです。多分1年生の時が一番大変でしたね。1年生の頃って、ある程度自信を持って沖縄から来るじゃないですか。『1年生の頃からガンガン試合出てやるぞ』という野望もあって。でも大東ってわりと各高校のエースが集まってるし、自分と同じようにみんなある程度プライドを持ってやってるんですよね。その中で、1年の時は全然上手くいかなくて…。上手くいかないことが多すぎて、もう何度沖縄に帰ろうと思ったことか(苦笑)」
B:そうだったんですか。その時期を乗り越えられたのはどうしてですか?
「沖縄に帰ったら楽だろうなとは思ったんですけど、やっぱり送り出してくれた親であったり、『東京でも頑張れよ』と言ってくれた沖縄の友達のことだったりを考えたら、ここで帰るわけにはいかなくて。それだけを支えに、1年生の時はどうにかごまかして続けてこられた感じですね。だから本当にバスケットに集中できるようになったのは、なんだかんだ2年生からなんです。やっと環境にも慣れてきて、どうすれば試合に出られるかとか、試合に出たら結果を残そうとか、2年生になってようやく本格的に考えるようになりましたね」
B:2年生まではワンポイントでの起用が多かったですが、昨年、3年生の時はプレータイムをもらって見事に活躍したのではないですか?
「いやでも、あれも本当にたまたまですよね。(田中)将道さん(11年度主将・現富士通)の腰の調子が良くなくて、それがあったから僕に出番が回ってきたじゃないですか。将道さんが完璧なコンディションだったら、自分は絶対将道さんの控えで今まで通り『流れを変えて来い』みたいな役割だったと思います。それで自分も納得していたというか、それが自分の役目だと思っていて。だから去年は何も分からないままいきなり試合に出るようになって、そのまま何も考えずに攻めて、それが結果ああなったというだけですよね。たまたま運が良かったんだと思います」
B:3年生の終盤には、チームの中でも大事なシュートを任される選手になりましたよね。『たまたま運が良かった』と言っても、1年間通してチームを背負うという自覚も徐々に芽生えたのでは?
「それはあり…ましたね。少しは心境も変化したかなーと。でもリーグ戦は、正直そんな意識は全く無かったです。勝負所は絶対に、遠藤さん(遠藤祐亮・11年度卒・現リンク栃木)・小原さん(小原良公・11年度卒・現葵企業)だと思っていたので。でもインカレになると、ある程度は自覚もあったというか、勝負所でも自分が行ける時は行こうって気持ちになりましたね。来年4年生になった時のことも少し考え始めましたし。インカレで自覚した方かなと思います。まぁでもやっぱり3年生の時は、どこかしらであの3人(遠藤・小原・田中)に頼っていたんですけどね」
B:インカレではエースの遠藤選手も不調気味でしたが、それでもやはり4年生に頼る部分は大きかったんですね。
「結局はそうですね。僕、去年はほんとお調子者だったんですよ。できると思った時はとことん自分で行くくせに、逆境に立たされた時はすぐ『遠藤さん…!』『小原さん…!』ってパス回して(苦笑)。最低ですよ。本当に去年は将道さん、遠藤さん、小原さんの3人のチームでしたね、絶対に」

「いやもう『絶対勝つ!』って、ただそれだけでした。あそこまでのクロスゲームは久しぶりで、自分としても久々にメチャ燃えましたね。やっぱりこっちは関東でやってるんだというプライドがあるし、天理には絶対負けたくなくて。自分がすごくノッてたというのもあって、ゲーム終盤はパスする気も全く無かったです。絶対自分が決めてやる、くらいの気持ちでした。で、最後の最後で……ミスしたんですよね。レイアップに行って、外して。あれはすごく申し訳なかったです。めちゃくちゃみんなに謝りました。みんなは『お前がだめだったら結局だめだったよ』と言ってくれたんですけど、あれは悔しかったですね…」
B:ではもし今年あんな場面があったら、今度は決めると。
「もーそれは絶対に! 絶対絶対決めます! ああいうシチュエーション、本当にここ一番って場面が来たら、どんなにディフェンスが来ても多分パスしなさそうですね。まぁそれは言い過ぎかもしれませんが、それくらいの強い気持ちがないと決められないと思っているので。そこら辺は譲らないようにしたいです」
B:1つ上の代との思い出はありますか?
「めちゃくちゃありますよ。勿論バスケもそうですけど、普通にパッと思い付くのはバスケ以外のことですね。めっちゃ普段から仲良くさせてもらいました。悩みを聞いてくれたのも一番近い存在の1個上だったし、先輩方にはすごくお世話になりましたね」
B:田中選手とは練習後に一対一の勝負をするのが恒例だったとか。
「あ、そうなんです。(田中)将道さんがそういうの好きなんですよ。僕もそこで将道さんから奪えるものは奪ってやろうくらいの気持ちだったし、なんだかんだ一対一はずっとしてましたね。練習が終わっても、将道さんと小原さんはずっと体育館に残って自主練してるんです。2人がめちゃくちゃ本気でシューティングしてるのを、自分と遠藤さんが横からチャチャ入れる、みたいな(笑)。自分、力を入れてシューティングするタイプじゃないんですよね。打ちたい時に打って、今日はこれでいいやと思ったらほとんど打たない。試合前なんかは感覚狂うのが嫌なので全然打たないんです。だからいっつも遠藤さんと一緒に田中さんや小原さんの邪魔してましたね(笑)。そんなのばっか覚えてます」
B:仲が良いんですね。だからこそ1つ上の代が引退した時は寂しい思いがあったと思いますが。
「それはそれはもう……(苦笑)」
B:頼っていたという先輩たちも卒業して、今年はキャプテンも務めますし、これまで以上に背負うものも大きいですね。
「そうですね。というか、去年の自分は何も背負わないまま、たまたま結果が出ただけで。でも今年はちゃんと背負うものは背負って、ガードとして周りを生かして、なおかつ自分も生きて、その上で結果を残せれば最高だと思っています。まあ自分が背負うと言っても、点を取れるやつは周りにもいっぱいいますし、そこをアシストで上手く生かして、それで自分も生きるようなバスケットがしたいですね。自分は1番ポジションですし、アシストも多少は意識してます」
B:トーナメントを見ていて、岸本選手は試合の中で調子の良い時間帯と悪い時間帯で波がありましたね。
「そうなんですよ。めちゃくちゃあるんですよね…。最近、自分からバスケが重くなっちゃうんです。しかもそれが単純に、自分の外のシュートが入らないときにそうなるんですよね。でも自分の中でそれじゃガードとは言えないと思ってるんです。自分の調子にしろチームの調子にしろ、シュート以外の何かで上手く流れを変えられるようにならないといけないなというのは、トーナメント期間中に本気で思いましたね」
B:『シュート以外の何か』とは、模索中ですか?
「そうですね。ディフェンスを前から当たってみたり、パスをどんどん散らせてみたり。でも結局行きついたのは、やっぱり(#43鎌田)裕也のところですよね。あそこに入れればバランスも見れるし、絶対落ち着く。あそこに一回ボールを入れる、ということは意識しています。最近になってますますアイツも自覚を持ってやってると思うし、それは心強いですね」
写真上:1年生の時の新人戦。番号は変わらず14番。
写真下:2011年のインカレ、天理大戦で。
勝負強さの鍵はプレッシャーにめげないタフなメンタル

「いや、“やばいやばい”とはならないですね。シチュエーションにもよりますけど、シュート1本で追いつく場面なら全然焦りは感じません。残り1分、4点差くらいだったら全然まだいけるかなと。ただ、残り1分で5点とか6点ってなるとさすがに少し焦るかも知れません。シュート1本や2本じゃ追いつけない場面。まぁとにかく1本で追いつける差なら焦らないし、逆にそういう場面で自分、(ボールを)欲しがるんですよね。欲しがり屋さんなんで(笑)。パスくれ!ってなります」
B:なるほど。では、今後こういう選手になりたい、というイメージはありますか?
「明確にこの選手、というのは無いですけど…。色んな選手、みんなすごいと思ってるんですよ。言ってしまえば、みんなのすごいところを、うまーく合わせたような……いや、そんなおいしい話なんて無いか(笑)。まぁそうですね、おいしい選手になりたいです! あ、あと最近、応援してくれる人たちから『見ててワクワクする』って言われるんです。『ボールを持ったら何かしてくれそうな気がする』って。だからそれはちょっと最近意識してます。そうやって、“何か起きるんじゃないか”って思わせるような選手になりたいです」
B:確かに何か起きそうです。では、次にインタビューを回す人を指名してもらえますか?
「それなんですよねー! どうしようかな…。今までみんなパッと思い付いてるんですか?」

「いや、そうなると大東にいっちゃうので、それは良くないです(笑)。なので…李相伯の合宿で、僕がまた一方的にめちゃくちゃ絡んだんですけど、日体のクマ(#21熊谷尚也)ってどうですか?これもまた僕が一方的に仲良いと思ってるだけなんですけど(笑)」
B:いいですね。この企画も日体大にはまだ誰も回ってないですし。
「おーそうですよね! 俺、超良いパスしましたね! じゃあクマにしましょう」
B:熊谷選手にどんな話をしたら面白いですか?
「とりあえずあいつ、『なんとっとー』と『なんちゃっちゃー』しか言わないので(笑)。福岡の話をすれば喜ぶと思います(笑)」
B:(笑)。では次回は日本体育大・熊谷選手にお話を伺います。岸本選手、ありがとうございました。
写真下:サインのコメントは「努力に限りなし」。
◆#14岸本隆一(きしもと りゅういち)
屋部中→北中城高→大東文化大
4年・主将・PG
174cm/69kg
・2005ジュニアオールスター沖縄代表
・インターハイベスト32(高3)
・2012トーナメント得点王
・2012トーナメント3P王
・2012李相伯杯代表
・2012関東学生選抜代表
(2012.5.13インタビュー)
※所属チームなどはインタビュー時点のもので掲載しています。
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